東京高等裁判所 昭和32年(ネ)2262号 判決 1960年2月26日
控訴人(原告) 荒木繁
被控訴人(被告) 東京都教育委員会
原審 東京地方昭和二九年(行)第八号(例集八巻一〇号185参照)
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は、「原判決を取り消す。被控訴人が昭和二八年三月四日付で控訴人に対してなした休職処分はこれを取り消す。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上及び法律上の主張並びに証拠関係は、当審において更に、控訴代理人において別紙書面記載のとおり陳述し、かつ甲第四号証、第五号証の一、二、第六号証を提出し、当審における証人野々村禎治、同岩井富士雄の各証言及び控訴本人尋問の結果を援用し、被控訴代理人において別紙書面のとおり陳述し、かつ右甲号各証の原本の存在及びその成立を認めた外は、原判決の事実に摘示するところと同一であるから、ここにこれを引用する。
理由
当裁判所は、更に審究した結果、原判決の理由に説示するところと同一(但し、原判決二七枚目表九、一〇行目にわたり「起訴されたことは」とあるを「起訴されたことが報導されたことは」と補正する。)の理由によりり、控訴人の本訴請求を失当として棄却すべきものと判定したので、同判決の理由の説示をここに引用し、次の点を付加するにとゞめる。当審における控訴本人尋問の結果中、右引用にかゝる原判決理由の事実認定に反する部分は採用し難く、甲第四号証、第五号証の一、二、第六号証をもつても右認定をくつがえすに足る資料となすに足らず、その他これを左右するに足る証拠はない。
第一、原判決の説くとおり、刑事事件に関し起訴された職員を休職処分に付することができる旨の地方公務員法第二八条第二項第二号は、一般国民と異なる地方公務員たる公益的地位に根拠を有する合理的差別であつて、憲法第一四条の基本理念に違反するものとはいえない。
第二、地方公務員法第二八条第二項第二号により、刑事事件に関し起訴された職員を休職処分に付し得るためには、右起訴があつたことを要件とし、かつそれのみをもつて自由裁量によりこれをなし得るものと解すべきであつて、控訴人主張のように、犯罪の成否、身体の拘束及びその余の事情の有無を問わないものというべきである。蓋し、犯罪の成否は刑事裁判手続により確定されるべきものであり、又同条はこれを形式的にみても、刑事事件に関し起訴された場合とのみ規定して、犯罪の成否及び身体拘束の有無を問うていないし、又休職処分に付することができるとのみ規定して、その任命権者の任意に委ねておるとみられるのみならず、これを実質的にみても、公務員の職務の内容はその地位及び職種により千差万別であつて、公務員が起訴された際、当該公務員をして、引続きその職務を遂行させるか否かは、公訴事実の内容をも斟酌し、起訴により、その時機その職場に応じ、公務上いかなる支障が生じ、又公益上いかなる障害が発生するかという微妙な判断を伴うものであつて、これを適確に判断し得るのは、まず任命権者たる行政庁であるとして、右行政庁の自由裁量に委ねたものと解するのが相当である。原判決理由のこの点に関する説示も、これと同一趣旨に出でたことはその判文上明らかであり、これと異なる控訴人の主張は採用できない。
第三、しかし、自由裁量処分と雖も、裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用するに至れば、その処分は違法たるを免れないことはいうまでもない。これを本件についてみるに、成立に争のない乙第四、第五号証、原審証人細田菊雄(第一、二回)、同田中喜一郎(第一、二回)、同最上孝敬、当審証人岩井富士雄(一部)の各証言、原審(第一、二回)及び当審における控訴本人尋問の各結果(いずれもその一部)を総合すると、東京都立西高等学校教諭たる控訴人は平素同校校長細田菊雄に対して反抗的であつたため校長としては控訴人に対し全幅の信頼をしていなかつたこと、控訴人が組担任を希望していた昭和二五年から昭和二七年に先立つ昭和二四年に既に同校内の組担任選考の委員会において控訴人を昭和二四年度の組担任に推薦すべきかどうかを協議したところ、控訴人を組担任とすることは、不適当であるとの結論に到達したことがあり、昭和二五年に至つては委員のうちには組担任としては不適当であるとの意見もあつたが、校長が反対ならばとも角、控訴人の希望もあることとて、一応控訴人を組担任の原案にいれておくこととし右原案を校長に提出したところ、校長の採用するところとならず、これにつき他の職員から別段異議もなかつたこと、昭和二六年、昭和二七年には控訴人は右委員会の原案にも洩れていて組担任となるに至らなかつた(原判決二六枚目表四行目から同七行目にわたり「原告が組担任を希望した昭和二五年から昭和二七年までの三年とも原告は右委員会の原案に洩れていて組担任とならなかつた」とあるを、右のように補正する。)ことが認められる。