東京高等裁判所 昭和42年(う)945号 判決 1967年9月21日
主文
原判決を破棄する。
被告人を禁錮六月に処する。
ただし、この裁判確定の日から三年間、右刑の執行を猶予する。
原審における訴訟費用は、全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人上条貞夫、同西村昭連名の控訴趣意書のとおりであるから、これを引用する。
控訴趣意第一点について。
所論は、原判決が本件につきいわゆる「信頼の原則」の適用あり、とする原審弁護人の主張につき、ただ、「被害者小泉重成は当時僅か年歯七才の幼児」であつたから、という一般論に依拠し、それ以上にわたつて、現場の状況についての具体的事実の検討を加えることもなく、たやすくこれを排斥し去り、もつて本件事故が、被告人の過失によるものと認定したのは、判決に影響をおよぼすことの明らかな事実の誤認である、という。
そこで記録を調査し、かつ当審における事実取調の結果も総合して審案するに、原判決の挙示する証拠によれば、被告人は、原判示(もつとも、本件起訴状記載の公訴事実を引用。)のとおり、普通乗用自動車を運転して、本件事故現場付近道路(幅員約七米)に時速約四〇粁でさしかかつた際、前方約六〇米の地点左側に、被害者ほか一名(被害者の兄当時一〇才であつた小泉松三)の児童が遊んでいるのを見かけ、同兄弟の右側を通過しようとしたのであるが、このような場合、自動車運転者としては、警音器を吹鳴してこれに注意を与えるなり、同人らの不測の行動に備えて、何時でも停止あるいは避譲できる程度に減速徐行する等の適切な措置を講ずべき業務上当然の注意義務があるのにこれを怠り、同人らの動静に細心の注意を払わず、ただ時速約二五粁に減速したのみで、漫然進行をつづけた過失により、僅か約五米の至近距離に迫つたとき、それまで自己の運転する車両に背を向けていて、全くこれに気付かなかつた被害者が、いきなり右斜め前方にかけ出したのを認め、急遽右にハンドルを切り、かつ、制動をかけたが間に合わず、遂に自己車両の左側前部を被害者に衝突させて同人を前方にはねとばし、本件事故を発生させたことが明瞭である。そして、原判決によれば、原審弁護人の主張に対する判断として、原判決は、「被害者が、当時僅か七才の幼児であつたために、自動車による交通の危険の有無を判断する能力を十分具有し、それに従つて自己の行動を制し得る者とは必ずしも考えられず、時には本能的に自己の遊びにかまけて、異状な行動に出る危険性を多分に有するものと認められ云々」と説示し、更に、「被害者が、被告人の走行車を認めてそのまま静止し、何人もその安全であることを信頼し得る状態にあつたものが、不意に突然車の直前に走り出で、または物の陰から急に車の前面にとび出したという類いのものではいなこと明らか云々」とも説示していることは所論のとおりであるが、なお、「当時被告人が、原判示のような注意義務さえ尽せば、被害者も被告人車両に気付き、本件事故の発生を未然に防止し得たと思われる」旨、よくその具体的事実に即して記述していることをうかがい得るであるから、これを目して、「原判決は、一般論に依拠し、それ以上に現場の状況についての具体的事実を検討することなく弁護人の主張を排斥した」旨非難する論旨は、その主張自体において首尾一貫せず、あるいは原判決を正解しないものといわなければならない。のみならず、所論のいわゆる「信頼の原則」なるものは、近時高速度交通機関や医療行為その他の社会的効用の高い危険業務が拡大するにつれて意識にのぼり、その注意義務の負担に合理的限度を設けることを要請されるにいたつた結果、これらの危険業務に携わる者に課せられるべき刑罰法令上の注意義務の具体的内容を定める基本原則として、次第に容認されつつあるものであり、右のような沿革上、その多くは、鉄道職員または医療関係者などのように共同して危険防止にあたり、協力関係にある者相互間の、事故防止のために負担すべき注意義務について論ぜられているのである。