東京高等裁判所 昭和41年(行ケ)24号 判決 1970年7月22日
原告
有限会社雷竜堂阿部製菓
原告
有限会社八幡商店
原告代理人
土屋豊
旦良弘
松浦勇
同弁理士
紀野友之
旦六郎治
被告
株式会社常盤堂雷おし本舗
代理人
木嶋繁雄
復代理人
佐藤秀夫
代理人弁理士
角健治
主文
昭和三四年審判第三〇八号、第三〇九号各事件につき、特許庁が昭和四一年二月七日にした審決を取り消す。
訴訟費用は、被告の負担とする。
事実<省略>
理由
1、原告らの請求原因一ないし三の事実(被告の本件商標、原告らの権利範囲確認審判の請求および本件審決の要旨等に関する事実)は、当事者間に争いがない。
本訴の主要の争点は、「雷おこし」の文字およびこれに付して用いられる雷神、太鼓、雷光、寺院の堂塔等の図形が、本件審決の当時、商品の出所を表示する特別顕著性を具備するものであつたかどうかというに帰する(もとより、本件審決の判断もこれについてされている。)ので、以下この点について判断する。
2、「雷おこし」という名称の菓子が、江戸時代に発売され著名なものとなつたこと自体は、当事者間に争いがなく、成立に争いのない<書証>その態様および記載内容からみて弘化三年ごろ作成された貼り込み帳と認められる<書証>によれば、
「雷おこし」の名称を創案し、その名を付しておこしを最初に発売した者がだれであつて、その時期がいつごろであつたか、必ずしも明確ではないが、一般には、江戸浅草の金竜山浅草寺(浅草観音)の惣門である通称雷門(明和四年四月類焼)が寛政七年(一七九五年)三月再建されたとき、その名にちなんで売り出されたもので、その元祖は蝶屋(丁屋とも書く)であるとか、一説には虎屋であるとか伝えられている。そして、文政七年(一八二四年)またはそれ以前に発行の「江戸買物独案内上巻」には、「浅草御門跡前通元祖雷おこし虎屋竹翁軒」との記事があり、天保三年(一八三二年)発行の「江戸繁昌記」には、雷門外の雷おこしの名が四方に知れている旨の記述があり、また、天保一五年(弘化一年)(一八四四年)発行の「福徳天長大国柱」には、「江戸浅草名物雷おこし」にちなんだ偶話が記され、そこには、「名物雷おこしとらや竹翁軒」の文字看板および雷神、連鼓、雲の絵看板を掲げた店で、球状の雷おこしを販売している情景を描いた挿絵が掲載されており、また、弘化三年(一八四六年)ごろ一私人により蒐集された菓子などの商標の切り抜き帳には、八個の連鼓、雷光および雲を組み合わせたほぼ亀甲型図形の中央に長方形空白部を設け、その空白部に「元祖本家浅草雷門前角雷おこし蝶屋山城大椽」の文字を配した商標が貼付してある。一方、文政年間(一八一八年―一八三〇年)ごろから、右ときわめて類似した図形の中央空白部に「元祖本家浅草雷門内雷おこしよしの屋幸蔵」の文字を記した商標を用いて雷おこしを販売した者もあつて、やがて、雷おこしを販売する店の間にいわゆる元祖争い等の競業が起きるにいたつた事実があり、そして文政から嘉永年間の流言落首を掲載した「天言筆記巻四」には、半てん脚はん、背に黒雲に稲妻、太鼓の形の箱に菓子をいれ、これをになつた売人がせりふを呼びながら雷おこしを売り歩いた旨の記述があること。
これらの雷おこしは、「雷おこし」の文字のある紙袋、あるいは「雷おこし」の文字を連鼓、雲雷光の図形で囲んだ標章を描いた紙袋にいれ、袋の口をひもで閉じる特有の包装が用いられる例であつたこと。
以上の事実を認めることができる。
3、つぎに、<証拠>によれば、
前記蝶屋はやがて断絶したが、虎屋竹翁軒は明治から昭和にかけ数代にわたつて雷おこしの営業を続け、その承継者と思われる菊原伊兵衛は、明治三三年一月二三日登録、大正七年一一月更新登録出願、大正八年一月更新登録の登録第一〇〇、〇一八号商標(八個の連鼓、雷光、雲をほぼ亀甲型に組み合わせた図形の中央部に、しおり型空白部を設けて成り、第四三類干菓子を指定商品とするもの)の商標権を取得したこと。虎屋のほかにも、明治から大正時代にかけて、浅草寺仲見世を中心とする浅草一帯に、永田亭、評判堂、梅林堂、喜八堂、大阪あみだが池総本家、かどや、常盤堂(内田貢)等多数の店舗が雷おこしを販売し、とくに浅草寺の縁日には屋台でこれを商う者も多く、にぎやかに参詣客に呼び売りして繁昌をきわめ、雷門の名は知らずとも雷おこしを知らぬ者はないといわれるほど著名となり、浅草寺仲見世における代表的みやげ物の一つとなつたこと。そして、本件商標の登録出願がされた昭和一一年ごろにも、堂盤堂(坂口末男)のほか、梅林堂(山田作次郎)、評判堂(富士鉄太郎)、平尾商店(平尾米吉)、青野屋(青野曻)、高石千代吉、喜八堂(田島秀三郎)、豊田商店(豊田兼次郎)、東盛堂(岡田米太郎)、かづさや(渡辺いま)、三日月堂(中山せつ)、稲葉商店(稲葉三吉)、喜良久堂(原福之助)、山藤商店(山本みつ)ら約二〇店舗が競業的に浅草寺仲見世で雷おこしの販売(その過半数は製造および販売)を営んでいたこと。
