大判例

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東京高等裁判所 昭和42年(う)1414号 判決

被告人 田村智輝

〔抄 録〕

被告人の不在証明の成否について

被告および弁護人が原審公判廷以来主張するところは、被告人はその妹井熊智枝子方が昭和四一年四月二八日および翌四月二九日の両日にわたり群馬県高崎市江木町三八二番地の三から同市高関町二二六番地に転居するについて、同女方から引越荷物の取りまとめを依頼され、同月二六日妻田村ミヤ子と共に高崎へ行き江木町の右妹方で一泊して荷まとめをなし、翌二七日午後高崎を出発し同日夕刻被告人の住居地へ帰つたものであるから、本件窃盗の犯行日時である同月二六日午後一一時頃には犯行現場にいることは不可能であるというのであり、記録中には右のように昭和四一年四月二八日、二九日の両日に引越をするから同月二六日、翌二七日の両日荷まとめの手伝に来て貰いたい旨の井熊智枝子から被告人にあてた昭和四一年四月二二日消印のある封書一通のほか、右主張に副う供述をなしまたは右主張に副う記載のある、被告人の原審および当審公判廷における各供述、被告人の妻である田村ミヤ子の司法巡査に対する昭和四一年七月三〇日付、司法警察員に対する同年八月一日付各供述調書、原審および当審における各証言、被告人の妹である井熊智枝子の司法警察員に対する同年七月三〇日付供述調書、原審および当審における各証言、同女の夫である井熊晴一の当審における証言、被告人の妹であり当時井熊方に同居していた田村まさ子の当審における証言、被告人の母である田村きちの原審および当審における各証言、被告人の父である田村市作の当審における証言、被告人の姉である田村志津子の司法巡査に対する昭和四一年七月三〇日付、司法警察員に対する同年八月五日付各供述調書、原審および当審における各証言、前記井熊方の前記江木町における住所の筋向いに居住していた藤田ちよの原審および当審における各証言、なおその趣旨は必ずしも明らかではないが部分的に所論主張に副うとも見られる被告人や前記田村志津子の知人である小林嘉吉の原審および当審における各証言、同様被告人や田村志津子の知人である今井誠の当審における証言が存在する。そしてこれらの各証拠によれば所論主張の被告人の不在証明が一応成立するかのように見られないでもない。しかしこれらの各証拠を仔細に検討し他の関係証拠と対比するときは以下に述べるようにたやすく信用し難いところである。すなわち、

(1) 井熊智枝子から被告人にあてた封書について

右井熊智枝子から被告人あての封書(証第八号)は所論主張についての有力な物的拠証と見られるようであるが、昭和四一年四月二二日付の消印のある右封書の形状を仔細に検すると、まず右封筒の表には宛名としての被告人の住所氏名のほか写真在中なる記載があり、その裏には差出人としての井熊智枝子の住所氏名の記載がある(日付の記載はない)。次に、その内容物としては便籤二枚(これに差出日付の記載はないが、子供の病気、学校入学のことなどのほか所論のように四月二六日、同月二七日の両日引越の荷まとめの手伝に来てくれるようにとの依頼が書かれてある)と写真一三葉がある。ところで右のうち便籤二枚と写真のうちの三葉の各裏に書かれている文字と封筒の表のうちの「写真在中」の文字とは同一のボールペンで書かれたと認められるのに反し、封筒の表の被告人の住所氏名、封筒裏の井熊智枝子の住所氏名とはこれとは異なる別のボールペンで書かれたものと認められ、インクの色が違つている。もし同一の機会に書かれた手紙であるならばその内容物と封筒に書かれた文字のインクの色が異ることは不自然であり、仮に内容物と封筒とを時間を置いて別々の機会に書くという稀な場合を想定して見てもその同一の封筒に記載されている文字のうちで宛名および差出人の記載と「写真在中」の文字が別々のインクで書かれるということは特別の事情のないかぎり理解できないところである。右手紙の作成者である井熊智枝子の当審における証言によつても右のインクの色の違う点について首肯できるような説明は全くなされていない。以上の事実に加えて、他の関係証拠をも対比し、さらに後で述べるように本件の不在証明の主張がなされた時期が不自然に遅いことにも徴すると、右手紙は例えば昭和四一年四月二二日付の消印のある既存の封書の封筒部分(但しその表に「写真在中」の文字の記載されていなかつたもの)を利用し、その内容物に代えて所論のような引越のための荷まとめ依頼の文言を含む文面の便箋を作成し、写真一三葉(これは既存の写真を利用することも考えられる)と共に新たな内容物とし、これと封筒とを関連づけるために封筒の表に新たに写真在中と記載するなど作為した疑いが濃く、右封書によつて所論のように右消印にある四月二二日頃右便箋にあるような依頼のある手紙が真に被告人あてに出されたと認めることはたやくできないものといわなければならない。

