大判例

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東京高等裁判所 昭和40年(う)240号 判決 1967年2月14日

本籍

富山県高岡市頭川三、二七一番地

住居

埼玉県所沢市大字三ヶ島堀之内八七番地の一〇

団体職員

小林正之

昭和六年六月一五日生

本籍

東京都港区港南四丁目九号地

住居

同区港南四丁目二番四の一〇八号

団体職員

日置克之

昭和九年二月二二日生

右両名に対する公務執行妨害被告事件につき、昭和四〇年九月二一日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人両名およびその弁護人から各控訴の申立があつたので、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件各控訴を棄却する。

当審における訴訟費用中、証人一条関善に支給した分は被告人両名の連帯負担とし、証人佐伯固一に支給した分は被告人小林正之の負担とする。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人渋田幹雄、同秋山昭一連名の控訴趣意書、弁護人安達十郎、被告人小林正之、同日置克之の各控訴趣意書のとおりであり、これに対する答弁は、検察官鈴木久学の答弁書のとおりであるから、それぞれこれを引用し、これに対し当裁判所は次のとおり判断する。

渋田、秋山両弁護人の控訴趣意第一ないし第四点および安達弁護人、被告人両名本人の各控訴趣意は、それぞれ事実誤認、法令の解釈適用の誤り、あるいは憲法違反等を主張するものであるが、これらを要約すると、次の諸点に帰する。

(一)  原判決は、その理由中「弁護人らの主張に対する判断」の二項において、徒らに国家権力側に属する中野税務署長今村朝男のいかにも弁解がましき証言を容れ、これとは逆に、被告人両名の所属する中野民主商工会(以下、中野民商という)出身の全国商工団体連合会会長河野貞三郎らの各証言を排斥して、本件税務調査の正当性を肯定したが、これは憲法一四条の法の下における平等の原則に背いて採証の法則を誤り、ひいてその実態たるや専ら中野民商の組織破壊を目的とし、同法一三条(不公平、不合理をきわめる現行税制等に苦しむ中野区内の中小商工業者である中野民商の会員各自の幸福追求権)、同法一九条(同じく思想、良心の自由権)、同法二一条一項(同じく結社の自由権)等をふみにじる違憲無効のものであつて、本件各公務執行妨害罪成立のための適法な職務執行にあたらないにかかわらず、事実を誤認したものであり、更に同法三七条一項による被告人らの公平な裁判所による裁判を受ける権利までもこれを奪うものである。

(二)  そもそも被告人小林の逮捕に始まり公訴提起にいたつた一連の本件刑事訴訟手続もまた、前同様中野民商の組織破壊をねらうと同時に、昭和三八年一一月二一日施行の衆議院議員選挙に立候補した中野民商支持の松本善明が当選することを妨害する意図のもとになされたものであるから、憲法三一条に違反する不当無効の手続であるにかかわらず、原判決はこれを無視し、あえて被告人らに刑罰を科した違法がある。

(三)  原判決は、なお「弁護人らの主張に対する判断」の二項において、旧所得税法六三条、旧法人税法四五条に基づく本件各税務調査をいずれも適法と解釈認定したが、たとえこれらが原判示のように任意調査として形式的には間接強制であるとしても、万一拒んだりすれば罰則に触れることとなる調査対象者にしてみれば、その効果において少しも直接強制と変らないわけであるから、決して単なる過少申告の「疑い」だけでは足らず、必らずその具体的事実や資料に基づかないかぎり、同各法案による調査権の行使は許されないものと解すべきである。故に原判決は、右法令の解釈を誤り事実を誤認した違法がある。

(四)  原判決は、原判示第一、第二事実のように、被告人らの収税官吏らに対する脅迫があつたとして、それぞれ公務執行妨害罪の成立を認めたが、当時被告人らには脅迫の犯意など全くなかつたし、いわんや第二事実における共謀もなかつたものであつて、被害者たる収税官吏らのいかにも恐怖したかのごとき各証言は、すべて誇張であり採るに足りないところである。もつとも、被告人には、相手方収税官吏らの公僕にあるまじき非礼な態度に対する当然の抗議として、皮肉や嫌がらせ、あるいは警告の意味をふくむ程度の言動があつたかもしれないけれど、これを目して直ちに害悪実現の具体性ないし現実性があつたとみることはできないから、原判決には、証拠の価値判断を誤つて事実を誤認し、法令の適用も誤つた違法がある。

