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東京高等裁判所 昭和35年(ツ)9号 判決 1962年5月31日

上告人(第九号事件上告人・第一〇号事件被上告人) 伊藤敏夫

被上告人(第九号事件被上告人・第一〇号事件上告人) 小池正治

主文

原判決を破毀する。

本件を静岡地方裁判所に差戻す。

理由

原審参加人訴訟代理人は(ツ)第九号事件につき、「原判決を破毀する」(ツ)第一〇号事件につき「第一審原告の上告を棄却する」との判決を求め、第一審原告訴訟代理人は(ツ)第一〇号事件につき「原判決を破毀し、さらに相当の判決」を、(ツ)第九号事件につき「原審参加人の上告を棄却する」との判決を求め、各訴訟代理人はその上告の理由として、末尾添付各上告理由書記載のとおり主張した。

原審は、原判決添付第一目録記載の各土地と同第二目録記載の各土地との経界を確定するにあたつて、係争土地の西側、すなわち原判決添付図面表示の(Y)(イ)(ロ)(X)を結ぶ線はその挙示する証人の証言により、その南側及び北側の各線、すなわち、(B)(Y)((A)(A′)(B)を結ぶ線は当事者間に争がない)を結ぶ線及び(X)(T)(5′)(5)を結ぶ線は、前記各土地の台帳面積と実測面積との差異をその比率によつて按分する方法により確定したものであることは原判決の判文上明かである。

原審は、本件土地の公図は当初葵町八一番(当時上島五、一一〇番の三の三)と同町七三番(当時上島五、一一〇番の三の五)とが地続きとなつており、右七三番と葵町七四番(当時上島五、一一〇番の四の一)との経界は同町七二番(当時上島五、一一〇番の三の一)山林西辺を北に延長した線であつたところその後において所有者の申請によることなく、右七二番山林の北辺を西に延長した線と訂正移動されて、七四番の土地が直接西方官有地に接するようになつたこと及び本件各土地の中央部西端の場所は大正初年頃第一審原告の先代小池庄太郎が原審参加人の先々々代伊藤常七郎に貸与したもので、当時右部分は山林であつたところ常七郎においてこれを開こんしたものであるとの事実を認定している。そうであるところ、原審参加人は原審において、参加人の所有地は当初から葵町七四番畑八畝八歩の部分において西方官有地に接していたもので、常七郎が原審参加人の所有地内の原野を順次開こんし、最後に明治三十七年中西端の官有地に接する部分七四番の土地の開こんを終つたものである、と主張していることも原判決の記載に徴して明かである。そして、原審参加人がその証拠として提出した甲第六号証(帝室林野局の御料地境界簿)には明治四十二年当時上記七四番(当時上島五、一一〇番の四〇一)の土地の現況は畑で、その西側において官有地と接続している旨の記載があり、隣地の地主として、伊藤常太郎及び小池庄太郎がそれぞれ署名押印していることが認められる。右書証の成立については当事者間に争がないばかりではなく、その記載内容と所論第一審証人高塚舜作の証言とを合せ考えると、上記七四番の土地は明治四十二年当時すでに開こんされてその現況は畑であり、その西側において官有地と接続していることが一応肯定され、前示訂正後の本件土地の公図とも一致するのである。そうであるから、原審が右のような甲第六号証の記載に反して事実を認定するについてはこれに対して特段の理由を示さなければならないにかゝわらず原審はなんら首肯するに足りる理由を示すことなく、たゞまんぜんとこれを信用し難いとして排斥している。本件は経界確定の訴であるから、職権によつて経界を定め得るものであるが、証拠によつてその経界を定める以上、通常の民事訴訟と同様に証拠を適法に取捨し、論理と経験則によつて合理的な認定をなさなければならないところ、原審が本件係争の土地の西側の経界線が(Y)(イ)(ロ)(X)を結ぶ線であると判断したのは証拠の取捨について合理的な判断をすることなく、引いてはその推理判断を誤つているから、結局において理由にそごがあり且つ理由不備の違法があるものといわなければならない。

次に、原審は第一審原告所有の原判決添付第一目録記載の各土地並びに葵町七〇番及び八二番の土地台帳の面積が合計一四八六、二五坪、原審参加人所有の同第二目録記載の土地の同面積が合計一、一五二、〇七坪であるのに実測面積は合計三、〇六〇坪を算することが差戻前の原審鑑定人藤田健一の鑑定の結果によつて明かであるから、第一審原告及び原審参加人の各土地の経界も右実測面積を台帳面積に応じ大体比率をなすよう画されていたものと考えるのが至当である。これを実地についてみれば、原判決添付別表(A)(B)(Y)(イ)(ロ)(X)(T)(5)の各点を結ぶ線によつて画される隣地両地がほぼ台帳面積の割合と近い比率を示すことが前記鑑定人藤田健一の鑑定の結果に徴し肯定できると判断している。本件のように、係争地の経界線が証拠によつて必ずしも明確でなく、係争地の実測面積と公簿上の面積とが一致しないような場合には、係争地の双方の実測面積と、公簿上の面積との比率に応じて按分する方法によつて経界線を定めることはもとより正当である。しかしながら、上記原審が採用した差戻前の原審鑑定人藤田健一の鑑定の結果は後に右鑑定の結果中実測面積約三、〇六六坪一勺とあるのは合計三、〇七一坪五合の誤りであることが判明し、これを右のように訂正していることは、原審被控訴人が引用している同鑑定人提出の鑑定書附属書(差戻前の原審記録第一七一丁)によつて明かである。そうだとすれば、原審が認定した実測面積と右訂正された実測面積との間には五坪四合九勺の相違があり、その結論に影響を及ぼすことが明かであるから、上記訂正前の鑑定の結果を採用してなした原審の認定には理由不備の違法があるものといわなければならない。

