東京高等裁判所 昭和37年(う)292号 判決
被告人 岸秋信
〔抄 録〕
検察官の控訴の趣意中事実誤認を主張する点について、
所論は、被告人の本件佐藤一郎に対する殺人の犯行に至るまでの経緯及び犯行当時における事情、状況並びに犯行の態様について考察すると、被告人の佐藤一郎に対する犯行は被告人と同人との喧嘩闘争によるものであつて、被告人が自己及び家族の生命、身体に対する現在の危険を排除するために行われたものとはいえず、しかも、その行為たるや同人に対する積極的な殺害行為であるから、被告人の右行為を目して盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律第一条第一項に該当するものであるということはできない。かりに被告人の右行為が佐藤一郎の侵害行為を排除するために行われたものとしても、佐藤は被告人の最初の一撃によつて倒れ、同人の被告人に対する侵害的態勢は既に崩れ去つたのであるにかかわらず、被告人は更に同人に対し数回にわたつて追撃的犯行に出ているのであり、被告人のかかる一連の犯行は、その際の情況に照らせば、全体として防衛の程度を超えたものであることが明らかであつて、以上に徴すると、公訴事実第一の被告人の所為を前記法条に該当するものとして被告人に対し無罪の言渡をした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。
よつて按ずるに、
(各証拠)を総合すれば、被告人は昭和三十六年十月二日午後三時三十分頃、被告人の肩書住居附近においてかねてから不仲の本田正一こと石垣武之進と争つていたところ、酒に酔つていた佐藤一郎(本件当時二十四年)が「なんだ、なんだ、俺が渡りをつけてやる」といつてその仲裁を買つて出たが、被告人が「近所のことは俺が片をつけるからいいよ」等といつてこれに応じなかつたにかかわらず、同人は、「俺が仲へ入るから仲直りに一升買え」等と執拗に酒を買うことを要求し、はては「ぢやあ俺とやるかやるべー」とか「勝負するならいつでもやるぞ」とか、「手前なんかやつちまうのはわけがない」などと被告人の感情を刺激するような言辞を弄した上、着用していた上着を脱いで傍の土手に放り出したので、同人の右言動に憤慨した被告人も「どうにでもしてくれ」といつてその着用していた上着を脱いで傍の土手に放り投げ、その住居内から斧(東京高等裁判所昭和三七年押第一一七号の四)を持ち出して右佐藤に手渡したところ、同人が「こんな切れないものか」といつたので、被告人は「切れるのもある」といつてさらに勝手場から刺身庖丁(柄付のもの前同押号の一及び二)を持ち出して佐藤に手渡した上、「やるならやつてみろ」といい、同人と相対峙して右土手に腰をかけたが、同人は、「刺しちまうぞ」といつて刺身庖丁の横で、被告人の顔を二、三回軽く叩いただけだつたので、被告人はそれで事は終つたものと思い、同人に対し「病気だから寝るんだ」といい、被告人の傍に来ていたその内妻二反田松江も「家の中に入つた方がよい」というので、被告人は直ちに屋内へ入ろうとしたところ、佐藤は被告人のズボンの後方を掴んで引つ張りこれを振り離して内妻とともに屋内に入つた被告人は中から入口の板戸に輪鍵をかけたが、佐藤は鍵をこわして板戸を押し開き、前記刺身庖丁をもつて屋内に侵入した上、「話をつける」といつたので、被告人は同人ともみ合つて同人を戸の外へ押し出し、外から開けられないように内妻とともに中からその戸を押えていたところ、被告人の行為に憤慨した佐藤は屋外にあつた前記斧をもつて右板戸の隣の硝子戸の硝子を打ち破つたりして屋内に侵入する気配を示したので、それまで内妻ともども同人に謝罪し続けていた被告人は、被告人らの態度を無視して乱暴な振舞に出た佐藤に対する憤激の情抑えがたく、足許に落ちていた前記刺身庖丁を右手に持つや右佐藤が死に至ることがあるべきことを認識しながら屋内に侵入しかけた同人の左腹部めがけて右庖丁で自己の体重をかけて力いつぱい突き刺し、更に後方へ三、四歩よろけた同人の左腹部、左胸部等を数回右庖丁で突き刺し、よつて、同人に左腎臓切創等の傷害を与え、翌十月三日午前十時四十六分頃埼玉県熊谷市熊谷外科病院において右傷害に基く胸腹腔内出血により死亡するに至らしめた事実を認めることができる。そして、以上の経過に徴すると、佐藤一郎が被告人方出入口の板戸の鍵を破壊し、かつ、前記斧をもつて右硝子戸の硝子を打ち破り、被告人やその内妻が押えていた板戸を押し開けて屋内に侵入しようとしたのは、被告人及びその家族の生命、身体等に危害を加えるためではなく、被告人に酒を買わせる目的をもつて被告人と話をつけるため酔余被告人方屋内に侵入しようとしたものであることは、被告人においてもこれを推察するに難くなかつたところであるから、かかる状況の下においては、被告人の所為は自己あるいは家族の生命、身体等に対する現在の危険を排除するためになされたものということはできず、これに対し盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律第一条第一項を適用すべきものでないことはもとより、同条第二項を適用する余地もなかつたものといわなければならない。従つて、被告人の右所為を同条第一項に該当するものと認定しこの点につき被告人に対し無罪の言渡をした原判決は事実を誤認した結果法令の適用を誤まつたものというべく、その過誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、検察官並びに弁護人の各量刑不当の論旨について判断するまでもなく、到底破棄を免れない。
(岩田 高野 栗田)