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東京高等裁判所 昭和41年(ネ)749号 判決 1968年1月18日

控訴人

確信運輸株式会社

代理人

中条政好

被控訴人

小平幸作

代理人

坂根徳博

主文

一、原判決を以下のとおり変更する。

二、控訴人は被控訴人に対し金七〇万円及びうち金六四万円に対する昭和四〇年九月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

三、被控訴人のその余の請求を棄却する。

四、訴訟費用は第一、二審を通じこれを二分し、その一を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。

五、この判決第二項は仮に執行することができる。

事実

控訴代理人は「原判決中控訴人敗訴の部分を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張及び証拠関係は、当審において双方の申請にかかる鑑定の結果が口頭弁論期日に顕出されたほか、原判決事実摘示のとおりである。

理由

一、被控訴人主張の日時、場所において、控訴人の従業員である訴外和田定雄の運転する普通貨物自動車(以上控訴人車という)が、被控訴人主張のように、被控訴人の運転する貨物自動車(以下被控訴人車という)に追突する事故があつたこと、控訴人は控訴人車を自己の運行の用に供していたものであることは、いずれも当事者間に争いがない。

二、<証拠略>を総合すれば、以下のような事実を認めることができる。

(イ)  本件事故に際し、被控訴人車は信号待ち中であり、当時多くの車が渋滞し、順次発進するという状況にあつたところ、被控訴人車は一旦停車していたが発進し、ふたたび前車につかえて停車したところ、その後方を進行していた控訴人車は車間距離をつめるため発進したが、運転者和田がわき見をしていたため停車の措置を誤まり、控訴人車の後部荷台に強く追突し、その勢で控訴人車は押されてその前車(篠崎勝弘運転)にさらに追突した。(ロ)控訴人は右二重追突による衝撃のため頭部及び左胸部を打撲し、救急車で北条病院に運ばれ、後頭部及び左胸部打撲症の診断のもとに同病院に入院したところ、外傷、頭蓋骨折、病的異常反射などは認められなかつたが(膝蓋腱反射の亢進を除く)、以後次第に頭痛、耳鳴り、肩の痛みやしびれ、眼痛、視力減退、両足の虚脱感、少し動くと気分が悪くなり長く立つておれない、気分がすぐれずものごとに長続きしない、などの症状を訴えるようになり、頸部打撲後遺症、三叉神経痛の診断のもとに引続き同年四月二四日まで同病院で入院加療したほか、その間同病院の依頼で東京大学附属病院脳神経外科の精密検査を受けたところ頭部外傷後遺症で中等度の脳萎縮があると診断され、北条病院退院後も少くも昭和四一年初めごろまで東大病院で通院治療を受けていた。(ロ)当審における鑑定時(昭和四二年二月から九月ごろまで)の症状としては、依然として頭痛、耳鳴り頂部痛、上肢しびれ感、口渇、かすみ目、めまい等多くの苦訴(主観的症状)があつて一進一退の状態を続けている。そして脳波検査、気脳写(但し後者は前記東大病院におけるもの)によると何らかの脳の器質的変化(脳萎縮を含む)があると推定されるがそれも人格の著るしい低下を来たすほど高度のものではなく、知能障害もあまりない。以上のほか肉体的には膝蓋腱反射の亢進以外に特別の所見(頭蓋内血腫を含む)が認められない。(ニ)以上のような症状は一般に頭部外傷後遺症、むちうち症、外傷性顕性頭痛、外傷性神経症などといわれるものであるが、被控訴人の場合は神経症の色彩が強く、それも本件事故以後本件訴訟進行中次第に主訴、従つてまた神経症の程度が増しており、その原因としては、前記脳の器質的変化以外に将来の生活に対する不安、補償欲求などの心因的な要素及び被控訴人の性格的要素が多分に加わつている。(ホ)今後の見通しとしては、例えば補償問題が解決したりして将来の生活に対する不安が解消、軽減されるなどの主観的な事由によつて、ある期間を経過すれば消退するものと考えられる。但し脳萎縮自体は改善されことはないが、それも日常生活上如何なる障害を示すか予測困難であるが、著るしい人格水準の低下をおこす可能性は少い。

以上のとおり認められる。なお、右認定は被控訴人の苦訴が主観的には真実のものとの前提であつて、鑑定もその前提でなされたものであるところ、本件一切の資料からみて、病人にありがちな多少の誇張が仮りにあるにせよ、虚偽の訴えとは認められない。

三、そこで本件事故と右認定の被控訴人の症状との関係について判断する。

<証拠略>を総合すると、被控訴人は本件事故前昭和三八年六月二七日に他人に前額部を殴打されて転倒し、後頭部をコンクリートに打ちつけ一時意識不明となり、前額部擦過傷、後頭部皮下血腫及び軽度の膨隆、口唇裂創、脳震盪症の傷害を受け、第一病院に同日から同年七月四日まで入院治療を受け、治癒したものとして退院したこと、しかし同月二二日東大病院を訪れて頭痛、耳鳴り、視力障害などを訴えて診断を求め、頭部外傷後遺症の診断を受けたが、同病院で脳波の検査を予約しながら以後来診せず、そのまま自動車運転手として本件事故に至るまで通常に働いていたこと、が認められる(以上の負傷を以下、「前回の負傷」という)。