よつて、以下これを検討する。

所論(一)ないし(三)について

記録によれば、原判決がその理由中「弁護人の主張に対する判断」の二項において、本件各税務調査が、本件各公務執行妨害罪成立のための、適法な職務執行にあたる旨縷々説示するところはすべて正当であつて、そのままこれを肯認支持するに足り、同時に本件公訴提起にいたる一連の刑事訴訟手続が、所論のような不当無効のものであると認めることはもとよりできない。所論はひっきょう、独自の観点に立つてこれらをすべて無効と断じ、その前提のもとに徒らに原判決の正当なる判断を非難するに帰し、いずれもとうてい採用に値しない。

所論(四)について

原判決の挙示する当該証拠を総合すれば、被告人らが原判示第一および第二事実において摘示するような言動を敢てし、その発言内容のごときも正に刑法九五条一項の「脅迫」に該当するものであつて、社会生活上当然許容される程度に正当視できる筋合のものではなく、そのため現実においても、本件被害者たる収税官吏らが畏怖の念を生じてその職務の執行を妨げられたことは、これまた原判決がその理由中「弁護人らの主張に対する判断」の三項および四項において詳細説示するとおりであり、そのままこれを正当として肯認支持するに足るところである。論旨は理由がない。

以上説明のとおり、原判決には結局所論のような事実誤認、法令の解釈適用の誤り、憲法違反等は毫も存しないから、この点に関する論旨はすべて採用のかぎりでない。

渋田、秋山両弁護人の控訴趣意第五点について

所論は、原判決の量刑不当を主張するものであるが、記録に現われた一切の事情を考慮し、特に被告人両名とも、本件につきいささかの反省の色も示しておらないことに留意すれば、原判決がこれに対しそれぞれその刑の執行を猶予したのは、むしろ寛大に過ぎる嫌いこそあれ、決して量刑重きに失するものというべきではないのである。この点の論旨も理由がない。

よつて刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却することとし、当審における訴訟費用中、証人一条関善に支給した分は同法一八一条一項本文、一八二条により被告人両名の連帯負担とし、証人佐伯固一に支給した分は同法一八一条一項本文により被告人小林の負担とし、主文のとおり判決する。

検察官 鈴木久学公判出席

(判事 内田武文 判事補 小林宣雄 裁判長判事関谷六郎は病気のため署名押印することができない。判事 内田武文)

被告人 小林正之

同 日置克之

弁護人安達十郎の控訴趣意(昭和四一年一月二一日付)

原判決には重大な事実誤認があり、且つ、法律の解釈に誤りがある。

原判決は被告人両名に対し公務執行妨害の事実を認定したが、これは根本的に間違つている。

さて、原判決の事実誤認の具体的な諸点については、他の弁護人の控訴趣意が詳しく述べるところである。そこで、私は原判決の論旨の全体を概観し、そこに現われている原裁判所の事実認定に対する根本的な姿勢と志向を検討し、それによつて、原判決の事実誤認の重大さを明らかにしたいと思う。

一、傾斜の論理

原判決を一貫している第一の特徴は、国家権力の側に対する著しい傾斜である。原判決は「弁護人の主張に対する判断」の項において、弁護人の主張を一々理由をあげて排斥しているが、この排斥の論旨の中に、右の著しい傾斜を読みとることができる。

(一) 原判決は、本件の税務調査は本来の目的から逸脱したものではなく、適法なものであつたとする。論旨はその根拠をいろいろと説明しているが、論旨が基礎にしているのは、証人今村朝男の証言である。即ち、今村証言によつて認められる「事実に照らすと、中野税務署の民商会員に対する税務調査は民商会員であると否とを問わずすべての納税者に対し公平で適正な課税を維持するための税務調査本来の目的から逸脱しているとは認め難い」というのである。そして一方、本来の目的から逸脱した税務調査に痛めつけられ、身を以つてこれを見聞したと語る弁護側証人の証言は、「同証人らはいずれも『中野民商』またはその上部組織である全国商工団体連合会の会長ないし事務局長であつて、単に税務当局の意図を推測している趣旨のものであるから、右今村証人の証言を捨ててこれを採用することはできない」として、いとも簡単に斥ぞけている。

本件は、原判決の言葉を借りれば、「いずれも中野税務署の収税官吏が『中野民商』の会員である納税者方に税務調査のため訪れた際」の出来事である。そして、右収税官吏と中野民商の事務局員たる被告人らとの間に起きた出来事なのである。この出来事については、中野税務署と中野民商とは、出来事の両当事者に他ならない。両者のいずれにしても、第三者的立場というものはない。この両当事者のそれぞれの側から、税務調査の適法性を争点として証人が立てられたのである。従つて、当然のことながら、両者の証人の証言に対しては、あくまでも同じ比重を付与してその信用性を評価、検討すべき筋合である。しかるに原判決は、一方の当事者である中野税務署の署長である今村証人の証言を偏重し、これを無条件に正しいものとして判断の基礎に据え、他方、中野民商側の証人の証言は、全く形式的な理由をあげるだけで簡単に切り捨てているのである。原判決は、証拠の評価にあたつて、国家権力の側に属する証人の証言を無批判的に採用するという誤りを犯しているといわねばならない。

