東京高等裁判所 昭和34年(行ナ)52号 判決 1963年2月26日
判 決
原告
日高醇
右訴訟代理人弁理士
亀甲源蔵
同
斎藤二郎
被告特許庁長官
今井善衛
右指定代理人通商産業技官
中本宏
右当事者間の昭和三四年(行ナ)第五二号特許願拒絶査定不服抗告審判審決取消請求事件について、当裁判所は、昭和三八年二月一二日に終結した口頭弁論にもとづき、つぎのとおり判決する。
主文
特許庁が昭和三二年抗告審判第二四三八号事件について昭和三四年八月二六日にした審決を取り消す。
訴訟費用は、被告の負担とする。
事実
第一 請求の趣旨
主文同旨の判決を求める。
第二 請求の原因
一、原告は、昭和三〇年一一月五日特許庁に対し、その発明にかかる「ストレプトマイシン溶液の安定法」について特許出願し、昭和三二年一〇月三〇日拒絶査定がなされたので、これを不服とし、同年一一月二九日同査定について抗告審判を請求し、昭和三二年抗告審判第二四三八号事件として審理されたところ、昭和三四年八月二六日右抗告審判の請求は成り立たない旨の審決がなされ、同審決の謄本は、同年九月一五日原告に送達された。
二、原告の出願にかかる本件発明(以下本願発明という)の特許請求の範囲は、「ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液にCaCl2,NH4Cl,MgCl2,NaCl等のごとき塩酸の塩類またはこれらの硫酸の塩類を添加し、ついで溶液を酸性にしてストレプトマイシンの溶液の効力を安定にする方法」というのである。
三、本件審決の理由の要旨は、つぎのとおりである。審決は、本願発明の要旨を前項記載の特許請求の範囲のとおり認定したうえ、「昭和二七年三月株式会社南山堂発行『薬局』第三巻第三号第七頁には、ストレプトマイシン塩について、中性〜微酸性の液は一〇〇度に熱しても変化しないし、また最も安定なpHは五・八といわれること(以下甲事実という)が記載されておりまたストレプトマイシンの溶液を調製する場合、その媒体として塩化ナトリウム等を含有する水溶液を使用すること(以下乙事実という)が本出願前周知の事実である」とし、ついで、本願発明をこれら既知の事実と対比して、前者のストレプトマイシンの水溶液に塩化ナトリウム等の塩類を添加することと乙事実とは、ストレプトマイシンに水と塩類とを別個に添加する(前者)か、同時に添加する(後者)かの相違だけであつて、調製された塩類を含有するストレプトマイシンの水溶液自体としては、両者同一である。そして……本願方法は注射用以外のストレプトマイシン水溶液の安定化に限定されるものではなく、また、前記のようにストレプトマイシン水溶液自体として同一である以上は、前記の相違は、単に既知のストレプトマイシン水溶液における塩類の作用について新しい見解を示したにとどまるものである。また、前記の塩類を含有するストレプトマイシン水溶液を更に安定にしようと試みることは当業者の常識であつて、しかもその安定化の手段として甲事実に則してこの水溶液を酸性にすることは当業者に格別の発明力を要するものではない。したがつて、本願方法は前記引用既知事実より当業者が容易に推考し得る程度であつて特許法(大正一〇年法律第九六号)第一条の発明を構成しない」としている。
四、けれども、本件審決は、つぎの理由により不当であり取り消さるべきである。
(一)(1) 本願発明は、ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液に塩類を添加して安定水溶液を作ることにあり、これは、ストレプトマイシンが製造される過程において、水溶液の状態で放出され不純物の多いむしろストレプトマイシンの残滓に近い状態のものを安定させるために塩類を添加しているのである。したがつて、審決が、注射の場合にストレプトマイシン粉末の単なる溶媒として使用される生理食塩水をもつて、本願発明における安定剤に相当するものとしているのは誤りである。
