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東京高等裁判所 昭和40年(ネ)2550号 判決 1967年6月15日

控訴人 稲葉孝夫(仮名)

被控訴人 稲葉ユキ(仮名)

主文

原判決を取消す。

控訴人と被控訴人とを離婚する。

控訴人と被控訴人間に昭和二五年一月三日出生した長女陽子、同二七年一月一七日出生した次女純子、同二九年四月一四日出生した三女朝子同三二年三月二五日出生した長男一男、同三四年一二月一八日出生した次男昭二の各親権を行なう者を控訴人と指定する。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張および証拠の関係は、次に記載のほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

一、控訴代理人は、従前の主張に附加して、「被控訴人は、昭和三九年一二月峰尾晴雄に対し内容証明郵便で創価学会脱会の通告を為したというが、右日時以後も控訴人や家族に秘して、依然として近所の同学会の会員宅等で礼拝したり、入会の勧誘活動に従事していた。また被控訴人が農業や家事を放擲して殆ど顧みず、用件や行先も告げずに頻繁に外出するという傾向は、第一審判決後一層強くなつた。控訴人は昭和三九年八月頃から被控訴人に対しその実家に戻ることを強く希んでいたが、被控訴人が肯んじないため、やむなく同居の形を継続していたが、以来被控訴人と夫婦関係を持つことはなく、殆ど口をきかぬ状態であつた。しかるところ、被控訴人は、昭和四一年五月一八日控訴人と子供五人を捨て、自己の衣類、家具等を運び出し、控訴人方を出て別居するに至り、以来再び夫と子のもとに戻る気持を喪失しており、一方控訴人もまた、被控訴人を妻として再び迎え入れる気持は全く無く、かくして両者は、相互に一片の愛情とてなく、ただ憎しみが存するだけとなつて現在に至つている。以上の事実を従前主張の事実と併せ考えると、このような両者を単に法律上夫婦の名で縛つておくことは、両者いずれにとつても不幸であつて、離婚原因たる婚姻を継続し難い重大な事由があるときに該当するものと認めらるべきである。」と述べ、証拠として新たに、当審証人松山茂夫の証言、当審における控訴人本人尋問の結果を援用した。

被控訴代理人は、右控訴人の主張に対する答弁および従前の主張に附加するものとして、「控訴人の当審における新主張事実は全部否認する。被控訴人は、昭和四一年五月控訴人方を出るまでは、ひたすら控訴人の改心を祈念し、子供達の将来を憂い、死んでも稲葉家を去るまじとの決意のもとに、何ら従来と変ることなく、控訴人方にあつて控訴人らと同居し、家事農業に精励して来たのであり、控訴人とは、月三、四回位夫婦関係があり、口をきかぬこともなく、日常生活について従前と異つたことはなかつたのである。しかるに控訴人は、かくては離婚の理由とする婚姻を継続し難い重大な事由があるといえないとして、昭和四一年五月、被控訴人に対し数日に亘つて甚しい暴力を加え、遂に被控訴人をして控訴人方に留まることができないようにし、やむなく被控訴人は他家に逃避せざるを得ないこととなつたのである。従来主張したとおり、被控訴人は、控訴人に嫁して以来(昭和三九年以後も勿論)、農事並びに家事に専念し、夫である控訴人やその両親に対し、誠心誠意仕えて来たものであつて、何ら夫婦協力義務に違反するところはなかつたのである。夫婦共同生活を営むためには、趣味、嗜好、信仰等が夫婦同一であることが望ましいことではあるが、相手方にこれを強制することは無理であり、信仰が同一でないことが夫婦協力義務に違反するものでないことは明らかであるから、本件のように被控訴人が創価学会を信仰することを離婚の理由とすることの出来ないこと勿論である。まして、控訴人はかねて自らは家業に励まず、終日家を外にして遊び暮し、酒に酔つては被控訴人に乱暴していたものであつた上、その強い猜疑心から、あらぬ他人の噂を真実なりとして本件離婚の訴を起し、その疑が消滅したにも拘らず、なお訴訟を継続し、愛をもつて接しようとする被控訴人を受け入れず、挙句は暴力をもつて被控訴人をして他に逃避するのやむなきに至らせたものであるから、夫婦協力義務違反は控訴人にこそ存し、婚姻を継続し難い重大な事由があるとすれば、それは控訴人自身が作つたものであつて、被控訴人には責任がない。」と述べ、証拠として新たに、当審における被控訴人本人尋問の結果を援用した。

