東京高等裁判所 昭和44年(ネ)1692号・昭46年(ネ)1108号 判決
一 本件一二筆の土地が承継前の被控訴人亡庄兵衛の所有であったこと、同土地につき庄兵衛から控訴人に対し、東京法務区墨田出張所昭和一八年四月一〇日受付第三、九九三号をもって同日付売買を原因とする所有権移転登記が経由されていること、庄兵衛の死亡に伴う相続関係が被控訴人ら主張のとおりであることは、本件当事者間に争いがない。
しかして、本件一二筆の土地のうち、別紙物件目録(省略)(一)ないし(二)の各土地が登記簿上、地目田となっているけれども、昭和三〇年頃より現況宅地となって現在に至っていることについては、被控訴人進藤純は明らかに争わず、その余の当事者間では争いがない。
二 控訴人は本件一二筆の土地の所有権を庄兵衛から贈与により取得したと主張し、被控訴人小一郎、進、純を除くその余の被控訴人らはこれを争うので、まず、この点に関する事実関係を明らかにすることとする。
前記争いのない事実と≪証拠≫を綜合すれば、次の事実が認められる。
1 庄兵衛はいわゆる大地主で本件一二筆の土地を含めて約二万坪の土地を所有していたが、昭和一六年頃大病を患い、その後も健康が優れず、当時長男である被控訴人小一郎と不仲であったところから、自分が死亡すれば同人所有の土地はすべて推定家督相続人である右小一郎に相続されることを憂慮して昭和一八年四月一〇日付で五男の控訴人孝のため本件一二筆の土地につき前項の所有権移転登記手続をしたほか、被控訴人二男純、同四男進にも本件一二筆の土地とほぼ同じ約一、〇〇〇坪宛の土地につき同様の所有権移転登記を経由した。しかし、庄兵衛は右登記手続を行うについては、当時兵役に服して千島もしくは北海道にいた控訴人に対してはもとより右純及び進に対してもなんら相談せず、同人らは全く右登記の事実を知らなかった。
控訴人は昭和三一年二月頃に至り、漸く本件一二筆の土地が控訴人所有名義に登記されていることを知るに至ったが、控訴人は同土地の所有権が自己に帰属しているとの認識はなかった。他方、庄兵衛も右土地の所有権が控訴人に移転しているとは考えず、昭和二八年頃から自らの出捐において埋立を行って土地を宅地に造成し、昭和三〇年頃から自己の名を用いて第三者に賃貸し、権利金、賃料を自ら収受し、土地の権利証は庄兵衛が自ら所持し、かつ公租公課も自ら支払っていた。
右のような土地管理及び収益、処分の態様は、庄兵衛が前記のとおり純及び進名義にした土地についてもほぼ同様であった(もっとも一部土地については登記名義人の名を用いて賃貸借契約が締結されているものもあったが、これとても庄兵衛が右名義人に相談もしくは了解を得ることもなく自己の一存で事を選んでいた。)。
2 ところが、昭和三八年五月頃庄兵衛は被控訴人純、同進及び控訴人を自宅の居間に呼び寄せて一人一人と会って、それぞれ同人らの所有名義とした前記土地の権利証を妻ひでを通じて交付した。その際、庄兵衛は傍にいて右三名が感謝して右各土地の権利証を受領している有様をみて顔に笑みを浮べて喜んでいたが、右権利証交付の動機等については何ら述べなかった。そして、右権利証の授受と同時に、右三名は、それぞれ同人ら所有名義の各土地の地代の一部を母ひでから手渡された。
また、右権利証及び地代交付の際、右三名所有名義の土地の管理の問題については、何らの話合いも行われず借地関係の証書も手渡されなかった。しかし、控訴人及び純、進の三名は庄兵衛の従来の土地管理の仕方からみて、その生存中は同人が右各土地の管理事務を行い、収益は同人が収受し、その中から土地の管理費、公租公課等必要な経費を同人の裁量で適宜控除し、残額を控訴人らに手渡してくれるものと期待し、かつ庄兵衛も右各土地に対し右のような包括的管理権限を行使し得ることを当然のこととして右権利証及び地代の授受が行われた。
