東京高等裁判所 昭和33年(う)220号 判決
被告人 吉田升英
〔抄 録〕
被告人は判示日時場所において被害者飯出正治郎が酩酊の挙句理由もなく石井仁二を路傍の土手に押しつけてその頸部を締めつけているのを発見し、これを制止しようとしたが、飯出はこれを肯んぜず、却つて強く締める始末で、強力な同人の暴行を素手で阻止するは困難であると考え、直ちに同所から十五米余の距離にある被告人の止宿先中島百合子方に行つてその勝手場にあつた刃渡二十三糎位の刺身庖丁を持つて引返し、これを右飯出に突きつけて再度右暴行をやめさせようとしたに拘らず、飯出が石井の頸部を更に締めつけるのを認めるや、矢庭に右刺身庖丁をもつて飯出の顔面及び頭部を切りつけたところ、飯出は右暴行をやめ、被告人に立向つて来たので、飲酒の勢も加わり右庖丁をもつて飯出の左胸部を突き刺し、深さ十三糎に達し左胃動脈の分枝を損傷する刺創を与え、因つて判示日時場所において、同人を右傷害に基く胃出血死に至らしめたものである。所論は、右被告人の所為は正当防衛又は過剰防衛行為であると主張するので、この点について検討する。当時被害者飯出が三十一歳の腕力自慢の屈強の壮年者であり且つ酒癖悪く当時乱酔に近い状態にあつたのに対し、石井が五十歳に近い微力な初老であつたことに鑑みれば、飯出の石井に対する前記暴行行為はまさしく急迫不正の侵害に該当し、被告人が口頭又は素手で右暴行を阻止しようと試みたが、意の如くならず、ために前記のように刺身庖丁で飯出の顔面及び頭部に切りつけた行為は、少くとも石井の権利を防衛するための過剰防衛行為と認められないことはない。しかし飯出は被告人の右行為に因り、石井に対する暴行を中止し、被告人に立向つて来たというのであるから、石井に対する前記急迫不正の侵害は中断されたものというの外なく、しかも飯出は素手で被告人に立向つて来たというに過ぎず、被告人の身体の一部を捕えたとか、兇器をもつてその身辺に襲いかかつたとかいう緊迫した状態でなかつたことは、原判決援用の証拠によつて認められるところであり、また被告人は体力においては飯出に劣り、当時飲酒していたとはいえ、二十六歳の若者であり、飯出は如何に腕力が強いといつても、当時乱酔に近い状態にありしかも素手で立向つて来たのであるから、被告人としては、その場から退避する等の方法により飯出の侵害を避け得る十分の余裕があつたものと認められる。すなわち右飯出の被告人に対する行為は、未だもつて急迫不正の侵害とは認め難い。以上説明のとおり、石井に対する急迫不正の侵害は既に去り、被告人に対する新たなる侵害が急迫不正であると認められない以上、被告人の判示所為をもつて正当防衛又は過剰防衛行為に該当すると主張する所論は排斥するの外ない。
(谷中 坂間 司波)