本願発明の特許請求の範囲における「ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液」との記載は、その明細書の全文からみて「ストレプトマイシンの製造過程から生ずるストレプトマイシン塩酸塩または硫酸塩含有溶液」を意味し、ストレプトマイシンの結晶を水またはその他の溶剤で溶解したものではない。すなわち、本件の場合、右特許請求の範囲の記載自体によつては、そのうち「ストレプトマイシンの水溶液」の均等物として掲げられた「その他の溶液」が何を意味するか必ずしも明らかでなく、ことに、発明の名称「ストレプトマイシン溶液の安定法」および明細書(甲第一号証)中実施例について「ストレプトマイシン溶液の安定化の方法としてはストレプトマイシン塩酸塩溶液に対しては」との記載は、請求の範囲の記載と必ずしも一致していない。右にいう「ストレプトマイシン塩酸塩溶液」とは、当業者間では通常ストレプトマイシン製造過程から生ずるもの、すなわち、菌体をろ過したろ液を吸着剤に吸着させこれを塩酸で洗浄して得られるストレプトマイシンの塩酸塩溶液をいい、まだアミノ酸等の培地成分を含有している不純なストレプトマイシン含有液を指す。このような場合、右「ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液」については、明細書全体から解釈すべきものである。なるほど、「ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液」は、誤解を招きやすい表現ではあるが、発明者たる原告としては、その「ストレプトマイシンの水溶液」とは前述の製造過程から生ずる不純なストレプトマイシン塩酸塩溶液を精製して純粋の状態にしたもので乾燥前のものを指し、「その他の溶液」とは前記不純物たるアミノ酸のごときものを含有するストレプトマイシン塩酸塩溶液を指す趣旨であつたのであつて、このことは、右明細書の発明の詳細なる説明の項に、本願発明は従来のストレプトマイシンの製法においてはどうしてもいつたん経費のかかる乾燥工程を経て結晶状態の製品としなければならなかつたのを、いかにして結晶状態の粉末製品とせずに製造過程からただちに安定な溶液状態の製品を得るかという点をねらつたものであるとの記載がされていることからもうかがえるから、被告が主張するように本願発明をもつていつたん結晶状態にした粉末ストレプトマイシンを再び溶解して水溶液としその安定化を図つたものと解するのは不当である。
(2) 審決は、本願発明の「ストレプトマイシン水溶液」が水と塩類とを別個に添加したものであるのに対し引用の乙事実はこれを同時に添加した点で両者は異なるだけでストレプトマイシンの塩類含有水溶液自体としては同一であるとするが、これは、右(1)で述べたところから明らかなとおり、本願発明における出発原料たる「ストレプトマイシンの水溶液」自体についてすでに誤解しているものであるから失当である。
(二) 審決が「本願方法は注射用以外のストレプトマイシン水溶液の安定化に限定されるものでないから、乙事実のものと同一である」旨判断したのは誤りである。
審決の乙事実において、ストレプトマイシンの溶剤に媒体として塩化ナトリウム等を含有する水溶液を常用するというのは、人体および動物体内に注射するにあたり、その直前にこれを混和使用し注入すべき粉末を溶解するためのものであり、生理食塩水の場合はいくらか注射による痛みを防ぐことを目的とするものであつてストレプトマイシンの安定化ということを目的とせず、かつその安定化は問題にならない。これに反し、本願発明においては、塩化ナトリウム等の塩類を添加して、液体のまま、ストレプトマイシンの分解を防ぎ長期に亘りその溶液の効力を保持させようとするものである。本願発明の方法によれば、すでに三年を経過してその間貯蔵されたものでも、ストレプトマイシンの含有量は変化を示さず、その力価は落ちていないことが実験上明らかにされ、画期的に大きな安定効力を発揮しているのである。このように、両者の目的作用効果はまつたく異なるから、両者を同一のものとした審決は、誤つている(甲第八号証参照)。
