大判例

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東京高等裁判所 昭和40年(う)1665号 判決

被告人 脇田昌子

〔抄 録〕

よつて、当審における事実取調べの結果をも加えて審究するに、被告人に業務上過失責任のあることを認定した原判決には判文明確を欠くところなしとしないことは所論のとおりであるが、原判示事実(第二の事実)は、要するに、医師が無資格者たる見習看護婦を医療補助者として使用する場合は、平素から医薬品の管理を厳にし、また、麻酔薬等の調剤については直接指示してこれをさせ、擅に調剤しないように監督すべき義務があり、もし見習看護婦が擅に調剤することを黙認した場合はこれが施用の事前においてその結果の適否を確認すべき業務上の注意義務があるのに、被告人はこれを怠り、見習看護婦菊地文美子が擅に麻酔薬等の調剤をするのを黙認しておきながらこれが結果の適否の確認をすることなく、同人の麻酔薬の調剤に間違いのあつたことに気付かず正常なものと軽信し、患者にこれを施用した点に本件業務上の過失があつたとする趣旨に理解される。所論は被告人は見習看護婦菊地らが麻酔薬等の調剤をするのを黙認していたことはなく、同人が本件の調剤をしたことを知らなかつたのであるからその結果の適否を確認するに由なく、原判示のような確認義務はないというが、原判決挙示の関係証拠を綜合すると、被告人は、昭和二一年頃、夫清が原判示場所に開業していた産婦人科医院内に眼科を附設開業し、見習看護婦として、高部こと田島満津乃を昭和三〇年八月頃から同三七年二月頃まで、菊地文美子を昭和三二年三月頃から、また、桐田セイ子を昭和三六年三月頃からいずれも本件当時に亘つて右双方の科において共同使用し、その間、主として眼科で使用する麻酔薬の調剤については、田島を雇用した当初の頃は被告人において田島にその都度直接指示してこれをさせ、一年ぐらい経ち同人がこれを覚えてからは、被告人自ら調剤することもあつたが、暗黙の裡に殆んどこれを田島に任せるようになり、麻酔薬がなくなりかけると同人が適宜これを調剤して補充する習わしとなり、菊地も雇用された当初の頃は被告人或いは田島から調剤の方法等を教わつていたが、半年ぐらい経ちこれを覚えてからは右習わしに従い田島同様適宜調剤してこれを補充し、更に桐田も田島および菊地の調剤を見習つたうえ、同様適宜調剤、補充するようになつた。他面、被告人は、田島、菊地および桐田がいずれも医療の補助をするには無資格者であり、かつ、予てより被告人の直接指示に基かず単独で調剤していることを知つていたが、敢えてこれを禁ずることなく、却つてそれを期待して黙認し、同人らに調剤を任せていたのに拘らず、患者にこれを施用する際田島らに唯口頭で質すだけで、調剤の結果の適否を確認しないまま施用することが同様習わしとなつていた。そこで菊地は、本件傷害事故のあつた前々日、常時産婦人科診療室内の戸棚に保管されていた五〇CC入り壜中の麻酔薬が殆んどなくなつているのを認め、前記従前からの例にならいこれを補充しておこうとして、調剤室において、塩酸ブロカイン粉末〇・〇五グラムに蒸溜水五〇CCを混合すべきを取り違えて稀塩酸五〇CCを混合し、これを右の壜に満して前記の戸棚に蔵置した。かくて、被告人は、原判示日時、原判示来診患者に対し麻酔薬を施用することとなつたが、菊地が右のとおり調剤、補充した以後右壜中の溶液が補充、増量されていることを確めず、従つてその調剤の結果の適否をも確認することなく、桐田がこれを二CC入り注射器に入れて持つて来たのを受け取り、同人に対し単に口頭で薬は間違いないか否かを質しただけで、たやすく菊地が右のように調剤、補充した以前の正常な麻酔薬であると軽信し、患者にこれを施用し、同人に原判示傷害を負わせたことが認められる。凡そ医師たる被告人は先ずもつて医薬品の管理を厳にし、見習看護婦が単独で麻酔薬等の調剤をしないように監督すべきであるほか、本件の場合は見習看護婦が単独で麻酔薬の調剤をするのを黙認していたのであるから(所論は起訴状の公訴事実にある「自己がかねて調剤しておいた」云々の用語を捉え、被告人が菊地自らの調剤を黙認していたことは検察官において主張するものではないというが、右公訴事実を通読すればその当らないことは自ら明らかである)、見習看護婦が麻酔薬を新たに調剤、補充しているか否かに絶えず注意を払い、新たに調剤、補充されていることを知つた際は直ちにその調剤が適正であるかどうかを確かめるは勿論、これが施用に当つては常にその結果の適否を確認すべき業務上の注意義務のあることはいうを俟たず、見習看護婦が新たに調剤したかどうかは前記麻酔薬の壜内の溶液の量を検することによつて容易に判明することであり、また、調剤の結果の適否も味覚ないし簡単な化学反応検査によつてこれまた容易に判別し得ることであつて、格別困難ないし不可能なことを強いるものではない。そして、被告人には、かかる確認義務を怠り、見習看護婦菊地が新たに調剤、補充していることを確めず、かつ、同人の取り違えて調剤した本件不適正な溶液の適否の確認をしないでたやすく正常な麻酔薬と軽信した過失があり、被告人がこれを患者に注射し傷害の結果を生じさせたことについて本件業務上過失傷害の刑事責任を負うべきことは当然であつて、原判決の趣旨もここにあることが認められる。そしてかゝる原判示の事実認定が所論のように起訴状記載の公訴事実と異るものでないことは右各事実を対比して自ら明らかである。なお、所論は原判決の引用する原審相被告人菊地文美子の供述は虚実を取り混ぜ暴露戦術に出たものであつて信憑性がないというが、成程菊地の原審公判における供述は、主として、見習看護婦が被告人から暗黙裡に麻酔薬の調剤を任されていたとする点において、被告人の捜査当初からの供述と全く相反するとともに、菊地自身の捜査官に対する各供述調書(但し、昭和三九年五月三〇日付検察官調書を除く)とも異つているが、原審証人田島満津乃の供述および同桐田セイ子に対する尋問調書によると同人らは被告人の黙認による麻酔薬調剤の点について菊地の原審公判における供述と同趣旨の供述をしているのみならず、菊地が前記日付の検察官調書以後先の捜査官に対する供述を翻した理由につき、原審公判において、被告人から口止めをされたため事実を曲げて供述していたが、その後気が咎め、或いは被告人からつらく当られるなどのことがあつて真実を述べるに至つたといい、このことは前示桐田の尋問調書によつて認められる同人もまた被告人から口止めをされたことに徴し信用に値いするものであることを併せ考えると、菊地が本件調剤を間違えた原因につき一部虚偽ないし誇張しているところがないとはいえないとしても(原審証人尾河秀子および同五十嵐えせに対する各尋問調書)、爾余の部分は充分信を措くに足り、却つてこれに反する被告人の原審公判における供述および捜査官に対する供述調書はたやすく措信し得ない。その他記録を精査しても以上の認定を左右するに足る証拠はない。さすれば本件業務上過失傷害罪の成立を認めた原判決は正当であつて、所論のような事実の誤認、理由不備の違法は存しない。論旨は理由がない。

(松本 海部 石渡)

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