東京高等裁判所 昭和34年(行ナ)2号 判決
一、原告主張の「周波数変調狭帯域電信系用★波器」なる発明の特許出願からその拒絶査定に対する抗告審判につき原告主張の審決があり、その審決書の謄本が原告代理人に送達され、これに対する出訴期間が原告主張のとおり延長されたまでの経過および右審決の要旨が原告主張のとおりであることについては、当事者間に争がない。
そして、成立に争のない甲第四号証(本願最終の訂正明細書)によれば、本件特許出願にかゝる発明の要旨は、減衰曲線に垂下性のカテナリー状特性を有し、周波数推移に応じて減衰曲線の縁部に充分急峻な特性を有し、かつ通過帯域に於てはるかに直線的位相特性をもつことを特徴とする周波数変調狭帯域電信系用★波器にあることが明白である。
二、原告は、およそ★波器の設計に当つてその所望特性(減衰特性および位相特性)のみ決定されゝばこの特性を有する★波器を実現し得ることは当業者である★波器設計技術者の熟知しているところであるから、本願明細書ならびに図面に本願★波器の所望特性が詳述されている以上、本件審決がこれをもつて「当業者が容易に実施できる程度に記載されているとは認められないから、本願は発明未完成なものと認めざるを得ない。」としたことは、違法である、と主張する。
そもそも特許の明細書および図面は、特許権という排他的の権利を与えられることと引換に、その発明にかゝる新しい技術を一般公衆に公開する文書であつて、旧特許法施行規則第三八条第三項に、「発明ノ詳細ナル説明ニハ其ノ発明ノ属スル技術分野ニ於テ通常ノ技術的知識ヲ有スル者カ其ノ発明ヲ正確ニ理解シ且ツ容易ニ実施スルコトヲ得ヘキ程度ニ其ノ発明ノ構成、作用、効果及実施ノ態様ヲ記載シ併セテ特許請求ノ範囲ノ記載事項ノ意義ヲ明確ニスルヲ要ス」としたことも、前記の技術公開の趣旨において理解しなければならない。(もつとも、旧特許法施行規則の前記規定は、本件特許出願後である昭和三二年四月からこのように改正施行されたので、本件出願当時のその規定は、「発明ノ詳細ナル説明ニハ其ノ発明ノ構成、作用、効果及実施ノ態様ヲ記載スヘシ」とするにとゞまつたが、右改正は改正前の規定の意味を敷衍したものであつて、その趣旨は改正の前後を通じて異ならないものと考えるのが相当である。現行特許法では、特許法じたい、その第三六条第四項に「………発明の詳細な説明には、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度に、その発明の目的、構成及び効果を記載しなければならない。」と規定し、第四九条第三号において、右の要件をみたしていないことをもつて、特許出願を拒絶すべき独立の事由と定めたが,このことは一層前記の趣旨の徹底をはかつたものということができよう。)
ところで、前記甲第四号証の明細書によれば、本件発明は狭帯域系、例えば音声周波電信系における周波数変調電信符号の送受用★波器に関し、該★波器によつて受信周波数特性において定在波比小さく、かつ零線通過部分が十分急峻なるものを得、また阻止帯域の減衰量増加の勾配のきわめて急峻なものを得んとするものであるが、その目的は、電信系に限らず、同様な関係の生ずるあらゆる通信方式、例えば遠隔測定、遠隔制御等の方式においても応用できる★波器を提供することにあることが明らかであるから、前記旧特許法施行規則第三八条第三項の趣旨にかんがみ、本願については、ひとり★波器の設計に従事している者のみでなく、広くこれら遠隔測定、遠隔制御等に関係する一般電気通信の分野の通常の技術的知識を有する人々が、本願の明細書および図面を見て、容易に本願の意図する★波器を実施できる程度に記載してなければ、完全な発明の開示があつたものということはできないとするのが相当である。
しかるに、前記甲第四号証の本願明細書および図面には、前記認定の発明の要旨に規定された特性を有する★波器を具体的にいかなる回路によつて実現するかについての記載はどこにも見出すことができないから、そのことが特別の説明がなくても、前記の当業者に明らかであるというような特殊の事情のないかぎり、本願の明細書は実施の態様の記載を欠いているといわなくてはならず、明細書の記載要件を定めた旧特許法施行規則の前記規定に違反することはいうまでもないが、そのことはひいて完全な発明の開示がないもので、特許性に関するかぎり、その発明は完成しないものといつて差し支えないと解すべきである。
