大判例

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東京高等裁判所 昭和34年(う)1012号 判決

被告人 松田光子

〔抄 録〕

論旨は、本件において被害者たる松田卯三郎に対し、飲料に混じて施用せられた猫イラズに含有されていた毒物黄燐の分量は僅か〇・〇二五三瓦に過ぎず、いわゆる人体に対する致死量を遥かに下廻つており、仮に被害者がその全部を実際に摂取したとしても、同人の身体に何らの異状も認めなかつたであろうことは容易に想像されるところであつて、かくの如く被害者の身体的状況その他の事情によつて致死の結果を惹起しないことが予定確定している場合には、殺害の目的で毒物を施用していたとしても不能犯と目すべきであつて、原審としてはすくなくとも被害者松田卯三郎の身体を鑑定して、同人が本件毒物を服用した場合における身体的変化、異状があるかないかを調査した上、何等変化がないとすれば不能犯として被告人に対しては無罪の判決をすべきであつたのである。然るに原審はその挙に出ることなく、被害者の身体の鑑定の申請を却下したのであるが、ひつきよう原判決が、本件を不能犯であるとしなかつたのは法令の解釈を誤り事実の誤認を冒したものであると主張するのである。よつて按ずるに、人を殺害する意図をもつて毒物である猫イラズを飲料に混じて施用するが如きは、殺人の手段として目的を達する可能性を具えているものであつて、仮に、行為者においてその致死量を与えて被害者を殺害する意図であつたが、その使用分量を誤つて、致死量に至らない分量を致死量であると信じて被害者に対し施用した如き場合であつても、そのような行為者の意図がその認識どおりに実現されていたら殺人の結果発生についての危険性は充分に包蔵しているものといわなければならないから、これをもつて殺人の実行に着手したものというべきことはもちろんであつて、かくの如き場合を目して行為の性質上結果発生の危険の絶対に存在しない不能犯であると称することはできないのである。そしてこの帰結は、右施用された毒物の分量では当該被害者の致死の結果を惹起せしめるには足りないと具体的に認められるような場合でも、異らないものと認められるのである。

今本件についてこれをみるに、原判決挙示の証拠並びに記録によれば、被告人は猫イラズの人体に対する致死量についての知識が不充分であつたため、いわゆる致死量に足りない分量を致死の結果を発生させるに足る分量であると信じて、これを飲料に混じた上、殺意(被告人に殺意があつたことは前記控訴趣意二について説明したとおりである。)をもつて、直系尊属たる被害者に対し飲用をすすめたものであることが明らかであり、若し被告人において事前に右猫イラズの施用分量が致死量に達しないことを知つたとしたら、当然分量を増加して殺害の目的達成をはかつたものと認められ、このような被告人の意図がそのとおりに実現されるとすれば殺人の結果の発生する危険が充分存在するといわなければならないから、被告人の叙上所為は不能犯であると論ずることは到底許されないのである。これを要するに原判決には法令の解釈を誤り事実を誤認した違法は存在しない。論旨は理由がない。

(三宅 井波 山岸)

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