大判例

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東京高等裁判所 昭和44年(う)1773号 判決

被告人 鎌田晴美

〔抄 録〕

アリバイの主張について

原審並びに当審において取り調べた証拠によれば、被告人が、昭和四三年九月二二日午前中に東京を出発して、同日夜実姉佐藤多美子がその夫佐藤幸及び実弟鎌田敏美らとともに生活している秋田県由利郡象潟町一丁目塩越二二〇番地の三の佐藤幸方に行き、同人方に三泊した後、九月二五日夜同人方を辞去して午後八時三〇分頃象潟駅発上り上野行急行列車「羽黒」に乗車したことは、疑をさしはさむ余地のない事実である。被告人は、これに加えて、同日、すなわち九月二五日は、二、三年前に一度行つたことのある「ジユンちやん」という友人の家を訪ねる目的で、午後九時過ぎ酒田駅で途中下車し心当りを探したが、右友人の家を発見することができなかつたため、タクシー運転手の案内で九月二六日午前一時に近い頃酒田市御成町一〇の二二所在の和久屋旅館に投宿し、同日午後二時頃同旅館を出て、酒田駅に行き、手荷物預かり所に携帯品を預けて、繁華街でパチンコ等をした後、午後八時頃酒田駅に戻り、午後九時過ぎ同駅発の上り急行列車「羽黒」に乗車し、翌二七日早朝上野駅に着いたというのであるが、一方、後にさらにその信憑性について言及するところの原審証人本間和子の証言はしばらく措くとしても、原審及び当審において取り調べたその余の証拠、ことに、当審証人中村富一こと佐々木富一、同佐藤幸、同佐々木逸朗、同多田恒義の各証言。すなわち各証人尋問調書中の供述記載によれば、被告人が、昭和四三年一〇月上旬父の在住する札幌市に行き、その帰途、一〇月九日に、再度前記象潟町の佐藤幸方に立ち寄つて一泊し、翌一〇月一〇日午後八時三〇分頃同人方を出て、友人中村富一こと佐々木富一の運転する自動車で午後九時三〇分頃酒田市に到着し、同夜は同市内で一泊したこと、すなわち一〇月一〇日午後九時三〇分頃から翌一〇月一一日にかけて酒田市内にいたことは、明らかである。

所論は、いずれも、被告人が九月二六日午後九時過ぎに酒田駅発上り急行列車に乗車するまで酒田市内にいたことは、被告人が、同日、同市内において田宮二郎主演の映画「不信のとき」の宣伝ポスターの掲示してあつたこと及び酒田駅の手荷物預かり所において片腕のない係員に携帯品を預けたことを記憶しているのであるから、映画「不信のとき」の宣伝ポスターの掲示されていた期間及び片腕のない係員が手荷物預かり所に出勤していた日が明らかにさされば、自ら証明されることであるというが、原審及び当審証人越田栄一の各証言、すなわち各証人尋問調書中の供述記載によれば、右「不信のとき」という映画は、同年一〇月二日から、同月一〇日まで上映の予定で酒田大映劇場に上映されたが、観客の入りが予想外に少なかつたため、一〇月九日までで打切られたこと、右映画については、九月二六日に所轄税務署の検印を受けた前売券を九月二六日から酒田市内三〇数軒の商店に委託して売り出すとともに右映画の予告ポスターを掲示してもらつたこと、宣伝ポスター類としてはその外に一〇月一日から上映中と表示したポスター及び立看板も掲示されたこと、そして上映中と表示したポスター及び立看板は、劇場の従業員が直接撤去することになつており、一〇月九日夜から一〇日にかけて撤去されたとみられるが、予告ポスターの方は、上映終了後劇場従業員が集金に回る際に各商店に依頼して撤去してもらうことになつており、一〇日まで上映する予定でいたものを急に九日で打ち切つたこともあり、劇場従業員が直接に撤去するわけでもないことのため、一日以後においても撤去されないで残つていたもののある可能性のあることが認められ、被告人が一〇月一〇日夜から一一日にかけて酒田市内にいたとすれば、その際にこれを見る可能性があつたことを、また、原審証人黒石次郎の証言、すなわち証人尋問調書中の供述記載及び当審において証拠として取り調べた黒石次郎の検察官に対する昭和四四年一一月一四日付供述調書によれば、黒石次郎は、鉄道弘済会の職員で、酒田駅の手荷物一時預かり所に勤務する者であり、被告人のいう片腕のない係員にあたる者であるところ、同人は右一時預かり所に九月二六日にも一〇月一一日にも出勤していたことを認めることができるのであるから、前記のとおり被告人が一〇月一一日に酒田市内にいたものとすれば、九月二六日に右黒石係員と顔を合わせる可能性のあつたことはもちろんであるが、それと同時に一〇月一一日にも同係員と顔を合わせる可能性があつたことを、それぞれ認めることができるのであるから、被告人が酒田市内において映画「不信のとき」の予告ポスターの掲示されているのを見たこと及び酒田駅の手荷物一時預かり所において片腕のない係員に携帯品を預けたということは、被告人が九月二六日にも一〇月一一日にも酒田市内にいた可能性のあることを示すものではあつても、被告人が九月二六日に酒田市にいたことを決定的に認めしめる証拠ではあり得ないといわなければならない。