そこで前回の負傷と本件事故とが、被控訴人の本件症状に如何に関係するかが問題となるが、まず脳の何らかの器質的変化それ自体(脳萎縮を含む)についてみれば、当審鑑定の結果その他一切の証拠によつても、それが前回の負傷、本件事故のいずれによるのが、あるいは両者があいまつておこつたものか、医学的に断定しえないものと認められる(被控訴人は前回の負傷後脳の精密検査を受けなかつたこと前認定のとおりである。もつとも第一病院ではポータブル式のレントゲン写真をとつて調べたが異常がないと診断されたことが<証拠>で認められるが、右レントゲンがポータブル式であること、その後被控訴人が東大病院で前記診断を受けたこと、前回の負傷においては、本件事故に比べて後頭部打撲の状況が明瞭かつ強度と認められることからいつて、右第一病院における診断結果からは何ともいえない。)。しかも、右脳の器質的変化がたとえ本件事故の結果であると仮定しても、前記のとおり人格の著るしい低下を来たすほど高度のものではないのであるから、現在の症状が消退するときは、労働能力の減退に関するかぎり右変化自体は考慮外においてよいといえる(それにもとづく他の何らかの疾病や苦痛が発生すると予想させるに足りる証拠はない。)。要するに前認定の後遺症状殊に神経症的症状が問題なのであるが、この点については、前回の負傷後被控訴人は一たんそれを訴えながらもみずから診療を放棄し、以後とりたてて心神の異常を訴えることなく通常の労働に差支えがなくなつていたこと前認定のとおりであるところ、本件事故で再度衝撃を受け、前記状況のもとに被控訴人に症状が発生し、ついに前回の負傷よりはるかに強い前認定の後遺症(神経症の色彩の強いもの)に至つたことが明らかであるから、本件事故と被控訴人の本件症状との間に相当因果関係を認めることができる。本件事故の状況が前認定のとおりで疾走中の追突のようにきわめて大きな追突とまではいえないこと、被控訴人の頭部打撲についても前回の負傷ほど明瞭な外傷などがないなどがないことによつても、右認定を妨げるものではない。前回の負傷を受けていた被控訴人に本件事故後前記症状が発生したことをもつて、特別の損害として控訴人側(運転者和田)の予見可能性の有無を問題にすることも必要がない(元来不法行為について民法第四一六条第二項をそのまま適用ないし準用することには疑問があるが、たとえこれを肯定するとしても、交通事故はあらゆる状況の人間に対して起り得るものであることからいえば、加害者は常にその予見可能性があるともいえるし、本件事故が決してさほど軽度のものではなかつたことを考えれば、同事故と、それによつてひきおこされた被控訴人の本件症状との間に相当因果関係があると認めるのが相当である。)。

四、進んで被控訴人が本件事故で受けた損害について判断する。

(一)  得べかりし利益の喪失。

(1)  被控訴人の本件事故前の就業状況ならびに平均収益、昭和三九年三月一日から同四〇年八月末日までの間に被控訴人が本件事故による心身障害のため、治療や労働不能によつて逸失した収益の最低推計額について、当裁判所の判断は原判決理由第三項(一)(1)のとおりで、合計四三万円と認めるものであるから、原判決中右の部分を引用する。

(2)  昭和四〇年九月一日以降当審口頭弁論終結までの具体的な逸失利益については、その算定基礎たる現実の収入等の資料はないが、右時期について、被控訴人が減収を一割と主張していることは、前認定の被控訴人の症状からみて一割に止まると自認したことに帰するし、その後の将来の逸失利益についても、被控訴人が今後自動車運転手として(当審鑑定の結果によれば、被控訴人は現在の主症状が消退すれば運転手として必ずしも不適格とはいえないと認められるし、右症状存続中も<証拠>によれば軽作業以外にともかく運転の仕事もしていたことが認められる。)、あるいはそれに準じる労働に従事するものとして、本件事故前に比べてなお当分の間最低一割は労働能力が減退しその割合の減収を余儀なくされるものと推定され、その期間は前記昭和四〇年九月一日から起算して五年間(当審口頭弁論終結後ほぼ二年と一〇か月)とみるのを相当とする。そうすると当審口頭弁論終結までの分を含めて、五年を通じ、事故前の平均月収三万円として合計一八〇万円の一割一八万円をもつて右期間の逸失利益と認める(五年間を通じ最低に見積つた推計であり、しかも被控訴人の収入は月により不定であつたから、中間利息を控除するのは妥当でないと認めてこれをしない。)。

右の五年経過後においても、被控訴人の本件症状(神経症)が継続すると認め得べき証拠はなく、かえつて鑑定の結果、<証拠>により認められる被控訴人の年令(昭和四二年九月で三三才)、その他本件一切の証拠をあわせ考えて、本件の結着がついて将来の生活の見通しに曙光を見出し、かつ生活改善や心身の社会適応に努力することにより、通常人としての就業、収益が期待できるものと認められるから、逸失利益として右認定以上のものを認めることはできない。

(3)  被控訴人が被控訴人から一七万円を受取り、強制保険金一〇万円を取得したことは当事者間に争いなく、右合計二七万円は逸失利益の損害に充当されたと認めるが相当であるから、逸失利益合計六一万円の残額は三四万円となる。

(二)  慰藉料

控被訴人が本件事故による心身障害により精神上の苦痛を受けたことは明らかであるが、本件事故の状況、前回の負傷の存在、現在の症状の消退する見込の強いこと、控訴人側の示した慰藉の措置(<証拠>を総合し、控訴人は本件事故後直ちに被控訴人に対する見舞等の措置をとり、被控訴人の北条病院中の一切の治療費一一万円余、看護料五、二六〇円を支払つたことが認められるほか、他に前記一七万円を支払つたことは被控訴人の自認するところである)その他諸般の事情を考えて、金三〇万円をもつて慰藉されるべきものと認めるのが相当である。