上段判示の各違法は原判決に影響を及ぼすことが明かであるから、原判決はすでに右の諸点において破毀を免れない。

なお、上告人双方とも主張しないが、職権調査事項である本件の当事者適格の問題に関係するので次の点を附言する。

経界確定の訴は相隣接する土地の地番と地番の経界が不明な場合に右地番と地番の接する土地の各所有者或は地上権者等が当事者としての適格を有するものであるし、地番と地番とを相接していない所有者相互間では、この訴の適格を有しないものといわなければならない。本件において、原審参加人は本件各土地の経界線が第一審原告の主張する線であるとしても、原審参加人がその経界線として主張する線内の土地、すなわち係争部分の土地の一部は、原審参加人の先々代伊藤常七郎が取得時効によつてその所有権を取得したものであると主張しているが原審は本訴では経界確定の訴であるから、このような主張は許されないとして、その内容についてなにも判断していないことは、原判決の記載によつて明かである。しかしながら、もし原審参加人の右主張が認められた場合には、原審参加人の土地所有権の範囲は地番の経界線を越えて本件係争部分にまで及ぶことになるのであるが、これによつて本件各土地の従来の地番と地番の経界が移動することはないのであるから、その地番と地番との経界線は原審参加人の所有土地内に存在する結果となる。従つて、その部分に関する限りでは第一審原告は隣地の所有者ではないことになるから、その所有土地の範囲の確認を求めるのならばかく別として、その部分の境界の確定を求める訴の当事者としての適格を有しないこととなる。そうであるから原審は本件訴の当事者適格の有無を確定するためには、上記原審参加人の時効による所有権取得の主張についても判断しなければならないものと解するを相当とする。それと同時に本件では数筆の土地の経界の確認を求めているのであるから、争のある部分に関するかぎりでは経界を接する各地番を明確にしなければならないものと考える。

よつて、その余の論旨につき判断するまでもなく本件上告は理由があるから、民事訴訟法第四百七条により原判決を破毀し本件を原審に差戻すこととして、主文のとおり判決する。

(裁判官 村松俊夫 伊藤顕信 杉山孝)

上告理由書(原審参加人のもの)

第一点

原判決は虚無の証拠に基いて事実を認定したる違法がある。

原判決は理由の二の(一)において、差戻前の原審における昭和一五年一一月七日および同一六年五月三日の各検証の結果並に第一審における証人岡田文導、笹田義雄、齊藤貞治の各証言を証拠として採用し、理由の二の(二)において、第一審並びに差戻前の原審における証人小池庄太郎、第一審における証人小池才平差戻前の原審における証人小池博(第一回)の各証言、差戻前の原審における昭和一五年一一月八日の検証の結果を証拠として採用し、夫々事実を認定した。

然しながら本件訴訟記録中前掲の各検証調書並に証人調書はもとより存在しない。各該当の検証調書、証人調書と題する書面は存在するが、これ等は何れもその作成者の署名押印は勿論契印もなく、それが写しとしての作成者の記名押印並に契印もない。

即ち写しとしてもその写の正確性につきて何等の保証がない書面である。現に昭和一五年一一月七日の「検証調書」と題する書面(第一分冊二二三丁以下)の記載内容によれば「其他右公図ノ五千百十番附近ノ形態ハ本調書末尾添付ノ図面ノ如シ」とあるにも拘らず、同調書末尾に図面の添付がない。又同書面の記載内容第三項(第一分冊二二四丁)には「右公図ノ五千百十番ノ四ノ一附近ノ線ハ殆ント全部カ定規ヲ使用シカラスロヲ以テ引キタルモノ、如クナルモ只五千百十番ノ四ノ一ト五千百十番ノ三ノ二トノ間ノ一個所は定規ヲ使用セス単ニ筆ヲ以テ仕切リタリト覚シキ書振リニテ区切ラレ居ルヲ認メタリ」との記載があるが、五一一〇番の四の一(現在七四番)と五一一〇番の三の二(現在八三番)とは境を接していないことは明かであるから右の記載はその意味を為さないことになり、その不正確性を暴露している。

斯の如く原審判決が書面の作成につき責任の所在の不明なる従つてその正確性の保証なき書面に基き、自から関与せざる検証の結果並に自ら取調べざる証人の証言として採つて以て事実認定の資料としたのは結局虚無の証拠に基き事実を認定した違法がある。

第二点

原判決は理由の二の(一)につき理由不備か又は経験上の法則に反して事実を認定した違法がある。

本件において主な争点は、上告人所有の浜松市葵町七四番(元浜名郡曳馬町上島五一一〇番の四の一)畑八畝八歩の土地が西側において旧官有地(御料地)に接していた(上告人の主張)か、将又該土地と官有地との間に被上告人所有の浜松市葵町七三番(元浜名郡曳馬町上島五一一〇番の三の五)畑二畝一九歩の土地が介在していた(被上告人主張)かということであつて公図に則つて図示すれば大体の形は別紙第一図の通りである。