三、真正に成立したと認むべき甲第一号証の一、三、四(服部富美子作成の「ある周波数帯域の減衰特性を近似する方法」と題する書面およびその訂正書)の設計例は、成立に争のない甲第二号証の「ベル、システム、テクニカル、ジヤーナル」一九五二年七月号に掲載されているシドニー・ダーリングトンの「チエビツシエフの多項級数を使用する回路網の構成」と題する論文に依拠して、本願の意図する特性をそなえる電信用★波器を実現しようとするもので、それが所与の周波数、帯域幅および入出力インピーダンスを有し、通過帯域中の減衰特性がカテナリー特性を有するものゝ近似計算による計算の一例を示すものであることは、被告も争わないところであるが、仮にこれによつて設計された★波器が本願の要旨とするすべての特性をそなえているものであつたとしても、そのことによつては、単にこれらの特性を有する★波器を実現することが可能であるということを認め得るに止まり、たとえ本件発明が発明者の主観においては完成していたものであつても、本願明細書および図面の記載が、客観的に本願を完成された発明として明示しているということ、あるいはその記載が、本願発明の属する技術の分野において通常の知識を有する者が、これから容易に本願の★波器を実現できる程度のものである、ということを証明するには足りない。けだし、本願発明に関し前記のいわゆる当業者の範囲は、原告の主張するように★波器設計に従事している専門家のみを指すものではなく、広く遠隔測定、遠隔制御等に関係する一般電気通信の分野にも及ぶと解すべきであるから、単に★波器の設計に従事しているきわめて限られた技術者が、甲第一号証の一に示されているような複雑な計算作業を経たうえでなければ一の実施形も得られないというのでは、その明細書および図面は容易に実施できる程度に実施の態様を記載しているものということができず、独占利用権の付与に対して新技術を公開するという前記特許制度の趣旨にかんがみ、そのような発明は、これを完成した発明として、特許することはとうていできないものといわなくてはならない。
とくに、本件発明のように波形を問題とする★波器では、減衰特性とともに位相特性も問題となるが、この場合数学的に減衰特性だけでまず★波器を作り、次に所定の位相特性となるよう全域通過回路を附加すればよいが、これでは数学的には解決しても、実用的には好ましい方法ではないから、実際的にはある程度減衰特性を犠性にして、全域通過回路を附加することなく、あるいはその附加を最小限にとどめるように設計していること、そして、その具体的手段として、減衰特性と位相特性とを同時に近似する近似法もあるが、通常は減衰特性によつて回路を想定し、これから位相特性を計算して満足か否かを検査し、不満足の場合は減衰特性を許される範囲内で修正して、再び位相特性を計算し、この操作を満足のいくまでくりかえすのであるが、最初の両特性の指示いかんによつては、不成功に終る場合もあり得ること、したがつて★波器に関する発明においては、その減衰特性と位相特性とを単に指示するのみでは不十分であつて、その構成が実用的にも可能であることを何らかの形で示す必要があることは、成立に争のない乙第三号証の一(喜安善市作成の鑑定書)によつて、明らかである。本願明細書には本件発明のその意味での可能性を明らかにする記載もないから、本願発明はこの理由によつても、完成せる発明ということができない。
四、原告は、昭和三四年特許出願公告第五、三五一号特許公報の例を引いて、本願のような回路網については所望特性さえ与えられゝば、その設計は容易であることが承認されている、と主張するが、成立に争のない甲第三号証の右特許公報には、当該発明の特性を有する等化器の一実施例回路図が示されていて、その開示の程度において本件明細書と同一ではないのみならず、他発明の事例をもつて本件発明の特許性を律することは、もとより適切でないといわなくてはならない。
また、特許出願にかゝる発明が出願当時完成されたものであるか否かは、当時具体的に完成されていたかの事実によつて判定されるものではなく、出願当時の関連技術をもつて具体的に完成され得るかの客観的考察に基いて判定さるべきである、との原告の主張については、そのとおりであるが、明細書にその実施の態様を示す必要があるということはこれと別問題である。そして、当業者が容易に実施することができる程度に明細書に開示してあるのでなければ、特許の保護を受け得る発明として完成したものということはできないことは、前記のとおりである。
原告は、さらに、所望特性を有する回路網をどの程度の近似次数をもつて求めるべきか、また当初の特性の指示いかんによつては、その特性をもつ★波器の設計が不成功に終ることのあることは、いずれも設計上の問題であるに過ぎない、とも主張するが、当業者が容易に実施することができる程度に実施の態様を明細書に記載することを要するということは、その発明が特許を受け得るに十分な完成した発明であるために必要な条件であり、その限りにおいて単なる設計上の問題であるということはできない。
五、これを要するに、本願の明細書および図面に本願が実用的に可能であることを示す具体例が記載されていないことは、さきに認定したとおりであるから、他に、具体的の記載はなくとも明細書および図面の記載から本願の★波器がいわゆる当業者に容易に実現できるという証明がない以上は、本願の明細書および図面は、当業者が本願発明にかゝる★波器を容易に実施できる程度に記載してあるものということはできず、したがつて、このような明細書および図面をもつてしては、まだ本願を完成された発明と認めさせるに足りないという趣旨に出た本件抗告審判の審決は相当であつて、その取消を求める原告の請求は理由はないといわなくてはならない。