(三)  弁護士費用。

<証拠>を総合すれば、被控訴人は本件事故につき訴訟前に控訴人に対し賠償請求をしたが控訴人から治療費及び休業補償をするとの申入れを受け一部は前認定のように支払われたけれども、具体的な金額につき両者間の差が大きくまとまらず、やむなく被控訴人は弁護士坂根徳博に対し本件訴訟を委任し第一審判決における認容を基礎として東京弁護士会報酬規定の最低割合各八分による手数料、謝金(第一審判決までの分)を支払う旨約したことが認められる。よつて右弁護士報酬は、本件損害賠償請求権実現のため必要な費用(損害の延長)といえるが、本件事故(不法行為)の相当因果関係の及ぶ限度は、本件事案の内容すなわち控訴人に抗争の余地があつて現に当審における認容額は請求を相当下廻つていることその他諸般の事情にかんがみ、当審で前記(一)(二)において認容した金六四万円の約一割六万円までであると認めるのを相当とする。

五、以上の次第で、被控訴人は控訴人に対し以上の各損害を賠償すべきがあるから、被控訴人の本件請求は、右四の(一)(二)(三)の合計七〇万円及び(三)を除いた六四万円に対する、本件事故後であることの明らかな昭和四〇年九月一日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で正当であるから認容し、その余は理由がないから棄却すべきである。そうすると結論を異にする原判決を右のとおり変更すべく、訴訟費用につき民事訴訟法第九六条、第八九条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。(近藤完爾 田嶋重徳 小堀勇)

鑑 定 書

<前文略>

(一)問題点

控訴人及び被控訴人の鑑定申請書から、私は鑑定上問題の要点は次の二点であると考えた。

(イ) 患者の現在の症状とその予後

(ロ) 現在の症状の原因が、昭和三十九年二月二十日の交通事故によるものであるか、あるいはそれ以前の外傷に起因するものであるか。

なお、以前の外傷は控訴人の申請書では昭和三十八年六月二十四日及び二十七日の二回となつているが、これは調書にもみられるように、昭和三十八年六月二十四日の負傷というのは、東京大学附属病院病歴の記載の誤り(患者の記憶の誤りか、聞き誤り)と思われる。したがつて、主な外傷は同年六月二十七日のものと考えてよいであろう。

以下、この二点についてのべる。

(二)現在症

東京労災病院、慈恵会医科大学における昭和四十二年三月及び四月診察当時の主訴は次のように多種多彩である。すなわち、頭痛、耳鳴(特に左側)、霧視、頂部痛、背痛、上肢ことに左上肢のしびれ感、左上下肢の痙攣、脱力感、体がぐらぐらする、物忘れ、易怒、刺戟性亢進、根気がない等である。

このような訴えは、昭和三十九年二月二十日には少なく、漸次増加しているように見える。すなわち、交通事故後直ちに北条医院に入院しているが、当時の同院の診察録には、嘔気、左前胸部痛が記載されているだけであり、二月二十二日頭痛、肩こり、三月二日疲れ易い、三月二十一日疲れ易い、嫌な気持になる、本を読んでも永続きしないという訴えがましている。昭和四十年六月二十八日の証人調書の記載でも宮崎医院は、当初に頭痛、胸部痛を訴え、次第に痛みその他前記症状が強くなり、四月初めに右視力低下、三叉神経のため井上眼科を紹介(四月二日)、外傷性神経症状がつよくなつたので、四月五日に東大脳神経外科を紹介している。

東京大学脳神経外科に受診した四月七日には、耳鳴、頭痛、全身倦怠感、下肢の無感覚、精神活動力の低下、右視力低下を訴え、十二月に入り、頭痛、耳鳴、不眠が増強し、忘れつぽい、ふらふらすの等訴えるようになり、訴えが多いと記載されている。

そして、昭和四十年秋頃から特に焦躁感、易怒傾向が強くなつたという。

つまり、苦訴は受傷後一ケ月頃から漸次まし、訴えが多くなつている。これが第一の特徴である。

なお、昭和三十八年六月二十七日受傷時の第一病院の病歴をみると、額前部を強打され転倒し、後頭部をコンクリートにて強打し、一時意識を消失した(これは東大では後から撲られたとのべており、昭和四十年六月二十八日の証人調書では横から顔面をなぐられ、横倒して倒れたとのべ、多少くいちがつているが、斜後方から顔面を撲られ、後方に倒れたと思うのが妥当らしい)。その当時、軽度の頭痛を訴えているという記載以外には苦訴はないが、同年七月二十二日の東大の病歴では、三日間見当識障害、嘔気があり、二日間複視があり、受診当時(受傷後二十五日)になお視野が上下左右に動揺していると訴えており、頭痛、耳鳴、視力障害もすでに訴え、しつこいことに気づかれている。

また病歴では既往歴には著患はないといつているが、昭和四十年六月二十八日の調書では、中学一年頃左中耳炎に罹つたと述べている。

つまり、頭痛、耳鳴、視力障害は最初の外傷時に、そして一ケ月後にも、あつたわけである。それがその後もつづいていたかいなかつたかは明らかではないが、考察の際には問題にしなければならないことであろう。

面接時の態度で特に目立つことは、人により、あるいは時により、礼儀正しく、折目正しい行動をとる時と、倣慢な、人を馬鹿にしたような、あるいは攻撃的な態度を露骨に示す時があることである。しかも礼儀正しいといつても、妙に堅苦しく、不自然で、ぎこちない。これは後述の心理テストでも示されるように、元来、攻撃的、反抗的傾向がつよく、几張面、潔癖な面もある。いわゆる強迫性格であり、時には攻撃的な傾向が抑制されているが、他の時にはそれが露呈されるといえよう。