而して甲第四号証の二(役場備付公図)は右第一図の(イ)(ホ)を結ぶ線が貼紙で抹消されており、甲第四号証の一(税務署備付公図)は(イ)(ホ)を結ぶ線が点線となつており、静岡地方法務局浜松支局備付の公図(原審昭和二八年十月一七日午前一一時検証調書参照)には(イ)(ホ)を結ぶ線はなく、又以上三つの公図共に(イ)(ロ)を結ぶ線は明確に存在する。即ち各公図の現況からすれば上告人主張の通りで七四番(元五一一〇番の四の一)の土地と官有地との間に七三番(元五一一〇番の三の五)の土地が介在する余地はない。

そこで被上告人は右(イ)(ホ)を結ぶ線は不正に抹消せられ(イ)(ロ)を結ぶ線が不正に記入されたと主張する。若しその通りならば公図が不正に改竄されたことになり、改竄前の公図が被上告人の主張と一致することになる。

従つて公図が不正に改竄されたか否かということが先づ判定されなければならない。

ところで原判決は理由の二の(一)において、甲第四号証の一、二(公図)差戻前の原審における昭和一五年一一月七日および同一六年五月三日の各検証の結果並に第一審における証人岡田文導、笹田義雄、齊藤貞治の各証言を綜合し右公図は「所有者の申請によることなく」訂正された旨の認定をした。

そこで第一に、所有者の申請によらざる公図の訂正が何故に直ちに「不正なる改竄」となるのか原判決の説明では不明である。

第二に原判決が挙げた右証拠中唯一つ岡田文導の証言は、甲第四号証の二(役場備付公図)について別紙第一図の(イ)(ホ)を結ぶ点線の上に貼紙をして抹消しその代りに(ハ)(ニ)を結ぶ線を引いて訂正した旨述べているが、その他には公図の訂正につき具体的に触れた証拠は全く存在しない。而して岡田証人による右公図訂正の根拠は、第一回の開墾の時間違つて引かられた線を二度目の開墾届の時発見したので税務署の許可を得て(ハ)(ニ)を結ぶ線に引直したというのである。即ち役場の間違であつたので役場で訂正したものであるというのである。されば原判決の挙げる証拠で公図が不正に改竄されたと認め得る資料は一つもない。

第三に保管場所を異にする三つの公図が揃つて不正に改竄されるということは稀有の出来事である。公図はその図面自体としては現況において一応高度の信憑力を有する。

若しその現況が不正な改竄の結果を現わすものであるとするにはその不正改竄について何人も首肯出来るだけの説明なり証拠がなければならない。本件において不正改竄の説明も証拠も全く存しない。原判決は唯「所有者の申請によることなく」と云う言葉を使用するに過ぎないのである。

而も此の場合所有者とは何人を指すのか。若し被上告人若くはその先代を指すものとすれば原判決は証拠によらずして結論を先に出していることになるわけである。

右の通り原判決には理由不備か又は経験上の法則に反して事実を認定した違法がある。

第三点

原判決はその理由二の(二)において、書証の明白なる記載を排斥するに当り何等その首肯すべき理由を示さない違法がある。

本件係争の主なる土地即ち別紙第一図の(イ)(ホ)を結ぶ線より以西の旧官有地に達する部分(以下論地といふ)は上告人がその先々代伊藤常七郎以来畑として耕作し占有して今日に至るところであり(イ)(ホ)を結ぶ線乃至その附近に地勢上の境界と目すべきものはない。そこで被上告人は論地が自己の所有に属する旨を主張するために、論地の占有が上告人にある理由として、「大正五年頃被上告人の先代小池庄太郎が上告人の先々代伊藤常七郎の申出により当時山林であつた論地を同人が開墾するということで貸与した」ものであると主張する。

これに対し上告人は借受けの事実を否認し而もその理由として(1)当時伊藤常七郎は薪炭商として多忙を極め自宅の農事には雇人をして漸く補つていた情況であるから他人の山林を開墾してまで農地を増す必要はなかつた。(2)伊藤常七郎が論地を開墾したのは明治三七年中であつて、唯開墾成功届のみ遅れて昭和二年に為された(此のような事は世間にありがちのことである)が、少くとも明治四二年中に帝室林野局が御料地境界簿を作成した時本件論地が御料地(官有地)に接して居り而も現況畑となつていたのであるから、大正五年に論地が山林であつた筈はない。と主張する。

そこで原判決は理由の二の(二)において、乙第三ないし第六号証の各記載、第一審における証人伊藤常七郎、高林半次郎、河合新五郎、荒川佐吉、高塚舜作、差戻前の原審における証人袴田良平の各証言はいづれも信用し難いとして、論地を大正五年頃(但し判決には大正初年頃とある)貸与したという被上告人の主張を認めた。

然しながら帝室林野局保管の御料地境界簿である乙第六号証の記載によれば明治四二年一一月四日当時五一一〇番の四の一(現七四番)の土地が御料地(官有地)に接しているのみならず、公簿上の地目は山林であつても現況が畑となつていた事は明白である。此の事は、帝室林野局技手であつた証人高塚舜作の証言により更に明白となる。即ち乙第六号証の記載に徴すれば大正五年には論地は既に開墾され畑となつていたものであつて、山林である筈はなく、従つて開墾の為めに伊藤常七郎が借受る筈もない事は誠に明白である。この明白なる書証(公文書たる乙第六号証)の記載を排斥するには排斥するだけの首肯するに足る理由が示されなければならない。(書証の記載そのものに反する判断をするにはその理由を説示しなければならない事は大審院以来多数の判例の存するところである)。