3 しかして、右権利証の交付以後母ひでを通じて控訴人に対して交付された地代(一部権利金を含む。)をみると、昭和三八年四月分から同年一二月分までは一か月約六、〇〇〇円ないし約七、〇〇〇円(借地人約二一人中約六人分)、昭和三九年中は一か月約七、〇〇〇円ないし約九、〇〇〇円(同約七人分)、昭和四〇年中は、一か月約二万二、〇〇〇円から約三万二、〇〇〇円(借地人約二二人中約一八人分)、昭和四一年一月分から同年五月分までは一か月約三万円(約二二人中約一五人分)という相当多額の地代の交付をうけていた(しかし、後記のような事情で昭和四一年六月分からは、約一万七、〇〇〇円に減り、同年七月、八月分は約七、〇〇〇円以下に急激に減額されるに至り、同年九月以降はさらに半減されるに至った。)。しかも、ひでは控訴人に対して右地代を交付するときは、その明細(借地人の氏名、地代の数額及び該当月)を書き添えて控訴人に手渡すか、送金していた。なお、控訴人及び純、進は権利証の交付をうける前に庄兵衛を訪れたとき、母ひでから小遣程度の金員を貰っていたが、その際には、地代等の明細が明らかにされないことはもとよりのこと、手渡された金員の額も少なかった。
4 ところで、庄兵衛は従前土地の管理等の事務を小一郎に委任していたが、これをやめて昭和四〇年二月一日頃参加人静子の夫飯塚時三郎に委任することとし、同人に対し二通の委任状を交付したがその一通≪証拠≫の委任事項欄には「拙者所有の土地建物についての管理及び賃貸借契約に関する締結その他一切の権限を委任する。」と記載しているが他の一通≪証拠≫の委任事項欄には、「一拙者が拙者名義及び襲名前の庄太郎名義で所有している土地、二従前でかかる土地で進藤純、進藤進、進藤孝にその所有名義を書換えた土地、引続いて拙者において差配管理している土地、三右一、二の土地について第三者に対して拙者にかわって賃貸借契約を締結する外権利金地代等これに伴う金円の受領に関する一切の行為その他の権限」と記載し、本件一二筆の土地については庄兵衛が差配管理しているものであることを明記していた。
しかして、右委任状を作成した二か月後である同年四月一日、庄兵衛は、小一郎を除く、自己の相続人である妻ひで、子純、八重子、進、孝、静子、慶子に対する本件とは別の土地についての贈与契約証書≪証拠≫を作成した。右証書には、庄兵衛が自筆で、贈与に当っては「新民法の趣旨に従って妻には概ね三分の一、子女には三分の二を子女の数によって平等に分与することを原則として贈与する。」旨及び右贈与物件については、「所有権移転登記の有無に関係なく贈与にかかる不動産は拙者生存中は贈与者である拙者が事実上管理して果実を受領し管理費用など必要費を支弁し残額は適当にこれをその名義人に分与するものとする。」旨の記載をした。その後右証書の形式が整えられて同年五月六日右当事者間で正式に贈与契約が結ばれた。
5 しかるところ、控訴人は、右昭和四〇年五月六日の贈与契約により多額の贈与税が賦課されることになれば、控訴人が庄兵衛から従来受領していた地代等が途絶え、子供の教育費にも困ることになることを慮った。そこで控訴人は昭和四〇年五月六日の受贈物件の返還を庄兵衛に申出た。同人は親の好意を無にしたとして立腹したが、結局右贈与契約は合意解除された。その後、庄兵衛が右贈与に関して課せられる税金約五〇〇万円を納付する必要上、これまで控訴人に対して毎月交付していた地代を渡さなくなった。すなわち、庄兵衛は前記のとおり昭和四一年七月頃から地代の交付を急激に減らしたが、同年一一月一九日控訴人に対し爾後は地代を当分渡せないと伝えた。これに対し、控訴人は、自分は前記贈与をうけた土地を返上しているのであるから、他の兄弟等に課せられる贈与税の支払のために、本件一二筆の土地から得られる地代等が渡されなくなるのは理不尽であると考え、庄兵衛に対し執拗にその支払を迫った。しかし、同人はこれに応じなかった。控訴人は、兵庄衛がこのような態度に出たのは、背後に飯塚時三郎夫婦がいるためであると考え、庄兵衛に無断で同年同月二二日本件一二筆の土地の借地人に対し、「庄兵衛又は飯塚時三郎に管理を依頼していたが、一一月二〇日から所有者である控訴人が直接管理することになった。一一月二三日からは控訴人に支払うよう。」との「お願い」≪証拠≫と題する書面を配布した。