いつたいに、官憲の証言に対するこのような傾斜は、わが国における刑事裁判の一つの通弊といつてもよいものであろう。例えば、警察、検察の密室における取調べの状況については、一方の取調官たる警察官、検察官と、他方、取調べを受ける被疑者とは平等な両当事者に他ならない。ところが、自白の任意性をめぐつて取調官の証言と被疑者の供述が対立する場合、「知らぬ」「存ぜぬ」「筈がない」式の一方当事者たる取調官の証言が専ら尊重され、取調官の証言に対置されるもう一方の当事者たる被疑者の具体的な、生ま生ましい陳述は、「取調官の証言に照らし、採用するを得ない」として排斥されるが常態である。まことに残念なことであるが、裁判所がかかる取調官の証言を大手を振つて通用させるところに、官憲の拷問、職権乱用、と偽証が跡を断たない所以である。公正な刑事裁判への道は、何よりも、一方当事者たる官憲の証言を徹底的に疑いつくすところから出発すべきものであろう。

しかし、原判決の事実認定もまた、右のごとき刑事裁判の宿弊に根ざした誤判といわねばならない。

(二) 取調官が、拷問した、無理な調べをした、と証言しないのと同様、元来公正な税務調査を行うことを建前とし、それを法によつて義務づけられている税務職員が「目的を逸脱した調査をしました」などと証言する筈はない。法の建前どおりの調査をしたと証言するのが当り前である。

しかし、その建前どおりであると称する調査に、目的逸脱という不法がかくされていはしないかということが問題なのである。建前どおりという仮面の下にかくされているものが、本件では問題にされているのである。ことの真相を明らかにするためには、建前証言を徹底的に疑つてみることが必要なのである。

ところで、原判決は今村証人の証言から、「本件当時中野税務署では民商会員に対してのみ税務調査を行つていた訳ではない」等々の諸事実を認定し、だから本件税務調査は本来の目的を逸脱していない、というのである。

なるほど、ここにいわれていることだけに即してみれば、いかにももつともらしい。しかし、本気で疑つてみると、際限のない疑問が湧いてくる。いうところの民商会員以外に対する調査と、民商会員に対する調査との、調査の数の比率はどうであつたか、調査の仕方の度合はどう違つていたか。民商会員に対する調査比率が民商会員外に対するそれよりも遙かに大であつたこと、民商会員に対する調査が執ようを極めたことはかくれもない事実である。調査に対する協力という面でも、民商会員および事務局員が多年税務調査に積極的に協力し、税務当局と多年友好関係を持続していたこと、その友好関係が一時期を画して、税務当局の一方的、突然な態度変更により冷却したことも否定し得ない事実である。

また、昭和三七年度分の税務調査の時期になつて、従前とはガラリと変つて、事前通告なしのアベツク調査が横行し出した。さらに、民商会員が課税の上で不公平に有利となつていたなどという「事実」が客観的に確認されていたわけのものでもない(原判決のいう不公平論は、例えば隣りの納税者から不当に高い税金を取り立て、お前のところは隣りより底いから不公平だ、という論法の類いで、本来顛倒している。税法学者これを「高きにつく公平」と皮肉つているようである。底い方に合せても公平は失しないのである)。

さて、右のような点を考えただけでも、本件税務調査には、今村証言のいう公正な建前はあやしくなつてくる。公正という仮面の下に、不法な目的がかくされていると疑わずにはおれないのである。

(三) では、その不法な目的とは何か。一言でいえば、中野民商の組織を根こそぎ破壊しようということである。この不法な目的があつたからこそ、税務調査を強行するさ中、税務署当局から民商会員に対し、中野民商に関するあらゆる卑劣な中傷、悪宣伝が繰り返され、民商会員に対する脅迫的な脱会工作が続けられたのである。これらの事実は弁護側の証人の証言と証拠物たる書面の記載によつて動かない。原判決はこれらの事実を何とみるのであろうか。