尚ほ乙第四号証は成立につき争のない被上告人先代小池庄太郎作成の明治四〇年一二月二〇日附浜松税務署長宛の土地分筆届であり、此の添付図面によれば論地が五一一〇番の四ノ一(現在七四番)に属することが明白であり、乙第五号証は成立につき争のない被上告人先代小池庄太郎作成の明治四三年二月一二日附浜松税務署長宛の開墾成功届であり此の添付図面の据置地(五一一〇番の三の五、即ち現在七三番)の地形が上告人主張の通り

図<省略>

であつて、被上告人の主張する

図<省略>

でない事が明白である。

それにも不拘らずかゝる明白なる書証の記載につき何等首肯すべき理由を示さずして唯「信用し難い」とて排斥した原判決は理由不備の違法がある。

第四点

原判決は理由の二の(四)において理由不備の違法がある。

原判決は、理由の二の(四)において別表(A′)(B)(Y)(イ)(ロ)(X)(T)(5′)各点を結ぶ線によつて劃される隣接両地がほぼ台帳面積の割合と近い比率を示すことが鑑定人藤田健一の鑑定の結果に徴し肯定できると説示している。而して別紙とは判決添付の「地点表」を指すことは明かである。然しながら右「地点表」の記載によれば(A)(A′)間、(A′)(B)間、(従つて(A′)(Y)間)、(ロ)(X)間、(X)(T)間と(5)(5′)間(従つて(X)(5′)間、(A′)(5′)間)の各数値が不明である。

原判決が援用する藤田健一の鑑定書からは右数値は出でない同鑑定書添付の図面上の測定によるとしても(A)(A′)間並(5)(5′)間の数値は絶対に算出することができない。

従つて原判決はその確定した境界により上告人所有地と被上告人所有地の各実測坪数を如何にし算出して比較したのであるか全く不明である。

或は言はん、原判決添付の図面により図面測定をすれば可なりと。若しそうであるならば該図面が正確な縮尺図面であることを前提としなければならない。原判決添付図面が果して正確なる縮尺図面であるか?然らず。試みに側溝を見るに図面によれば(若し縮尺三百分の一とすれば)一間巾とならなければならない(現地側溝は約二尺巾である)。

かゝる不正確な図面による図面測定の不可なるはいうまでもないところである。

原判決は図面測定にしろ、果してその確定せる境界線に基き上告人、被上告人所有の各地積を算出して、比較したかどうか疑わしい。蓋し原判決は両者の「実測面積は合計約三、〇六〇坪を算することが差戻前の当審(即ち原審)における鑑定人藤田健一の鑑定の結果によつて明かである」と説示しているが、同鑑定人は第一の鑑定において合計坪数を三、〇六六坪〇一としたが誤差を発見して第二の鑑定において三、〇七一坪五〇と訂正しているのみならず、此の計算は側溝以東の道路敷の坪数を包含するものである。之に対し原判決に従えば該道路敷の部分を控除しなければ筋が通らない。従つて原判決が基本とした実測面積合計三、〇六〇坪はその計数上甚しく不正確なものとなることは原判決添付の図面と藤田鑑定(第一、第二)の結果を比較すれば明白である。

若し夫れ実測地積を土地台帳地積に按分したる境界線を求めんとするならば、此の点につき正確なる測定をした差戻前の第一審鑑定人藤田健一の第二回目の鑑定の結果(地積説明図No.1及びNo.2の何れか)を援用するのが尤も正確妥当であるべきものである。

然るに原判決がその確定せる境界線によれば上告人、被上告人双方の所有地がほゞ台帳面積の割合に近い比率を示すと説示しているのは全くその根拠を欠くものであつて、原判決の説示は恣意に出るものでなければ理由不備と云わざるを得ない。

<添付図面省略>

上告理由書(第一審原告のもの)

第一点原審判決は本件土地の境界を定めるに当つて上告人所有の土地と被上告人所有の土地に付、公簿面の面積と実測上の面積とを比較して其の線を定めたものであつて、之は経験法則に反し違法である。

一、浜松市葵町七〇番地より八三番地の土地は明治七、八年頃迄は一筆の土地であつたのを被上告人の先々々代伊藤治平と上告人の先々代小池多之吉が合意の上で分割したのであつて、伊藤治平が比較的地の利を得た姫街道寄の中央の土地を取り、小池多之吉が伊藤治平の土地を抱きかゝえるように南北と西側の土地を一筆の土地として取つたものであることは原審判決も之を認めた処である。

明治七、八年頃廃藩置県によつて従来の藩主が東京に移り其の藩士が四散した後え伊藤治平と小池多之吉とが入植者として移住して来た者であつて、本件の繋争土地の近辺の土地の開発には涙ぐましい努力と協力とが行われたことは想像するに難くない処である。伊藤治平は自分の長女を小池多之吉に嫁がせ、自分の家は次女に養子を取つて継がせているのであつて家の観念の強固であつた当時としては異例のことであつて、此の一事より見ても伊藤家と小池家とが如何に協力していたかを知ることが出来る処である。