他方、庄兵衛は、同年一一月二五日付で借地人宛に「通告書」と題する書面≪証拠≫を送付して、同土地の所有名義は控訴人になっているが、死因贈与であるから、庄兵衛が生存中は地代等を従来通り同人に払うよう要請した。
かくて、庄兵衛と控訴人との本件一二筆の土地に関する紛争は借地人にまで及んだのであるが、同年一一月末頃控訴人は事態を穏便に処理しようと考え、飯塚時三郎の上司であった森田元夫を訪れ、同人に右飯塚を説得してもらい、同人の仲介で庄兵衛と話合った。その際、控訴人は庄兵衛に対する非礼を詑び、土地の管理は従来通り庄兵衛に従うと述べるとともに子女の教育費として最低一か月二万一、〇〇〇円を必要とするので、これを本件一二筆の土地の地代から支出してほしい旨を懇請した。控訴人は右の話合で庄兵衛がこれを了承してくれたと思って、その後母ひでを通じて再三にわたり右教育費の支払を求めた。しかし、庄兵衛側では、控訴人の右要請を無視してこれに応えなかった。そこで、控訴人は前言を翻して本件一二筆の土地を自ら管理する意思を明らかにした。これに対抗して、庄兵衛は、控訴人に対し同年一二月二七日付「通告書」と題する書面≪証拠≫をもって本件一二筆の土地を控訴人の所有名義としたのは死因贈与であって、これは控訴人も了承しているところであること、昭和四〇年五月六日の贈与も同様死因贈与であって、庄兵衛生存中は贈与物件を管理し果実など一切を収受しうるとされていること、したがって、控訴人が同土地の所有権者は自分であるとして地代を自分に払えなどといって庄兵衛の意向を無視して勝手な行動をした場合は本件一二筆の土地についての死因贈与を取り消し所有権移転登記無効確認の訴を提起することを通告した。右通告書は、飯塚時三郎も承知のうえで、参加人静子がこれを代筆した。そこで、控訴人は庄兵衛に宛て翌昭和四二年一月二五日付「御回答書」と題する書面≪証拠≫をもって前記通告書に反馭したうえで、同土地の管理は控訴人自身においてするから庄兵衛は関与しないよう通告するとともに、同日付で同土地の借地人谷津茂ほか一九名に対し「同土地の庄兵衛に対する土地管理の委任契約を解除し、控訴人が直接管理することとしたから地代は直接控訴人に支払って下さい。」との書面≪証拠≫を送った。そして、控訴人は別紙物件目録(三)の土地の一部二四坪について借地人谷津茂が岡山きよのに対して庄兵衛の承諾を得たうえで借地権譲渡をしたことについて、これを無断転貸であるとして、同年五月一八日付書面をもって、右谷津に対し賃貸借解除の意思表示をし、かつ右岡山に対して建物収去、土地明渡の通告をした。なお、その頃本件一二筆の土地の借地人二一人中四人は地代受領の権利者が不明であるとして地代を供託し、その余の借地人は庄兵衛に地代を支払った。
6 このような経過を辿った後、庄兵衛は同年六月二〇日控訴人を被告として本件一二筆の土地所有権確認等を求める本訴を提起した。
そして、同年七月一日庄兵衛は参加人石川八重子に別紙物件目録(六)及び(七)記載の二筆の土地を、参加人飯塚静子に本件一二筆のうち右二筆を除く一〇筆の土地をいずれも贈与する旨の契約を結んだ。右贈与契約においては訴訟が係属中であることを考慮した条項を定めたほかは、前期昭和四〇年五月六日の贈与契約の場合と同様、庄兵衛の生存中は同人が贈与物件を事実上管理し、果実を取得して管理費用を支弁した残額は同人が適宜これを受贈者に与える旨を定めたが、この度は、受贈者が背信行為を行った場合には贈与者はこの贈与を取消すことができる旨の条項を新に加えた。
7 右訴訟が原審に係属中の昭和四三年頃、被控訴人進及び純は、庄兵衛から訴訟のため必要だからといわれて、前述のように昭和三八年五月頃交付をうけた権利証を庄兵衛に手渡した。
以上のように認められ、前顕証拠のうち、右認定に反する部分は措信し難く、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
三 そこで、右認定事実に基づいて、控訴人の抗弁の当否を検討する。<中略>
4 控訴人は庄兵衛が昭和三八年五月本件一二筆の土地の権利証を妻ひでを介して控訴人に交付し控訴人がこれを受領したことにより、庄兵衛と控訴人との間で、同土地の贈与がなされたと主張する(第一次的主張(ニ))。
