東京高等裁判所 昭和34年(行ナ)46号 判決 1964年2月25日
原告 味の素株式会社
被告 特許庁長官
主文
特許庁が昭和三三年抗告審判第三二四四号事件について、昭和三四年八月一一日にした審決を取り消す。
訴訟費用は、被告の負担とする。
事実
第一請求の趣旨
主文同旨の判決を求める。
第二請求の原因
一 (特許庁における審査および審判手続の経緯)
原告は、昭和三〇年八月二九日、特許庁に対し「アクリロニトリルを原料とするグルタミン酸の合成法」という名称の発明(以下本願発明という。)について特許出願し、昭和三三年一月二三日出願公告されたところ、同年三月一七日訴外大島英雄から同月二二日同田中達雄からそれぞれ特許異議の申立がされ、その結果、同年一一月二四日、右田中の特許異議申立は理由があるものとする旨の決定がされ、一方、右大島の特許異議申立については理由がないものとする旨の決定がされると同時に、右出願に対し拒絶査定がされた。そこで、原告は、この拒絶査定を不服とし、同年一二月三一日抗告審判の請求をし、昭和三三年抗告審判第三二四四号事件として審理されたが、昭和三四年八月一一日、右請求は成り立たない旨の審決(以下本件審決という。)がされ、同審決の謄本は、同月二七日原告に送達された。
二 (本件審決の理由の要旨)
本件審決は、本願発明の要旨を「アクリロニトリルを常法に従つてハイドロフオルミル化し、反応中間体たるアルデヒドを単離することなく反応液のままストレツカー反応にかけグルタミン酸を合成することを特徴とするアクリロニトリルを原料とするグルタミン酸の合成法」にあるとしたうえ、請求人(原告)は右要旨中「反応中間体たるアルデヒドを単離することなく反応液のままストレツカー反応にかける」ことに本願発明の最重要点があると主張しているが、この反応中間体たるアルデヒドすなわちβ―シアノプロピオンアルデヒドは反応性に富み単離が困難であることは、本出願前当業者に周知のことである。ところで、単離困難なものを単離しないでそのまま次工程の原料とすることは、当業者の容易に考えることであつて、きわめて常識的な操作方法である。そして、本願発明では、アクリロニトリルをハイドロフオルミル化して反応中間体を単離することなくアルデヒドをアミノ酸化するのに、従来公知のストレツカー反応を単にこれに施したに過ぎない。したがつて、本願発明の方法は、容易に推考できる程度のもので発明を構成しないというにある。
三 (本件審決を違法とする事由)
本件審決は、つぎの点において違法であり、取り消されるべきである。
1 (本願発明においてオキソ反応で得られる反応中間体アルデヒドを「反応液のまま」ストレツカー反応にかけることについて)
(一) 本願発明は、その明細書(甲第三号証第一頁右欄一三行目以下)に「オキソ反応後の反応液はコバルトカルボニルを含んでいるが、これをそのまま減圧蒸留して溶媒および未反応ニトリルを回収せんとするときは、生成物たるβ―シアノプロピオンアルデヒドが著しく変化してしまう故に、溶媒を含んだまま青酸およびアンモニア水と処理することによりアルデヒドの分解を来すことなく好収率でストレツカー反応によつて目的のグルタミン酸にまで誘導しうることを見出したものである。」と記載され、また、その特許請求の範囲の項に、特に「反応中間体たるアルデヒドを単離することなく反応液のままストレツカー反応にかけ」ると明記されているとおり、この点が本願発明の方法の最も特徴とするところである。原告は、特許庁における手続以来、この反応中間体たるアルデヒドを単離することなく反応液のままつぎの反応工程にかけることは、中間体が単離しがたい場合にとられる単なる常套手段にとどまるものでないことを、たびたび明らかにした。
(1) β―シアノプロピオンアルデヒドは、β―フオルミルプロピオネートに比し著しく不安定な化合物であり容易に単離しえない物質である。特に、この物質は、重合性の著しいシアノ基とアルデヒド基を併有し、中性特にアルカリ性においてはきわめて不安定であり、容易に樹脂化する性質をもつている。したがつて、このようなアルデヒドを強アルカリ性の青化ソーダと処理してストレツカー反応にかけ収率よくアミノ酸を合成しようと企てることは、一般化学常識からは無謀に近いことである。ところが、本願発明のような反応条件を採用すれば、予想に反して収率よくグルタミン酸が合成できるばかりでなく、中間体たるアルデヒドを単離せずストレツカー反応にかけた反応液からグルタミン酸の結晶が単離されるのであり、このことは、他のストレツカー反応の例からは容易に推考できない程度のことである。
