東京高等裁判所 昭和34年(う)1167号 判決 1959年9月25日
控訴人 被告人 ピーター・イー・ロングプリー
弁護人 小野清一郎 外二名
検察官 大平要
主文
本件控訴を棄却する。
理由
弁護人ら三名の控訴趣意第一点及び弁護人小野清一郎の控訴趣意書を補充する陳述書中前段について、
先ず所論のうち、刑法第二百十一条前段所定の業務上の過失は、業務の執行と直接に関連したものでなければならないから、業務の執行と直接関連のない過失によつて人を死に致したときは、業務上の過失致死罪は成立しないとの主張につき案ずるに、刑法第二百十一条前段にいう業務上の過失は、必ずしも業務の執行と直接に関連あるものに限るべきではなく、例えばその過失行為が業務の目的範囲を逸脱するため業務の執行といえないばかりでなく、業務の執行と直接の関連のない場合であつても、苟くも外形上業務の執行との関連においてなされたものと認められる以上、なおこれにつき業務上の過失をもつて論じ得るものと解するを相当とする。蓋し、かかる場合を業務上の過失から除外することは、業務上の過失を通常の過失より特別に重く処罰する法の目的に副わないからである。
いま本件についてみるに、原判決挙示の証拠によると、被告人は向う十五日間の臨時憲兵として歩哨勤務を命ぜられ、銃及び銃弾を携帯して歩哨の任務に従事中、歩哨の任務執行のためにするのではなく、却つて歩哨の守則に違反して徒らに銃及び銃弾を弄び、その取扱上の過失によつて人を死に致したのであるから、右の行為は歩哨としての任務の執行といえないばかりでなく、その任務の執行と直接の関連があるとはいえないけれども歩哨の任務を執行するための銃及び銃弾の取扱(携帯操作)に関連してなされたものであることが外形上明らかであるから、被告人に対し業務上の過失致死罪が成立するものといわねばならぬ。
ところで、所論は、原判決は一方において本件が日米安全保障条約第三条に基く行政協定第一七条第三項(a)(ii)の公務執行中の作為又は不作為から生じた罪ではないとしながら、他方においてこれを業務上過失致死罪で処断したのであるが、それは理由にくいちがいがあるといわねばならぬ。すなわち、若し、公務執行中の作為又は不作為から生じた罪でないとするなら、通常の過失致死で処断すべきであり、公務執行中の作為又は不作為から生じた罪であるとする場合に限り業務上過失致死罪で処断することが可能であると主張するのである。
よつて、案ずるに前示日米行政協定第一七条第三項(a)(ii)の「公務執行中の作為又は不作為」とは「公務執行の過程における作為又は不作為」を意味するものであつて、広く公務執行の時及び場所における作為又は不作為がすべてこれに包含されるものではない。(昭和三十年三月三日最高裁判所第一小法廷判決、最高裁判例集九巻三号四二六頁参照)
そして、本件は歩哨勤務の時及び場所における行為ではあるが、歩哨の目的を逸脱し、同目的とは関係なしに徒らに銃及び銃弾を弄ぶという単なる個人的行為により惹起されたものであるから、公務執行の過程における行為とはいえず、従つて日米行政協定第一七条第三項(a)(ii)にいう公務執行中の作為又は不作為には該当しないものといわねばならぬ。
しかしながら、公務従つて業務の目的範囲を逸脱するため業務の執行といえないばかりでなく、業務の執行と直接関連のない行為についても、我が刑法上なお業務上過失罪の成立し得るものと解すべきことは、さきに説示したとおりであるから、原判決が一方において本件が日米行政協定第一七条第三項(a)(ii)の公務執行中の行為ではないとしながら、他方において業務上過失致死と断じたことをもつて、理由にくいちがいがあるとはなし得ないのである。所論はいずれも採用し難く、論旨は理由がない。
(その他の判決理由は省略する。)
(裁判長判事 坂間孝司 判事 渡辺辰吉 判事 関重夫)
弁護人小野清一郎外二名の控訴趣意
第一点原判決は、被告人の行為は行政協定一七条にいう「公務執行中の作為又は不作為から生ずる罪」ではないと判断し、しかもそれは刑法二一一条前段の「業務上必要なる注意を怠り因つて人を死傷に致したる」罪であると断定している。これは法律解釈の論理を誤り、判決理由にくいちがいがあるものであつて、当然破棄しなければならないものと信ずる。