従つて舅である伊藤治平が自分の家に近い比較的使いよい土地を取つたのに対して多之吉は多少難いのを我慢して本件土地の形状のように取つたのも当時両家が円満であつたからである。

従つて、当時山林であつた一筆の土地を総坪幾があるかを計るときは正確な測量によつたものでなく、吾々が通常山林の坪数計算で経験する如く目分量で大体に算出されたものであろうことは想像に難くない処である。之を更に分割する場合には、計つて取る方は多少原始的な方法であつても或る程度測量して差引くのが普通である。治平と多之吉の場合に於ても既に出来ていた両家の家屋の中間の一点A点から南え間口十五間、更に奥行七十五間として計り北側の線が多少長いから南側で加減すると云うような概算的な計算で既存の部分から治平の分が引抜かれたものである。それ故に治平の取つた処は宅地や耕地になつていた処であつたので原始的な測量方法に依つたとしても比較的正確であつて山林の儘で残された多之吉の部分は治平の土地と比較してより多くの所謂繩延びがあつたとしても更に不思議がない処であつて、此の見方こそ山林測定の場合の実験法則に合致するものと信ずる次第である。従つて原審判決が其の後に出来た公簿面の面積と現在の実測面積を比較衝量して坪数を割出し其れによつて境界を定めようとするが如きは土地の沿革を無視且実状の洞察を欠いたものであつて条理に反すると同時に経験法則に反するものである。

此の点から見て原審判決の境界の確認方法は根本的に誤つていると云うべく此の実験法則の違反は延いて重大なる事実の誤認を為すに至つたものである。即ち以下其の事実誤認の点を指摘する次第である。

二、本件土地の北側の境界線の認定に付て

本件土地の北側境界線の内A点B点に付ては当事者間に争がない処である。尚右北側境界線の附近にある椋の木及び西側の官有地の近くにある栗の木が上告人の所有であることは争のない処である。即ち椋の木に付ては被上告人も之を認め北側境界線は椋の木の南側を通つていることを認めて居る処であり、栗の木に付ては上告人が少年時代より其の実を上告人家に於て採取して何等異議の無かつた処である。然るに原審判決の如くABYの線を境界線なりとすれば最初より争いなかりし右椋の木及び栗の木共に被上告人所有の土地の中に入つてしまうのであつて実に不条理極りないものである。

尚Y点の認定に付ても非常に不自然なるものがあるのである。即ち、Y点は被上告人の主張するAB(1)の線上に存在する点である。処が今や原審判決は上告人の主張を認めて(1)点の存在を否認した。此の(1)点の否認の件に付ては上告人が三十年間に近い年月を血みどろになつて其の一生の大半を此の訴訟の為めに磨り減して争つて来たものであつて、此の(1)点などあろう筈がないのである。此の上告人の主張を容れて(1)点の存在を否認した原審判決は誠に賢明であつたことを認むるに吝かではないが、此の仮想点を基本とした線上にY点を認めた原審判決は点晴の点に於て欠けたりと言うべきである。

又Y点は被上告人主張に於ても転々と動いて居つて一定しない処である。即ち昭和九年十月二十日附被告(被上告人)提出の第一準備書面添付の図面によれば五一一〇番ノ一二(葵町八〇番)の土地は西端に接し(1)点は完全に右葵町八〇番との境界線と西端の論地以外の土地との交点となつているのである。又更に乙第六号証によれば五一一〇番ノ四ノ二ノ一が右葵町八〇番の土地となるのであつて、被上告人のY点の主張は常に動揺して信用することを得ないものである。原審判決は此の動揺常なき信用すべからざる点を信じて判決の資料としたものであつて不当である。

三、本件土地の南側の境界線の認定に付て

原審判決は(5)(X)を結んだ線を南側の境界線と認定したが、之は公図、現地の実状を無視した実験法則に違背しているものである。

(一) 両当事者の土地の間口の比較に付て

公図を拡大して求積した藤田健一鑑定人作成にかゝる乙号図より本件土地の間口の尺度を比較して見ると、上告人所有の北側の土地(八三番地)七、四間、南側の土地の内七〇番地三、七間、七一番地七、八間、南側合計一一、五間であり、被上告人の土地七七番地八、六間、七八番地が六、二間となり、被上告人所有土地の間口は合計一四、八間となる。処が昭和十年七月六日附の鑑定人中条正雄が浜松区裁判所に提出した鑑定書添付の公図写によれば、上告人所有の北側土地の間口七、五五間、南側の土地の間口一一、九八間、被上告人の所有土地の間口が一五、三八間となつて居り、其の何れによるも被上告人の土地の間口は十五間前後のものである。尚之を藤田鑑定人作成の丁図の実測図に基き上告人の主張部分の間口を計れば、被上告人所有土地の間口十五、八七間となつて居つて公図の尺度より多少多くなつている処である。

之は、小池多之吉と伊藤治平とが明治七、八年頃本件土地を分割するに際して双方の家の中間A点から間口を計つて十五間としたものであることは想像することが出来る。実測や公図の面で多少の違いのあるのは測量方法に多少の誤差があるのであつて仕方のない処である。

