東京高等裁判所 昭和33年(う)2072号 判決
被告人 広川博
〔抄 録〕
弁護人の論旨一、二及び被告人の論旨中事実誤認の部分について。
所論は被告人が終始一貫殺意を否定しており、殺意を認めるに足る証拠がなく、殺人の犯意を認めるよう過剰防衛行為としてその刑を減軽するのが適切であるに拘らず、原判決が、「憤激の余り実を殺害することを決意し」判示しているのは事実の誤認であると主張するのである。しかし原判決挙示の証拠を綜合し、原判示事実を認めることができ、殺意の点について原判決に誤認はない。なるほど被告人は原審公判廷において「殺害したことを決意したことはない」「腕を刺したことはあるが、胸部を刺したことは記憶しない」と述べ、被告人の司法警察員に対する供述調書において「相手を殺してやろうとかどこを刺してかたわ者にしてやろうと云う気持はなく、無我夢中で小刀を突き刺した」と述べ、或いは「兄を殺そうとか突き刺してやろうなどと考えてやつたことでなく、夢中になり何も頭になく腹や胸を突き刺したら兄が死ぬだろうなどと考える余裕がなかつた」とも述べていて、未必的にせよ殺意を認める供述をしていないことはそのとおりであるが、殺人罪における殺意の証明にあたり、犯行に使用した兇器の種類、その使用方法、よつて相手に与えた割傷の部位と程度等を綜合することによつて殺意を認定することも不可能とはいえず、従つて被告人が、確定的にか又は未必的な犯意を肯定しなければその証明がないとはいえない。本件につきこれをみるに、本件犯行に使用したくり小刀は刃渡り十一糎位の極めて細身の武器で、秘かにこれを手に取れば接近した相手の身体を刺すことは容易であると認められるところ、被告人は本件犯行当日(昭和三十三年七月十七日)午後三時頃自宅からくり小刀を腹巻に忍ばせて立ち出で、母フジ方に立ち寄つたが、同所において兄実から又もや云いがかりをつけられるや飯茶碗を実に投げつけ、続いて互に殴り合いとなるや前記小刀をもつて義兄岩坂吉次郎に抱きかかえられている実の腕や胸部を数回刺し、これにひるんで逃げ出した実を追い台所に於てうずくまつていた実の背部等をも突き刺したこと及びその結果実は左胸部に長さ約三、五糎、幅約一、六糎、深さ約七糎の心臓右心室後壁に達する刺切創の外胸腹部、背部等数多くの創傷を負わせ心臓創傷に基く出血のため間もなく死亡させるに至つたこと原判示のとおりであつて、被告人が右の如く人を殺害するに足る武器を用意していたことと実の胸腹部の傷のみでも前後五ケ所に及び、それがいずれも実の体内深く刺された傷であり、それが特に胸部をめがけて突き刺したとはいえないまでも、胸であろうが腹であろうが顧慮せず鋭利な武器でところかまわず突き刺したものであること及びその一つが心臓部に致命的損傷を与えて死亡させたと認められるから、被告人が殺意を有していたと断定するのが相当である。被告人が「兄が動かなくなつた後ハツと冷静になり、『ようよう』と声をかけたり、兄の名前を呼んだ」と供述し或いは兄に対し「起きやがれ」と云つたことがあるからといつて、所論のように殺意を否定しなければならないものではない。兄と殴り合いの最中であるとか、兄から唐手の術でたたきつけられたからとて殺意を生ずる時間的な余裕がないとはいえず、原判決が「互に殴り合ううち憤激の余り実を殺害することを決意し」たと認めたことが経験則に反するわけではない。而して上記の如き被告人がくり小刀を用意して自宅を立ち出でたこと、兄と殴り合いとなつてから兄が被告人に対抗するに足る武器を所持しておらず、殊に義兄岩坂吉治郎に抱きかかえられ行動の自由を制約されている実に対しくり小刀を揮つて胸部を刺し、更にひるんで逃げ出した実を執拗に追いまわして台所に於てうずくまつている実の背部を突き刺す等の事実に徴すれば被告人が実の急迫不正の侵害に対する防衛意思によつて本件行為に及んだとは認められない。固より被告人が将来の侵害行為を予期し、これに備え、これを防衛するため武器を準備携行することがないとはいえず、かゝる場合にすべて正当防衛乃至過剰防衛を否定するのは正当ではない。さればといつて本件に於て被告人が自宅からくり小刀を持ち出した当初より防衛の意思に出でかつ防衛行為を継続したとの所論事実を認めることはできない。所論引用の判例は一は生死を賭した格斗中相手方の武器をもぎ取り一撃を加え更に逃げるところを追跡して最後の一撃を加えた案件について正当防衛の成立することを認めたものであり、他は背後から先制的な侵害行為を受けこれを防衛するため反撃を加えた案件に属し、いずれも本件には適切でなく、論旨はいずれも理由がない。
(加納 足立 山岸)