東京高等裁判所 昭和34年(う)878号 判決
被告人 内田豊作
〔抄 録〕
仍つて本件記録を精査し、原判決を仔細に検討勘案するに、原判決は被告人に対する本件公訴事実すなわち「被告人は昭和三一年二月二八日頃、南安曇郡豊科町大字高家下中曽根三九五七番地の自宅表庭附近において内田栄三(当四四年)と口論の上この馬鹿小僧、おらの家へ何用があつて来たと云いながら鍬(万能)を振り上げて同人の身辺に迫り、同人の身体生命に危害を加えるべきことを以て脅迫したものである」との事実につき、被告人が昭和三一年二月二八日頃、被告人肩書自宅表庭先附近において、内田栄三と口論の際万能を振上げたことは一件記録に徴し明かであるとして、右事実を認め乍ら、被告人の右行為は刑法第二二二条所定の脅迫にはならないとし、その理由として、
一、被告人は昭和三〇年六月八日、内田ちよ所有の桑畑西側の土手において、草刈のことから被害者内田栄三と口論して栄三に突飛ばされたことがあり、栄三は此の事件にて暴行罪に問われ、昭和三三年七月一四日東京高等裁判所において、罰金千円但し一年間執行猶予の言渡しを受け、同判決はその頃確定したものであり、本件は、その第一審裁判の審理中に発生したもので、被告人と栄三とは右事件以来犬猿の間柄であつて、本件発生以前より双方昂奮しており被告人の家族が心配して栄三方に対し、被告人方に所用のときは代理を遣して貰うべく依頼したこともあること、
二、被告人は頑固一徹であるが、本件当時七〇歳の高令にして、相手方の栄三は穏健なる人柄なるも当時四四歳の血気旺んな元軍人で体格も優れた壮者であつて、前の暴行事件に徴しても被告人と栄三とは到底対等のいくさの出来る敵でないことは当事者双方共に充分自覚していたこと、
三、適々本件発生の昭和三一年二月二八日午後栄三が被告人方を訪れたので、被告人は固陋な老人の常として足腰は利かなくとも気だけは強く、前に暴行を受けた口惜しさから、偶々持つていた万能の柄の方を右胸に抱えて金具の方を肩のあたりまで持ち上げ、栄三は傘を持つて前記被告人方表庭先において二米五十糎程の間隔を保つて相対峙し、被告人は恰も蟷螂の斧に等しい態勢で栄三との間に愚劣な悪口を言い合い対等の口喧嘩をしたに過ぎないこと
四、被告人と栄三とは家並びで数十年来の隣友で互に性格、性癖を知り尽し、被告人は虚勢を張り大言壮語はするけれども、前叙の如く力の優劣はおのずから明かであり、また互に罵倒の文言及び相対峙の距離、状況等仔細に検討すれば、被告人の前示所為が栄三をして畏怖させる程度のものであつたと認むるに足る証明がないこと、等を説示して、結局本件公訴事実につき無罪の言渡しをしているのである。
按ずるに原判決が本件被告人の所為が脅迫にならないとして説示している前記一、二の事実は諸般の証拠により充分にこれを認めることができる。然し乍らこれらの事実は解しようによりては寧ろ被告人が栄三に対し平素から快からず思つていたため、脅迫に出でた動機とも認められるのであり、而もその動機に憫諒すべきものがあると云う域を出でないものであつて、決して脅迫を否定すべき資料とはなり得ないこと右説示自体に照らし明白である。
果して然らば三、四、の事実は如何と謂うに、原審第三回公判調書中原審証人内田栄三、同水谷さと江の各供述記載、原審証人内田栄三、同水谷さと江、同内田寿、同下田孝寿、同曽根原節子、同曽根原かよ子、同内田えん各尋問調書、原審各検証調書、検察官作成の検証調書、検察官に対する水谷さと江、内田栄三、曽根原喜代、曽根原節子曽根原かよ子、内田寿、下田孝寿の各供述調書を綜合すれば、本件の事実の真相は、「被害者栄三が被告人の婿内田勝人に部落の水道委員会の開催を通知するため被告人方を訪れ、被告人の妻えんとの間に用件を済まして、同人方玄関から県道へ通ずる庭道のほぼ中間辺まで立ち帰つたとき、その右側にある被告人方牛舎の入口の方から被告人が、馬鹿小僧何しに来た、と怒号しながら万能を手にして急ぎ迫り、近接して、その万能を両手で頭の上まで振上げたので、おどかしだとは思つたが、その顔色や態度から万一それで殴られれば命がないと考え、そのまま県道の方へ逃げ出したのを、被告人は、両手で万能を頭より高く振上げながら、真赤な顔をして、追つて県道まで出たが、折柄通行中の水谷さと江に目撃され、きまり悪くなつて追うのをやめ、万能を下げて家へ引返した」ことを認めることができるのであつて、これに反する被告人の原審公判廷における各供述、同人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、原審証人内田勝人、同内田えん、同内田勝子の各尋問調書の供述記載は容易に措信し難い。
ところで、原判決にも説示している如く、脅迫罪の成立に必要な脅迫は相手方を畏怖させる目的で、不法の害悪を加えることを通告することであり、その害悪は相手方を畏怖させる程度のものであれば、相手方を現実に畏怖させることを要しないものと解すべきを相当とするところ、本件における被告人の前示所為たるや、前掲各証拠によれば、優に栄三をして畏怖の念を生ぜしめたるものと認められるところであり(それは被告人が仮令非力にして老令であるにせよ憤激の情をむき出しにして真赤な顔をして万能を振り上げて迫つたのであるから)、仮に栄三をして畏怖の念を生ぜしめなかつたとしても、一般的に観察して、本件の如き所為あるにおいては相手方を畏怖させる程度のものであることは洵に明らかであつて、いずれよりするも被告人の本件所為たるや、脅迫罪の成立に必要な脅迫に該当するものと謂うべきである。此のことは弁護人答弁の総べてを参酌し、且つ当審における事実取調の結果に徴するも、いささかも左右されるものではなく、前記認定を覆すことはできない。
原判決は前示の如く脅迫が相手方を畏怖させる程度のものであれば、相手方を現実に畏怖させることを要しない旨判示しながら(それはそれで正当なのであるが)、本件被告人と被害者栄三との主観的事情を縷々説示して被告人の本件所為の程度では栄三をして畏怖させる程度のものでなかつた旨説示して無罪の言渡しをしたのは正に法の解釈を誤つて、事実を誤認した違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、此の点論旨はその理由があり、原判決は破棄を免れない。
(山本謹 渡辺好 目黒)