応答の内容は一応はよくまとまつている。しかし話はくどく、毎日のように同じ訴えをくりかえし述べたり、書いて来たりする。そして医師の話に対して、一応納得したような態度をとつても、暫くすると再び同じ問題をくりかえす。この固執する傾向は、自己中心的、独善的、自己反省が少く、他罰的な傾向と相通ずるものである。

これはロールシヤツハテストにもあらわれている。テストの反応では、全体反応が全体の四分の三を占めている。しかもその形態水準はあまり高くない。知能の高いばあい、全体反応の多いことは、抽象的、綜合的な考え方の持主ともいえようが、形態水準や後述の知能テストからみても、この患者のばあいは紋切り型の強迫性格で、具体的、現実的な問題に対して融通性に乏しいことを示しているといえよう。運動反応と人間反応が少いことも、他人への共感性に欠け、独善的なことを示し、平凡反応が少いことも、社会的協調性や常識に欠けていることを示すものといえよう。

なお、反応数が少いこと、反応終了時間が短かいことはテストに対して、防衛的、警戒的な態度を示すものであろうが、これも元来の性格の一面を示すものといえよう。しかも色彩反応で、形態色彩反応以外に、色彩形態反応があることは情諸不安定で、感情の内容統制に欠けていることを示し、さらに色彩因子よりも陰影因子の方が優位なのは不安抑うつ気分が強いことのあらわれであろう。動物反応が多いことは人格の成熟度の低いことを示している。

こうして元来の性格的偏りに加えて、神経症的不安抑うつ状態がテストにあらわれており、現在は社会的に不適応な状態を示していると判断できよう。

クレツペリン加算テストでも作業の動揺率が極めて高く、極端な型を示し、情諸の不安定あるいは性格の異常を示している。

WAIS知能検査では、言語性テストでIQ一〇三、動作性テストで八九、全体としてIQ九七で、大体普通の下の範囲内にある。ことに単語問題では平均値をやや上まわつていることから、元来の知能はそれ程低いとは思われない。しかし動作テストが全般に低く、ことに最後の組合せ問題の成績が急に落ちていることは、クレツペリンテストに見られた動揺率の高いことや、ロールシヤツハテストで色彩形態反応の多いこととあわせ考えると、情諸的に不安定で、テスト後半が投げやりとなつているためであろう。

以上の諸検査から目立つことは、融通性の乏しい、かたくるしい、紋切り型の人柄で、他人との共感性に欠け、独善的であり、しかも情諸的に不安定で、感情を統御できない状態にあることである。

患者自身は、「元来おとなしく、はずかしがり屋であると共に、几張面で物事をきちんとしないと気がすまない性格であつた。それが受傷後は怒つぽく、病院に来る途中も車掌の態度が悪いと喧嘩したり、乗客が後から押したといつて撲つたり、家でも家人をこまらせる乱暴をするようになつた」といつている。

前述のように、元来攻撃的、他罰的の傾向がつよかつた。それが強迫性格の特徴である半面、その傾向が抑圧され、統御されていた。それが一見おとなしくみえ、几張面であつたといえる。患者は現在三十三才であるが、結婚は独立して一家を構えるまではしないといつている。これは一見もつともらしい考え方のように見えるが、柔軟性のない、ぎこちない考え方ともいえよう。

それが受傷後、抑制がとれ、元来の傾向が露呈されたとも考えられる。つまり、性格が変化したというよりも、元来の性格傾向が圧えられていた面が露呈されたわけである。

ここで問題となるのは、このような変化が何如におこつたかということである。すなわちそれは脳の器質的変化によつておこることもあり、心因性の症状、すなわち神経症のばあいにもみられるからである。

面接や前記の心理検査、あるいは証人訊問の際の応答を読んでも、患者が高度の知能低下を来すような脳損傷を受けているとは考えられない。訴えが多いことも、高度の脳障害にはむしろ稀なことであり、神経症患者に多くみられることである。

神経学的な検査でも膝蓋腱反射の亢進以外に目立つた異常所見は認められない。このように他に脳の器質的変化に伴つてあらわれる他の病的所見がみとめられず、膝蓋腱反射の亢進だけがみとめられることは、神経症のいわめる緊張症状として、しばしばみられることである。

また視力障害を訴えているが、井上眼科において、三月十九日の検査では右眼視力〇・四、左眼視力が一・〇、四月三日の検査では右眼〇・四、左眼〇・八であり、四月七日東京大学における検査では、右眼〇・八、左眼一・〇であり、その変動が目立つ。視力〇・四と〇・八はたとえ検査者が異り、検査方法がちがつていても、誤差というには余り差が大きすぎるし、右眼〇・八、左眼一・〇ならば、日常生活では殆んど支障がない筈である。

これらの点を考えると、患者が神経症の状態にあることは、まず間違いないであろう。

ただ、だからといつて患者は脳の器質的変化を蒙つていないといいきることはできない。脳の器質的変化の有無と神経症の有無は二者択一的なものではなく、脳の変化があつて、それに神経症の症状が加重していることも少くないからである。一般に脳の損傷が高度であると、神経症は少く、脳障害が軽度の場合に神経症の症状を呈し易いといわれているが、両者が併存することも少くないのである。

脳の器質的変化を検査するために、私は患者の脳波検査を行ないさらに気脳写を行なおうとしたが、患者が拒んだため、気脳写を行なうことはできなかつた。

脳波検査では、安静覚醒時にはα波の連続性、規則性がやや不良であり、前頭脳、頭頂脳領域に濡漫的に六乃至七サイクルの徐波が認められ、過呼吸負荷より徐波傾向は強められる。なお睡眠時脳波及び光刺戟による検査では特別な異常は認められなかつた。