一、原判決はこの点につき縷々説明を加えているが、人をして首肯させるに足りない。原判決は、行政協定一七条にいわゆる「公務執行中の作為又は不作為」とは、公務に従事する者の勤務時間中におけるあらゆる作為又は不作為をいうのではなく、「少くとも、その犯罪が公務執行に随伴して生じ、公務執行とその犯罪との間に直接行為上の関連を有する場合でなければならない。」と解釈する。もしこの解釈をとるなら、被告人の発砲は公務執行中の作為と見るのが自然であり、常識にかなつた適用というべきである。然るに原判決は、「本件事犯は右のように注意義務の違背という点で歩哨すなわち公務(然し公務の執行ということとは異なる)ということと無関係とは言えないにしても被告人が従事していた歩哨勤務という公務執行に随伴して生じたものではなく、又本件事件との間に何等かの意味で直接の関連性を持つと見得られるような公務執行の外形も存在しない個人的行為なのである。」としてその適用がないとするのである。この説示は何としても一つの強弁にすぎない。被告人の行為は、兵隊が公務の執行中婦女を強姦したというような場合と異なり、まさに「歩哨としての注意義務を尽さず」、業務上携帯しているカービン銃に実弾を装填し(作為)、しかも安全装置を施すことなく(不作為)所持していたというのである。この点に過失行為を認める以上、たとえそのことを失念して空撃ちのつもりで発射したことが「職務の執行とは何等関係なく」行われたものであつても、「少くとも、その犯罪が公務執行に随伴して生じ、公務執行との間に直接行為上の関連を有する場合」であるといわれなければならない。「公務上の外形も存在しない」などとどうしていえるのか。もし見ていた人があつたら、誰でもこれは何かの理由で歩哨が発砲するものとおもつたであろう。「個人的行為」というが、およそ犯罪行為で個人的行為でないものはどこにもあり得ないのである。かように解する場合に、はじめて刑法二一一条を適用することが正当になる。同条は「業務上必要なる注意を怠り」云々と規定している。ここに「業務」とは「公務」を含むこというまでもない。歩哨としての注意義務を尽さないことは、やはり業務上必要な注意を怠つたことになるからである。
二、しかし、被告人が歩哨としての注意義務に違反して実弾を装填したことも安全装置を施さなかつたことも、さらにそれを失念して空撃ちのつもりで発砲したことも、すべて公務執行との「直接行為上の関連」がなかつたとしよう。そしてそれ故に「公務執行中の作為又は不作為」ではなかつたとするなら、刑法二一一条前段を適用して「業務上」過失致死罪をもつて論ずることは許されない。刑法二一一条前段は行為者が業務に従事する者であり、しかもその「業務上必要な注意を怠つた」ことによつて人を死傷に致したことを必要とする。すなわち、その過失は、業務を行うことと直接に関連したものでなければならない。業務者であつても、その業務の執行と直接関連のない過失によつて人を死に致したときは、業務上の過失致死とはいえない。例えば、タクシーの運転手が自宅から会社までバスに乗つて通勤の途中バスの運転手に話しかけ、その過失によつて人を死傷させたとしよう。その過失は業務上の過失とはいえない。通常の過失――場合によつては重大な過失――でしかない、と考えられる。本件において、被告人の過失が公務執行と直接の関連がないとするなら、同時に刑法二一一条の業務上過失でもないとするのが論理的である。一方を否定し他方を肯定することは事物の論理に反している。然るに原判決は「公務執行中でない本件の場合と雖も被告人が事実上歩哨勤務に就き銃及び実弾を操作すべきものとしてこれを携帯している限り、右法条にいわゆる業務に従事しているものに該当し、その業務上の注意義務に違背し本件事犯を惹起したものであるから、同条の業務上過失致死罪を構成すること明らかである。」といつているが、これは全くの詭弁である。ここに「事実上」とは公務執行と直接の関連がないことをいおうとするものであろう。