(2) 被告人および近親者の供述ないし供述調書について

所論証明の主張に副う被告人および近親者の供述ないし供述調書のあることは前記のとおりである。ところで記録によると、各不在証明の主張は原審における第一回公判期日において、被告人が被告事件に対する陳述として、自分は全然やつていないとのみ陳述したのに続いて、弁護人から当夜被告人は妹の引越荷物とりまとめのため妹宅へ行き不在であつた旨述べたのが発端であつて、被告人および近親者の不在証明に関する供述ないし供述調書はすべてその後のものであり、それ以前には全くあらわれていないことが記録上明らかである。この点につき被告人は捜査段階において、本件犯行当夜どこで何をしていたかは判らないが多分いつものようにテレビを見た後寝たと思う旨述べているのみであるが(被告人の司法警察員に対する昭和四一年六月七日付供述調書、ことに記録三三九丁裏から三四〇丁、被告人の検察官に対する同月二四日付供述調書、ことに記録三五〇丁裏から三五一丁)、ここで特に注目されることは、右検察官調書のうちには、右のように供述するほか、「此の窃盗事件のあつた頃も右の様に為し他へ行つた事はありません」(記録三五一丁)、「私が当夜のアリバイを証明するものは何もありません」(記録三五二丁裏)と供述する部分のあることである。これと原審第五回公判調書中の被告人の供述中、検察官の本件犯行当夜被告人が家にいたかいなかつたかとの点について特に念をおしてきいてあると思うがとの質問に対し「はい、そうでした」と答え(記録二八〇丁以下)、また当審公判廷における供述中においても、検察官の取調の際犯行当夜近所へ寄合いなどで行つたようなことはないかとは聞かれた旨答えている部分(記録六九五丁以下)とを併せ考えると、被告人は検察官の取調に際し、犯行当夜の不在証明についても念を押して聞かれているのに、単にいつものように自宅で寝たと述べているに過ぎないのである。そして本件について不在証明を主張する供述ないし供述調書の内容はほぼ共通するのであるが、井熊智枝子方では昭和四一年四月二八日および翌二九日(天皇誕生日)の二日間を利用して引越しをすることを決め、前記のように被告人に対し荷まとめの依頼の手紙を出し、被告人およびその妻ミヤ子はこれにより同月二六日および翌二七日にかけて手伝に行くことにしたこと、なお被告人方においては同月二四日は被告人の長男智継の誕生日であつたところ、同日たまたま被告人の姉田村志津子方に知人の小林嘉吉、今井誠の両名が車の修理にきて同夜は被告人の両親方で一泊し、その際被告人らも含めて一緒に飲食し、翌二五日志津子方の車のほか被告人方の小型四輪貨物自動車も修理して貰い、小林、今井の両名はその日に帰つたが、被告人夫婦は翌同月二六日午後右自動車に同乗して高崎の井熊方へ行き一泊し、翌二七日まで荷まとめの手伝をし、その日の午後高崎を出発し住居地へ帰つたというのである。そして右高崎行きの日時は天皇誕生日にまたがる引越日の前二日間でありまた車の修理は子供の誕生日の翌日であることから明瞭であるというのである。また右の事実を思い出した経緯としては、被告人自身は捜査段階においては警察官に種々面罵されるなどしたため本件窃盗の起訴後に至つてようやく思い出したというのであり、その他の近親者は右起訴後弁護人から起訴状の謄本を示され犯行日が昭和四一年四月二六日とされていることから、それならば同日は前記のように被告人夫婦が高崎へ来ていた日であることが判つたというのである。ところで、被告人夫婦が右のように引越の荷まとめの手伝に行く直接のきつかけとなつた井熊智枝子から被告人に宛てた封書について、その成立に重大な疑念のあることは既に述べたとおりであり、これが発端となる各供述ないし各供述調書はすでにその基礎が動揺するものといえるのであるが、その点を別としても、記録によると、被告人は昭和四一年六月六日本件の黒沢亀之助方の窃盗の事実について逮捕状により逮捕され、同月八日同事実について勾留状の発付を受けて勾留され、同月二七日同事実および仲沢つち代方の窃盗の事実について起訴され、同年七月二五日右両事実について原審第一回公判期日が開かれたものであるが、右逮捕状および勾留状には被疑事実の日時としていずれも昭和四一年四月二六日午後一一時頃と明記されているのであつて、この犯行日時が被告人はもとよりその近親者に右起訴後に至るまで知られていなかつたとは到底認められない。そうだとすれば、事柄が被告人夫婦が揃つて一晩泊りで高崎の妹方へ引越のための荷まとめの手伝に行つたという特異な体験であり、その日時が天皇誕生日にまたがる引越日の前二日間という極めて記憶し易い日であり、なお車の修理関係は子供の誕生日という記憶し易い日に関連しており、そして決定的に被告人に有利になるはずである出来事を被告人はもとより(被告人については前記のように検察官の取調に際して特に念を押されているにもかかわらず)その近親者が誰一人として起訴後に至るまで思い出さず、また捜査官にも申告せず、そうかと思うと殆んど同じ時期に軌を一にして思い出すということは、甚だしく不自然であり理解し難いところというほかはない。また記録によればこれら関係者の捜査段階から起訴後にいたる供述の変遷には共通する部分が多く、果して各自の体験に基づく記憶をありのまま述べたものであるか疑わしい点も少なくない。さらに、井熊智枝子の原審における証言中には、警察官に対する昭和四一年六月一三日付供述調書に関連し、その頃自分は病気をしていたので早く取調がすめばよいという考えで被告人夫婦は引越荷物の手伝に来ていないと申し上げた旨の部分(記録二八六丁)があるところ、当審において取調べた右警察官調書には右に相当する記載がなく右供述の趣旨はやや捕捉し難いものがあるのであるがもし実際に右の日時に被告人夫婦が手伝に来ていたものとすれば右の供述はいかにも不自然であつて、むしろ実際にも来ていなかつたことから、たまたま右のような供述がなされたものと見るべきであろう。また田村しまの検察官に対する供述調書によると、被告人が逮捕された後その両親宅を訪れたしまの夫に対し、被告人の母きちが被告人が高崎の妹のところへ行つて泊つたことにしてくれといわれたことが窺われないではないが、これまた被告人が実際には当日高崎へ行つていなかつたことを窺わせるに足りるものである。また相馬全、今井力、田村元三郎の検察官に対する供述調書、右相馬および今井の原審における各証言によれば、右三名は本件犯行の日の翌日である昭和四一年四月二七日朝被告人がその住居近くの炭焼き小屋付近にいるのを見かけたことが窺われ、また田村しまの検察官に対する供述調書によれば同日朝同女は被告人の妻ミヤ子がその両親方庭先にいるのを見かけたことが窺われる。

