東京高等裁判所 昭和36年(う)382号 判決 1961年11月20日
被告人 佐藤忠
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
(弁護人の)控訴の趣意第二点について
所論は要するに、たとえ被告人が内藤に庖丁を示して原判示のように「自分の財産保全のことばかり考えて他人に迷惑をかけてそれで人間なのか、悪いと思つたら腹を切れ若し俺が悪ければ俺が切る」と申し向けたとしても、被告人は内藤が約束に反して連絡もしなかつたので騙されたと思い、その不誠実を詰つて反省させるためにしただけであつて、被告人には内藤を畏怖させようとする意思がなかつたのであるから、脅迫罪の犯意は成立しないというのである。
よつて案ずるに、脅迫罪の犯意は一般的にみて人をして畏怖の念を生ぜしめるに足る害悪であることを認識しながらこれを相手方に加うべきことを通告することによつて成立し、それ以上に特に相手方を畏怖させようとする意思の存在することを必要としないのであるから、たとえ相手方を畏怖させようとする意思がなかつたとしても、ただそれだけで脅迫罪の犯意が成立しないということはできないとともに、人をして畏怖の念を生ぜしめるに足る害悪の通告といえるかどうかを判断するにあたつては、行為の外形にとらわれることなく、それがなされるにいたつた経緯及びそれがなされたときの四囲の状況が総合的に考察されねばならぬことも当然である。
右の見地に基いて本件の事実関係をみるに、被告人は昭和三十二年四月頃同郷の杉山篤男の依頼により内藤義平が設立した福新硝子工業株式会社の移転先の敷地買収資金として金二百七十万円を物的担保もなく貸与し(被告人は内藤個人に貸与したとしているに反し内藤は右会社が借り受けたと主張している。)その後数回貸借の出入があつたが内金二百三十万円ほどが支払未了であつたところ、同会社は昭和三十四年四月頃倒産し、内藤は同人所有の宅地及び住家に金六百万円の架空の抵当権を設定するなどして財産を隠匿した。そこで被告人は右貸金の支払方交渉のため同年五月二日夜前記杉山篤男らと内藤方へ赴いたが、内藤は不在であり帰宅しなかつたので、同夜は同人方へ泊めてもらい、翌三日朝内藤は帰宅して架空の抵当権設定の事実を認めその抹消方を承諧したので、被告人は内藤夫妻らとともに抵当権抹消のため内藤方を出た。途中内藤は後で連絡するからといい、同人の印鑑を被告人に預けて別れたまま連絡をせず、被告人は午後九時過ぎまであちこち探してみたが所在がわからなかつたので、しかたなくまたも杉山を同道して午後十一時頃遠く杉並区の内藤方へ到つた。そのときすでに内藤は帰宅しており、同家奥八畳の間で妻の実弟石井五郎及び会社の経理顧問清水喬らと用談している様子であるのを見て被告人は、内藤には全然誠意がなくただ自己の財産保全のことばかり考えていたずらに被告人を引き廻して愚弄しているものと思い、深くこれを憎むとともにその不徳義を難詰して反省を促がさんがために、たまたまその場の座卓の上にちまきを切るために置いてあつた菜切庖丁を手にして内藤に示し「自分の財産保全のことばかり考えて他人に迷惑をかけてそれで人間なのか、悪いと思つたら腹を切れ」と申し向けるとともに「若し俺が悪ければ俺が切る」といいながらその恰好をしてみせたものであることが認められる。
以上の事態を総合的に考察すれば、被告人は菜切庖丁を示して悪いと思つたら腹を切れなどと申し向けたとはいえ、内藤を畏怖させようとする意思があつたとは認め難いばかりでなく、その場のふん囲気は多分に説諭的であつて必ずしも険悪なものではなく、少くともこれをもつて一般人をして畏怖の念を生ぜしめるに足る害悪の通知であるとするには不十分であり、従つて刑法上は脅迫の犯意はなく、脅迫罪は成立しないものと解するのが相当である。
しかるに原判決はこれと趣きを異にし被告人の前記所為をもつて内藤の身体に危害を加えかねない気勢を示したと認定して脅迫罪が成立するとしたのであるから、原判決には事実誤認または法令の解釈適用の誤があるというべく、その誤が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は結局理由があり原判決は破棄を免れない。
よつて刑事訴訟法第三百九十七条により原判決を破棄し、同法第四百条但書により直ちに当裁判所において判決することとする。
本件公訴事実は被告人は昭和三十四年五月三日午後十一時頃杉並区上高井戸四丁目千八百九十四番地内藤義平方居室において同人に対し傍にあつた庖丁をとり上げて示し「自分の財産保全の事ばかり考えて他人に迷惑をかけてそれで人間なのか、悪いと思つたら腹を切れ若し俺が悪ければ俺が切る」と申し向け同人の身体に危害を加えかねない気勢を示して脅迫したというにあるところ、被告人が右日時場所において内藤義平に対し庖丁を示して右記載の如く申し向けたことは認められるが、右所為はさきに説示した理由により脅迫罪を構成しないと解せられるので、被告人に対しては刑事訴訟法第三百三十六条により無罪の言渡をすることとする。
よつて主文のとおり判決する。
(その余の判決理由は省略する。)
(裁判官 長谷川成二 白河六郎 関重夫)