以上の事実から見れば、控訴人は細田校長の信任薄く、同校長は当時控訴人を組担任とすることは、適任とは信じていなかつたことは認められるが、さればといつて、同校長が悪意をもつていたから控訴人を組担任として指名しなかつたこと、ひいては起訴をきつかけとして休職の上申をなし、任命権者たる都教育委員会を動かしたものとは認め難く、又本件休職処分は、被控訴人が検事と通謀してなし、或は起訴を好機として、かねて控訴人を教壇から排除する意図を実現するためなしたものであるとの控訴人の主張は甲第四号証をもつてもこれを認めるに足らず、その他これを確認するに足る証拠がない。却つて、前掲証拠より認められる、東京都教育委員会の通達により昭和二七年五月一日における教職員のメーデー参加は、公務に支障なく、あらかじめ校長の個々の承認を得た場合にのみこれが認められていた、又当日は皇居前広場の使用は禁止せられ、かつ控訴人の所属する東京都高等学校教職員組合の当日のデモ行進は日比谷公園において解散する旨定められていたところ、控訴人は細田校長の承認を受けないで、昭和二七年五月一日に右高等学校教職員組合のメーデー行進に参加したが、解散場所たる日比谷公園に向つて行進中、その教え子たる西高等学校の生徒十数人が他の隊列において行進しているのを発見するや、前記教職員組合の列から離れて生徒達に合流し、解散場所たる日比谷公園において解散せず、生徒達とともに大きな人の流れに随つて皇居前広場に立ち入り、遂に原判決理由記載の騒擾附和随行罪をもつて起訴されるに至つた事実(叙上認定に反する前掲証人岩井富士雄の証言及び控訴本人尋問の結果並びに当審証人野々村禎治の証言はいずれも信用し難く、甲第五号証の一、二、第六号証によるもこれを動かすに足らず、その他これを左右し得る証拠はない。)と、教育公務員は国民の信頼と尊敬を集め、教育を通じて国民に奉仕するものであつて、特殊の職務と責任を負担し、特に高等学校教育にあつては、身心ともに未成熟にして感受性の強い子弟を対象とすることとて、その責務遂行は重大なものがあるというべきところ、控訴人が起訴された後も、引き続き高等学校の教諭として教壇に立つことは、たとえその起訴事実が破廉恥罪でないとしても、起訴されたこと自体によりその責務遂行に支障を生ずることがあり得べく、又生徒に悪影響を及ぼすことがないとはいえず更に父兄及び国民に教育に対する危惧の感を抱かせないとは保し難いことに徴しても、控訴人に対し一時的に職務執行をなさしめないこととした本件休職処分は、控訴人主張のように、被控訴人が裁量権を逸脱したとも、又人事権を濫用したものとも解することができない。
以上の次第で、本件控訴は理由がないから、これを棄却すべく、控訴費用の負担については民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 二宮節二郎 奥野利一 大沢博)
(別紙)
控訴代理人の主張
第一、憲法十四条違反の主張に関する原判決の判断について。
(一) 基本的な観点。
原判決はいう。「憲法十四条もすべて国民をあらゆる場合に凡ての点において絶対に無差別に取扱うことまでも要求してはいないのであつて、国民の基本的平等の原則の範囲内においては、不合理な差別でない限り、各人の年令、自然的素質、職業等の事情を考慮し、道徳、正義、合目的性等の要請より合理的な差別がなされることのあることを許容しているものと解すべきである。
当面、問題になつている事柄は地公法二八条二項二号が憲法十四条に違反するかどうかにある。一定の法律は必ずや一定の社会的要求に基いて立法されているのであつて、当該立法によつて何らかの社会的な課題を解決することを目的としている。従つて法律は多かれ少かれ何らかの意味で合理的である。従つて「合理的差別は許容される」という前提で法令の違憲問題を論ずることは危険極まりない。年少者と婦人については深夜業が禁止されている(労働基準法六二条)。これは、成年男子との比較において、「合理的差別」であると認められている。即ち、その年令と自然的素質において、成年男子と相違するから、かかる差別は憲法十四条に違反しない、というのである。
然しながら、かかる見解はむしろ皮相なものであつて、年少者と婦人の深夜業禁止は成年男子との比較において、単に「合理的差別」であるに止まらず、まさに「合理的平等」の実現である。年令と自然的素質の相違に応じた取扱いをすることによつて、憲法十四条の平等原則の実現をはかつているのである。合理的差別の許容を論ずることによつて、憲法十四条を抽象的原則の領域に押しこめることは不当であつて、むしろ平等原則の合理的運用こそが憲法十四条の解釈に当つて、とくに尊重されなければならないのである。
左の穂積裁判官の意見は正しい。