(2) しかも、反応中間体たるアルデヒドを単離することなく反応液のままストレツカー反応にかけるとの点が、尋常の技術思想でなく、むしろ、このような場合、いつたんアルデヒドを単離して次工程の反応の原料とするのが普通の考え方であるというのは、ただ中間体がはなはだ反応し易いとか単離し難いとかいうことのためだけではなく、前工程の反応すなわちオキソ反応に必要であつたベンゾールその他の有機溶媒がはなはだ多量に存在しているからであり、さらに、次工程のストレツカー反応は、水溶液における反応であり、強アルカリ性物質を使用する苛酷な条件下の反応であるからである。
元来、ストレツカー反応は、青酸アルカリ(例えば、青酸ソーダ)およびハロゲン化アンモニウム(例えば、塩化アンモニウム)の水溶液中において、アルデヒドと反応させるのであつて、有機溶媒中において反応させる例はない。それは、有機溶媒には前記無機塩類が溶解しないからである。ところが、アクリロニトリルからグルタミン酸を合成するに必要な本願発明の第一工程すなわちオキソ反応においては、ベンゾールのごとき有機溶媒を使用するのであり、かつ、多量に使用しなければならないので、第一工程を終了したままの反応液には、多量の有機溶媒が含有されている。そして、この有機溶媒とつぎの第二工程に必要な無機塩類の水溶液とは、相いれない性質の液であるから、第一工程の反応液をそのまま第二工程に原料として使用するようなことは、尋常の考え方ではない。第一工程の反応生成物をいつたん分離し、第二工程の原料とするのが普通の考え方である。
さらに、本願発明におけるように、アクリロニトリルにオキソ反応を行いその反応液をそのままストレツカー反応にかける場合には、上述の有機溶媒と水溶液との異質の問題および有機溶媒の多量の問題等のほか、β―シアノプロピオンアルデヒドには多量の副生物が共存し、しかも、その大部分が樹脂様物質であり、あまつさえ、生成グルタミン酸は溶解度の大きいラセミ体グルタミン酸であるから、最終的にグルタミン酸を晶析、収得するには、よほどの困難を予想するのが普通の考え方である。ところが、本願発明においては、β―シアノプロピオンアルデヒドが多量の有機溶媒に含有されている反応液そのままのものに、青酸アルカリおよびアンモニウム塩の水溶液を混和し、やや過剰のアンモニア水も加え、振とうして反応させるのであつて、反応終結後、分層、蒸留等により水溶液だけを採り、グルタミン酸を晶出させうるのである。このような不均一相反応でストレツカー反応の完結することは、本願発明により創始実現されたものである。本願発明が非凡な新規の発明を構成するといわれるべきゆえんである。
(二) さらに、オキソ反応において使用される触媒コバルトカルボニルについてみるのに、この触媒コバルトカルボニルは、オキソ反応で生成したβ―シアノプロピオンアルデヒドを含有する反応液をそのままストレツカー反応に服させるとき、そのストレツカー反応の条件下で、おのずから直ちに分解されて、β―シアノプロピオンアルデヒドの分解触媒としての作用を喪失する工業的効果がある。さらに詳言すれば、β―シアノプロピオンアルデヒドは、きわめて不安定な物質であるが、不安定であるが故に、ただこれを分離しないというのではなく、生成したβ―シアノプロピオンアルデヒドの含有されたままのオキソ反応液をそのままストレツカー反応に服させることにより、触媒コバルトカルボニルがおのずから分解されて、その本来不安定なアルデヒドでもグルタミン酸の生成に役立つのであり、ここに、この事実を発見し、本願発明に利用されているのである。
(三) 本願発明の方法による効果は顕著である。すなわち、アクリロニトリルにオキソ反応を行つて得られる反応液からβ―シアノプロピオンアルデヒドをいつたん分離してストレツカー反応の原料としようとしても、ストレツカー反応以前に該化合物は変化してしまうので、ほとんどグルタミン酸の生成がみられなかつた(なお、甲第四号証の二の二参照)。これに対し、本願発明の方法によれば、グルタミン酸がきわめて高収率に得られ、しかも、操作が容易で、操作所要時間が短縮される。なお、グルタミン酸がただ生成することと、その結晶が反応液から経済的に単離されることとは、工業的には、同等のことではなく、後者すなわち反応液からグルタミン酸が経済的に単離されうるかどうかは、工業的には、それが生成するかどうかと同等に重大なことがらである。本願発明における右の点は、化学工業上著しい利点である。