以上の脳波所見から本患者に何らかの脳の異常があることは推察できる。

また東京大学附属病院の気脳写でも脳の中等度の萎縮があるといわれている。

つまり本患者に脳の器質的障害があることはまず推定できる。ただ問題はその程度であり、そして、その原因及び現在の状態との関係である。

そこで、以上の所見を改めて考察してみよう。

(三)考察

本患者の臨床症状及び諸検査について、今まで述べて来た。以下それぞれについて考えてみる。先づその主訴について考える時、われわれが第一に考えるのは、いわゆる頭部外傷後遺症、外傷性頸性頭痛、むちうち症であり、あるいは外傷性神経症である。

これらの症状名は多少その内包する意味や基礎にある考え方はちがつているが、極めて似た症状に対して用いられている。

たとえば、頭部外傷後遺症は「頭部に何らかの原因によつて外傷を受けたが、或る特定の領域の障害として推定される症状(たとえば片麻痺、失語症、失行症、失認症等の巣症状)が認められず、頭痛、頭重、めまい、耳鳴、刺戟性亢進、不眠、注意集中困難等いわゆる神経衰弱様症状を呈する患者」の状態を指している。頸性頭痛もこれと略似た症状を指すが、更に頂部痛や四肢に放散するしびれ感や疼痛、霧視、胃腸障害等をその症状群にふくめている。むちうち症も似た内容である。ただこれらの三者に対して、頭部外傷後遺症は現在明確な脳の器質的変化を証明しえなくても、何らかの脳の器質的変化を予測しているし、頸性頭痛は脳の血行障害にもとづく器質的乃至機能的障害を推定し、むちうち症も頸部の過度の前屈及び後屈による過屈曲と過伸展による頸部の損傷及び自律神経系の機能異常に伴う生物学的変化等を予期している。つまり、そのいずれも、脳乃至頸部の器質的変化等を予測しているのである。

これに対して、外傷性神経症はその根底にある考え方は前三者とその仮説を異にしている。外傷性神経症の名をはじめて用いたオツペンハイム(一八八五年)は「現在の医学では脳の器質的変化を証明しえない症状群」を外傷性神経症とした。そして極めて微細な脳の変化(分子的病変)を推測していた。つまり、将来は何らかの方法で脳の器質的変化を見出し得ると考えていたわけである。この点では前の三者とかなり似かよつている。この考え方はその後も、主として外科あるいは脳外科の医師にうけつがれている。しかし、第一次及び第二次大戦の経験から、主として精神科医の間で、この脳の変化が未だ確定しえないものという除外法ではなく、積極的に外傷性神経症の原因の追求が行なわれ、外傷性神経症は心理的原因によつておこるものであり、脳に変化はない。つまり典型例では脳には全く変化がなく、もつぱら心因によつておこるものである。したがつて、その診断には、患者の心因を明らかにするように努力すべきであると主張されるようになつた。これは戦地が発病した兵士が本国に帰され、除隊になると症状が消失するとか、終戦と共にそれまで下肢の麻痺で動けなかつた患者が、全く症状が消失して、元気に故郷に戻つていつたという劇的な症例の経験から考えられたわけである。ただ当時は、患者が除隊したいからとか、年金などの補償を求めてなつたのだという願望にもとづくものとして、補償神経症とか、年金神経症とかいう名称も用いられたのである。

しかし、近年は、同じような心因性の解明が問題にされたとしても、そのような願望だけで神経症がおこるのでない。それらの希求観念は二次的におこるものであり(あるいはそれが明らかなものは詐病である)、それよりも、現在あるいに将来に対する不安、家庭内の人間関係等、患者の不安と欲求不満、ことにそれが本人に意識されず、抑圧されている精神的な葛藤があつて、精神的な板ばさみの状態の時におこるとされるに至つた。

したがつて、その診断にはその心理的な原因を明らかにする必要があることが強調され、その場合脳に器質的変化の有無が第一の基準にはならないとされるようになつたのである。勿論その場合、脳の質的変化があつても、神経症症状を呈することがあることは前にものべたとおりである。

さて、本患者の場合、臨床的には、このいずれの範疇にふくめてもよい状態である。しかし、その原因が主として、脳の変化に基くと考えるか、心理的なものとするかは、本鑑定の一つの重要な点であう。

そこで本患者の第二の負傷、すなわち昭和三十九年二月二十日の負傷の問題から考えてみよう。

この場合の事故は患者のトラツクが停車中に後方から追突され、そのためさらに前方に停車中の車に患者が追突している、患者は一時意識を消失したと述べており、東京大学脳神経外科の病歴では受傷後一週間譫妄状態がつづいていたと述べている。東京労災病院では初めの二十日間はよく覚えていない。そして一ケ月半は精神錯乱状態であつたとのべている。

しかし、北条医院には事故からそれ程長時間かからずに(昭和四十年六月二十八日の証人調書における宮崎正寿医師の証言によれ ば、二月二十日午前十一時二十分に救急車で運ばれて来て、病院に来るのに大体六分乃至十分かかつている。そして浅草警察署の送致書や被疑者、被害者の供述調書によれば、午前十一時三十分となつていて、逆にくいちがつている。このことは患者が短時間のうちに病院へ運ばれたことを示すものと考えてよいであろう)診察を受けており、当時の記録には意識障害のあつたという記載がない。もし譫妄状態であれば、当然医師はそれに注目したであろうし、診断書も約二週間の外傷とは書かなかつたであろう。ことに同病院の病歴によれば、二月二十九日即ち受傷後八日目に所用で外出と記載されているが、同院の体温表によれば、二月二十五日(第五病日)にすでに外出し、以後三月三日、八日、十四日、十六日、十八日等頻回に外出している。こうして、第五病日にすでに外出していることは、患者が当時譫妄状態ではなかつたことを示すものであろう。

