東京高等裁判所 昭和36年(う)1471号 判決
被告人 広瀬勣
〔抄 録〕
記録及び証拠物を精査し、且つ当審の事実取調の結果を検討するに、証人西寅二の原審第三回公判調書中の供述記載及び同証人の当審第二回公判調書中の供述記載に徴して明らかなように、警察当局が本件を終始殺人事件として取り扱わず、特に傷害致死事件として取り扱つた経緯等からみて、被告人が任意に供述したと認めるべき、同人の司法警察員に対する昭和三六年二月三日付の供述調書によれば、被告人が明白に殺意を認めて、「女の子の誰でもよいから自分の死の道連れにしてやろうという気持になり瞬間的に殺す気になつた」旨の供述記載があるところ、被告人の司法警察員に対する昭和三六年二月三日付の供述調書及び検察官に対する同月四日付の供述調書並びに同人の原審第三回及び第四回公判調書中の各供述記載、被告人の当公廷における供述、鑑定人医師矢田昭一他一名共同作成にかかる鑑定書及び押収してある飛び出しナイフ一丁(昭和三六年押第五九五号の一)に徴すれば、本件犯行後被告人が自殺を思い止まるようになつた理由については必らずしも詳かでないが、少なくとも本件犯行の当時までは、被告人は自暴自棄のため本気で自殺する覚悟を決めていたこと及び被告人が本件犯行の用に供した飛び出しナイフは、刃渡約七、七センチメートルの比較的小型のものではあるけれども、現に被告人はこれで自分の喉か腹でも突き刺して自殺しようと考えてわざわざ持ち出したものであつて、優に人を殺害するに足りる兇器であり、被告人はこれで被害者の左乳房下を突き刺して深さ約一〇センチメートルに及ぶ刺創を負わせたことがいずれも明らかであるが、右各事実に徴すれば、被告人が明白に殺意を認めている、同人の司法警察員に対する昭和三六年二月三日付の供述調書中の前記死出の道連れ云云の供述記載は、被告人が、真実を供述したものと認めるのが相当であり、被告人の右供述に本件犯行に使用された兇器の種類、性能及びその用法、これによつて加えられた創傷の部位、程度等を綜合すれば、被告人に殺意があつたと認めるのが相当であるから、これを認めないで、被告人を傷害致死罪に間擬した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるものというべきであつて、論旨は理由がある。
よつて、本件控訴は理由があるから、爾余の論旨に対する判断を省略し、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条により、原判決を破棄した上、同法第四〇〇条但書の規定に従い、更に、自ら、次のように判決をする。
(罪となるべき事実)
被告人は、肩書本籍地の中学校を卒業後、一六歳の頃在京の実兄明を頼つて単身上京し、同人の世話で左官職人として働くようになり、二、三の勤め先をかえた後、昭和三五年一〇月頃から、前記明や実弟邦和が左官職人として働いている都内江東区新大橋墨田工業株式会社に雇われ、昭和三六年一月初め頃から、横浜市鶴見区の同会社の現場に出向いて建築工事に従事していたものであるが、同月二八日夜同所の飯場において、先輩の左官職人である北村富雄及び福原定雄と三人で焼酎約一升を飲んだ際、些細なことから右北村と口論になり、そのあげく同人や仲裁に入つた前記福原から数回殴打されたため、仕事に嫌気がさし、翌二九日朝早々に同所を飛び出し、前記都内江東区新大橋の墨田工業株式会社の事務所に戻り、他の現場で働く気にもなれず数日間を無為に同所で過ごしているうち、同年二月二日にいたり、右墨田工業株式会社をやめることを決意し、同日朝都内江東区門前仲町の同会社現場に前記実兄明を訪ねてその旨を告げた上、前記鶴見の現場に引き返し、同所の会計をしていた前記北村に対し、賃金の精算方を申し出たところ、予期に反して貰い分が少なく賭博の借金や前借金を差し引かれると手元に残る分が殆んどないことが判明したため、悄然として同所を退去し、一先ず前記墨田工業株式会社の事務所に帰るべく国電に乗車したが、右国電内で、すでに所持金も乏しく、且つ今後の仕事の当もないこと等をあれこれ考えるに及んで将来に対する希望を失い、遂に自暴自棄の結果自殺を決意し、同日午後三時三〇分頃同事務所に帰るや、同事務所内の実弟邦和が起居していた部屋の押入内から同人所有の刃渡約七、七センチメートルの飛び出しナイフ一丁(昭和三六年押第五九五号の一)を持ち出し、これを上衣の内ポケツトに入れて外出し、附近の酒屋で清酒三合ばかり飲んだ後、一旦右事務所に引き返し、更に附近の飲屋で清酒を約五合飲んだ後、都内墨田区緑町公園に行つて自殺するつもりで、同日午後七時二〇分頃、同区亀沢町二丁目一番先の路上に差しかかつた際、たまたま反対方向から佐藤静江(当時二二年)外三名の女性が横に一列になつて談笑しながら歩いて来るのを認めるや、俄かに、自分の心持も知らずに楽しそうに振舞つている同女等に対する憤懣の念を生じ、とつさに同女等のうちの一人を殺害して自分の死出の道連れにしてやろうと決意し、前記の飛び出しナイフの刃を開いて右手に持つたまま同女等に近付き、向つて左端にいた前記佐藤静江に体ごと突き当るようにしてその左乳房下を一回突き刺し、よつて同女に対し肝左端、胃前後壁を貫いて、脾門部にまで達し、脾動静脈を切断する、深さ約一〇センチメートルの刺創を負わせ、その結果同女をして、同日午後一〇時五五分頃同区亀沢町三丁目一番地両国病院内において、右刺創に基ずく肝及び脾動静脈等損傷による失血のため死亡するに至らしめたものであつて、被告人は、右犯行後、被告人がその犯人であることが官に発覚する前に、警視庁本所警察署勤務の司法警察員に対して自首したものである。
(加納 久永 河本)