従来、グルタミン酸ソーダを作るには、植物性たん白質の塩酸による加水分解生成物よりグルタミン酸を単離し、これを中和する方法によつた。右の目的のため、植物性たん白質として小麦を用いる場合は、製品の一〇倍に相当する小麦でん粉を副生する。たん白源として大豆を使用する場合には、製品の三〇倍にも相当するアミノ酸しよう油を副生する。これらの副生物の経済的処理は困難であり、現在では、この副生品の処理は頭打ちとなつている。そこで、このような副生品を生じないグルタミン酸ソーダの製造方法は、相当長い以前から熱望されていた。この要望に答えるため、でん粉を原料として発酵法によりグルタミン酸ソーダを作る方法が案出され、現在企業化されている。これは、副生品を作らない点では有利であるが、価格変動のはなはだしいでん粉を原料とする点で商業的不安がある。そこで、原料が工業的に大量、安価、しかも定常的に入手し得られる合成法が望まれていた。もし、本願発明のように原料が大量、安価かつ定常的に獲得され(アクリロニトリルは、化学繊維の原料として大量、安価に量産されつつある。)、製造方法も完全連続式で自動制御ができ、しかも、きわめて短時間(豆粕の場合は一か月余、本願発明の場合は一日間)で終結する方法が、水準技術家により特段の考慮を要しないで案出できるものであれば、本件発明者が昭和三〇年八月これを創始出願するまでの間に当事者においてこの方法を採択実施すべきはずであつた。ところが、それまでに国内はもちろん国外においても、これを想到実施したものがない。したがつて、本願発明の方法は、当業者の容易に推考実施しえないものといわざるをえない。本件審決が本願発明をもつて当業者において容易に実施しうるものであると判断しようとするものであれば、実際の実施事情等を参酌し、実施されていないときは、容易に実施しえない性質にもとづくかもしれないということについても十分審究する必要があるのに、ことここに出なかつたのは、違法のそしりを免れない。
2 (β―シアノプロピオンアルデヒドをストレツカー反応にかけることによりグルタミン酸を直接合成することについて)
本願発明においては、オキソ反応で得られるβ―シアノプロピオンアルデヒドを「単離することなく反応液のまま」つぎの反応にかけることを新規な特徴とするばかりでなく、「β―シアノプロピオンアルデヒドをストレツカー反応にかける」ことによりグルタミン酸を直接に合成する点をも新規な特徴とする。
β―シアノプロピオンアルデヒドは、今日まで、純物質として単離され固定されたことのないほどに、不安定な化合物である。このように不安定な物質を原料としてグルタミン酸を合成しえようとは、これまで何人も考え及ばなかつたのである。そこで、従来は、これをまずアセタール型として安定化しておき、ついで、シアノ基を加水分解して安定なカルボキシル基に変え、その後さらに、アセタールを鹸化(加水分解)してコハク酸半アルデヒドを作り、さらに対応するシアンヒドリンを経てα―シアン―α―アミノ酪酸とし、最後に、さらにまた鹸化(加水分解)してようやくグルタミン酸を得るのである(なお、甲第九、一〇号証参照。有機合成化学の大家でさえ、β―シアノプロピオンアルデヒドからグルタミン酸を直接に合成しうるとは考ええなかつた。)。有機合成においては、各工程ごとに中間体を単離し精製して次工程に移すのが常道であり、それは、その方が収率が低下せず最終製品の純度も向上するからである。それゆえ、本願発明以前においては、グルタミン酸の合成にあたり、β―シアノプロピオンアルデヒドをいつたん単離して次工程にかけていた。けれども、それ自体の形では単離し難いので、アセタール型として単離し、単離した後も、さらに、コハク酸半アルデヒドのような安定化合物に導いて回り道をして、ようやくグルタミン酸を製造しえた。ところが、本願発明において、はじめて、コハク酸半アルデヒドに導くというような回り道をすることなく、直接にグルタミン酸を合成しうるにいたつたのである。要するに、これまでにβ―シアノプロピオンアルデヒドをストレツカー反応にかけることを実施したものはなく、本願発明は、この点においても新規非凡な技術思想の創作というべきである。