またもしそのような譫妄がつづけば、その後には健忘期が相当期間あり、本人は記憶していないことが多いはずであるし、又受傷時以前のこともわすれている、すなわち逆行健忘もあることが普通である。しかし、北条医院の初診時にすでに、逆行性健忘がないことが記載されているし、三月五日の被害者供述調書でも、事故当時の状況を具体的に述べている。

これらのことから、受傷時の意識障害は、たとえあつたとしても、極く短時間で、その後は意識障害はなかつたと考えるのが妥当であろう。

一般的にいつて、頭部外傷の場合、当初の意識障害の時間の長さは、脳損傷の程度を推測するかなり有力な手がかりとなる。そして、もし晩発性の脳内出血あるいは蜘蛛膜下出血及びそれに伴う血腫でもなければ、後になり症状が悪化することは比較的稀である。本患者の場合、北条病院で後になり漸次訴えが多くなつているが、それは意識が恢復するにつれて訴えが多くなつたことは(前述のように意識障害があつたとは思われないので)考えられない。

以上の臨床的所見から、昭和三十九年二月二十日の交通事故で、重篤な脳障害を来す程の外傷はうけていないであろうと推定されるのである。これは浅草警察署の送致書にみられる事故当時の状況を推測しても、交通が渋滞していて、患者の車は停車しており、その後方数米の所から時速十キロ程度が追突したとすれば、重篤な脳障害はあまりおこり得ないと想像されるのである。

ここではじめに問題を提起した外傷性頸性頭痛、むちうち症か外傷性神経症かの点にふれなけばならないが、この患者の場合、そのいずれの可能性も考えられる。しかし、その考察の前に、昭和三十八年六月二十七日の負傷について考えてみたい。

受傷当日の第一病院の病歴では、「左前額部を強打せられ、転倒、後頭部をコンクリートにて強打す。一時意識を消失す。右眼上部より右眉上部にかけて皮下出血、上下唇中央の裂創、後頭部血腫」と記載されているのでが、意識障害の有無、あるいはその程度については記載がない。ただ「現症には異常はないが、一応入院経過観察の要あり」との記載から、ひどい意識障害があつたとは思えない。

その後、七月四日まで入院していたが、六月二十九日の所見では神経学的に異常所見がみとめられず、軽度の頭痛は訴えるが、経過は良好と記されている。

しかし七月二十二日に東京大学を受診し、頭痛、耳鳴、視力障害を訴えており、受傷後三日間見当識障害があり、二日間は複視があつたとのべている。当時の病歴には視力の記載がないが、神経学的に異常所見は認められていない。そして「会社からずる休みと思われていること、顔面の傷、耳を非常に気にし、何回もいろいろ尋ね、しつこい」と記載されている。

もし、東大での陳述が正しいとすれば(これは公務災害等とちがつて、補償金の問題もなく、自発的に受診したとすれば、比較的信頼性は高いと思われる。もし賠償の問題がからんでいたとすれば、話はちがつてくるが、昭和四十年六月二十八日の患者本人の証言では、自ら身体の異常を訴えて行つたらしい)三日間見当識を失つていたということは、脳に何らかの障害があつたことが推測されるのである。又二日間複視があつたことは、右眼の打撲によるためか、脳障害のためか不明であるが、もし前者であれば、この時にすでに視力障害をおこしていたと考えられるし、後者であれば脳障害があつたと思われる一つの拠り所となる。

そして会社からずる休みしていると思われていることを気にしていることは、当時会社を休んでいたこと、及び何らかの症状が残存していたことを意味しているといえよう。

以上、二回の負傷について、それぞれ考えて来たが、いずれも頭部外傷後の障害である。第二回の負傷が北条医院で述べたように頭部を強打したものか(頭部に創あるいは腫脹はない)、控訴人のいうように、直接頭部の打撲はなかつたとしても、むちうち症の可能性はあり、これも一応頭部外傷後の障害として考えていきたい。この場合、そのいずれがより重症であつたかは、証拠の記録からでは判断しえない。しかし、いずれの外傷も控訴人が主張するような脳内の血腫は考えられない。その説明は後にのべる。

しかし、脳波検査及び東京大学における気脳写によつて、何らかの脳の障害が推察されることも確かである。この場合、その原因がどこにあるかを決定することは困難である。第一の負傷以前からすでにあつたものが、第一の負傷によつて生じたものか、第二の負傷によるかは、それぞれの時点での検査を比較してはじめて可能である。しかし、第一の負傷以前には勿論、第一の負傷後にも、脳波検査も気脳写も行なつていないので、第二の負傷後の所見だけでは比較しえないのである。また、第一の負傷時と第二の負傷時に行なわれた神経学的諸検査にも、特記すべき異常所見はなく、両者の差を見出すことができない。第二の負傷後膝蓋反射の亢進がみられるが、これは神経症でも認められることであり、第二の負傷が脳の器質的変化を来したという証拠にはならない。

さらに主訴も第一の負傷と第二の負傷とではかなりよく似ている。ただその訴えの強さと持続期間が異るだけである。これは後に詳しく述べるように、主観的訴えは単に身体的な障害の軽量によつてだけでなく、心理的要因によつても、大きく左右されるものであり、単にその訴えの強弱によつて、負傷の程度は決定し得ない。

要するに脳の変化をどの外傷に起因したかを決定することは本患者では困難である。もし、第一の負傷が見当識障害を三日間おこす程度のものであれば、その際のものという可能性も考えられるが、その確証はないわけである。