原判決は前記のとおり、弁護側証人の証言を全く形式的な理由で斥ぞけたが、証拠物についても、「納税非協力者に対する・・・・・指示」と題する文書について、「ただ『組織的な調査拒否、調査妨害が行われている限り、引き続いて徹底した調査を行なう』などの記載があるに過ぎない」といつただけでかたづけ、あとは、「その他弁護人の右主張を肯定するに足る証拠は存しない」といつてすましている。これでは到底弁護人の主張を排斥したことにはならない。

税務調査に名を借りた、民商の組織破壊という税務当局の「悪しき意図」はかくしおおせるものではないのである。

(四) 次に、原判決の脅迫の事実認定について一言しておきたい。

原判決は、ここでも一方当事者である税務職員の証言を無条件に正しいものとし、他方の当事者である民商側の証言は理由もなく排斥している。例えば、民商側の証言について、「同人らは被告人らの発言内容が証人木島、江副の証言と異つて穏かな内容であつたと言うのではなく、木島、江副の言うような発言内容であつたか否か記憶がないというに止まるから、証人木島、同江副の証言の信用性を左右するに足りない」という。考えてみれば、おかしな理屈である。その場の状況、雰囲気の中で、脅迫と感ぜられるようなひどい発言がなかったとしたら、言われた言葉の一々を記憶にとどめないのが当り前なのである。起訴状にある文言とまるで同じ言葉を鵡がえしに証言する木島、江副証言こそ、作意的証言の疑いが濃いとみるべきではあるまいか。

さらに、原判決は、証人一条は「回避的ながら結局木島、江副の証言と同趣旨を肯定している」という。何故同証言が回避的なのであろうか。

同証人は捜査段階で供述調書をとられ、検察側の証人として法廷に立つた。そして、民商の会員でもなくなつている。同証言は民商側の立場からの証言ではないのである。むしろ、いうところの回避的部分の証言は、捜査段階で取調官に押しつけられたのではないかとの疑いが濃いのである。

ところが、原判決は木島、江副の証言を無条件に信頼しているものだから、その証言に合致しないものは、みな回避的な証言として映ずるのであろう。「回避的ながら」という短い言葉に、原判決のいわれのない独断と官憲証人への傾斜が端的に示されているといつてよいのである。

(五) ところで、原判決は第一と第二の事実の両方について、一方当事者たる税務職員の証言を無条件に信頼し、「判示認定の被告人らの発言は、本件税務調査の行われるに至つた事情、その場の雰囲気、被告人らの態度を綜合すると、いずれも被害者の収税官吏に対する加害を暗示するもので十分に人を畏怖させるに足る内容であり」と結論している。

しかし、他の弁護人が詳しく述べているとおり、木島らは現実に畏怖してはおらず、公務の執行も現実に妨害されていなかつたのである。だいたい、木島ら収税職員は税務当局の意を体して、民商組織破壊のための税務調査をすべく二人連れで「乗り込ん」できたのであつて、とくに木島、江副のごときは、不遜な態度で被告人らの氏名を質したり、被告人らの発言を悠然と逐一メモするという態度に出ていたのである。木島らが被告人らの発言(木島ら証言のとおりであると仮定しても)を脅迫意思の下に発せられたと受取つていたとはみられないし、また、その場の状況、雰囲気からいつて、そのように受取る筈はないのである。

二、秩序維持への志向

原判決の税務職員の証言への著しい傾斜は、言葉を換えていえば、検察官側証拠への傾斜である。

ところで、個人の基本的人権の擁護を最高の使命とする刑事裁判の本来の姿は、検察官の主張、立証をあらゆる角度から疑いつくすことになくてはならない。

刑訴手続は、検察官の主張、立証を疑いつくす手続ともいえる。つまりは、刑事訴訟手続で裁かれるのは、被告人ではなくて、むしろ検察官なのである。検察官の主張、立証がこの裁きに耐え抜いたとき、初めて、被告人に有罪の判決が下されるのである。若し原判決がこのような姿勢で裁判に臨んでいたのであれば、検察官の主張、立証はあまりに疑わしく、被告人らを無罪とする他なかつた筈である。

しかし、原判決は、それとは逆に、被告人を疑うことから出発している。原判決を貫いているものは、個人の基本的人権の擁護ではなくて、国家権力との一体感に裏打ちされた、国家の秩序維持への志向なのである。

しかも、この志向は、事実認定の面だけではなく、法律の解釈の面にも現われている。所得税法六三条、法人税法四五条の「調査の必要性あるとき」に関する、国家権力に都合のよい誤つた解釈がそれである。

この国家権力の秩序維持への専らなる志向こそ、事実と法律解釈の面において、原判決を誤らせている根本的な理由といわねばならない。

以上

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