更に公図上の測定尺度と実測上の尺度との誤差率(繩延び)に付て見れば

公図面     実測上告人主張部分  実測被上告人主張部分

(一) 北側の土地    七、四〇間  八、一五間  八、一五間

(二) 南側の土地   一一、五〇間 一三、六〇間 一二、四四間

(三) 被上告人の土地 一四、八〇間 一五、八七間 一七、〇三間

となり、其の誤差率は上告人主張の方が遙かに公平である。即ち宅地の繩延びは山林の繩延びより遙かに少ないことは社会一般の通念である。従つて右表中(一)、(三)の土地は何れも宅地であつて繩延びの少ないのが当然である。(一)の表に於て、〇、七五間、(三)の土地に於て一、〇七間の繩延びがある。(二)の土地は公図作成当時は山林であつて二、一〇間の繩延びは決して不自然ではない。若し被上告人主張の如くなりとすれば、宅地である被上告人の繩延が二、二三間となり、山林である上告人の土地の繩延が僅かに〇、九〇間となり経験法則上から見て全く異例の事であり斯く認定することは条理に反するものである。殊に前述の如く当事者間に争のないA点より間口何間と計つて分割した場合には繩延びと言うことは殆どあり得ざることであつて被上告人所有土地の間口に繩延びを期待すること自体が誤りである。従つて公図より一定率の繩延を期待して全体の面積から比較して平等の誤差率を割り出そうとした原審判決は実験法則に違反し且(5)点を認めたことは違法と言はざるを得ない。

(二) 原審判決の認定した(5)(X)線を認めるときは、上告人が今日迄使用していた農道及び上告人が栽培している茶樹の例迄が被上告人の所有地内に入り、条理に反する。

(1) 今日迄当事者間に何等争いなき農道が被上告人所有土地上にあることとなり不条理である。

公図上(藤田鑑定人作成乙号図参照)七一番地の帯状に西に突出した部分が上告人の先代が残した農道である。之は巾三、一五間、長さ三十間に及んでいるが実際に於ては七五番地と七三番地の方から侵触されて現在一間位が農道として残存している処である。若し原審判決認定の如き境界線ありとすれば右農道は被上告人の所有土地上に存在することとなり、今日何等争いなき実状が変更されることゝなり不条理である。

(2) 上告人が今日迄何等の争いなく採取して来た茶樹が被上告人の所有土地上にあることゝなる。

本件土地の南境界線近く姫街道と御料地との中間に一列の茶樹老木があり、其の茶樹を上告人家に於て採摘し来つた事に付ては、昭和十五年十一月八日附の検証調書及調書添付の図面に於ても明かであるにも拘らず原審判決の認定したる境界線を取るときは右茶樹は被上告人の所有土地上に植樹していることゝなる。

被上告人の先代及び先々代は共に非常なる精農家ではないことは上告人も自ら之を認める処である。従つて精農家であるが故に被上告人の先代、先々代は寸地を惜んで開墾した、其の結果が故意か過失かは判らないが、上告人の所有の左右の土地の中へ蚕食して来ていたものであり、又西端の土地に於ては本件の如き争を起すの端緒となつたものである。然るに精農に非ざる上告人家は他人に自分の土地を蚕食されても、自ら他人の土地を蚕食すると言うことは絶対にない。若し原審判決が認定した境界が正しいとすれば、上告人家の者が逆に被上告人家の土地を蚕食している事になるのである。斯ることは絶対にあり得ない処である。

右境界近くにある二条の茶樹列の中南側の茶樹の方が北側の茶樹の方より遙に老木である。北側の茶樹に付ては争があるが、南側の茶樹に付ては未だかつて争のあつたことがない。然るに今原審判決認定の境界線を認めるときは右争なき茶樹すら被上告人所有土地上にあることゝなり不条理である。

(三) (5)点と(4)点を結ぶ線は何等根拠なき仮想の線である。此の存在を認めることは条理に反するものである。(5)点は被上告人が大松の所有権を主張せんとして大松の南側に勝手に線を引き姫街道の西端線と交はる点を以て(5)としたものであつて何等根拠なきものである。伊藤常七郎等は証人として此処の辺に昔溝があつて之を埋めたと証言しているが、何等根拠なきことである。若し之を強く主張し得るとするならば、幾度かの検証に際して其の個所を堀起して地層を検証して見るべきである。右証人の証言の如き溝がありたりとすれば必ず地層に其の根跡がある筈である。上告人としては之を主張する必要は無かつたし、被上告人が主張しなかつたのは自信が無かつたからである。寧ろ上告人の主張する(ニ)点には溝の跡もあれば目標となるべき枯木の跡もあり、又甲第七号証の如き上告人の祖母小池さだの写真すら存在する処である。それにも拘らず取つて以て認定の資料と為さなかつた事は条理に反すると言うべきである。更に被上告人主張の(4)点は奇怪なる点と言うべきである。被上告人主張の(4)点は上告人が昔より所有して居り被上告人の土地と何等関係なき松林の中に之を求めて主張したものである。恐らくは被上告人の主張せんとした大松の南側と、中央部の侵触地の最大部とを見通して、軍用地との東辺の線との交点を仮定したるものであることは想像に難くない処である。今や原審判決に於ても右(4)点の存在は否定した処である。之を否定して尚上告人の主張の一部を認めた判決を為し得る筈がないのである。(4)点は否定した以上、(5)点と(4)点とを結ぶ線を想定することは絶対に不能である。原審判決は此の不能なる線の想定を敢てして、しかも其の線上にX点を求めたのであつて甚しく条理に反するものである。且あるべからざる点に点を認めて之に線と架して境界を想定した原審判決は著しき論理の飛躍を為したものであつて、違法であると言わざるを得ない処である。

