大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和39年(う)1782号 判決

被告人 野沢義雄

〔抄 録〕

一、検察官の控訴趣意について。

論旨は、原判決が本件の尊属殺の公訴事実に対し、殺意はなかつた旨の被告人の弁解をいれ未必の殺意もなかつたとして尊属傷害致死の事実を認定したのは判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認であるというのである。

よつて検討するに、被告人は原審並びに当審の公判廷において殺意を否認し「父親を脅かして今までの自分等に対する態度を改めて貰おうとしたためであり、誤つて刺してしまつたが刺す気はなかつた」という趣旨の供述をしているのであるが、一方被告人は検察官に対する供述調書において「これまで父にいじめられてきて我慢していたが、その時(本件犯行時のこと)にはもう我慢ができなくなつてしまい父に強い怒りを感じ短刀を持つていつた、また父が向つてきたのでこうなつたら父が死んでもどうなつてもかまわないやつつけてしまえという気持になつてやつてしまつた」旨の供述をしているのである。そのいずれが真実であるかこの点証拠について考えてみると、本件犯行に際して最も近くにいた野沢福子も被告人の本件犯行の状況を的確に目撃していないし、そのほかの証人磯光一、長瀬陽子等も遥か遠方より望見しているだけであつて被害者も死亡した今となつては被告人以外に真相を知る者はないわけである。それに、殺意は被告人の内心の問題でもあるから、被告人の前記のようないろいろな供述を野沢石三郎の創傷の部位、程度等客観的状況に照らして吟味し殺意の有無を判断する以外に方法がない。ところで医師黒須周作作成の鑑定書によると、被害者の創傷は(一)左季肋部において肋骨弓下にて正中より七糎離れた部位において横に二・五糎深さ一七糎の刺創(二)左前腕中央において内側に横に四糎の切創左上肢の拇指の手掌面に一糎の表皮剥脱創(三)右下肢大腿部前面に長さ二糎深さ六糎(皮下中から上方に走る長さ)の刺創(四)左臀部に長さ二糎深さ四糎の刺創が認められ特に(一)の損傷は腹腔内の胃の前面を貫き更に左葉の肝臓を貫遂して横隔膜に三糎の損傷を加えたものであるというのであり、また兇器も刃渡り約一七糎の短刀(東京高裁昭三九年押六六〇号の一)であつて、(一)の損傷はその刃渡り全部を刺入したことになるのである。これ等傷害の部位が数箇所に及んでいることはつまり被告人の攻撃が一回だけでなく数回に及んで繰り返されたものであること、傷害の部位が身体の枢要部で重傷を負わせていることは攻撃が強烈であつたことをそれぞれ示すもので、これらによつてみると、被告人の検察官に対する前記供述が最も真相に合致したものと認めざるを得ない。しかも原判示のような本件犯行の背景となつた長期にわたる異常な父子関係を思うとき被告人が遂に未必の殺意を抱くに至つたとしても決して不自然ではないと思われるのである。してみると被告人に未必の殺意のあつたことは明らかであつてこの点原判決は事実を誤認したものであるから論旨は結局理由がある。

(新関 中野 伊東)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!