東京高等裁判所 昭和43年(う)529号 判決
被告人 丸山辰夫
〔抄 録〕
各所論の要旨は、原判決が本件につき被告人の殺意を認めたのは事実を誤認したものである、というのである。而して、原判決は、その判示するところに照らし、被告人に殺人のいわゆる未必の故意を認定したことが明らかであるから、各所論にかんがみ、記録及び証拠物を精査し、右未必の故意の認定の当否につき審按する。
原判決が証拠として掲げた被告人及び永松義助の検察官及び司法警察官に対する各供述調書には、原判決の認定にそうような供述の記載があり、本件犯行の態様を見ても、被告人が原判示ナイフで永松義助の胸部を突き刺し、胸腹腔内に達する深さ約一〇センチメートルの刺創を負わせた外、同人の顔面、頸部等に数回切り付け、原判示のような傷害を負わせたことが記録上明らかであつて、これらの証拠及び事実関係から見れば、被告人に殺人のいわゆる未必の故意があつたとする原判決の認定は、一応是認されるかのように見られないでもない。
しかし、被告人が本件犯行に使用した兇器は、肥後守と称されるナイフで、その刃体は、尖鋭ではあるが必ずしも頑丈なものではなく、刃渡も約七センチメートルに過ぎず、かつ、刃の付け根の部分から折れ曲るようになつており、刃を開いたまま固定させる装置を有するものではないので、その本来の用途が人畜の殺傷用のものでないのは勿論、その用い方によつては人命を奪うことが不可能とはいいえないけれども、一般的に他の刃物類に比しその危険性は少いものといわなければならない。現に本件においては、前記のとおり、被告人が右ナイフで被害者の胸部を突き刺したのに拘らず、前記のような傷害を負わせたに止り、殺害の結果は生じなかつたものであり、又前記の胸部刺創以外の各創傷(すべて切創)はその程度は必ずしも軽いものといえないが、いずれも致命傷になりうるような程度には達しない傷に過ぎなかつたのであり、右の点は本件の未必の故意の有無の判断に当つてこれを消極に解べき資料として重視しなければならない。
また被告人が本件犯行当時被害者に対して不満と憤激の念を抱いていたことは事実であるが、本件犯行前においては、被告人は右不満の点につき被害者との間に格別の紛糾を生じたことなく、平穏に被害者の下で働いていたものであることを考えると、本件犯行は飲酒による気持の昂ぶつた心理状態で被害者と口論して憤激した上の偶発的、衝動的犯行であると見るのが妥当であり、右動機を未必の故意認定の資料として高く評価することはできないと思料される。
尤も、被害者永松義助の前記供述調書には、被告人が殺してやるという言葉を発した旨の供述記載があるが、右は同人が被告人の突然の攻撃を受けて驚愕、狼狽している際の体験に関する事項であるから、その正確性について若干の疑問がある上、「殺す」という言葉は人が興奮状態において暴行をなすとき、真実その意思がない場合にも往々発する言葉であるから、被告人が本件犯行にあたり右のような言葉を述べたとしても、それは殺意を推測させる一つの証拠とはなるが、その決め手乃至は強い証明力のある証拠と認めるのは妥当でない。
以上の考察の結果、被告人が本件犯行前の日常生活において粗暴な行為に出たことが認められないことその他被告人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書中被告人の具体的暴行々為に関する部分等諸般の証拠を併せて判断すると、被告人が本件犯行にあたり、被害者の身体の如何なる部位に右のナイフで暴行を加えるかを認識していたことも、又被告人の行為により被害者の死の結果を招来するかも知れないことの予見があつたことも、これを認定するに足らないといわざるをえない。
なお被告人の前記各供述調書中の自白は、被告人の犯行当時の心理状態をそのまま供述したものとは解し難く、右供述記載を以てしても、先に述べた否定的結論を覆すに足らないし、他に被告人が未必の故意を有していた事実を認めるべき証拠はない。
然らば、被告人に殺人の未必の故意があつたものとして殺人未遂罪の成立を認めた原判決は事実を誤認したものというべく、右誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。
弁護人の控訴趣意第三(理由齟齬)について
所論は、原判決が、訴訟費用を被告人に負担させない点につき、理由に記載するのみで主文にその旨の記載をしなかつたのは理由齟齬である、というのであるが、有罪の判決をする場合において、刑事訴訟法第一八一条第一項但書により被告人に訴訟費用を負担させないときは、これを負担させる場合と異り、その旨の言渡をすることを要するものではない。この場合に、判決の理由中において、訴訟費用を負担させない理由を説明することは、もとより適切妥当な措置であつて、原判決がその理由において訴訟費用につき前同条項但書の適用を示しながら、主文にその記載がないからといつて、所論のように、主文と理由にくいちがいがあるということはできない。論旨は、理由がない。
前記のとおり事実誤認の点において本件控訴は理由があるから、弁護人の量刑不当についての論旨につき判断するまでもなく、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条により原判決を破棄した上、同法第四〇〇条但書の規定に従い、更に判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和四二年六月頃から肩書住居地所在の石井組飯場に住込み、同組の下請をしていた永松義助(当時四八年)の下で土工として稼働していたものであるが、同年七月頃工事現場で負傷した際、責任者である右永松が労災保険による休業補償等の請求につき誠意をもつて処理してくれなかつたことや、食費をきちんと払つてあるのに、同人やその妻が食事の仕度をしないことが度々あつたことなどから、永松夫婦に対し不満の念を抱いていた折柄、同年一一月三〇日夕刻も同人の妻が外出し夕食の仕度をしなかつたことから右不満がにわかにつのつて憤懣やるかたなく、同日午後一〇時一五分頃右永松義助を茅ケ崎市香川五三四番地かがわ荘アパート内から同市香川二九〇番地先路上に呼び出した上、食事のことにつき難詰したところ、同人が詫びなかつたため激昂し、同人に対し、咄嗟に所携のナイフ(刃渡約七センチメートル、昭和四三年押第一三四号)でその胸部、顔面部、頸部等を数回に亘り突き刺したり切りつけたりし、因て同人に対し入院加療二ケ月を要する胸部刺創及び顔面切創等の傷害を負わせたものである。
証拠の標目及び累犯前科に関する事項は原判示と同一であるから、これを引用する。
(脇田 関 環)