東京高等裁判所 昭和41年(う)547号 判決
判決理由〔抄録〕
しかしながら、車両の運転の如く、人の生命、身体に危害を生ずるおそれのある危険業務に従事する者は、その業務の性質にかんがみ危険を防止するため、法律上、慣習上、もしくは条理上必要な一切の注意をなすべき義務を負うものであって、法令上明文がないからといってこの義務を免かるべき筋合ではなく、また所論のように他の交通関与者が道路交通法規を遵守して行動すべきことを信頼してなした運転行為が是認されるのは運転者において具体的状況に照らし危険防止に必要な一切の注意義務を果した上でのことでなければならない。そして車両を運転して前車を追い越そうとする場合、運転者は道路の幅員、前車及び自車の車幅、前車の動向、その前方の交通状況、すなわち対進車両、通行人の有無、その動向、障碍物の存否、並びに天候による路面の状態の変化等を注視し、状況に応じ警音器を鳴らして、前車に追越しを警告する等追越しの際における交通の安全を確認した上で追い越しにかかるべき業務上の注意義務があり、仮りに前車又は対向車が、追越しを開始する直前の状態のまま直進すれば、自車において優にその中間を突破して安全に追越しを完了し得べき状況にあったとしても、漫然前車又は対向車が道路交通法規(追越しに関する道路交通法第二七条第二項など)を遵守して進行すべきことのみを信頼して叙上の注意義務を怠ったまま直ちに追越しを開始することは許されないものと言わなければならない。ところが、原判決挙示の証拠によれば、被告人は原判示日時頃折柄小雨中、原判示自動車(車幅約一・七米)を運転して原判示方面に向け、幅員約六・一米のコンクリート舗装の県道上を、時速約四〇粁で先行する原判示普通乗用自動車に追従し、原判示場所の路上においてこれを追い越そうとしたこと。この時前車は道路の中央から約一米左側(被告人から見ていう。以下同じ)を直進しており、道路右端との間に四米餘の餘裕があったが、前車と対面して海老原和子(本件被害者)が、普通の足踏み自転車に乗り、左手に雨傘をさし、右手でハンドルを操作しながら道路右端から約〇・五米中央寄りの路上を進行接近してきており、同自転車の車幅(ハンドル両端の間隔)及び運転者が雨傘を片手にして乗車していることを考慮するとこの状況下に前車の追越しをすることは、前車及び対向車がそのまま直進するとしても、交通に危険を生ずるおそれがあり、追越しはこれを避けるのを相当とする場合であったにも拘らず、被告人は叙上の注意義務を怠り、対向車両の有無を確認しなかったため海老原和子の運転する自転車が対進してくることを知らなかったばかりでなく警音器を鳴らして前車に追越しを警告することもしないで、漫然時速約五〇粁で前車の右側から追越しにかかったこと、そして前車と並進するに及び始めて前方約二四米の道路上に被害者の自転車が対進接近してくるのを認めたが、一方このとき前車が進路を右側に寄せてきたのでこれとの接触を避けようとして急遽ハンドルを右に切るとともに対向自転車との衝突を避けるため急停車の措置を採ったが及ばず、路面の濡れと相まって自車の車輪がスリツプして前進し、その前部をこれに衝突させて海老原和子を路上に転倒させて引きずり、原判示傷害を負わせたこと、その他原判示第一事実のすべてを肯認することができ、被告人の原審公判廷における供述中、所論に副う部分は措信し難く、記録を精査しても右認定を左右するに足りる証拠資料は存しない。してみると、被告人の所為は、追越しの安全確保に必要な叙上の注意義務を怠って人を傷害するに至ったものであるから、所論、信頼に基く行動を理由としてこれを是認するに由がなく、業務上過失の責あるを免かれない。原判決には所論のような事実の誤認はなく、論旨は理由がない。また、所論は、仮りに被告人が本件追越し運転を行なうに当り、前車に対し警音器吹鳴による追越しの警告を与えなかったとしても、追越しの方法を規定する道路交通法第二八条は、旧道路交通取締法施行令第二四条第二項(廃止)と異なり、後車に追越しを前車に警告するための警音器吹鳴の義務を課していないのであるから、原判決が被告人に警音器吹鳴義務の懈怠ありとして本件追越し事故に対する過失の責を問うたのは、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤を犯したものであるというにある。
しかし、車両運転業務の危険性にかんがみ、車両の運転者は人の生命、身体に対する危害の発生を防止するため法律上、慣習上、もしくは条理上必要な一切の注意をなすべき義務を負い、法令上明文がないからといって、この義務を免るべきものでないことは、控訴趣意第一点について説示したとおりであるところ、本件追越し運転の際における車両交通の状況は前段摘示のとおりであって、右状況下において追越しをするについては、後車の運転者たる被告人において先ず警音器を吹鳴して前車に追越しを警告し、追越しの安全を確保した上追越を開始すべき注意義務があるものと解するのが相当である。原判決が、被告人にこれが懈怠による過失の責を問うたのは正当であって論旨は理由がない。