以上説示したところからすれば被告人の不在証明に関する被告人およびその近親者の供述ないし供述調書はたやすく信用することができない。

(3) 藤田ちよ、小林嘉古、今井誠の各証言等について

井熊智枝子方の引越前の家屋の筋向いに居住している藤田ちよは原審および当審における証人として被告人夫婦が所論のように昭和四一年四月二六日から翌二七日にかけて引越のための荷まとめの手伝に来ていた旨証言するが、その原審および当審における証言は右日時の点を固執する反面、細部においてはくいちがいが多く、また前説示のように被告人およびその近親者の供述ないし供述調書が信用できないところに照らしまた同女方が右のように井熊方に近く、また同女の夫作太郎はかつて井熊晴一と同じ国鉄に勤務していたことなどに徴すると右証言部分はこれまたにわかに信用することができない。

次に小林嘉吉および今井誠の各供述等は、被告人夫婦が高崎へ行つたことについての直接の見聞ではないが、その一部に被告人らから被告人が前記四月二六日に高崎の妹方へ引越の手伝に行くことになつている旨聞いたと述べる部分があるが、右被告人らの供述ないし各供述調書が信用できないものである以上、これを聞いたとする小林および今井の供述部分もまた信用し難い。

以上のとおりであつて所論不在証明の主張に副う各証拠はいずれも採用するに由ないところであるから被告人の不在証明は成立せず、本件窃盗の犯人は被告人であるとの前認定を妨げるものではない。それ故論旨はすべて理由がない。

(関 小川 渡辺達)

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