されば、本件のように自動車交通事故のなかでも、特に車両相互の関係でもない、ただ、無心に路上ないしその付近で遊ぶ頑是ない幼児に対する関係の事案においては、もともとこれを適用し難い要素が存するのであつて、すなわち、この原則が適用されるためには、何よりもまず、その前提として、行為者たる被告人にとつて、信頼されるべき他の交通関係者たる本件被害者の危険回避措置を期待し得る状況がなければならなかつたにかかわらず、本件においては、何らそのような状況は見当らず、よしんば所論のように、本件被害者が、かねて学校ないし家庭で、道路交通の安全に関する特別の教育をほどこされ、あるいは道路における通行や遊戯につき再三の注意を受けていたとしても、また、これまで本件に事故現場付近路上で、交通の妨害にわたる挙動に出で、運転手などから叱責されるようなことがあつたとしても、本件当時、これらの事実を未だ確知する由もなかつた被告人としては、世上よく「子どもを見たら赤信号と思え。」といわれているのに、本件被害者が、それゆえに道路の交通秩序を守り、自動車の交通による危険の有無をよく理解して行動する能力があるものと考え、本件事故回避の措置に出るべきものと期待し得るはずもなかつたわけである。とにかく本件は、既に約六〇米の手前から被害者らの遊んでいるのを望見した被告人が、特にそのうちの被害者は背を向けて被告人車両の進行に全く気付かぬままの状態であつたのであるから、容易に不測の行動に出ることを予想されたにもかかわらず、ほんの一挙手一投足の労を惜しみ、警音器を吹鳴する等の注意義務を怠つたことが主因となつて発生した事故と認められるのであつて、いわゆる「信頼の原則」を適用すべき余地は全く存しないこと明らかである。所論指摘の当高等裁判所の二つの判例も、事案を異にし、いずれも本件に適切といい難いから、被告人の本件過失責任を否定し、原判決の事実誤認を主張する論旨は、採るを得ない。
控訴趣意第二点について。
所論は、被告人に対する原判決の刑の量定が、重きに過ぎて不当である、と主張するので、更にこの点につき記録を調査し、かつ当審における事実取調の結果を参酌して勘案するに、本件は、原判示のとおり、道路わきの七才の幼児の傍らを通行する際における、自動車運転上の適切な初歩的注意義務を怠つた事犯であるから、その結果の重大とともに、被告人の刑責を軽視することは許されず、原判決が、科するに禁錮六月の実刑をもつてしたのも、十分肯けるところである。ただ、何といつても被告人にしてみれば、約七米の近距離に迫つたとき、突如被害者が自己の進路上にかけ出して来たため、もはや安全避譲の術もなく、遂に本件事故を招来してしまつたのであるから、この間の事情は、たとえ前段説明のとおり「信頼の原則」の適用の余地はなくとも、被告人の本件責任を判断するうえにおいて、よろしく斟酌されなければならない。しかも被告人は、これまで約七年間自動車の運転に従事しながら、本件以外の交通事故は愚か、交通違反すら一度も犯したことのない比較的まじめな農家の勤労青年であつて、本件後も、直ちに被害者を病院に運び、応急措置の万全を尽しているし、保険金の支給をも待たず、被害者遺族の請求額より多い慰藉料等一五〇万円を支払つて、既に円満示談を遂げ、相手方においても被告人の厳罰を望んでいないのであるから、以上諸般の情状に鑑みると、本件につき、被告人を実刑に処するよりは、むしろこの際、相当期間刑の執行を猶予して、その自戒更生を期待するのが相当と思料される。論旨はここにおいて理由がある。
よつて本件控訴を理由ありとし、刑訴法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により自判することとし、原判決が証拠によつて認定した事実に、その適用した相当法条を適用して被告人を主文の刑に処し、刑の執行猶予につき刑法二五条一項を、原審における訴訟費用の負担につき刑訴法一八一条一項本文を各適用して、主文のとおり判決する。(堀義次 内田武文 金子仙太郎)