ただし、比較的軽い頭部外傷をくりかえした場合、つまりその一つだけでは脳に明瞭な変化を認められる所見が得られない程度のものであつても、外傷をくりかえすことにより、明瞭な異常所見を示すことのあることは事実である。たとえばノックダウンをくりかえし受けた挙闘選手には、しばしば脳波の異常が認められるものである。したがつて、この患者でも、第二の負傷が比較的軽かつたとしても、そして第一の負傷ではそのような異常が認められなかつたとしても、両者がくりかえされたことにより、前記の異常所見が生じた可能性もあるわけである。

なお、このような脳波や気脳写の異常所見がどのような臨床症状を呈するか、あるいは日常生活にどれだけ影響を持つかは、また別の問題である。脳波にてんかんに特有な変化があるとか、気脳写により著明な脳萎縮が認められる場合には、その間の関連をつけることや、症状を推測することは比較的容易である。しかし、この患者の脳波の異常あるいは気脳写の変化では、その関係を推定することはなかなか難かしい。

その器質的変化のために、抑制力が減じ、精諸的な感情の統制がとれなくなり、従来の性格のある側面が目立つてくることはあるであろう。しかし、この患者の場合、高度の脳障害の場合にみられるような、自発性低下、気楽さ、周囲への関心の低下、洞察力の減退など、目立つた性格の変化は認められず、記憶力の低下もWAIS知能検査の数唱問題で平均値より高いことから推測しても、患者の訴えるほど悪くなつているとは考えられない。患者で目立つのは、易怒、刺戟性の亢進などである。

以上、この患者の外傷について考えて来たが、今までに得られた要点は、

(イ) 脳にある程度の萎縮があることは認められるが、臨床的には神経学的に特に目立つ所見は認められない。

(ロ) この脳の萎縮の原因は第一の負傷によるものか、両者に関係あるかは明らかでない。

(ハ) 現在の主症状は前述のように、主観的な訴えである。これは第一の負傷の際にもあつたが、第二の負傷後それはさらにはげしくなり、かつ多彩になつた。

(ニ) 知能の低下は認められない。患者は記憶力の低下を訴えるが、テストからはそれも目立たない。

(ホ) 患者は、融通性に乏しい、かたくるしい、紋切り型で、独善的な人柄で、他人との共感性に欠け、攻撃的な性格の所有者でそる。しかも現在は情緒的に不安定で、感情を統御できない状態である。

ここで初めに提起した、患者の現在の症状が脳の器質的変化に基くか、心因性のものかという問題を考えてみよう。

患者の現在の臨床的な症状は、一般に頭部外傷後遺症、外傷性頸性頭痛、むちうち症あるいは外傷性神経症といわれる状態である。この患者は脳の器質的変化が推定されるので、一般的には前にのべたように、器質的変化を伴う頭部外傷後遺症、頸性頭痛、むちうち症とするのが穏当のように見える。しかし、その症状の経過をみると、かなり不自然と思われる点が少くない。

例えば、昭和三十九年二月二十日の北条医院の病歴では、嘔気、左胸部疼痛が記載されているだけであり、三日目に頭痛、肩こりが、十二日目に疲れ易い、一ケ月後に嫌な気持になり、根気のないことを訴え、それから約十日後、右視力の低下、三叉神経痛を訴え、さらに耳鳴、全身倦怠感、下肢の感覚異常等が加わり、約十ケ月後に、頭痛、不眠、耳鳴が増強し、健忘を訴え、めまい等が増し、一年半以後焦躁感、易怒傾向が目立つている。しかも、その間一時症状がよくなつた時期もあることを述べている。

頭部外傷後遺症において、症状が必ずしも一時に発生するとは限らず、漸次増強したり、変動することはしばしば認められることである。しかし、通常は比較的早い時期に多くの発表にもみられるように、前にのべたような頭痛、頭重感、肩こり、めまい、耳鳴、霧視、上肢のしびれ感等の症状が出そろい、他の心理的原因や脳の器質的変化が加わらない限り、その間に症状の消長があつても、漸次軽快することが多い。

この患者の場合、医師が何人が変つており、その間診の仕方によつて、本人の陳述も異り、したがつて、病歴の記載だけが当時のすべての症状でないことも推定されるが、それにしても、あまりに症状の増悪が緩徐すぎるような印象がある。

ことに、裁判の進行に伴つて、主訴が増している傾向のあること、特に控訴されてから訴えが多くなつていることは、かなり注目すべき事であろう。

さらに、第一の受傷については、どの病院でも一言も陳述していないことや、受傷時の意識障害の期間についての陳述が後になる程長期間となり、それが病歴の記載(ことに北条医院では譫妄状態と述べている比較的早い時期にしばしば外出している)とはかなりくいちがつた、症状についての誇張があることは、かなり問題であり、かなり意識的に症状の悪化を強調している印象がつよい。

ことにこの患者の第二の外傷は交通事故であり、賠償問題がからんでいる。したがつて、補償に対する願望があり、そのために作為的に症状を誇張している可能性もある。ことに東京大学で、昭和が十九年十一月に自動車の運転は今後困難と見なされると診断されて以後、すなわち十月以後主訴がはげしくなつていることは神経症的色彩の強いことが推定される。

つまり医師の言動による医原性の神経症症状が加わつて来たという可能性が多いように推定される。

つまり、患者の証言や陳述には、第二の受傷による障害をことにつよく強調しようとしている傾向が伺えるのである。

ことに、一方では人格が未熟であり、攻撃的な性格の持主であれば、被害者という正当性、自己の責任ではないという気持から、相手をせめる言動が明らかになつていく傾向は十分考えられる。