理由

その趣旨および方式からして真正に成立したものと認むべき甲第一号証、弁論の全趣旨により成立を認める乙第一号証、原審証人松山好夫、松山さと、松山とし子、稲葉とみ、石本さき、稲葉文夫、峰尾晴雄、峰尾コト、指田市郎、指田はま、当審証人松山茂夫の各証言、原審および当審における控訴人本人、被控訴人本人の各尋問結果並びに弁論の全趣旨によれば、次のように認められる。

一、被控訴人は昭和二四年一月二八日松山好夫夫妻の媒酌により控訴人と結婚式を挙げて控訴人の家に入り、同年二月一八日婚姻届をすまし、以来被控訴人との間に控訴人主張のように長女陽子、次女純子、三女朝子、長男一男、次男昭二の五子をもうけた。控訴人の家には、当初、控訴人の弟二人、妹一人が同居していたが、その後いずれも他に出て行つたため、昭和三六年頃からは、家族は控訴人ら夫婦と子供五人および控訴人の両親の計九人となつた。控訴人の家では、桑畑が五、六反、麦畑が一、二反、他に二、三反の畑があつて、控訴人が戦争に行つて健康を害して以来充分に働けない状態であり、控訴人の父も中風で仕事ができなかつたところから、被控訴人と控訴人の母とみが主な働き手であつた。しかし控訴人は、昭和二七年一月一七日の次女純子出生の後頃から、控訴人不在中の被控訴人の仕事振り等が悪いと家族の者から聞き、これについて被控訴人に注意しても素直な態度をとらない被控訴人に不満を持ち、その不満は年を経るに従い次第に嵩じてはいたが、後記のように昭和三九年六月中旬頃、被控訴人が創価学会に入会し、これに伴い種々争いが生ずるに至る迄は、控訴人方家庭生活は大きな波乱もなく経過して来た。

二、被控訴人は、昭和三九年六月中旬頃、附近の雑貨および酒類販売業の○○(訴外峰尾照子経営)へ買物に行つた際、たまたま来合わせた創価学会の班長である峰尾晴雄から、創価学会への入会を勧められた。当時被控訴人は実妹の宮崎とくが精神病で熊谷市の○○○病院に入院中であつたし、二女の純子が夜尿症で苦しんでおり、その他控訴人も病弱で農事も十分できない等種々悩みを持つていたので、創価学会に入会してこれらの悩みを解消して幸福になり度いとの考えから、右峰尾の勧めに応ずることとなり、その頃、右峰尾の案内で高崎市にある護持会に行き、信仰のため必要な本尊である掛軸を受けて信仰に入つた。尤も被控訴人は、初めのうちは、控訴人やその親達(以下、一括して「控訴人ら」と指称する)の反対を予期し、これをおそれて、同人らに右入信の事実を秘したまま、近所の家を廻つて拝んでいたが、やがて噂により控訴人の知るところとなり、控訴人からその真偽を質されるに及ぶや、同年七月二〇日頃、敢えて右掛軸を控訴人方に持ち込んで公然毎日拝みはじめた。そして前記入会後被控訴人が行先、用件を明示せずに外出することが多くなり、夜遅く帰宅することも生ずるに至つた。一方、控訴人らは、創価学会を極度に嫌つていたので、被控訴人の同会入会に強く反対したが、被控訴人が「神様を馬鹿にしたら罰が当る」等と言つて聞き入れず、また前記のように被控訴人の外出が度重なるに従つて家事や子供達に対する世話等も自然と行届かぬようになつて来たので、控訴人らの被控訴人に対する不満は日毎に募り、控訴人と被控訴人の夫婦仲は悪化の一途を辿つた。

三、ところで被控訴人は、右創価学会入会後、前記峰尾と連絡をとつて時々前記○○等で会つていたが、右○○で同人と一緒にビール等を飲み交わすこともあつたので、男女関係について口煩い田舎のこととて自然と二人の仲を疑うような噂が立ち、これが控訴人の耳にも入るようになつたため、神経質で興奮し易く、疑い深い控訴人は、一層被控訴人の行動に不満を持つに至つた。しかるところ、同年八月一六日、当日のことについては、かねて被控訴人から控訴人に、「実父の指田市郎から妹の宮崎とくが病院から退院するから迎えに行つて呉れと言われている。」と言い、これに対し、控訴人が、「退院するのでは荷物もあるだろうから、自分が行くから。」と言つてあつたのであるが、被控訴人はその前日頃に○○から前記峰尾に一六日○○に来るように電話連絡して置き、右一六日午後三時頃、控訴人の不在中に、控訴人の母に、「宮崎とくが悪いから病院に行く。」と告げて控訴人方を出、前記○○で峰尾と落ち合つて、二人でビールを飲み、五時頃揃つて○○を出たまま、遂にその夜は帰宅せず、翌一七日夜遅く帰宅したので、控訴人は益々二人の仲を疑うようになり、一六日の夜は実妹の居る○○○○○○工場に泊つた旨の被控訴人の言を納得せず、同夜は峰尾と二人で何処かに宿泊し、不倫な行為があつたものと推測するに至つた。もつとも被控訴人の右一六日の行動は、前記のように峰尾と揃つて○○を出た後、群馬県多野郡の○○町に行くバスに峰尾とともに乗つたのであるが、その後峰尾とは別れ、同夜は熊谷市○○所在の実妹指田はまの勤務しかつ居住していた○○○○株式会社○○工場の寄宿舎に泊つたのであり、翌一七日午前中○○○病院に宮崎とくを訪ねた上、実家に戻るという同女を連れ、途中美容院で髪をセットさせたり、同女の婚家に寄つたりして、同女を控訴人方近くの実家に届けた後、控訴人方に帰宅したものであつた。