『問題の焦点は憲法十四条である。多数意見は、同条は「大原則を示したものに外ならない」のであつて、「法が国民の基本的平等の原則の範囲内において……道徳・正義・合目的性等の要請により適当な具体的規定をすることを妨げるものではない」とする。しかしながら、憲法が掲げた各種の大原則については、できるだけ何のかのという「要請」によつてその範囲を狭めないように心がけてその精神を保持することが、殊に旧習改革を目指した新しい憲法の取扱い方でなくてはならないと考える。憲法十四条の「国民平等の原則」は新憲法の貴重な基本観念であるところ、実際上千差万別たり得る人生全般に亘つて随所に在来の観念との摩擦を起し各種具体的除外要請を生じ得べく、あれに聴きこれに譲つては、ついに根本原則を骨抜きならしめるおそれがあることを、先ずもつて警戒しなくてはならない。上告論旨(4)は、憲法十四条は「いかなる理由があつても不平等取扱を許さないとまでする趣旨ではない。……一定の合理的理由があれば必ずしも均分的な取扱を要しないものと解すべきである」と言うが、さような考え方の濫用は憲法十四条の自壊作用を誘起する危険がある。平等原則の合理的運用こそ望ましけれ不平等を許容して可なりとすべきでない』(昭、二五、一〇、一一大法廷判決、昭、二五、(あ)二九二号、刑集四巻一〇号二〇三七頁)
(二) 無罪の推定と起訴
起訴された被告人に対する無罪の推定は、なるほど「刑事裁判における被告人の人権保障の思想の一として形成された原理ではあるけれども、しかしながら「一般社会生活関係の面」においてもこの原理をあまねく押しひろめていくことが、この原理が人権保障の思想として形成されて来た由来にふさわしい。そして、今日において、もはや無罪の推定の原理は、ただに「刑事裁判における」原理であるに止まらず、刑事被告人が「一般社会生活関係の面」において蒙る不利益を否定的に批判し、これを是正していくための原理として広汎に通用している。
起訴によつて犯罪の嫌疑はある程度高められているということができるとしても、それは捜査の端緒の時期と比較して、全く相対的なものであつて、法律的にこれをみるならば、それは検察官の処罰を要求する意思表示であるにすぎないのであつて、被告人の悪性の表示としては何らの意味をも有たないのである。このことは起訴事件も屡々無罪となる経験的社会事実に徴し何人も手易く見取りうるところであろう。
原判決は、起訴によつて「その犯罪の嫌疑が或程度高められている職員が、依然として公共の利益のため国民の奉仕者として職務に当ることは、その職員のたずさわる職務の性質上その公訴事実如何によつては甚だしく不当なことにもなる」という。そのいわんとするところは犯罪の嫌疑が起訴の程度にまで高められた職員は、その職務と公訴事実の如何によつては引続き職務に当ることは甚だしく不当なことにもなる。というにある。重ねていうならば起訴は、検察官から疑われた、ということに止まる。何人も自ら犯罪を犯さないことを誓うことはできても、検察官によつて疑われないことを誓うことができない以上、疑われたことは必ずしも被告人の「不徳」の結果ではなく、時に検察官の「不徳」の表明ででもあるのである。従つて起訴それ自体は、「公共の利益」にとつて中性のものであつて、「公共の利益」にかかわりがあるのは、被告人が真実に犯罪を犯したかどうか、という点にある。生徒から徴収した金を業務上横領した教師が引続き生徒の前で教壇に立つことは「甚だしく不当なこと」でもあろう。しかしながらそれは、彼が業務上横領で起訴されたためではなく、彼がまさしく業務上横領をしたためにほかならない。従つて、起訴自体に休職の要件をかけるのは、甚だしく不合理であつて、検察官の「不徳」によつてあらぬ疑いをかけられた公務員はとくにメーデー事件のように一審判決に至るまでにおいてさえ十年の年月を要するがごとき状態の下においては、その働きざかりの壮年期を無為に過すことを余儀なくされるほかないのである。
それにしても原判決が「公訴事実如何によつては甚だしく不当なことにもなる」として、「公訴事実」の内容如何を、被告人たる公務員が引続き職に止まることが不当な結果を招く場合の条件としてもち出したことは注目に価する。このことは反面において問題が起訴自体にあるのではないことをそれ自ら示しているのである。
(三) 出廷義務、勾留と職務専念義務。
原判決は「被告人は原則として公判廷に出頭する義務を負い、或は場合によつては勾留せられることがあるため起訴された職員はその全力を挙げて職務に専念できないこともある」から、全体の奉仕者として職務専念義務を負う公務員が起訴された場合に休職に付されることがあるとした規定は合理的である、という。被告人の出廷はその義務であると同時に、更にすぐれて被告人の憲法上の権利である。とするならば、公務員であつてもその被告人としての権利が事実上十分に行使できるように配慮することは、同時に国の義務であろう。勾留されるならば、職務に就くことは事実上できない。しかしながらそれは起訴のためではなく、勾留のためであり、起訴と勾留は別段必然的な関係をもつているわけではない。