(常盤堂の店主訴外内田貢が、大正四年一月に登録出願し、同年七月に登録を受けた登録第七三、三一九号商標が、本件商標のいわば前身であつて、その商標公報には、同商標中の雷おこしの文字については権利を要求しない旨の附記があること、ならびに、昭和一一年二月本件商標の登録出願にあたり、出願人により右同様の権利不要求の申出がされたことは、当事者間に争いがない。)
そして、前記の業者は、いずれも自由に「雷おこし」の商品名を用い、商品のレッテル、掛け紙、包装紙に「雷おこし」の文字を表示し、かつ、その文字に添えて、雷神、雷光、太鼓、雲、寺院の堂塔などの図形のうち適宜の図形を各自適宜に組み合わせ、標章として用い、他店の商品と区別するためには、これに店舗名を附記するのが通例であつたこと。
このように、雷おこしが東京浅草の名物として、しだいにわが国内に広く知られるようになつたことに伴い、その当時の刊行にかかる東京とくに浅草の風物に関する多くの文献、あるいは食品、菓子に関する多くの著書に、雷おこしが著名な菓子として紹介され、また、言泉、大日本国語辞典、広辞林、大言海など当時の多くの辞典および各種の百科事典類も、「雷おこし」の項目を設け、あるいは「おこし」の項目でこれに言及するなどしてそれと特定の製造元や販売者との固有の結びつきといつたものにふれることなく、ましてそれが特定の業者の商標名であることを示すこともなく、単にひとつの菓子の呼び名として取り扱つてその由来や品質、特徴などの説明を掲載していること。
以上の事実を認めることができる。
4、ところで、<書証>によれば、雷おこしは、もとは、糯米のはぜたものと黒豆を水飴で固め、径三センチ位の球形にしたものであつたが、明治以降は大阪の板おこしの影響を受けて長方形板のもの(あるいは、それをさらに細かく切つたもの)が多くなり、黒豆のほか落花生、青海苔、ごまをいれたものも作られるようになつたことが認められる。
5、以上認定の各事実によれば、江戸時代の末期、とくに文政から弘化年代にかけてすでに江戸浅草の名物ないし浅草寺参詣みやげとして、江戸の民衆の間に広く知られた雷おこしは、明治から昭和一〇年代にかけても浅草寺仲見世を中心とする雷門附近で不特定多数の業者の競業により製造販売され、庶民的な東京名物の一つとして日本全国に周知され親しまれるにいたつたのであつて、おそくとも本件商標の登録出願がされた昭和一一年ごろには、当該取引業者たると需要者たるとを問わず、「雷おこし」の名称をもつて、何びとか特定の業者の商品にのみ用いられるべき商標であると認識する者はなく、古くから浅草雷門附近で製造販売されてきた前認定のような品質、形状のおこしを指称する普通名称として、かかる商品に付して自由に使用される語であると一般に認識され、そして、「雷おこし」の語に添えて古くから右の商品の包装、看板などに描かれ用いられてきた雷神、雷光、雲、連鼓、寺院の堂塔等の図形も、ある特定の構成をもつ図柄が特定の業者の商品を表示することがあるのは格別として、それと構成を異にするかぎりそのような図形自体は、「雷おこし」の文字と併用されることにより、雷おこしという商品を(その製造販売地である浅草ないし雷門を象徴する図形として)印象づけるにすぎない、何びとも自由に使用しうる慣用的な図形として一般に認識されていたというべきである。
前記登録第七三、三一九号商標における権利不要求の旨の附記および本件商標の出願のさいの権利不要求の申出は、右のような一般的認識に関連して採られた措置であると解するのが相当である。
6、さらに、<証拠>によれば、
戦時中、食糧の不足のため一時中断していた雷おこしの製造販売は、昭和二一年末ごろ大心堂(内田善士)、同二三年ないし二四年ごろ以降穂刈恒一(もと被告代表者)および原告両名のほか、梅林堂、評判堂、稲葉商店、小島屋第一製菓、平尾商店、谷屋、すずめ堂などが営業を始めた。