そうなら、刑法二一一条の適用上も業務執行と直接関連がないということになり、「業務上」必要な注意を怠つたものではないということにならなければならない。もとより行政協定と刑法とは二つの異つた法規である。しかし事の道理は一つであるし、おなじ日本国の法規である(憲法九八条二項)表現の上からはむしろ行政協定の「公務執行中」という方が刑法の「業務上」というよりも広い概念ではないかとさえおもわれる。原判決が「公務執行中」を或る程度狭く直接関連性の概念で絞るのはよい。しかし、それなら「業務上」もそれとおなじに絞るのが当然である。業務者の過失行為であればすべて業務上の過失であるのではない。「業務上必要な注意を怠つた」ものでなければならない。その間にやはり直接関連性が必要なのである。(業務上過失致死も重過失致死も同一法条で罰せられる。しかしそうだからといつて、両者は全くその性質や条件を同じくするものではない。業務上過失致死で起訴された本件を重過失致死で処罰するには、訴因を変更した上でなければならないことを附言する。)要するに本件は、(1) 被告人の公務執行中の作為、不作為であり、それ故に業務上の過失致死であるとするか、それとも(2) 公務執行中の作為、不作為ではなく、従つて業務外の-重大な過失を含む-過失致死であるとするか、二者択一でなければならない。原判決が、公務執行中の作為、不作為ではないとしながら、業務上の過失致死としているのは、筋が通らない。まさに刑訴三七八条四号にいわゆる「理由にくいちがいがある」ものである。
(その他の控訴趣意は省略する。)
弁護人小野清一郎の補充控訴趣意
本件において、事実関係については全く問題がない。専ら法律の適用および刑の量定が問題となるのである。被告人の行為に刑法を適用するにあたり、手続上、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定」との関係が問題となるのであるが、特に行政協定一七条との関係を考えてみるのに、論理的に筋の通つた解決として二つの可能な道がある。その一、被告人の行為は行政協定一七条にいわゆる「公務執行中の作為又は不作為から生ずる罪」であるとする。その場合に被告人の行為を刑法二一一条前段の過失致死罪として処断することは自然であり、論理的に筋が通つているといえよう。その二、被告人の行為は行政協定一七条にいわゆる「公務執行中の作為又は不作為から生ずる罪」ではないとする。その場合には、被告人の行為は通常の過失致死をもつて論じなければならない。公務は業務の一種であり、公務執行中とは業務上ということにほかならないから。もちろん、この場合さらに重過失か軽過失かが問題となるであろう。然るに原判決は、被告人の過失行為は公務執行中の作為又は不作為から生じたものではないとしながら、しかも業務上過失致死罪をもつて処断している。そこに矛盾がある。筋が通らない。理由中においていろいろと陳弁しているけれども、それは恣意的に概念をこね上げて差別をしているだけで、実質的な根拠の乏しい概念分析であり、それ故何人をも納得させる力がないのである。当弁護人は、被告人の行為は公務執行中の作為又は不作為から生じたものではないという検察官の主張及び原判決の判断に同意する。(原審で弁護人はこの点を争おうとしたが、それは行政協定一七条に関する日米合同委員会の議定書が秘密にされており、原審判決に至るまで見ることができなかつたからである。)従つて被告人の行為は刑法上通常の過失をもつて論じなければならない。そしてそれが重過失であるか軽過失であるかについては、刑法学者の良心にかけて、重大な過失と断ぜざるを得ない。(弁護人としても道理をまげて被告人の利益だけを計るべきではないが)そこで、当弁護人は、原判決を破棄し、あらためて刑法二一一条後段を適用し、重過失致死罪として処断することを求めるものである。業務上過失致死罪と重過失致死罪とは、その法定刑を同じくするが、その罪名の差別は今後被告人の軍内部における処置および帰国後における社会的地位にも関係するのであるから、慎重な御考慮を煩わしたい。
(その他の補充趣意は省略する。)