なお、ストレプトマイシンの場合、溶媒は生理食塩水に限らず、蒸溜水も用いられるのであり、また、その注射液は、調製後ただちに使用することが望ましく、一週間以内が安定とされ(甲第六号証)、そのために、わざわざ設備や経費等を必要とするやつかいな乾燥工程を挿入して水分を取り除き粉末状態として市販されており、しかも、それらは、その都度注射液に調製するよう一グラム容器が用いられているのであつて、被告の掲げたような多量の注射液調製の極端な例は問題にならないし、安定とは無関係である。
もつとも、本願発明の明細書中とは「注射の際も溶液であればそのまま使用し得るので簡便である」との記載があるが、これは、本願発明についての説明の緒論として、現在のようにストレプトマイシンを多額の経費をかけていつたん粉末化せずに製造過程からただちに液体状態の製品が得られるならば、注射薬としても便利であろうとの趣旨に出たものであり、真のねらいは農薬にあつたのである。このことは、右記載につづいて「特にストレプトマイシンを農薬として使用する場合は、使用量がきわめて大であるから安価なことが重要であり、また液剤の方が体積で計量し得るから農家にとつても取扱が容易である」とし、その他の記載も植物に対する農薬としての説明だけであることからも知られる。もし、本願発明が人体に対する注射薬(医薬)をも考えていたものとすれば、農薬と医薬とでは、薬剤としての範ちゆうが異なるから、注射薬とするにはいかにするかを実施例により明らかにしていなければならないはずであるのに、この点については何ら触れられていない。また、本願発明において、添加すべき塩類は、食塩の均等物としてカルシウム、アンモニウム、マグネシウムの塩酸塩または硫酸塩を挙げており、人体に有害で注射薬としては考えられないアンモニウム塩等を使用する例などからしても、これが注射薬を対象とした発明であるとはとうてい考えられない。したがつて、本願発明の特許請求の範囲の記載は、それだけでは注射薬を含むかに解されるおそれがないわけではないとしても、明細書全体の記載からすれば農薬に関するものであることが知られるから、そのように解すべきものである。
(三) また、審決は「前記の塩類を含有するストレプトマイシン水溶液を更に安定にしようと試みることは当業者の常識であつて、……その安定化の手段として甲事実に則してこの水溶液を酸性にすることは当業者に格別の発明力を要するものではない」とするが、これも誤りである。
すなわち、今日まで本願発明のような方法でストレプトマイシンの安定化を試みた事例は他に認められない。これまで、ストレプトマイシンは、農薬としても、すべて乾燥し粉末とされたものが市販されているが、本願発明のように乾燥工程を用いず当初から液体のかたちで販売すればきわめて安価で少くとも乾燥し粉末とするよりも五分の一以下の低価となりしかも卓効がありかつ安定で、実用価値はすこぶる大きいのである。このように明らかに多大の効果があるにもかかわらず、今日まで液体の形態のものが現われていないのは、液体における有効確実な安定法がいまだ知られていなかつたことの証左である。
また、審決掲記の甲事実はストレプトマイシン塩の一般的性質を述べたものに過ぎず、具体的なストレプトマイシン水溶液例えば被告のいう注射液の場合を例にとつてみても、粉末ストレプトマイシを蒸溜水または生理食塩水中に溶解しただけで、何らpHの調節を行おうとするものではない。それは、ストレプトマイシンの効力を失わない間になるべく速かに使用するためのもので、永く保存するため安定化をはかろうとする考えを示していない。ところが、本願発明は、農薬として農家の使用状況からみて二年ないし三年の貯蔵に耐えるようなストレプトマイシンの安定化をはかる目的でされたものであるから、特に塩酸塩または硫酸塩を添加した後、酸を加えて酸性に調節するのである。本願発明は、ストレプトマイシン水溶液等を酸性にしただけでは安定性が悪いので、安定の目的で使用されたことのない塩酸の塩類等を添加し、もつて、水溶液その他の溶液状態で保存に堪えさせることに初めて成功したのである。したがつて、本願発明においては、ストレプトマイシン液剤農薬の長期保存という観点から、塩類添加後酸性に保つことが不可欠とされている。右のとおりであるから、本願発明をもつて、発明力を要しない程度のものとしえないことは明らかである。