四、被控訴人は、昭和三五、六年頃、同三七年頃、同三八年頃、同三九年夏頃、(二回位)控訴人ら家の者に隠れて、控訴人方のこんにやく玉を他に売却したことがあり、これらについても控訴人らは被控訴人に対し不満を抱いた。

五、控訴人は、前記三の昭和三九年八月一六日の件を契機として、被控訴人との離婚を考え、同月一九日頃、被控訴人に離婚届用紙を渡し、これに調印方を求めて、その実家の指田市郎方に帰えしたが、被控訴人が離婚届に調印せず、無為に控訴人方に立戻つたので、控訴人は、同月二〇日頃離婚請求の調停を申立てたが、これも同年九月二四日頃不調に終つたので、更に同年一〇月二七日本訴を提起するに至つた。尤も控訴人としては、右調停係属中の頃迄は、控訴人らが不満とした被控訴人の行動について被控訴人が詫びを入れるなら、離婚を思い直してもよいとの考えであつたが、被控訴人は、媒酌人の松山好夫、さと夫妻から、再三、創価学会に入会したことが家族不和の原因であるとして、信仰をやめるように勧められたのに対し、「信仰は自由だから、どうしてもやめない。」「ありがたい神様なのだから、けなすとよくないよ。」等と言つて反抗的態度を示し、また控訴人の親達から、「あやまれ、あやまれ。」と言われたのに対しても、自己の行動にはあやまる程のことはないとの態度を持して譲らず、また被控訴人の実家の者も控訴人らの不満をやわらげるべき措置に出なかつたため、控訴人との融和の機会は失われ、その結果、昭和四〇年一月当時既に右松山好夫ら第三者の目からも、控訴人と被控訴人の仲が回復するのを望むのは困難なことだと見られるに至つた。

この間において被控訴人は、右調停係属中の昭和三九年九月一三日頃、○○町に出掛けて前記峰尾晴雄方(同人妻コト不在中)に寄り、同人に勧められて村田英雄ショウの見物に行こうとしたが、折柄帰宅した同人妻コトに、「帰りが遅くなるから。」と制止されたので、取りやめたことがあり、その日の行動をめぐつて控訴人と口論した。なお、同年九月二〇日頃、右峰尾コトが控訴人申立の離婚調停の件を知り、事情を聞くため控訴人方に被控訴人を訪ねて来たことがあり、それが、控訴人らには、コトが被控訴人と峰尾晴雄の間を疑つて非難に来たもののように映つた。

六、控訴人は、右調停申立当時から、被控訴人に対しその実家に戻るよう強く求めたが、被控訴人はこれを肯んぜずに控訴人方に留り、依然控訴人ら家族との同居生活を続けた。その間に前記のように控訴人から本訴の提起がなされたものであつて、同居といつても形式的なものにすぎず、控訴人は被控訴人と寝室を別にし、夫婦関係を避け、子供達も被控訴人の側によりつかないように仕向けた。しかし控訴人らは、被控訴人が控訴人方に居る限りは、農事、家事等について外形上普通の主婦として行動することを被控訴人に期待した。

ところで被控訴人は、本訴提起を受けた後間もなく、昭和三九年一一月二六日付内容証明郵便で峰尾晴雄宛に創価学会脱会を通知し、その内容証明郵便を本訴の第一審において証拠として提出し、かつ暫らく外出も差控え、信仰活動をしないでいたのであるが、しかし次のように、信仰活動を廃絶したわけではなかつた。すなわち被控訴人は、昭和四〇年八月中旬頃前記○○で岩田某に、同四一年二月頃近くの松山茂夫にそれぞれ創価学会入会を勧める等して、信者として活動し、昭和四一年四月頃には、前記峰尾との交際継続を窺わせる如く、同人が勤めているダム工事事務所に頻りに被控訴人が電話するということが控訴人の耳に伝つた。また、被控訴人は、昭和四〇年一月頃、近くの○○旅館で○○○○○屋の中村某と一緒に酒を飲み、同年三月上旬頃前記○○で自動車運転手から焼酌をすすめられてこれを受けて飲み、同年五月下旬頃同所で石工等が飲酒している中に入つて酒や煙草を貰い、同年八月中旬頃同所で前記岩田某と一緒にビールを飲み、更に同四一年二月頃前記○○旅館に祝儀の手伝に行つた際、酒席で和泉某と狂態を演じたりした。なお、被控訴人は、昭和四〇年六月九日控訴人が○○川の橋が流れたのでその修理に出て不在の夜に外泊したことがあつたが、それは実家に行つて泊つたものであつた。