なお、β―シアノプロピオンアルデヒドを単離することなく反応液のまま、ストレツカー反応にかけるという本願発明の特異な方法も、元来学理的には、α―シアノプロピオンアルデヒドとβ―シアノプロピオンアルデヒドとがともに生成するであろうと考えられるのに、実際には、意外にもβ―シアノプロピオンアルデヒドだけが生成し、α―シアノプロピオンアルデヒドが生成しないということを、本件発明者がはじめて究明したことに由来するものなのである。
しかも、本願発明におけるアクリロニトリルを原料としてグルタミン酸を合成すること自体も、すでに新規特異な技術思想なのである。
3 (被告の主張について)
(一) (1)被告のいわゆるホルムアルデヒドの三七パーセント水溶液(日本薬局方のホルマリンを指すものと解される。)は、局方註解によれば、その蟻酸共含許容量は一cc中〇・〇〇二三グラムの微量に過ぎない。これは、単なる純度の問題であり、ほとんど影響のない微量の不純物の問題である。(2)分留石炭酸の石炭酸樹脂製造における使用については、もともと、分留で得られる各留分には、それぞれ同基化合物のごとき類似の化合物が含有されるのであつて、石炭タール分留の石炭酸留分においても、狭義のフエノール(石炭酸)のほかに、少量のクレゾール等が共含されても、おおむね広義のフエノール類であり同様に縮合反応して樹脂を生ずるので、ことさらに石炭酸を精製する必要がない。石炭酸樹脂製造のような場合、原料を精製しないのが化学常識であるが、これに対し、本願発明の場合は、中間生成体をいつたん分離するのが化学常識である。彼此同視すべきではない。(3)また、アセチレンの事例は、「稀薄」とか「高濃度」とかの問題であり、本願発明の場合と同視されるべきではない。
また、オキソ法により生成したアルデヒドを水素添加してアルコールとし分留精製する事例については、アルコールにまで誘導すれば、分留法で精製しうることは自明であり、したがつて、中間体のアルデヒドを分離精製する必要がないのに対し、本願発明においては、右の最終製品に相当するアミノ酸は、アルコールと異なり蒸留等簡単な分離精製が不可能なものであり、晶析分離も、多量の副生物が夾雑しているので、至難な場合である。両者は対比しうべくもない。なお、被告は、オキソ法は生成アルデヒドそのままを取り出すことは一般にしないのが化学常識であるというが、そのような化学常識はない。
(二) 被告は、ストレツカー反応は元来アルデヒドの不安定性を利用した反応であるというけれども、正しくない。アルデヒドが青酸と容易に結合してシアンヒドリンを作る性質があるから、ストレツカー反応が起るのであつて、このストレツカー反応は、青酸に対する反応性を利用するのである。その不安定性は、アルデヒド基にあるよりも、むしろ、シアノ基に由来する。
よつて、請求の趣旨記載のとおりの判決を求める。
第三被告の答弁
一 「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求める。
二 請求原因第一、二項の事実は認める。同第三項の点は争う。
1(一) もともと、単離困難な物質をあえて単離せず副生物をも含有する粗製のまま原料として使用することは、普通の手段である(例えば、(1)ホルムアルデヒドは、各種化学工業の原料として多量に使用されるものであるが、単離して使用すること等は一般に行われず、ホルムアルデヒドをわずか三七パーセント含むに過ぎない水溶液として使用される。この水溶液中には、ホルムアルデヒドの生成の際に副生する蟻酸も存在している。これは、ホルムアルデヒドが反応性に富むためにほかならない。なお、右水溶液中の多量の水も、同水溶液を石炭酸合成樹脂に使用する場合に非常に不利である。(2)分留石炭酸と合成石炭酸は、ともにひろく工業原料として使用されているものである。そして、分留石炭酸は、不純物を合成石炭酸に比し多量含むけれども、やはりその用途があるため、あえて石炭酸を単離することなく不純物を含有するまま、縮合反応にかけて合成樹脂原料としている。これは、分留により単離できないからである。(3)さらに、アセチレンのように不安定のものは、たとえその濃度が薄くても単離する損失を避けて単離せずに使用している。)。また、本願発明で利用しているオキソ反応は、オレフイン系炭化水素を原料とし、その原料より炭素数の一個多いアルコールを作る方法として著名な方法であるが、このオキソ法においては、生成したアルデヒドをそのまま蒸留等によつて分離精製することなく、水素を添加してアルコールにして、その後に分留精製することは、一般常識になつている。そして、アルデヒドをβ―シアノプロピオンアルデヒドに置き換えれば、本願発明の方法は、従来公知の化学常識から容易に推考しうることが明らかである。