よつて、請求の趣旨のとおりの判決を求める。
第三 被告の答弁
一、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする」
との判決を求める。
二、請求原因第一ないし第三の事実は認める。同第四項の点は争う。
(一)(ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液について)
本願発明における「ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液」とは、ストレプトマイシンの製造過程から生ずるストレプトマイシン塩酸塩または硫酸塩含有溶液だけでなく、常識上、ストレプトマイシンを水または他の溶剤で溶解したものをも指すと解するのが相当であり、明細書中の「注射の際も溶液であればそのまま使用し得るので簡便である」との記載および明細書においてストレプトマイシンとストレプトマイシン塩酸塩または硫酸塩という両者の表現が用いられていることに徴しても、右のとおり理解されるのである。そして明細書中には原告主張のような不純物の多いむしろストレプトマイシンの残滓に近い状態のものを使用するとは、何ら記載されていない。原告主張のような点に新規な発明が存するというのであれば、発明の要旨を変更したものについての主張といわなければならない。なお、ストレプトマイシン塩酸塩は、常に原告のいうようなストレプトマイシンの製造過程における不純なストレプトマイシン含有液を指すものではない。
(二)(「ストレプトマイシンの水溶液」とストレプトマイシンを生理食塩水に溶解した水溶液との差異について)
審決の説示するとおり、「塩類を含有するストレプトマイシンの水溶液」自体としては、本願発明と引用乙事実との間には、その成分に差異がなく、本願発明の方法においてはその成分の割合に限定がないから、同一の溶液とみてさしつかえなく、また、本願発明の要旨からみて、本願発明の方法は、注射用以外のストレプトマイシン水溶液の安定化に限定されるものでもない(原告は、本願発明の拒絶理由の引例が注射薬に関するものであるのに、審査等の過程においても、特許請求の範囲から注射薬に関する部分を削除する等により、その部分について発明を主張しない旨の意思を示そうともしていない)。したがつて、たとえば、午前中多量に注射用のストレプトマイシンの塩類含有水溶液を調製し午後これを使用する場合においては、これは、その操作方法において本願発明と同一であるとしても注射による病みを防ぎ注射を容易にする目的に出たものであるから安定化を目的とする本願発明の方法とは別個であると主張できるかもしれないけれども、右の注射液が残り翌日効力試験にこれを使用したとすれば、この場合には、当然ストレプトマイシンの安定性が考慮にいれられるわけであるから、本願発明の方法と同一であるとせざるをえないであろう。この矛盾は、現象が同一であつても、その作用効果が異なれば別個の発明思想を構成するものであるとの考え方を前提としていることの誤りに由来するものであり、原告の主張もこの誤りをおかしている。
したがつて、発明の客体が同一である以上は、たとえ塩類の安定化作用がそれまでに認識されていなかつたとしても、その作用の認識は、新しい見解を示したにとどまり、新規な発明とはいえない。いいかえれば、ストレプトマイシンの水溶液に塩化ナトリウム等の塩類を添加したものとストレプトマイシンを生理食塩水で溶解したものとは、実質的に同一であり、この同一の現象において、原告は、塩類の安定化作用を新たに認識したに過ぎない。
(三)(塩類含有ストレプトマイシン溶液の酸添加による安定化について)
