東京高等裁判所 昭和43年(う)943号 判決
被告人 相馬清十郎
〔抄 録〕
弁護人は被告人には殺意がなかつたのであるから本件は傷害致死罪をもつて律すべきであるとし、被告人は、「脅しのために庖丁を持つたもので、これを右手にして脇腹につけながら体勢を移動し相手と相対した瞬間測らずもその胸部に突き刺さつたのであり、決して胸部を意識して突き出したものではなく、加害の意思はなかつた」と言い、いずれも殺人罪をもつて擬律した原判決には判決に影響を及ぼすべき事実の誤認があると主張するものである。
しかし、原判決挙示の証拠を総合すれば、少くとも被告人の未必的殺意を認めるに十分である。すなわち、原判決も説明しているように、右証拠により認められる、(一)本件兇器は刃体の長さ一四センチメートルの刃先の鋭利なステンレス製文化庖丁であること、(二)被告人は右庖丁を右手に持ち、ほとんど動かないで立つている被害者の前面からその前胸部左側を一回突き刺したものであること、(三)庖丁は被害者が着用していた冬オーバー及びスーツ等を刺し通したのち体内に深く達し、被害者の受けた創傷の部位程度は、前胸部左側で左第四肋軟骨を完全に截断し左胸腔内に入り、次いで心嚢前面を穿刺して心嚢に入り、さらに左心室心尖部を刺通して左心室内に達する深さ七、五センチメートルの刺創であり、被害者は右心臟損傷による失血及び心嚢タンボナーデにより受傷直後その場で死亡したものであること、(四)被告人がわざわざ前述の庖丁を茶箪笥の抽斗から取り出し被害者の方を振り向いてから本件犯行に及んだその推移からすれば、被告人がその結果について考える余裕が全くないほど瞬時の行為であつたとはいえないこと等の諸事実に徴し被告人は右兇器をもつて意識的に相手の胸部付近をめがけて突き刺したものと推認せられ、このような行為が一般的に致死の結果を招来する可能性がきわめて大きいことはもちろんであるから、被告人の精神状態につきとくに異常性の認められない(所論の飲酒酩酊による一時的異常も記録上認められない。)本件において、被告人には致死の結果の発生を可能なものとして認識し、かつこれを認容しながら本件所為に出たものと認めるのが相当である。(殺意を認めた被告人の警察官に対する供述調書を別にしてもその余の証拠から認められる諸般の状況から以上のとおり認められるのであつて、これに反する被告人の供述は措信しがたい。)原判決には所論の事実誤認は存せず、論旨はいずれも理由がない。
(足立 浅野 井上)