(二) そして、本願発明の方法のようにアクリロニトリルを処理すれば当然グルタミン酸が生成することは、化学的知識のあるものならば当然推察できることである。
(三) なお、原告は、「特に、この物質は、重合性の著しいシアノ基とアルデヒド基とを併有し、中性特にアルカリ性においてはきわめて不安定であり容易に樹脂化する性質をもつている。……………」と述べて、いかにもアルデヒド基を持つているものは、ストレツカー反応にかけることが不可能であるかのように主張するけれども、ストレツカー反応自体が、このような不安定な性質を有するアルデヒド基の不安定性を利用し、アルデヒド基を他の基に変化させることを目的とするのである(なお、シアノ基をもたないアルデヒドでも重合するから、アルデヒドの重合性はシアノ基によるということは、実際に合わない。)。したがつて、この点についての原告の主張は、ストレツカー反応それ自体を忘れたもので、一般化学常識からは理解し難い。
(四) 原告は、前工程の反応すなわちオキソ反応に必要であつたベンゾールその他の有機溶媒が反応中間体たるアルデヒドとともに多量に存在するのに、次工程のストレツカー反応は水溶液における反応であるところ、右の有機溶媒と水溶液とは相いれない性質の液である旨主張するけれども、それは、オキソ反応の常法を無視したものであると同時に本願発明の明細書(甲第三号証)における特許請求の範囲の項の記載から逸脱した主張である。ベンゾールを特に溶媒として使用する理由は、その発明の詳細なる説明の項にも記載されていないし、もともと、ハイドロフオルミル化反応(オキソ反応)は、溶媒を使用しない場合があり、また、溶媒を使用する場合でもベンゾール以外の溶媒を使用することが不可能ではないのである。したがつて、「反応中間体たるアルデヒドを単離することなく反応液のままストレツカー反応にかける」ということは、「ベンゾールの共存する溶液をストレツカー反応にかける」ことと必然的には同一ではない。
(五) 原告が請求原因第三項1(二)において主張するところは、争わないが、「触媒コバルトカルボニルがおのずから分解されて、その本来不安定なアルデヒドでもグルタミン酸の生成に役立つ」との事実を発見したとの点は、明細書をはじめ本件抗告審判請求書等においても何ら記載されていないことからして、後にいたつて考えついたものに過ぎないと思われる。
(六) また、原告は、グルタミン酸が生成するということとグルタミン酸を工業的に収率よく析出収取しうることとは別異であるというが、本願発明の明細書中には、グルタミン酸が生成するということについては相当な部分が費やされているのに、収率よく収取しうるとの点については、ほとんど記載されていないから、もし原告のいうとおりであるとすれば、その点からも、本件出願は、旧特許法(大正一〇年法律第九六号)第五七条第一項第三号により拒絶されるべきものである。
(七) なお、原告は、第一工程の終つた反応液からβ―シアノプロピオンアルデヒドをいつたん単離してこれを第二工程の原料とするのが普通の考え方であるというけれども、これは、β―シアノプロピオンアルデヒドが普通の安定度のものであるとすればいえることであるが、β―シアノプロピオンアルデヒドは非常に不安定であることが周知であり、かつ、オキソ法は生成アルデヒドそのままを取り出すことは一般にはしないのが化学常識であるから、化学常識のある者は、これを単離することは可及的に避けるか、次反応を考慮して安定化して分離するのが普通である。したがつて、原告の右主張は当を得ない。
以上のとおりであつて、オキソ法においては、一般に生成したアルデヒドは分留操作に付することなく、ただちに還元処理するのが普通であるばかりでなく、単離困難な物質はあえて単離せずそのまま次工程に利用することは普通であり、そのうえ、ストレツカー反応そのものはアルデヒド類の不安定性を利用して反応であるから、本願発明の方法は、化学的知識を有する者が当然容易に推考できる程度のものである。