四、西側境界線の認定に付て

原審判決が(ロ)点とX点を結ぶ線を西側の境界線と為したことも甚しく条理に反する。

(5)点と(4)点を結ぶ線は仮想のものであつて存在するものではない。従つて(5)(4)線上にX点を発見することは不能である。七三番地と七二番地の境界線を(ロ)点迄、延長した線と言うならば又別である。然るに一筆の土地を分筆した小池庄太郎は(ロ)(ハ)の線を延長した線を境界とする予定であつた処、山林を畑に整地する人夫が誤つて多く起してしまい其の線迄、右七三番地と七二番地の境界線を持つてゆかれた旨を証言しているが、小池庄太郎の境界線設定の意思は(ロ)(ハ)を延長した線が七三番地と七二番地であつて之を以て真の境界線とすべきである。従つて境界設定者の真の意思を尊ぶべきものであつて上告人主張の(ハ)点を以て南側境界と西側境界の交点とすべきものである。七二番と七三番との境界線こそ原審判決の認定の過程とは逆に(ロ)(ハ)を更に延長した線であると言うべきである。

五、甲第三号証の伊藤常太郎開墾成功届出書添付図面を拡大して見ても南側境界に(5)(X)線を認めることは条理に反する。

甲第三号証は浜松税務署の開墾成功届の綴であり、昭和二年三月三日附被上告人伊藤常太郎よりの開墾成功届が為された書類である。而て之に添付された図面は本件西側の繋争地を比較的正確に模写されたものである。之に入れられた補助線である朱線の間数や角度から精査して西側の軍用地に接する線の長さを拡大して計算すれば十三、六六間となる。之に対し被上告人を主張の(3)(4)を結ぶ線の長さは十五、八二間となつて居り、被上告人の主張する右線は伊藤常太郎の届出の線より更に二、一八間伸長されているのである。伊藤常太郎届出の点は、上告人主張の(ニ)(ハ)を結ぶ線を西側の軍用地の境界迄延長した点と稍々合致するのである。之等の点より見て被上告人側の南側境界線の位置は常に浮動していると言うべきである。

第二点原審判決の公簿上の面積と実測上の面積を比較することを是認すべきものとしても、其の計算の基礎に誤謬があり条理に反する。

原審判決は上告人所有土地と被上告人の所有土地の登記簿上の面積と実測上の面積を比較衡量して南北の両側の境界線に於て被上告人の主張を容れたものであるが、其の比較衝量に際しては伊藤常太郎が二畝八歩から八畝八歩に増歩したことを不法として右増歩分六畝三歩を被上告人の公簿面積より控除して計算したのは怠当であるが、更に進んで被上告人の所有土地面積の変動の沿革に付て検討を為さなかつたのである。従つて其の比較衡量の基礎に誤りがあつた。それ故に遂に原審判決の比較の上に於ても重大なる事実誤認に陥つているのである。

即ち、甲第八号証を精査すれば、被上告人所有の土地は明治十年頃に於ては全部で一筆の土地であつて山林であり、総反別弐反六畝拾弐歩であつた。それが明治十六年、八畝五歩が開墾届によつて除外されたのであるが、それにも拘らず明治二十一年七月十九日、弐反六畝拾弐歩から八畝五歩を差引きたる壱反八畝七歩を誤謬訂正手続によつて弐反五畝五歩に変更されているのである。

此の場合にも昭和二年伊藤常太郎が不当に為した増歩手続と同様に其の先代伊藤常太郎はいとも簡単に増歩手続を為しているのである。此の手続によつては一畝十六歩が忽然と八畝五歩に変り、此の八畝五歩が後に葵町八〇番地となり、登記面も更に増へて八畝弐拾壱歩と登記されているのである。更に其の残りの弐反五畝五歩は七五番地、七六番地、七七番地と変遷の過程を辿つたのである。伊藤常七郎が明治十五年頃に本件の土地を四つに分割し其の中の二つを取つて他を小池多之吉及び其の他の人に与へたと証言していることは此処に至つて最も悪性の偽証であることが判明した訳である。

然るに上告人の土地は明治初年以後増歩の手続を一回も取つていない処である。

従つて原審判決の企図した如く公簿面の面積と実測とを比較するとするならば、明治初年小池多之吉と伊藤治平が分割したときの姿に於て比較しなければ公平を失するものであることは言を俟たない。

而して被上告人の当時の所有土地は山林が二反六畝十二歩即ち七九二坪、宅地は最初から存在する宅地(七八番地)六六坪がある丈である。他の宅地は何時如何にして形成されたか不明であるが、実質的には山林から順次地目変換を行つたものであつて宅地を分割したものではない。従つて其の合計は八四八坪である。

上告人の当時の所有土地は七一番地山林一畝二十四歩(五四坪)七二番地畑二反二畝三歩(六八一坪)、七三番地畑二畝一九歩(七九坪)、八一番地畑一反六畝一歩四八一坪八三番地宅地一四四坪、七〇番地宅地四一、二五坪、八二番地山林六坪、其の合計一四八六、二五坪となる。原審判決が七〇番地及八二番地を除外して比較したことは真の比較にはなり得ないことは火を見るより明かである。尚上告人の地番は変更されたが、公簿上の面積は一寸の地と雖も変更されていない処である。