被告人は、原審第四回公判以後、九月の場合は酒田市内の旅館に宿泊したが、一〇月の場合は同市内の路上にあつた自動車の中で一夜を明かしたと供述しているが、原審が証拠として取り調べた司法警察員作成の昭和四四年一月一一日付捜査結果報告書及びこれに添付の池田欣一ほか五一名の宿泊事実答申書、原審の検証調書並びに原審証人本間和子の証言、すなわち受託裁判官による証人尋問調書中の供述記載によれば、被告人が昭和四三年九月下旬から一〇月末日までの間に酒田市内の少なくとも旅館業者経営の旅館に宿泊したのは、一回だけで、それが同市御成町所在の和久屋旅館であることは、認めざるを得ない事実である。そして被告人が九月二六日午前一時に近い時間に投宿したという旅館が右の和久屋旅館であることは、原審以来当審の公判においても被告人が認めて争わないところであるが、当時右和久屋旅館に女中として勤務していた者である本間和子の証言によれば、被告人が同旅館に宿泊したのは、一〇月九日から一〇月一一日までの間のことであつて、被告人のいうように九月二五日夜から二六日にかけてのことでないことは、否定すべくもない事実であると認めることができる。所論は、いずれも、右本間和子の証言は信用できないというが、右証言は、同証人としては供述することを好まなかつたとみられる、愛人との旅行の日などの確実な根拠を挙げて、被告人の宿泊した日を一〇月九日から一一日までの間としているものであり、当時被告人が実のついた栗の木の枝を持つていたとする点において、当審証人中村富一こと佐々木富一の証言とも符合し、十分に信用できるものといわざるを得ない。もつとも、本間和子の証言は、被告人が午後三時頃に前記旅館に投宿して翌日の午前一〇時頃同旅館を出たとしており、被告人が一〇月一〇日午後九時三〇分頃佐々木富一の運転する車で酒田市に着いたことは疑をさしはさむ余地のない事実であるから、被告人がその後同旅館に入つたものとすれば、遅くとも同夜の中に同旅館に入るのが通常の推移であると考えられるので、本間和子の証言は、この点においては被告人の行動と一致しないことになり、同証人の証言の信憑性について疑問を抱かせるものがあるかの如くであるが、同証人の証言のうち、被告人が午後三時頃前記旅館に入つたとする部分だけは、同証人の記憶違いの供述であつて、被告人は同夜おそく和久屋旅館に入つたか、あるいは事実に符合する供述であつて、この証言に依拠して考える限り、被告人は、一〇月一〇日の夜は、そのいうとおり路上に置かれてあつた自動車内であつたかは別として、とにかく旅館業者経営の旅館以外の場所で一夜を明かし、翌一一日午後三時頃和久屋旅館に入つたかのいずれかであるというべきである。