2 原告は、また、β―シアノプロピオンアルデヒドにストレツカー反応を適用する点にも技術思想の創作が存すると主張するが、その原料とするβ―シアノプロピオンアルデヒドの性質が公知であり、目的グルタミン酸の性質も公知であり、そのうえ、ストレツカー反応もまたアルデヒドに対するアミノ酸製造の際適用すべき反応であることが公知である以上、右主張の失当であることは明らかである。
原告の本訴請求は、失当であり、棄却されるべきものである。
第四証拠<省略>
理由
一 特許庁における本件審査および審判手続の経緯、本件審決の理由の要旨についての請求原因第一、二項の事実は、すべて当事者間に争がない。
二1 ところで、本願発明の要旨は、成立について争のない甲第三号証(本願発明の特許出願公告を掲載した特許公報)によれば、「アクリロニトリルを常法に従つてハイドロフオルミル化し、反応中間体たるアルデヒドを単離することなく反応液のままストレツカー反応にかけ、グルタミン酸を合成することを特徴とするアクリロニトリルを原料とするグルタミン酸の合成法」にあることが認められる。
2 一方、本件審決は、前示のとおりの理由で本願発明の方法は容易に推考できる程度のものであり発明を構成しないとしたが、それは、本願発明の出願前国内に頒布されていたジヤーナル・オブ・ザ・アメリカン・ケミカル・ソサエテイ第七一巻第三〇五一、三〇五二頁(以下第一引用文献という。)および米国パテント・オフイス発行のオフイシヤル・ガゼツト第六三四巻第二号所載米国特許第二五〇六五七一号明細書抜粋(以下第二引用文献という。なお、この米国特許の抄録で本願発明の出願前国内に頒布されていたケミカル・アブストラクツ第四四巻第七三四四欄の部分も参照された。)を引用し、両者の記載から、本件審決と同様、本願発明を当業者において容易に想到しうる程度のものであり旧特許法第一条の発明を構成しないとした拒絶査定を正当として維持したものであることが、成立について争のない甲第四号証の五、同第五号証および同第七号証により明らかである。
3 成立について争のない甲第四号証の二の二によれば、第一引用文献(一九四九年九月号)は、「コバルトカルボニル触媒による不飽和化合物のハイドロフオルミル化」と題するホーマー・アドキンスおよびジヨージ・クルセクの報告論文であるが、そこには、「いくつかの液体を比較した後に反応媒体としてベンゼンが選ばれた。ハイドロフオルミル化反応は、ベンゼンとエタノールとの混合物中でよく進行するが、アルデヒドのアセタールが主生成物である。また、ある種のα、β―不飽和カルボニル化合物は、コバルトカルボニルの存在のもとで水素の作用によつてハイドロフオルミル化されずに還元された。アクリロニトリルは、水素および一酸化炭素の完全ハイドロフオルミル化に必要な量の五〇―七五パーセントを吸収した。所望の反応は、明らかに起つたようであるが、反応混液からは何らアルデヒドを単離しえなかつた。しかし、定性試験は、アルデヒドが存在していることを示した。いつたんできたアルデヒドは、さらに反応を受けたようであつた。」旨の記載があること、また、成立について争のない甲第四号証の二の三によれば、第二引用文献(一九五〇年五月九日付)には、コバルト水素化触媒の存在下でアクリロニトリルを炭素数一ないし四のアルコール、一酸化炭素および水素と反応させてアセタール類を製造する方法が記載されていることがそれぞれ認められる。なお、第二引用文献にかかる米国特許第二五〇六五七一号の方法は、アクリロニトリルCH2=CHCNの還元カルボニル化を飽和アルコールまたはグリコールの存在下で行うとβ―シアノプロピオンアルデヒドNCCH2CH2CHOのアセタールが得られることにかかるものであることが、弁論の全趣旨により明らかである(記録第二一三、二一四丁参照)。
三 本願発明の方法は、まず、アクリロニトリルを常法に従つてハイドロフオルミル化し反応中間体であるアルデヒド(β―シアノプロピオンアルデヒド)を得、ついで、(a)このβ―シアノプロピオンアルデヒドからグルタミン酸を合成するために、ストレツカー反応を使用するが、(b)その際、第一工程で得られたβ―シアノプロピオンアルデヒドを単離することなく、反応液のまま次工程すなわちストレツカー反応工程の原料として使用するものである。