更に、出廷といい、勾留というも、何れも国に対する関係における事柄である。出廷義務は国に対する義務であり、勾留もまた国の機関の発する令状によつて行われる。そして公務員の職務専念義務もまた国(地方公共団体を含む)に対する義務である。もし起訴が誤りであり、同時に出廷義務の負担も勾留も共に誤りであるとする場合には、いわば国の誤りによつて、国に対する職務専念義務を果すことができなくなるわけである。そして先に述べた如く、起訴自体は原・被告何れの正誤をも未だ明らかにするものではない。従つて、出廷或は勾留によつて義務に就くことができないとしても、それは何れも国に対する関係において生ずることであるから、国は勾留或は出廷によつて職務に就くことのできない公務員に対して、職務専念義務のあることを理由として不利益な取扱をするのは、まさに自己矛盾というべく、これを一切あげて公務員たる個人に帰責するのは不当も甚だしいというべきである。
(四) 結論。
以上論じたように起訴によつて休職に付することができるとした地公法二八条二項二号は、不合理なものであつて被告人という地位にある国民を差別して取扱う違憲の規定である。不幸にして起訴されたということが、社会生活において何かと不当な差別をうけやすい実状にかんがみればせめて国家法はこれを差別することなく、憲法十四条を貫徹すべきものであろう。
要之、原判決の憲法一四条に関する解釈は、国家意思の不合理な分裂を招来する底のものであつて、到底是認しえないといわなければならない。
第二、地公法二八条二項二号の解釈に関する原判決の判断について。
(一) 原判決は「起訴された職員を休職にするのは」「公訴事実の内容により引続き職務に従事させることが職務の性質上不当である場合もこれに含まれる」から二八条二項二号は身体拘束の有無を問わない、という。前述したごとく、公訴提起という形で犯罪を疑われたことをもつて公務員を差別することは違憲であつて、職務の性質上、引続き職務に従事させることが不当である場合があるとするならば真実彼が当該犯罪を犯した場合に限られるのであつて、そのことが調査の結果、刑事手続とは別個に明白になつたために職務から排除するための行政処分が行われることがあるのは別として、「公訴事実の内容により引続き職務に従事させることが職務の性質上不当である」とみられるような事情は、憲法上、無視してかからなければならないのである。しかく解さざるにおいては地公法二八条二項二号は違憲である。
(二) 原判決は、二八条二項二号は、起訴された事実のみをもつて休職に付しうるのであつて、他に休職を相当とする具体的事実を要しない、という。果してしからば、原判決は何故に或は「公訴事実の内容により」とか、或は「公訴事実如何によつては」とか、更には出廷義務、勾留等の問題をもち出すのであるか。これらのことを論ずるのは、まさに、問題は起訴という形式的な事実自体にあるのではなく起訴の内容とか、起訴に附随して起るべき諸事情にあるからに外ならない。控訴人が休職を相当とする具体的事実というのも、これらのことをさしているのである。
もし検察官の誤りによつて起訴されたのであるならば、被告人たる公務員はただ起訴によつて重大な不利益を蒙るだけでなく、休職によつて更に起訴にもまさる不利益を蒙らなければならない。控訴人に対するメーデー事件の訴追と本件休職の如きはその典型な事例である。
休職はこのように重大な損害を加える処分であつて、とくに刑事裁判が長期に亘るときは、その間、本来の職務からきりはなされ、据置き給与のしかも六割に甘んじ、更に他に職を得ることもできない苦痛を余儀なくされるのであるから、地公法二八条二項二号は、起訴という要件の他はすべて任命者の自由裁量に委ねたものと解することは到底できないのであつて、起訴の他に、更に休職を担当とする具体的事情の存在をも必要としているものと解すべきものである。
公訴事実の内容、職務の性質、勾留の有無その他の諸事情は任命権者がその自由な裁量に当つて、しんしやくすべき諸事情であるのではなく、それらの事情が休職を相当とするものでない限りは休職してはならないのである。問題は裁量の範囲を逸脱したために著しく不当な結果をもたらしているか、どうかにあるのではなく、これら休職を相当とする積極的諸事情の存否にあるのである。
(三) 原判決は、二八条二項二号の適用に当つては、休職を相当としない特別事情の不存在を要しないという。この点についても右(二)に述べた通りである。「休職を相当としない特別の事情が存在するときは、任命権者は自由裁量の余地なくその特別事情の存する限りその職員を休職処分にすることができない」のである。休職処分のもつ不利益の重大性にかんがみて、しかく解すべきものである。従つて特別の事情の有無は、裁量の範囲の限界をこえているかどうかの問題ではなく、特別事情があるならば休職に付しえない、という点に任命権者の権限はき束されているのである。
第三、被控訴人の裁量の誤りの有無に関する原判決の判断について。
(一) 原判決は休職処分が任命権者の権限の範囲を逸脱し、違法となる場合の例示として次の二つの場合を掲げる。