つまり、頸性頭痛とかむちうち症がたとえ最初にあつたとしても、第二次的に途中から、神経症的色彩、ことにかなり補償を意識した、いわゆる「補償神経症」(この名は必ずしもふさわしいとは思わないが)の傾向がつよくなつたように思われる。

これは裁判の経過中に、患者側の弁護人の質問にはかなり明確な応答をしているのに、控訴側の弁護人には極めて警戒的な態度がうかがわれることからも、その印象がつよい(弁護人の態度も影響しているかもしれないが)。

また、精神鑑定の目的で入院した慈恵会医科大学(この病院に対しては患者は比較的信頼と好感をもつている)では、入院中は投薬を要求していたが、退院時には医師が暫く服薬を中止して様子をみたらどうかとの説得に従つている。これも考え方によつては、症状をつよく訴えていた患者にはふさわしくない態度ともいえよう。

以上のことから、私は、たとえ受傷当初に外傷性の頸性頭痛があつたとしても、現在の状態は外傷性神経症、ことに補償金が関連し、あるいは運転手として働くことを禁止されたことに対する不安が機縁となつた神経症である可能性が強いと考える。

(四)予後

以上のように、この患者は外傷性神経症の可能性が強い。そしてそれは補償問題に関連しているように思われ、さらに運転手としての将来に対する不安も心因として強く働いているかもしれない。

したがつて、もし補償問題が適切に解決されれば、症状はかなり改善されると思われる。この場合、適切な解決とは必ずしも本人の期待どおりの補償をするという意味ではない。それは今後似たような問題で、意識的に補償に対する願望をくりかえすおそれがあるからである。要するに、心理的に患者が補償の問題から解放され、今後問題にすることもなく、あるいは問題にしえないように解決することである。

また今後の生活の不安を除去することも予後に大きく影響する。将来の見通しが立てば、神経症の症状は軽快しよう。現在の症状がある間は別として、その主症状が消退した場合、運転手として不適格であるか否かが患者の最大の関心事であろうが、私は必ずしも不適格とは断言しえないと考えている。ただ気脳写の所見等から、今後再び事故をおこせば、脳の障害はさらに大きくなるであろう。したがつて、他の適当な仕事が見出されれば、より望ましいであろう。

このように、将来の不安の解消と、補償問題の解決が予後を左右する大きな課題であるが、それらが適切に解決されないと、症状が持続する危険がある。その意味で、ことに前者即ち将来の不安の処理に関しては、精神科医による治療を受けることもよいことであろう。ただ、そのために裁判をおくらせることは、第二点即ち適切な補償の解決のためには望ましくないことであり、裁判後に治療する方がよいかもしれない。

ことにこの患者の性格の偏り、攻撃的傾向については注意する必要があろう。

なお、脳の萎縮はそれ自体は今後改善はされない。しかし、現在神経学的にも知的にも目立つ異常はなく、それが今後日常生活でどのような変化を示すかは断定しえない。しかし、それは脳萎縮が明瞭な障害を今後示すかどうかはわからないが、現在の状態から、著しい人格水準の低下をおこす可能性は少いであろうという意味である。

最後に、控訴人が問題にしている血腫について一言しておく。この患者が第一回の負傷の際に皮下血腫が後頭部にあつたことは、第一病院の病歴から明らかであるが、頭蓋内に血腫が生じたと思われる症状はない。またその皮下の血腫がその後の影響を与えているとは思われない。したがつて、血腫については問題とすることはないと考える。

以上の考察にもとづいて左記のとおり鑑定する。

(五)鑑定主文

一、本患者は昭和三十九年二月二十日交通事故にあい、その後、頭痛、耳鳴、脱力感、左手足の痙攣、物忘れ、根気がない、怒りつぽい、背痛、頂部痛、上肢のしびれ感、口渇、かすみ目、めまい等多くの苦訴があり、それらの主観的な症状は今日まで一進一退の状態でつづいている。

しかし、客観的には膝蓋腱反射の亢進以外に所見は認められない。

脳波検査、気脳写により、何らかの脳の器質的変化があると推定される。しかしそれは人格の著しい低下を来すほど、高度の変化とは考えられない。

知能検査の結果から、患者の知能障害はあまりないと考えられる。目立つのは、融通性、共感性の乏しい、ぎこちない、しかも攻撃的な性格であり、その上に現在は、情諸的に不安定になつている。

要するに、現在の症状は、むちうち症の色彩を強くもち、外傷性神経症の症状が前景にでていると思われる。

その原因として考えられるのは、将来の生活に対する不安と、補償に関する欲求である。そしてその根底に元来の性格的な偏りと脳の器質的変化があると考えられる。

二、予後は(四)にのべたように、適切な処置を講ずれば、良好と考えられる。しかし、その処置が不適切であれば、症状は持続し、長期間主観的症状はのこるであろう。

三、本患者の状態を労災補償に関する認定であるとすれば、第七級とするのが適当と考える。その理由は、症状は第十二級と考えられるが、脳の器質的変化があるということからである。

四、ただし、その器質的変化の原因が昭和三十八年六月二十七日の外傷によるものか、昭和三十九年二月二十日の外傷によるものかは断定しえない。第一の負傷後に三日間見当識障害があつたとすれば、その時の負傷が原因とも考えられるし、第一、第二の外傷が重つておこしたとも考えられるからである。

なお、現在の症状は前述のように、神経症症状が中心で、これは第二の外傷に関連した心因性のものといえよう。

右のとおり鑑定する。

昭和四十二年八月二十四日

東京労災病院 院長

医師 近藤駿四郎

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