本願発明の方法は農業用に限定されるという根拠がなく、特許請求の範囲が広はんに過ぎるならば、審査審判の過程で出願人である原告において訂正すべきであるが、仮に、農業用ストレプトマイシンの場合をしばらくおきストレプトマイシン溶液の安定化という面からみれば、工業化の際の製品の安定化は当業者の当然考慮することであり、特に注射用の場合には一層の安定化をはかろうとすることは常識に属する、すなわち、注射液の製造においてその効力の減退を防ぐこと換言すれば主剤を安定化することは重要なことであり、このために、審決の甲事実に示されたようなpHに関してのストレプトマイシンの安定性についての検討が加えられているのである。したがつて、塩化ナトリウム等を含有するストレプトマイシンの注射液を調製した場合においても、その安定性について考慮が払われ、その際安定化に関する既知の因子としてまずpHを考慮にいれることは、当業者の常識ということができる。つまり、右の甲事実は、ストレプトマイシン塩の水溶液を安定化するには、そのpHを五・八に調節すればよいことを教示するものと考えてさしつかえないところ、ストレプトマイシンは塩基性物質であるから、その酸塩はほぼ中性であり、したがつてpHを五・八に保つには当然酸を添加すべきであることは化学常識に属する。本願発明は、既知の手段を適用したものに過ぎない。
本件審決には違法の点がなく、原告の本訴請求は、失当として棄却されるべきである。
第四 証拠≪省略≫
理由
一、特許庁における本件審査および審判手続の経緯、本願発明の特許請求の範囲の記載、本件審決の理由の要旨についての請求原因第一ないし第三項の事実は、すべて当事者間に争がなく、審決に掲げられた甲および乙事実が本願発明の出願前公知に属することについては、原告の明らかに争わないところである。
二、ところで、本願発明の右特許請求の範囲の記載中「ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液」について、原告は、そのうち「ストレプトマイシンの水溶液」とはストレプトマイシンの製造過程から生ずる不純なストレプトマイシン塩酸塩溶液等を精製して純粋な状態にしたもので乾燥前のものを指し、ストレプトマイシンの「その他の溶液」とは右製造過程から生ずる不純物たるアミノ酸等を含有するストレプトマイシン塩酸塩等を指すとし、結局、「ストレプトマイシンの製造過程から生ずるストレプトマイシン塩酸塩または硫酸塩含有溶液」を意味すると主張するのに対し、被告はそのほか乾燥工程を経たストレプトマイシンを水またはその他の溶剤で溶解したものをも指称すると主張する。
なるほど、本願発明の特許請求の範囲の項ことに「ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液」の記載だけからみれば、この記載は、その意味が必ずしも明確でなく、乾燥工程を経たストレプトマイシンを水その他の溶剤で溶解したものを含むものと解される余地がないでもないようであるが、成立について争のない甲第一号証(本願発明の明細書)中発明の詳細なる説明の項の記載によれば、本願発明は、もともと、「ストレプトマイシン溶液は不安定で効力を減少するため、乾燥し粉末として市販されている。その製造過程は乾燥および粉末のびん詰までの無菌操作が、水溶液の場合に比し、多くの過程と多額の経費を要している」ところから、乾燥工程を経ない「水溶液またはその他の溶液のまま長時間安定して貯蔵しておくことができるなれば、乾燥に要する過程およびこれに必要な経費が不要となり、……特にストレプトマイシンを農薬として使用する場合は、使用量がきわめて大であるから安価なことが重要であり、また、液剤の方が体積で計量し得るから農家にとつて取扱が容易である」ことに着目し、もつぱら右の乾燥工程をはぶくことを主眼とし、ストレプトマイシンの製造過程において生ずるストレプトマイシンの溶液をそのまま安定なものとし保存して必要に応じ使用しうるものとしようとするものであることが認められる。しかも右明細書中には、いつたん乾燥工程を経たストレプトマイシンを水その他の溶剤で溶解し溶液として調製したものを安定化しようとする趣旨を明らかにする記載は存しない。被告の指摘する本願発明の詳細なる説明の項中「注射の際も溶液であればそのまま使用し得るので簡便である。」との記載も、その前後の記載からして、製造過程から生じた乾燥工程を経ないままの純粋なストレプトマイシン溶液が安定なものとして保存できれば、注射の際もこれをそのまま使用し得るので簡便であるとの趣旨に解することができるから、右判断の妨げとならない。また、被告は、明細書にストレプトマイシンとストレプトマイシン塩酸塩または硫酸塩という両者の表現が用いられているとし、被告の右主張のよりどころとしようとするが、右明細書は、終始、ストレプトマイシン溶液、ストレプトマイシン塩酸塩溶液または硫酸塩溶液を対象として記述し、乾燥工程を経たものを考慮にいれていることがうかがえないから、これも右判断の妨げとならない。