(イ) 「職員が起訴された場合においても前記諸事情(その職員の職務の性質、公訴事実の内容、職員が拘留されているかどうか等の諸事情)からみてその起訴がなんら職務に悪影響を及ぼさず、その公訴事実につきたとえ有罪となつても職務を続けることに差障りがなく、休職にすることが甚だしく不当と認められる場合」
(ロ) 「職務になんら影響がないのに、他の目的のために休職処分をするとかの場合」
法二八条二項二号が起訴のみを要件として、職員を休職にするかどうかの自由裁量の権限を認めたものである、との原判決の見解は誤りであるが、仮にこの見解によるとしても右例示の二つの場合は、任命権者の裁量を著しく逸脱した極端な場合を指しているのであつて、右のような極端な場合でなくとも、裁量の範囲を逸脱した違法の休職処分はいくらもありうると考える。
しかしながら、本件休職処分はまさしく原判決が掲げる二つの例示の場合にそのままあてはまるのであつて、裁量の範囲を逸脱した違法な休職処分というべきことあきらかであるにかかわらず、原判決はこの点に関しあえて判断をしないばかりか、事実の認定にも誤りが存するものである。すなわち、
(イ) 原判決は一方において前記のごとく、公訴事実の内容から起訴が職務に対して悪影響なき場合の休職処分のごときは違法なものであるとしながら、他方においては、公訴事実の記載内容を掲記するにとどまり、控訴人の職務に対する影響の有無についてはなんらの判断をも示すことなく、単に「裁量を誤まつたものとはいえない」とのみ即断しているにすぎない。また、公訴事実につき有罪となつても職務を続けるになんら差障りがない場合の休職処分のごときも違法であると説示し、本件附和随行罪が罰金刑にすぎず罰金刑に処せられただけでは職員は当然失職することなくそのことのみを理由に免職とならないことを認め、もつて職務継続に差障りないことを容認しながら、罰金刑に過ぎない場合であつてもその犯罪行為をしたこと自体にその職員に公務員としての必要な適格性を有するか否かが問題になり適格性は有しないことになれば免職となるというにとどまり、控訴人の職務継続に支障があるか否かについてはなんらの判断も示していないのである。かかる原判決はその論理にはなはだしい飛躍が存するものといわなければならない。しかして、
(ロ) 本件公訴事実の内容からは控訴人の職務に対してなんらの悪影響も存しない。控訴人は、原判決認定のごとく、都高教組の指令にもとずき、同教組西高分会のメーデー全員参加の決議にしたがい昭和二十七年メーデーに参加したものであり、当日控訴人の加つた示威行進の隊列に伍し皇居前広場に立入つたにすぎないのであつて、本件公訴事実の内容も又控訴人自身の行為に関する限り単にそれだけにすぎないのである。公訴事実が右の行為に対する検察官側の評価として「暴徒に加わり附和随行した」(控訴人はもちろん争うが)と称するも右の事実になんらの消長の存するものではないのであつて、控訴人は当日メーデーに参加し、示威行進に加つた多数の同組合員、日本教職員組合あるいは他の地方公務員となんら異るところは存しない。騒擾附加随行罪が非破廉恥罪であるということはとりもなおさず、その行為が悪性に出たものではないということであり、他に同様の行為に出でたものの存するということである。当日皇居前広場に立入つたもののうち控訴人の行為のみが、他のものと比較してとくにその職務に悪影響があるとなしえないことはむしろ当然の事理といわなければならない。したがつてこの一事によつても本件休職処分は被控訴人がその裁量を誤つた違法な処分なることはあきらかである。そればかりか、
(ハ) 控訴人は高等学校の教諭であつて国語、国文学を担当していること、公訴事実の内容はメーデー事件に関係した騒擾附和随行罪であり、いわゆる破廉恥罪でないばかりか、その犯罪としての成否はもとより、控訴人の加わつたデモ隊の行動の歴史的、社会的意義については、世論が二分して容易に決しがたいものであること、控訴人は勾留されておらず、また法定刑は罰金刑であつて一定住居をもつ控訴人が勾留されることはありえないこと、公判出廷の義務をもたないこと、仮に有罪となつても当然には失職しないこと、控訴人のメーデー事件における行動は教え子たる生徒と行動を共にし、その庇護者としての立場を出るものではなかつたこと、同僚の教師及び生徒が一般に休職に反対していたこと、一部の特殊の父兄が休職を要求していたけれども、その数は極めて少数であつたこと、刑事裁判としてのメーデー事件の審理には相当の長年月を要するものと見込まれること、控訴人は熱心な授業を行う教師で生徒父兄の信望が厚かつたこと等々の諸事情を綜合すれば、本件休職が違法であることは疑ない。また、
