大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和38年(く)85号 決定 1964年2月04日

申立人 検察官

主文

原決定を取消す。

理由

本件即時抗告の要旨は、原決定は、被告人が言語障害により刑事訴訟法上の意思能力を欠いているので、同被告人に対する起訴状謄本の送達は形式的には完了していても、これによつて、公訴提起のあつたことを了知させ、防禦の機会を与えたものとは認め難く、実質的には起訴状謄本の送達がなかつたと同様に判断すべきものとして、刑事訴訟法第三三九条第一項第一号の規定を適用して公訴棄却の決定をした。しかしながら、原決定が、被告人に訴訟能力がなければ、これに対する起訴状謄本の送達が無効であると判断したのは法令の解釈を誤つたものであり、また、原決定が被告人を訴訟無能力者と認定したのは誤謬である。よつて原決定の取消しを求めるため即時抗告に及んだというものである。

よつて、記録を検討して考察するのに、被告人が農業または養鶏などの仕事に従事していたが、幼少の頃から聴覚障害があつて適切な聾教育を受けていない上に、魯鈍級の精神薄弱も手伝つて、話し言葉、書き言葉の理解、表現が極めて困難で、意思交信の手段において著しい制約を受けていることは、原決定の摘示するとおりこれを肯認することができる。しかしながら、刑事訴訟法が被告人に対し、公訴提起後速かに起訴状謄本を送達すべきことを要求しているのは、被告人に対し、公訴が提起されたことを知らせ、予め防禦の機会を与えるためである。もしそれがなくて、いきなり第一回の公判期日が開かれて、被告人の防禦準備が何もなされないまま、一方的に公判審理が押し進められたら、被告人の防禦権を著しく侵害し、決して適正な裁判は行われないからである。したがつて、被告人に対し起訴状の謄本を送達するのも、単に形の上だけでこれを完了すればよいという訳ではなく、これによつて、公訴提起の事実を知らせ、防禦の機会を与えなければならないのであるから、その当時被告人がその程度の能力をもつていることが必要である。もし、被告人にその程度の意思能力もないならば、刑事訴訟法第二八条第二九条の規定の趣旨に則つて、その法定代理人、或は特別代理人に対して起訴状謄本を送達して、被告人に代つて、必要な措置を採らせる必要もあろう。しかしながら、その程度のことなら被告人自身でもできると認められる場合には、被告人本人に送達してもこれを有効と解すべきである。小幡町拘置支所で被告人を担当した看守尾島清一の説明によると、同看守はこれまでも二、三の聾唖の在監者に接しているが、前に扱つた唖に比べて被告人の方がはつきりしており、よく判つた、というのであつて、被告人に対しても、先ず起訴通知というのをやるのであるが、被告人の罪名は傷害致死だから、手真似で斬る格好をしたり、裁判所の方を指したり、書く真似をしてそのことを知らせたが、被告人はこちらが話をするときは必ずよく口元を見ており、手真似、口振りで大体のことは判つた様子でうん、とうなづいた、という。また、起訴状の謄本を渡すときは、内容は被告人本人も知つていることなので特に説明はしなかつたが、被告人は他の在監者が起訴状の謄本を渡されるのを見ており、大体呑み込めたと思うという説明であつて、これらの説明によれば、被告人に本件公訴が提起されたことを知らせ得たと判断して差支えない。また、防禦の機会を与えるといえば、先ず何より肝心なことは、その家族、近親と連絡をとつて、弁護人の選任について手配すること、であるが、被告人は自己流の身振り動作でもその家族、近親との意思交流は或る程度できるし、昭和三十八年一月二十八日本件公訴が提起されて、翌二月二日には早くも被告人の自筆連署で弁護人福原誠一の選任届が原裁判所に提出され、同弁護人は同月四日付をもつて同月十九日午後三時の原審第一回公判期日の請書を同裁判所第一刑事部宛に提出し、同時に被告人のための保釈許可申請も出しているのである。このようにして、第一回公判期日前の被告人の防禦準備の機会は十分に与えられているのである。第一回、第二回の公判期日において、被告人、および弁護人から、起訴状謄本の送達について、何らの問題がでていないのは当然であつて、法律の要求する、被告人のための防禦に欠くるところはないからである。責問権の放棄を考える余地もない。

被告人が先に述べたような身体障害のため自ら訴訟行為を行うことはできないで、若し被告人に弁護人が附されていなければ、刑事訴訟法第三七条によつて弁護人を附さなければならないし、場合によつては被告人の近親者を補佐人として、被告人のために、公判手続において、その権利擁護に協力させることも必要であろう。このように、被告人が刑事訴訟法上の行為を自ら為し得ない場合は、これを補佐、援助すべき者の協力を得て、その防禦権の行使に支障のないよう、特段の配慮と工夫を必要とすることはいうまでもない。また、被告人がそれによつてもなお、その防禦に万全を期待し得ない程度の精神障害すなわち心神喪失の状態に陥るとか、あるいは自ら法廷に出頭し得ない程度の身体障害を受けた場合は、刑事訴訟法第三一四条の規定によつて公判手続を停止する措置も講じなければならないが本件被告人の身体障害は、右の規定によつて公判手続を停止すべき程、それ程重篤なものかどうか、にわかに断定し得ないのみならず、原決定が被告人に右程度の身体障害のあることを理由として直ちに被告人に対する公訴を棄却したことは不当である、よつて刑事訴訟法第四二六条第二項により、原決定を取消すべきものとして主文のとおり決定した。

(裁判長判事 兼平慶之助 判事 斎藤孝次 判事 関谷六郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例