これを被告人の供述の信憑性という観点からみても、被告人は、犯行日時の九月二六日午後七時四〇分頃は酒田市内にいたとする点においては、捜査の当初から当審公判に至るまで一応一貫した供述をしているが、その供述の内容を仔細に検討してみると、幾つかの問題があることを発見することができる。第一に、被告人は、被告人自身の当審公判における供述によれば、取調官からその点について尋ねられなかつたため供述しなかつたというのであるが、捜査の段階においては、司法警察員に対しても、検察官に対しても、一〇月上旬に再度象潟町に立ち寄つたこと並びにその際帰京の途中酒田市内において宿泊したことについては全く触れるところがなく、被告人がその点について供述したのは、原審第一回公判がその最初の時ということになるところ、右公判においては、被告人は、結局は、検察官及び裁判官から質問されて九月下旬及び一〇月上旬の二回とも酒田市に立ち寄り宿泊したと述べたが、当初検察官が「酒田には今年になつてから何回行つたか」と問うたのに対しては「今度(その前の応答からして九月二五日のこととなる)が初めて」と、「酒田に泊つたのは今回だけか」と問うたのに対しては「そうです」と、「その後に行つたことはないのか」と問うたのに対しては「ありません、北海道に行き帰つて来て直ぐ逮捕されましたからー」と、答え、一〇月上旬酒田市に立ち寄り宿泊したことについては、これを秘しておこうという意図を有していたことを窺うことができる。次に、被告人は、昭和四四年二月一九日の原審第四回公判において弁護人及び検察官から九月下旬の第一回目の旅行のことを質問された際には、酒田市内の旅館に宿泊した時ボストンバツクを携帯していたことは述べたが、実のついた栗の木の枝を携帯していたことを述べず、第一回目の旅行の際の服装については、茶色の背広服を着ていたことを述べるだけであつたのに、前者の点については、昭和四四年一〇月一四日の当審第一回公判において、ボストンバツク及びアタツシユケースのほかに実のついた栗の木の枝を持つていたと述べ、さらに、同年一〇月二九日付上申書及び昭和四五年一月一三日の当審第三回公判においては、九月二五日酒田に行つた時と一〇月一〇日酒田に行つた時のいずれの場合においても、つまり二回共実のついた栗の木の枝を持つていたと述べるに至り後者、すなわち服装の点については、当審第一回及び第三回各公判において、九月二六日午前一時頃和久屋旅館に投宿した際には長袖の黄色のトツクリシヤツを着ていた旨及び右トツクリシヤツは象潟駅から酒田駅までの列車内においてそれ迄着ていた茶色の背広上衣及びワイシヤツを脱いで着換えたものである旨の供述をするに至つているが、これらの供述の変遷は、当初失念していたことを思い出して補充したというには余りにも大きい変更であつて、むしろ、昭和四四年六月一四日の原審第七回公判においてその取調のなされた証人本間和子の尋問調書中の本間の証言が、被告人が和久屋旅館に宿泊したのは昭和四三年一〇月九日から一一日までの間であるというと同時に、被告人はその際うすい卵色のトツクリセーターを着ており、実のついた栗の木の枝を持つていたとするものであつたため、九月二六日和久屋旅館に投宿した際黄色のトツクリシヤツを着用し、実のついた栗の木の枝を持つていたと供述することによつて、本間和子の証言が被告人の宿泊の日時について誤つた供述をしているものであるとの心証を裁判所に抱かせる意図をもつて、その供述を変更するに至つたのではないかとの、疑問が持たれるところである。

被告人の、九月二五日夜酒田駅に途中下車して一泊し翌二六日夜の夜行列車で帰京したとする、捜査時以来の供述は、以上に指摘した諸点よりしても、たやすくは信用し難いものであり、被告人が九月二六日午前中当時被告人の住居であつた東京都杉並区高円寺南三丁目六二番二号栄荘の一室に帰つていた可能性のあることを肯定する、原審証人光富代志光の証言をも総合して考察すれば、被告人は、昭和四三年九月二五日は、午後八時三〇分頃象潟駅発の上り急行列車に乗車して、酒田駅に下車することなく上野駅まで直行し、翌二六日朝同駅に到着し、同日は東京都内にいたものというべきであり、被告人がアリバイを主張していうところの経験事実は、一〇月一〇日夜から一一日、あるいは一二日にかけて酒田市内に滞在中に経験した事実を、九月二五日夜から二六日にかけての間に経験した事実であるかのようにすりかえて供述しているものというべきであるから、アリバイに関する各所論はこれを容れることができない。

(江里口 上野敏 横地正)

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