1 この(a)の点については、ストレツカー反応自体が、アルデヒドまたはケトンに青酸とアンモニア(またはシアン化アルカリと塩化アンモニウム)を作用させてα―アミノニトリルを得、これを加水分解して原アルデヒドまたはケトンよりも炭素数の一個多いα―アミノ酸とする方法である(この合成反応が本願発明の出願前公知に属することについては、原告の明らかに争わないところである。)から、この反応を単一な化合物β―シアノプロピオンアルデヒド(単離精製されたもの)に適用すれば炭素数五のアミノ酸が得られるであろうことが予想され、この反応の模様を化学反応式を用いて記述してみるならば、前記アルデヒドのCHO基が変化を受けてγ―アミノーα・β―ジシアノープロパンを経てグルタミン酸が得られるであろうことは、当業者にとつてさほど推定困難なこととも考えられない。
ストレツカー合成
RCHO
HCN
RCH
/
\
NH2
―――→
CN
NH3
加水分解
RCH
/
\
NH2
―――→
COOH
NC・CH2・CH2・CHO
HCN
NC・CH2・CH2・CH
/
\
CN
―――→
NH3
NH2
加水分解
HOOC・CH2・CH2・CH
/
\
COOH
―――→
NH2
すなわち、単一な物質β―シアノプロピオンアルデヒドからグルタミン酸を誘導する方法いかんという課題自体の解明は、格別に発明力を要することとも考えられない(成立について争のない甲第九号証の冒頭参照)。ところが、本願発明においては、単離精製された形のβ―シアノプロピオンアルデヒドとストレツカー反応とが与えられるわけではなく、使用可能かどうか不明な第一工程を経たままの反応液という形でβ―シアノプロピオンアルデヒドが与えられているのである。そこで、つぎに、このような状態のβ―シアノプロピオンアルデヒドとストレツカー反応との結合すなわち(b)の点について考える。
2 (b)の点すなわちハイドロフオルミル化反応とストレツカー反応との両者を一貫連続工程とすることについては、被告は、単離困難なアルデヒド(β―シアノプロピオンアルデヒド)を単離せずそのまま次工程の反応にかけることはきわめて常識的な方法であり、これら二工程の結合が新規であるとしても、それは当業者が容易に推考できる程度のことであると主張する。
一般に、有機合成において、単一な化学反応だけで目的物質が得られる場合はその必要がないが、そうでない場合は、出発物質からある反応によつて第一の中間体を製造し、この中間体からさらに他のある反応によつて第二の中間体を製造するというように、順次いくつかの段階の化学反応を経て目的物質に到達することになる。ところが、有機化学反応は、それが単一の化学反応と考えられる場合でも、定量的に進行するとは限らず、最適の反応条件を与えても生成系には未反応物質や副反応生成物質を含むのが一般である。そして、未反応物質や副反応生成物質は、相応の反応条件さえ与えられれば、さらに第二次、第三次の副反応を起しうるものであるから、右の第一段階の反応生成物そのままに次段階の反応条件を与えるときは、前段階においては単に反応補助剤として使用したに過ぎない物質が次段階の反応に関与する等のことも起り得、第二の生成系には目的とする物質のほかに、残存未反応物質、第一次および第二次の副生成物を含有するものが得られ、反応の段階を重ねるほど生成物の組成は複雑となり、その本質を明らかにし難い物質さえも夾雑するようになつて目的物の収得がますます困難となるものである。その他、反応媒体、反応条件等の相違もあるので、数段階の反応工程を必要とする有機化合物の合成のためには、一見不必要と見える中間体の単離精製をも余儀なくされるのが普通である。つまり、有機合成においては、一般に、原料がなるべく純粋であること、ついで中間物の純度をよくし、しかも収率よく作ることが大切である。もつとも、各段階の反応の模様がよく究明されているものの中には、数段階の反応を連続操作して目的物質を得る例があるとしても、反応の本質が究明されていないものについては、連続操作をすることは思いもよらないことである。なお、所望されていながら、種々の障碍のために実現が困難でありまたは困難であると考えられていた有機合成において、数工程の連続操作が可能となれば、それだけ有用であることはいうまでもない。
そこで、本願発明について考える。