(ニ) 組田校長はかねがね控訴人と意見が一致せず、控訴人の教育方針、世界観等に反感を抱いていたこと、そのために控訴人は学校内部の人事においても冷遇されていたこと、被控訴人教育委員会はかねてその教育行政において保守的であつて、労働組合や教員の進歩的言動に反感をもち、これを抑制・排除しようとしていたこと、佐久間検事が控訴人の教壇からの排除を起訴によつて遂げようとする意図を表明していたこと、等々の事情を綜合するならば、本件起訴並びに休職は、控訴人を学校から追出すために、検事と被控訴人が通謀して行つたものであるか、或はこと通謀に至らざるも被控訴人が検事の起訴を好機として、かねて抱懐していた控訴人排除の意思を実現したものであることがうかがわれる。この場合、被控訴人の人事担当者、田中喜一郎が控訴人を知つたのはメーデー事件による控訴人の逮捕によつてである、というが如き事件はさして重要ではない。被控訴人が、控訴人を含む進歩的、教員の抑圧、排除をかねて希望していたことをもつて十分であるからである。
(二) 原判決はいう。「起訴の当否はその事件の係属する刑事裁判所の判断すべき事柄であるから、任命権者はその起訴された事実が真実であつて、犯罪を構成するものであるかどうかについてまで考慮すべきではない」。
なるほど、起訴された事実について被告人が有罪であるか否かは刑事裁判所の決すべきことであつて、検事や被控訴人が決すべきことではない。しかしながら、公訴事実と同一性を害しない範囲における一定の社会的事実(被告人の行動を含む)の価値判断は、休職処分をすべきか否かについて、被控訴人の休職に関する裁量を決すべき事由たるを失わない。
その意味でメーデー事件に際して被告人のとつた行動が、引続き職務に就くことを不当ならしめるものであるかどうかについては考慮されてしかるべき事柄である。有罪か無罪かの判断と、当該公訴事実をもつて起訴されたことが休職を相当とするか否かは全然別個の判断であるからである。原判決が休職に関する裁量の判断の中に公訴事実の内容が入つてくることを論じているのも、その趣旨であろう。
検事は、起訴するならば有罪判決が得られるであろう事案であつても不起訴にすることができる。そして不起訴にされた事案であつても、教育家として教壇に立つことを著しく不当とするような非行もある。その反面、起訴された事案であつても一般教員と一般生徒と、そして一般父兄の支持をえられるような行為であつて、これを休職にするならば、むしろ著しく学園の平穏阻害されるような場合もある。このように、有罪か無罪かは、休職を相当とするが如き公訴事実であるかどうかの判断とは必ずしも関わりがない。
そこで、メーデー事件における控訴人の行動は、東京都高等学校教職員組合のデモ隊の一員として妻と共にデモ行進に参加し、偶々解散場所近くに至つて教え子たる生徒たちと行を共にしたこと、したがつて終始一貫何ら暴行脅迫の意思を有たず、デモ隊の流れにきわめて自然にしたがつて皇居前広場に入り、突如警官隊の攻撃をうけて、生徒たちをかばいながら退避したものであるに過ぎず、これらの行為には、特に休職を相当ならしめる如き事情はないのみならず、むしろ生徒の庇護者としての教師の行動として、休職を相当としないものがあるといわねばならない。
以上述べたように原判決は憲法、地公法の解釈を誤り、かつ事実誤認、理由不備の違法あるものであつて破棄さるべきものである。
被控訴代理人の主張
第一、憲法第十四条違反の主張について。
(一) 基本的観点即ち合理的平等の主張について。
憲法第十四条の国民平等の原則は、不合理な差別でない限り許される。即ち、合理的差別の許容されることは、判例、学説の支持するところであつて多言を要しない。控訴人は、「年少者と婦人について深夜業が禁止されている(労働基準法第六十二条)。これは、単に合理的差別のみならず、合理的平等の実現であり、平等原則の合理的運用こそ尊重さるべきである。」と主張する。
平等原則の合理的運用が尊重されなければならないことは言うまでもないところである。が、合理的差別を認容し、悪平等に陥入ることがないことこそ、合理的平等の実現と言うことができる。即ち、合理的差別の認容こそ合理的平等の実現に外ならない。問題は言葉のあやや観念の遊戯ではなく、地方公務員法(以下「地公法」という。)第二十八条第二項第二号が合理的差別として許容されるかどうかに帰する。一般に用いられているそういう表現の方が判り易いのである。
(二) 無罪の推定と起訴。
控訴人は、無罪の推定は一般社会生活において蒙る不利益を否定的に批判し、これを是正していくための原理として、広汎に通用している、と主張する。
しかし乍ら、刑事被告人は確定判決まで、一般社会生活関係において凡て無罪として取り扱わなければならないという考え方は、現実を全く無視した誤つた考である。統計的に見て、起訴された事件の大部分は有罪判決で終り、無罪の判決は極めて少ない。このような現実において、例えば本件の如く起訴された高等学校の教師という立場の人が、引続き教壇に立つことによつて、感じ易い青少年学徒の学習心理に及ぼす悪影響は、無罪の推定というような抽象的観念を以て拭い去り得るものではない。又、一般的に勾留乃至公判廷の出頭義務等の事情の為、公務員の職務専念義務を履行できない、というようなことも無罪の推定という観念では払拭されるものではない。