(一) そこで、考えるのに、本件一二筆の土地の登記簿上の所有名義が昭和三八年五月当時すでに控訴人となっていた事情があり、しかも庄兵衛が同土地の権利証を控訴人に対し前記のような雰囲気の中で快よく妻ひでを介して交付したうえで、爾後昭和四一年五月頃まで庄兵衛が控訴人に対し妻ひでを通じて同土地から収受した地代の相当部分を定期的かつ継続的に、しかもその明細を明らかにして交付していた一連の事実を考え合わせると、庄兵衛は昭和三八年五月頃同土地の所有権を控訴人に無償で取得させる趣旨で権利証を交付し、爾後は控訴人を同土地の地主として処遇し、自己はその管理人として同土地を支配管理していたものと推認することができる。加えて、本件においては、右権利証授受の頃、庄兵衛が控訴人に対し、死亡の時に同土地の所有権を移転する趣旨であることを表示したことを認めるべき証拠はなく、また右の趣旨であることを推測させるに足りる事情があったことを証するに足りる証拠もない。
右によれば、庄兵衛は控訴人に対し昭和三八年五月頃本件一二筆の土地を生前贈与したものと認めるのが相当である。
(二) 被控訴人石川、飯塚両名は、昭和三八年五月の本件一二筆の土地の権利証が交付されたのは、小一郎に持ち出されるおそれがあったため、ひでが庄兵衛に内緒で控訴人に一時預けたものにすぎないと主張し、≪証拠≫には右主張に沿う部分があるけれども、右権利証が控訴人に交付された状況及びその後本件一二筆の土地の地代が交付された経過は前記認定のとおりであって、右権利証の交付が小一郎の持ち出しを阻止するためになされたとか、あるいは、ひでが庄兵衛に無断で権利証を手渡したとは到底認め難い。
また、被控訴人石川、飯塚両名は、控訴人に対する権利証の交付が一時預けたものにすぎない根拠として、庄兵衛とひでが小一郎と別居するようになってから、純及び進は預っていた自己名義の土地の権利証を返却した旨主張し、参加人飯塚静子本人は、当審(第三回)において、「昭和四一年か四二年かはっきりしないが、本件訴訟の始まる前に純と進が別々に権利証を庄兵衛のところに持ってきた。二人とも同人ら所有名義の土地は、庄兵衛が存命中は同人の所有と考えていたので自発的に返しにきた。」旨供述するが、≪証拠≫によれば同人は昭和四三年頃庄兵衛から裁判のために必要だからといわれて権利証を庄兵衛の許に持参したにすぎないことが認められるから、右飯塚静子の供述は措信し難い。
(三) 次に、右贈与の法的性質について検討する。庄兵衛は前記権利証の交付の前後を通じて右土地の賃貸人としての地位を保持し、賃貸関係の契約書類等も控訴人に渡さなかったのであり、控訴人はこれになんら異議も述べずに、庄兵衛が本件一二筆の土地から収受した地代から同人が必要経費等適宜控除した残額を毎月受領していたものである。そして、右のように庄兵衛が贈与した土地につき同人が留保した管理権限は、その後昭和四〇年四月一日付贈与契約証書において「同人の生存中は同人が事実上管理して果実を受領し、管理費用など必要費を支弁し残額は適当にこれをその名義人に分与するものとする。」という文言で明らかにされ、右の文言は庄兵衛が参加人両名に贈与した昭和四二年七月一日付贈与契約証書でもほぼ同様に踏襲されている。
右によれば、昭和三八年五月頃の本件一二筆の土地の贈与は無条件でなされたものではなく、庄兵衛の生存中は同人が同土地を自己の名において包括的に管理し、借地人から収受される地代等の果実を自ら取得し、そのうちから相当の経費等を同人が適宜控宜控除し、残額を控訴人に分与する権限が留保されていたと認めるのが相当である。したがって、本件贈与契約は贈与者である庄兵衛に右留保の権限を取得させ、かつ右権限を円満に行使させる義務を受贈者たる控訴人に負わせる負担付贈与と解するのが相当である。
よって、以上の認定、判断に反して、本件贈与が負担のない生前贈与であり、もしくは死因贈与であることを前提とする控訴人、被控訴人、参加人らの主張は、いずれも採用し難い。
(渡辺 糟谷 渡辺)