したがつて、本願発明の特許請求の範囲の項に用いられている「ストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液」との記載は、いく分不明確であり、より明確にすることが望ましいことはいうまでもないが、その趣旨が右のとおりのものとして発明の詳細なる説明の項において明らかにされているから、本願発明の要旨は、結局、「ストレプトマイシンの製造過程において生じ乾燥工程を経ないままのストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液にCaCl2,NH4Cl,MgCl2,NaCl等のごとき塩酸の塩類またはこれらの硫酸の塩類を添加し、ついで溶液を酸性にして、ストレプトマイシンの溶液の効力を安定にする方法」にあるものと解するのが相当である。
そして、(証拠―省略)と弁論の全趣旨とによれば、本願発明の方法においては、右ストレプトマイシンの溶液は、従来の事例に比し、著しく長期の保存に堪えるにいたるものであり、その効果が顕著であることがうかがわれる。
三、本件審決は、その理由掲記の前示公知にかかる甲事実および乙事実を引用して、本願発明はこの両公知事実から容易に推考しうる程度のものであり発明というに値しないとする。ところで、本願発明の要旨は右のとおりであるから、本願発明は、右両公知事実をそのまま内容とするものではなく、ひいて、これが特許されることがあるとしても発明の効力がこの公知事実に及ぶ結果を生ずべきものでないことはいうまでもないし、一方、本願発明が(一)ストレプトマイシンの製造過程において生じ乾燥工程を経ないままのストレプトマイシンの水溶液またはその他の溶液を対象とし、(二)これにCaCl2,NH4Cl,MgCl2NaCl2等のような塩酸の塩類またはこれらの硫酸の塩類を添加し、(三)ついで、溶液を酸性にして右ストレプトマイシンの溶液の効力を安定にする方法である以上、本願発明出願前、(1)ストレプトマイシンがpH五・八において安定であること(甲事実)および(2)ストレプトマイシンの溶液を調製する場合その媒体として塩化ナトリウム等を含有する水溶液を使用すること(乙事実)が、各別に、公知であり、さらに、(3)本願発明と乙事実とはその出発原料において相異なることは前示判断に徴し明らかなところではあるが、いま仮に、被告の主張するようにこの乙事実からひいて「塩類を含有するストレプトマイシンの水溶液」としては出発原料の成分上本願発明と乙事実との間に差異がないとしても、本願発明は、これら(1)ないし(3)を結合して、ストレプトマイシンの溶液をして前示のとおり従来の事例に比し著しく長期の保存に堪えるにいたらせる顕著な効果を収めるにいたつているのであり、しかも、このように顕著な効果のある方法が本願発明の出願前他で提案ないし実施されたことをうかがうに足りる資料が少しもないから、これらの事実に徴し、本願発明をもつて審決引用の告知事実から当業者において容易に推考しうる程度のものとたやすくいうことができないといわなければならない。
四、右のとおりであるから、本願発明をもつて右甲および乙両事実から当業者において容易に推考しうる程度のものであるとし新規な発明を構成しないとする本件審決は、審理を尽さず理由不備のそしりを免れず、したがつて、違法として取り消されるべきものであり、原告の本訴請求は、理由があるから、これを認容し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条を適用し、よつて、主文のとおり判決する。
東京高等裁判所第六民事部
裁判長判事 関 根 小 郷
判事 入 山 実
判事 荒 木 秀 一