東京高等裁判所 昭和41年(う)2925号 判決
被告人 岡田義男
〔抄 録〕
論旨は、要するに、原判決は被告人が自動車を運転し、時速約五〇キロメートルで進行中、約二三メートル右前方に被害者を認めたが、急制動措置を採るべき注意義務を怠りそのまま進行し、同人の手前約一四メートルに接近して初めて急制動措置を採つた事実を認定した。しかし、時速五〇キロメートルで進行する自動車が急ブレーキをかけてから停止するまでの距離が通常空走距離約一四メートル、制動距離約一七メートル、合計約三一メートルであることは公知の事実であり、本件における実況見分調書によると被告人が被害者を発見した地点の前方一四メートルの地点からスリツプ痕が認められ、それが一七メートル継続して終つているのであるから、被告人は被害者を発見すると同時に急制動措置を採つたものと解せられる。してみると、原判決には空走距離に対する考慮を欠き、公知の事実を無視した結果事実を誤認した違法があり、右の誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れないというのである。
よつて、記録を調査して按ずるに、原判決は被告人が普通乗用自動車を運転し時速約五〇キロメートルで原判示道路を進行し、約二三メートル右前方に右方から左方へ横断歩行していた被害者を発見し、警音器吹鳴の注意義務を怠つたほか、急制動の措置を採るべき注意義務を怠り、そのまま進行した過失により、被害者に一四メートルに接近して急制動措置を採つたが間に合わず、原判示衝突事故を惹き起した旨判示している。しかしてこれを挙示の証拠についてみると、原判決は、被告人が時速約五〇キロメートルで進行していて、実況見分調書添付見取図の<一>の地点において約二三メートル右前方に被害者を発見し、そのまま約一〇メートル進行して同様少し前進した被害者に約一四メートルに迫つた右見取図の<二>の地点で急制動の措置を採り、空走距離約四メートル、制動距離約一七メートル、合計二一メートル進行して停止し、停止約七メートル前被害者に衝突した事実を認定したものと解される。しかし、時速約五〇キロメートルで進行している普通乗用自動車が急制動をかけた場合、その空走距離は通常一〇メートル前後であることが実験則上明らかであるから、被告人は、所論のとおり前記<一>の地点ないし同地点より瞬時遅れて急制動をかけ、一〇メートル余空走したと認めるのが相当であり、原判決のように前記<二>の地点において急制動をかけ約四メートル空走したとすることは実験則に反し、到底首肯することができない。してみると、原判決にはこの点事実の誤認があるといわなければならない。しかし、進んで考察すると、時速五〇キロメートルで自動車を運転進行し、前方に障害物を認め直ちに急制動の措置を採つたとしても、空走及び制動距離を合わせ通常二五ないし三〇メートル位進行するものと解されるから、右の程度以内の距離に迫つて漸く前方の障害物を発見し得られるに過ぎないような場合は、発見とともに急制動措置を採ることによつてこれとの衝突を回避し得られる程度以下に減速して進行すべき注意義務があることは多言を要しないところである。本件の場合、被告人の検察官に対する供述調書、当審公判における供述によると、被告人は夜間のため周囲が極めて暗い原判示道路を進行し、被害者を発見した直前の頃対向車があつたため前照灯を下向けにして進行したので、前方の見通しは前照灯の照射能力の範囲、即ち、大体において車両の保安基準に相当する前方約三〇メートルまでの障害物を確認し得られる程度であつて、前方の障害物を早くとも三〇メートル程度に迫つて漸く発見し得られるに過ぎなかつたことが認められ、従つて瞬時発見が遅れた場合はもとより、直ちに発見し得られたとしても衝突の危険なしとしない状況にあつたことが窺われる。してみると、被告人は、右のような前照灯の照射能力を考え、これを下向けにすると同時に時速五〇キロメートルの速度を減じ、必要に応じ急制動措置を採ることによつて障害物との衝突を回避し得られるように、多くとも二五メートル前後で急停車し得られる程度の速度(大体において時速四〇キロメートル以下)で進行し、かつ、前方を注視して障害物を早期に発見し、急制動或いは警音器の吹鳴等必要な措置を講じて、これとの衝突を回避すべき業務上の注意義務があるといわなければならない。しかるに被告人は前照灯を下向けにしたのに減速することなく時速約五〇キロメートルのまま進行し、しかも前方の注視が十分でなかつたため、被害者を漸く約二三メートルの距離に迫つて発見し、ハンドルを左に切り、次いで急制動の措置を採つたが及ばず、警音器を吹鳴しなかつたこともあり、なお、被害者が左方に対する注視を怠り被告人の車両の進行に気付かないで歩行した過失が競合して、原判示衝突事故を惹き起すに至つたことが認められる。してみると、警音器を吹鳴しなかつたとする点は格別、被告人が被害者を発見した後直ちに急制動の措置を講じなかつた過失により本件事故が発生した旨認定し、その刑事責任を問うた原判決には、この点事実の誤認があり、右の誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、爾余の各論旨に対する判断を俟つまでもなく原判決は破棄を免れない。結局論旨は理由がある。
よつて、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条により原判決を破棄し、検察官の予備的訴因の追加申立を許したうえ、同法第四〇〇条但書により次のとおり自判する。
(罪となるべき事実)
被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四一年七月二三日午後八時一〇分頃、普通乗用自動車を運転し、国道二四六号線を秦野市方面から厚木市方面に向け時速約五〇キロメートルで進行し、神奈川県中郡伊勢原町神戸五九六番地付近に差しかかつた際、折柄対向車があつたので自車の前照灯を下向けにし、そのため前方の見通しが三〇メートル程度に低下したが、かかる場合自動車運転者としては、確実に二五メートル前後で急停車し得られる程度に減速したうえ、道路前方を注視して早期に通行人の有無、動静等を確認し、必要に応じ急制動の措置を採るは勿論、警音器を吹鳴するなどして、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに拘らず、これを怠り、同一速度のまま、前方注視を尽さないで進行した過失により、進路右前方を右方から左方へ横断歩行していた大木佐吉(当時八一年)を約二三メートルの距離に迫つて漸く発見し、ハンドルを左に切り、次いで急制動の措置を採つたが間に合わず、警音器を吹鳴して被害者の避譲を促さなかつた過失も加わり、自車の右前部を同人に衝突、転倒させ、よつて同人に頭蓋内出血の傷害を負わせ、これにより翌二四日午後零時一〇分頃同町東大竹三八九番地伊東外科医院において死亡するに至らせたものである。
(松本 石渡 深谷)