控訴人は、被控訴人が右のように依然控訴人らの忌み嫌う創価学会の信仰活動をなし、かつ男達と酒を飲んだりすることが重なり、再び外出も多くなつて農事、家事もおろそかにするので、ついに形式的な同居生活も我慢がならないとし、昭和四一年五月、「出て行け。」と言つて暴力を揮い、被控訴人は衣類等荷物を持つて控訴人方を出た。その後被控訴人は○○町所在の○○病院に炊事婦として住込んだが、被控訴人が同年八月頃堕胎したとか、右病院で患者らに創価学会入会を勧誘したとか、○○町の飲食店で男と酒を飲んでいたとかの噂が控訴人の耳に入つた。

かくして現在、控訴人は被控訴人に対し一片の愛情もなく、却つて憎悪の念に燃えており、一方被控訴人も控訴人に対する愛情を残しておらず、子供に対する特別な執着もなく、「慰藉料でも貰えれば控訴人と別れてもよい。」と供述するに至つている。

以上のように認められ、前掲証拠中右認定に反する部分は採用せず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。また当事者双方の主張のうち右認定以上に出る部分(特に被控訴人と峰尾晴雄との間に不倫な関係があつたこと、控訴人が昭和三九年八月の調停申立以後も被控訴人との間に夫婦の交渉を続けていたこと)に副う如き前掲証拠中の部分は採用せず、他に右主張を認めるに足る証拠はない。

上記認定の事実関係によれば、控訴人と被控訴人との婚姻関係は回復し難い程度に破綻しており、その破綻は被控訴人の創価学会入信およびその後の行動に発するものと認められる。もとより、被控訴人が創価学会を信仰するに至つた動機は諒とし得るし、夫婦間で信仰を異にするとの一事でたやすく離婚を認めることはできないけれども、被控訴人が同居生活をなす夫の控訴人やその親達の強い反対を押し切つてまで新たな信仰を強行したことについては、多分に慎重さに欠けるところがあつたものと解されるのであり、その上、信仰と家庭生活の調和に十分な配慮を尽さず、剰え、信仰に名を藉りて峰尾と会合の上飲酒する等し、挙句は不倫の疑を招く迄となつた行為の間には、人妻として不謹慎なところがあつたものとの非難を免れないと認められる。控訴人が一五年以上の婚姻関係を続けて来た被控訴人に対し、十分な反省の機会を与えることなく、また事の真相をきわめることもせずして、性急に離婚を求め、かつ調停の申立をする迄の行為に出た点において、控訴人側にも落度があるにしても、なおその間に被控訴人としても、控訴人との融和を図り得る余地があつたのにその挙に出なかつたことは、被控訴人として責めらるべきである。更に、右調停申立の後控訴人において婚姻関係の再建、維持について積極的な努力をした形跡の認められないことは遺憾とするに足るが、被控訴人が、その置かれた境遇の中にあつて一層謹慎すべきであるに拘らず、更に他の男と飲酒する等、人妻として世間の批判を受けるような行動に出、かつ控訴人らの嫌う信仰活動をなす等して、控訴人の反感と憎悪を強め、その結果控訴人が暴力をもつて被控訴人を追い出すという事態を招いて破局を確定的にしたことは、被控訴人側における重大な落度と言わねばならない。従つて、前記破綻について、控訴人に被控訴人よりも大きい責任があるものとは言えない。よつて婚姻を継続し難い重大な事由があるものとして、控訴人の本件離婚の請求を認容すべく、上記認定事実等、本件にあらわれた諸般の事情によれば、控訴人と被控訴人間の前記五人の子の親権を行う者を控訴人と定めるのを相当と認める。

以上の次第であるから、右と結論を異にする原判決は失当として取消して、控訴人の本訴請求を認容することとし、訴訟費用の負担について、民訴法九六条、八九条を適用の上、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岸上康夫 裁判官 田中永司 裁判官 野田宏は、職務代行を解かれたため署名捺印することができない。 裁判長裁判官 岸上康夫)

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