控訴人は「疑われたことは必ずしも被告人の不徳の結果ではなく、時に検察官の不徳の表明でもある。従つて起訴自体は公共の利益にとつては中性的である。」というが、疑われたことが万一被告人の不徳の致すところでないとしても、前述のような意味において、そのまま職に止まることが、公共の利益に反することがあるのであつて、必ずしも常に中性的なものではない。地公法第二十八条第二項第二号の問題は、犯罪を侵したかどうかにあるのではなく、起訴自体が公務員の職務遂行に不当な影響乃至結果を生ずるかどうかの問題である。
(三) 出廷義務、勾留と職務専念義務。
控訴人は、出廷は義務であると同時に権利である、従つて被告人の権利が十分行使できるように配慮することは、同時に国家の義務であるから、起訴を以て休職にする現規定は無効であると主張する、もののようである。
しかし、職務専念の義務と出廷の義務(それが権利であるとしても)乃至権利とがそのままでは相容れない場合には、その何れも他の義務の為に犠牲に供することは許されない場合もあり得る。このような場合にとるべき手段は、休職に付し職務専念義務から解除し、地方出廷義務を履行せしめる外に途はない。
更に、控訴人は、勾留されれば職務に就くことは事実上出来ない。しかしそれは起訴の為ではなく勾留の為であり、起訴と勾留との間に必然関係がない、と主張する。
しかし、ここで問題となるのは、一般に起訴されるときは勾留されることもあるので、そうなれば職務専念を履行することができない。そういう場合も少くないことを予想して地公法第二十八条第二項第二号は一般に起訴の事実あるときは休職処分にすることができると規定したもので、それ故、同条は合理的差別の規定であると言うのである。
控訴人は、若し起訴が誤りである場合には国の誤りによつて国に対する専念義務を果たすことができなくなるのだから、職務専念義務あることを理由として不利益な取扱をするのは不当である、と主張する。
既に述べたように、起訴された事件が無罪になることは統計上極めて例外である。その極めて例外の場合を以て一般的規定たる地公法第二十八条の規定の無効を主張するのは不当である。起訴が誤つていた例外の場合は、法は刑事補償等国家賠償の問題として別に処理する建前であり、その例外の故を以て地公法第二十八条の無効を主張するのは全体的法制を理解しない議論という外はない。
(四) 結論について、
休職処分は、処分を受けた者にとつては不利益な処分に相違ない。しかし乍ら、地公法第二十八条第二項第二号は公務員が起訴された場合そのままその職に止まることが公益上不当な結果を生ずる場合、その公益上不当な結果を排除することを目的とする規定であるから、合理的であり憲法第十四条に違反しない。
第二、地公法第二十八条第二項第二号の解釈について。
(一) 控訴人は、職務上引続き職務に従事させることが不当である場合ありとすれば、それは真実彼が犯罪を犯した場合であるとの前提に立つて同条を解釈しようとする。
しかし、それが誤りであることは前に述べた(第一ノ(二))通りである。即ち、公訴事実の内容から見て、引続き職務に従事させることが職務の性質上不当な場合が現に存在することは事実であり、かかる場合には犯罪を犯したと否とに拘らず、これを排除することが公益上必要である。
(二) 控訴人は、地公法第二十八条第二項第二号の休職処分には、起訴の外休職に必要な積極的事実が必要であるとし、また、休職を相当としない特別事情が存在するときは休職してはならない、と主張する。
しかし乍ら、右は何れも行政処分の自由裁量を誤解したものである。
本件の休職は、規定の形式から見ても、また実質的に見ても、行政庁の自由裁量に委ねたものであることは明白である。即ち、形式的に言えば、同条は休職に付することができる、とあつて、しなければならぬ、とは言つていない。次に実質的に言えば、公訴事実内容をも含めて起訴という事実により、引続き職務を行わせることが、その職務の性質を勘案し、その時その場合において公益上どんな影響を与えるかどんな公益上の支障を伴うかという微妙な判断は、その任命権者たる行政庁が最も適確に判断し得る立場にあるので、三権分立の根本理念に鑑みこれを行政庁の自由裁量に委ね、覊束裁量としなかつたのである。
既にそれが自由裁量の問題である以上、自由裁量の限界逸脱による違法の問題はあるにしても、休職処分に必要な積極的事由とか、休職を相当としない積極的事由というような事項は、何れも自由裁量の限界内の問題に属し、従つて、当・不当の問題となり得ても、行政訴訟の対象たる違法の問題とは、なり得ない。
第三、自由裁量の限界逸脱の問題について(準備書面第三について)
裁量処分は、言うまでもなく三権分立の根本理念から生れたもので、正に行政庁の権限内にある処分である。従つて、それが例え如何に不当であつても違法ではない。これを違法という為には、行政庁の裁量処分とは考えられない程度の著しい不法性がなければならない。即ち、行政庁に許された自由裁量の限異を超えたものでなければならないのであり、一方その限界を余り狭く解するときは、三権分立の根本理念を破壊する結果となる。即ち、控訴人主張のように、裁量を誤つたというだけでは当・不当の問題を生じ得ても、裁量の限界を超えた違法の処分とは言い得ないのである(勿論、被控訴人は、本件処分は正当であつたと主張する。)