即ち、公簿面積の合計は

上告人 一四八六、二五坪 被上告人 八四八、〇〇坪

之に対して実測面積は藤田鑑定人の実測平面図(丁号図)に依れば左記表の示す通りである。

左記

上告人主張部分 被上告人主張部分

(一) A地 九一六、六九坪 (一) B地 一、一一三、三〇坪

(二) C地 六四七、二七坪 (二) D地     〇、七九坪

(三) F地 一〇〇、三九坪

(四) E地  一〇、〇〇坪

(五) G地  二三、七五坪

(六) H地   〇、五五坪

(七) T地 一六三、九一坪

(八) I地   二、五二坪

(九) K地   〇、七七坪

(一〇) M地  六、五〇坪

(一一) N地  〇、一一坪

(一二) L地 八九、三六坪

合計   一、九五一、三一坪        一、一一四、〇九坪

右公簿面の面積と実積を各々比較して見れば、何れも一〇対一三となり、上告人の主張が如何に正確であるかを証明している処である。原審判決は被上告人の土地の変更を検討せずして不当に修正された公簿面面積を基礎として比較衡量したものであつて其の不当なること又条理に反すること一目瞭然である。

第三点原審判決がYXの線をY(ロ)の延長の如くに認めたことは公図面並に実状を無視したものであつて条理違反である。

即ち、公図を一見して不審が抱かれるのは被上告人所有の八〇番地の土地の図形である。右地番の土地は姫街道方面から官有地方面に向つて稍々平行に帯状に細長く走つていながら西側の境界より五、七五間位の手前より南側の線が急に広がり、しかも西側境界線は稍々斜線を画いて右に下つている。而して南側の広がつて来た境界線と西境界の斜線との交点が上告人主張の(ロ)点と合致するのである。何故に斯る不自然なる形体を為していることに不審の念を抱かないとしたらそれこそ不思議である。此の線の状態を見るに、昔は右西側境界斜線に沿うて道路があり、右(ロ)点より道は何れかの方向へ屈折していたと見るべきである。若し何等の特徴がなく右斜線が直線であつたなら八〇番地と七五番地の境界線は直線を為して進み右斜線と交つていたと見るべきである。尚右西側境界の斜線の部分に道又は何等かの特徴も無かつたとすれば八〇番地は帯状の儘更に延びて官有地に接していたと見るのが最も自然な見方である。

右(ロ)点に重大なる特徴があつたからこそ八〇番地が帯状に延びて来たのに一定の処で右特徴の点で結ばざるを得なくなつたのである。然らば右特徴の点(ロ)点から八〇番地の西端の斜線を形造つていた道路は如何に延びて行つているかが再び問題となるのである。屈折していなかつたとしたら(ロ)点は発見出来ず八〇番地の南辺と西辺との交点が斯る特徴を持つことは得ない処である。従つて(ロ)点に於て屈折があつたことは想像出来る処である。此処に至つて被上告人は(ロ)点よりの標証はなかつたと主張するのに対して、上告人は其の存在を主張する。又原審判決は(イ)(ロ)(ハ)を結ぶ線と直線なりと認定した。右道路の存在を否定する被上告人の主張は前述の如く不条理であり、原審判決の認定又不条理なりとすれば上告人の主張を採るより外に道がないこととなるのである。殊に(ロ)より山林の中や御料地に入つて行く筈がないのであつて耕地に向つて進んでいたことは想像出来る処である。此の論理的に明白なる点を洞察出来なかつた原審判決は条理に反するものであると言わざるを得ない。

第四点原審判決は被上告人の明白なる自白があるにも拘らず之に異なる事実を認定した之は民事訴訟法第二五七条違反である。

即ち、原審判決は本件土地北側の境界に付てAY点を認定したが、原審判決認定の通りとすれば、上告人の所有土地上に生立している椋の木は上告人の土地内に存在することゝなる之は昭和十五年六月二十九日静岡地方裁判所の為した検証調書に於て

被控訴人訴訟代理人は

「被控訴人所有地ト控訴人所有地トノ北側境界ハ(A)点ヨリ(B)ヲ経テ陸軍用地ニ接スル(1)点ヲ見透シタル線ニシテ(B)ノ西方ニ椋ガ控訴人ノ所有地内ニ生立シテ居ル事ハ認ムルモ――」

と主張して此の点は自白しているにも拘らず原審判決に於ては其の自白を無視して被上告人に有利判決したものであつて違法である。更に本件土地北側の境界に付、原審判決は(5)(X)線を認めたるも之又被上告人の自白を無視しているのである。

即ち、昭和十五年十一月八日の検証調書中当事者の主張の点に付き

被控訴代理人は、

「被控訴人がすゞナル婦人ヲ妻トシ大正二年頃離別シタル事南側境界線附近ノ桜ヲ被控訴人家ニ於テ伐採シタル点及元控訴人家裏手ニ控訴人家ノ為メニ耕作路ヲ設ケアリタル事ハ之ヲ認ムルモ――」

と述べられて居り、桜の古木が上告人家の所有であるからこそ被上告人家が之に代つて採取したものである。其れにも拘らず原審判決は(5)点を認めたのであつて被上告人の自白を無視して上告人に不利な判決をしたものであつて右判決は不当である。

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