(一) 第一引用文献の記載においては、アクリロニトリルのハイドロフオルミル化によつてはβ―シアノプロピオンアルデヒドはその定性試験が可能な程度にしか生成せしめえず、その単離はほとんど不可能であることが了解される。そして、アルデヒドの定性試験はかなり微量でも鋭敏にあらわれるから、第一引用文献の前示記載からは、該アルデヒドの生成量はきわめて微量であると解されるところ、普通、一定量の原料物質から出発する有機合成においては、その合成の衝に当る者は、目的物質の生成量さえ明示されていず、成功の覚つかない第一引用文献の記載の方法の生成物をそのまま原料として採用することは成功可能性の乏しいこととして看過するであろうと考えられるし、さらに、右生成物からアルデヒドを単離した後、これを原料とすることさえも断念するであろうとするに少しの妨げもない。しかも、成立について争のない甲第一一号証および証人赤堀四郎の証言によれば、本願発明の出願当時、アクリロニトリルをハイドロフオルミル化する反応の内容がほとんど究明されてなく、その生成物は、β―シアノプロピオンアルデヒドのほかに、これに対応するα―シアノプロピオンアルデヒド、プロピオニトリル、樹脂状重合物質等多くの副反応生成物の夾雑が予想され、α―シアノプロピオンアルデヒドは生成されずβ―シアノプロピオンアルデヒドだけが生成されることは、容易に予想されることではなかつたことが認められ、ひいて、このような混合生成物を次段階のストレツカー反応にかけるときは夾雑物の種類、組成はますます複雑となつて目的物質であるグルタミン酸の取得はいよいよ困難となるであろうと予想するのが当然であつたこと、したがつて、そのようなことは断念してしまつたであろうことがうかがわれる。β―シアノプロピオンアルデヒドが単離困難な物質であることによつても、右は少しも異ならない。
(二) なお、第二引用文献にかかる記載においては、目的物が右のβ―シアノプロピオンアルデヒドでなく、そのアセタールであるために(ベンゼンアルコール混液を反応媒体として使用している。)反応が進行し該アルデヒドのアセタールが容易に得られたことだけが了解できる。ところで、アセタール類は、これに対応するアルデヒドよりも安定であるので、合成上アルデヒド基を保護するためにアセタール化することが、しばしば用いられるところであるから、第二引用文献のとおりアセタールの合成がきわめて円滑に行われたとしても、対応するアルデヒドすなわちβ―シアノプロピオンアルデヒドの合成ないし単離操作がきわめて困難であつたことは、これを知るに難くないところであり、第二引用文献にかかる記載が第一引用文献についてした右判断を動かすに足りるものでないことは明らかである。
右のとおりである以上(b)の点について、これを被告の主張のように常識的な方法ないし当業者の容易に推考しうる程度のことであるとすることは、本件にあらわれた資料によつては、相当でないといわざるをえない。本件においては以上の判断をくつがえすに足りる証拠は見当らず、しかも、本願発明と対比しうべき、アクリロニトリルからのグルタミン酸の合成(成立について争のない甲第一一号証中のガレー、アルバートソンらの方法が本願発明の方法と反応の本質を異にするものであることは、同号証および証人赤堀四郎の証言に徴し明らかである。)またはβ―シアノプロピオンアルデヒドからのコハク酸半アルデヒドまたは2―シアノエチール―5―ヒダントインを経ないグルタミン酸の直接合成については、示唆を与えるものもない。そして、(b)の点が本願発明における重要な構成必須要件に属することは、前掲甲第三号証ことにその特許請求の範囲の項の記載に徴して明らかである。
四 以上のとおりであるから、本件審決がもつぱら、反応中間体であるアルデヒドすなわちβ―シアノプロピオンアルデヒドが反応性に富み単離困難であることは周知のことであるところ、単離困難なものを単離せずそのまま次工程の原料とすることは当業者の容易に考えることであつてきわめて常識的な操作方法であるから、本願発明においては、アクリロニトリルをハイドロフオルミル化して反応中間体を単離することなくアルデヒドをアミノ酸とするのに従来公知のストレツカー反応を単に施したに過ぎないものであるとして、前示(b)の点について右と異なる判断をし、本願発明をもつて本件に適用のある旧特許法第一条の発明を構成しないものとしたのは、本願発明についてその余の点に及び判断をするまでもなく、判断を誤つたものといわなければならない。したがつて、本件審決は、審理不尽、理由不備の違法あるものであり、その取消を求める原告の本訴請求は正当であるから、これを認容すべきものとし、なお、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条を適用し、よつて、主文のとおり判決する。
(裁判官 千種達夫 入山実 荒木秀一)