(一) 本件処分が正当であつたことについては、原判決摘示事実中控訴人主張第三の通りである。
(二) 控訴人は、本件公訴事実の内容は控訴人の職務に対し何等悪影響はないとし、その理由の一つとして控訴人は東京都高等学校教職員組合(以下「都高教組」という。)の指令に基き都高教組西高分会のメーデー全員参加の決議にしたがい、昭和二十七年メーデーに参加した、と主張するもののようである(第三(一)ノ(ロ))。
しかし乍ら、当日職員参加は公務に支障なき限度において、校長の個々の承認を得た場合のみ認められていたところ(乙第四号証、メーデー参加に関する東京都教育委員会通達)、控訴人校長の承認を得ず無断で参加したものであつて(証人細田第二回二三七頁以下)、公務員としては違法な行動であり、都高教組の指示乃至決議に基いたことは何等これを適法化するものではない。而も、当日は、皇居前広場は使用が許されていなかつたのである。(乙第五号証最高裁判決)。
近来、日本教職員組合(以下「日教組」という。)の行動は、目的の為には手段を選ばず著しく常軌を逸し、その傘下にある教師は国民の信頼と尊敬を集める教育者でありながら、法をみだし秩序を破壊しても尚日教組の指令に従うの傾向にあることは顕著なる事実であり、真に憂慮すべきものに鑑み、右の如き職務規範の違反及び法の無視は厳に戒むべきであり、教員自ら深き反省を求めらるべきところである。そればかりではない。控訴人が自ら従つたと称する都高教組指令第三号によれば、当日のデモ行進は日比谷公園裏において解散と決定されているのであつて(乙第八号証)、控訴人の皇居前広場への侵入は、単に法に違反したばかりではなく、組合の決議乃至指令にも違反したことになる。
(三) 控訴人は、解散場所近くに至つて、教え子たる生徒たちの行進するデモ隊と遭遇したため、これ等の生徒を看とるべく、そのデモ隊に加わり生徒と行動を共にしたのであつて、むしろ生徒の庇護者たる教師の行動として認められるものであり休職を相当としないものである、と述べている(準備書面第三ノ(二))。
この場合、教師たる控訴人のとるべき態度は、解散場所において解散することであり、解散場所近くで生徒たちをデモ隊の中に発見した場合は、デモ隊より離れて帰途につくべきことをすすめることであり、さらに進んで、法が禁止されている皇居前広場に立入ることを止めさせることでなければならない。控訴人の以上(二)(三)の行動は、休職処分を相当としない理由とはならないばかりか、却つて、教師としての適格性を疑わしめるに十分である。
(四) 控訴人は、附随行罪が破廉恥罪でないからその行為は悪性に出たものではない。また、他にも皇居前広場に立入つた者が教師の中にも多数あるのに、控訴人の行為のみが他の者と比較して特に職務に悪影響ありとはなし得ない(第三(一)のロ)と主張している。
しかし乍ら、附和随行罪が、俗に所謂破廉恥罪でないとしても、その故に悪性に出でたものでない、とは言い難く、仮りに悪性に出でたものでないとしても、また、皇居前広場に立入つた教師が他にあつたとしても、控訴人が起訴されたということによつて、職務上悪影響なしとは言えない。
(五) 控訴人は、検事と被控訴人と通謀して又は起訴を好機として、かねて抱懐していた控訴人排除の意思を実現したものであるから、裁量の範囲を逸脱した、と主張する。
しかし乍ら、原審証人田中喜一郎及び細田菊雄、最上孝教の証言及び成立に争なき乙第六号証ノ二によれば、元来校長以外の一般教職員の休職等の処分は東京都教育長の決裁によつて行われ、東京都教育委員会の議決乃至承認の必要がないにも拘らず、本件は東京都教育委員会にかけられその承認を得ていること(田中証言)、その処分の決裁原議は昭和二十八年一月二十六日に為された(乙第六号証ノ一)にも拘らず、その施行期日は追て決定するものとせられ(同号証ノ一)、処分は三月四日に為されていること(乙第六ノ二)、右決裁には、細田校長の客観的報告は勿論、西校職員の歎願書(それは控訴人の生活問題に関する同僚の同情による)P・T・Aの席上父兄の校長に対する処分の激しい要望がしばしば行われたこと等諸般の事情を十分斟酌して行われたこと、処分裁決書にも起訴による地公法第二十八条第二項第二号によつていること(決裁原議は<秘>とされているから、処分の本当の事情が書かれてあると認められる)等の事実によれば、本件は真実、地公法第二十八条第二項第二号により、その生徒並に父兄に及ぼす学習心理への影響を慎重に考慮して為されたことを認めるに十分であつて、その間、控訴人主張の如き検事と通謀したり、また、日頃控訴人を排除する為に起訴を利用したというようなことは明白であり、従つて、罰金の最高が二千五百円であるとか、検事がどういつたとかいうようなことは、全然問題とならないのである。
即ち、控訴人の処分庁の自由裁量の限界において正当に為されたものであつて、如何なる意味においても、その自由裁量の限界を逸脱したものではない。 以上