本件商標を取得した穂刈恒一および被出口は、各取得の当時これらの多数の営業者に対し商標権にもとつく格別の措置を採らず、昭和二九年七月にいたつて被告は特許庁に対し、当時稲葉商店、すずめ堂、星野商店および大心堂がそれぞれ雷おこしの販売に使用していた「雷おこし」の文字および雷神等の図形からなる各標章が本件商標に類似するか否かを照会し、類似する旨の特許庁総務部長名の回答を得たことから、被告は「雷おこし」の標章の使用者に対し本件商標にもとつくとする管理措置を採り始めたが、仲見世商店会長岡田四郎の仲介により、当時仲見世で雷おこしを販売していた七店舗(梅林堂、評判堂、稲葉商店、松寿堂ほか)にかぎり、引き続き雷おこしの標章を使用することを許諾した。
また、昭和三一年四月被告は弁護士、弁理士に委任して原告両名ほか六店舗に対し「雷おこし」の文字標章の使用中止を求め、一方同年末、前記小島屋第一製菓株式会社に対しては、本件商標につき無償、無期限の使用の許諾を与えた。原告らは、弁理士の意見を徴した結果、本件商標の商標権の効力は「雷おこし」の文字に及ばないとの見解を採り営業を続行し、結局、本件審決がされた昭和四一年二月七日当時においても、被告のほか原告両名および他に数名の者が、いぜんとして「雷おこし」の標章を使用して営業を継続していたのである。
これらの戦後における各営業の状況および「雷おこし」の文字ならびに雷神等の図形の使用の態様は、前記戦前におけるのと異なるところはなく、商品雷おこしは前記同様に東京浅草名物として全国的に著名であり、戦後に刊行された各種の文献および辞(事)典類に掲載、紹介されることが多いことも前同様である。
以上の事実を認めることができ、この認定に反する証人Ⅰの供述は措信しない。
7、そして、以上認定の事実関係(これらの認定を左右するに足る証拠はない。)を通観、総合して判断するならば、前記5に認定した、「雷おこし」の文字およびこの文字に添えて描かれる雷神等の図形が、商品の普通名称を表示する文字またはその商品を印象づける慣用的な図形にすぎないとの世人一般の認識は、それが長い歴史的経過に由来し、広く日本全国の民衆の心に深く根ざすにいたつたものであるだけに、戦時中の営業の一時的中断や、前記昭和二九年以後においての被告の本件商標にもとづくとする若干の管理措置あるいはそれに添うかにみえる特許庁の若干の処分があつたことにより、さほど害されることなく、本件審決の当時においても―たとえ被告をはじめとする一部の業者について僅少の例外があつたとしても―そのような一般的認識がなお存在したというべきである。
8、したがつて、本件商標は、その構成中の「雷おこし」「元祖」「浅草雷門角」の文字と、雷神、連鼓、雷光、雲、寺院の堂塔等の図形は、それら個々のものとしてはなんら商品の出所を表示するに足る特別顕著性がなく、これを別紙(一)のような特定の図柄に組み合わせ、「トキワ堂製」の文字を配した点に特別顕著性があるのであつて、そのような組合せの構成および「トキワ堂」の文字を商標の要部とし、その称呼および観念としては「トキワ堂印」(トキワドウジルシ)の称呼、観念をのみ生ずるものと解すべきであり、本件審決のように、本件商標から「雷」(カミナリ)の称呼および観念が生ずるとするのは、商標の要部の誤認にもとづく誤つた判断である。
そして、本件のイ号、ロ号各標章が、構成上明らかに本件商標と異なつたものであつて、「トキワ堂印」(トキワドウジルシ)の称呼、観念を生じないことはいうまでもなく、したがつて両標章は本件商標の権利範囲に属するものではない。
9、なお、被告の主張に関して二、三補足説明する。
(1)<省略>
(2) 被告主張五、六について
特許庁の審査官または審判官がどのような見解に立つて前記権利不要求の申出の削除を命じ、あるいは本件商標またはその連合商標の審査、審判を行ない、その登録を許容したとしても、それによつて本件商標の要部が決定されたり、権利範囲が(とくに、本件審決当時における権利範囲が)左右されたりするものではなく、それは本件商標の要部ないしその権利範囲を認定判断するうえでの単なる一つの資料であるにすぎず、かりにこの点が被告主張のとおりであるとしても、それはとうてい前記認定をくつがえすに足るものではないから、ここではその点に立ち入る必要はない。
10、以上のとおり、イ号、ロ号各標章が本件商標の権利範囲に属するとした本件審決には、判断を誤つた違法があるから、その取消しを求める原告らの各請求を認容……する。(杉山克彦 楠賢二)(裁判長裁判官古原勇雄は、退官のため、署名捺印できない)