東京高等裁判所 昭和44年(ネ)736号 判決
控訴人代表者の署名は、まず上あきの円形を一部を重複させて三つ連続して書き、ついで点を三箇ないし五箇配し、さらに下あきの円形を一部を重複させて三つ連続して書き、その下に線を引くという極めて特異な記号をもつて構成されており、通常のアルフアベツト文字による署名に比し、個性の表現に乏しいもので、かつ、署名の時点の差による形態の変化が比較的大きく、例えば乙第二号証(署名鑑)と同第四ないし第七号証の各一、同第九、一〇号証の各一(以上いずれも小切手)になされた署名はいずれも真正な署名であるにかかわらず、形態にかなりの変化が認められること、控訴人代表者は小切手に振出人として署名する際、常にNEW BHARAT TRADING CO., LTD.の刻があり、その約一・二糎下に細い点い点線を顕出するようにしたゴム印を押捺し、右文字と点線の中間の空白箇所に緑色のインクをもつて署名しており、控訴人が被控訴人に届出た署名鑑も同様であること、本件小切手を持参して呈示した木下正子こと中沢悦子は、控訴人に経理係の事務員として雇われていたものであつて、以前に数回控訴人の当座預金引出のため被控訴人横浜支店に来店したことがあり、同支店係員永沢英男は同女の顔を記憶していたこと、本件小切手は、被控訴人が控訴人に交付しておいた小切手用紙に、前記控訴人の真正なゴム印を盗捺した上、その文字と点線の中間の空白箇所に、中沢悦子の共犯者堀井宏が、かねて同女においてリコピーを用いて盗写していた控訴人代表者の署名の写しを下に敷き、その下から光線をあててこれを模しながら緑色のインクを用いて記載したものであつて、右偽造にかかる署名は、その字形、色彩等において乙第二号証の署名鑑の控訴人代表者の署名に類似し、ことに乙第四号証の一の小切手の同人の署名と類似しており、巧妙になされていること、もつとも筆蹟鑑定の専門家的立場に立つて仔細に検討すれば、右偽造の署名は真正な署名に比し、運動速度が遅く、筆圧に強弱がなく、画線に円滑性が認められず、筆勢が渋滞しており、画線上に震え、筆継ぎ等の現象が存する点において差異が存するといえるが、しかし、署名は印鑑と異なり恒常性に乏しく、署名時の用紙、用具、場所の状況、署名者の姿勢、精神状態、健康状態、運動の直後にしたものであるかどうか等によつて、同一人によつてなされても、字形、筆圧、筆勢等に変化の存し得るものであり、また長年月を経過すれば、当初のもとのと比較して変化する場合もあり、ことに控訴人代表者の署名は前記のごとく恒常性に乏しく、これらの点を考慮すると、短時間に多数の手形、小切手類を処理しなければならない銀行員が、日常業務の過程において本件小切手が偽造にかかるものであると即座に判断することは困難であること、前記銀行員永沢は、署名鑑の控訴人代表者の署名と本件小切手の署名と比較対照したほか、本件小切手の持参人がすでに数回来店していた控訴人の被用者であつたこと、被控訴人が交付した小切手用紙を使用していること、控訴人届出にかかる署名鑑に押捺されている前記控訴人会社を表示したゴム印と同一のゴム印が本件小切手に押捺されていること、事故の届出が控訴人からなされていなかつたこと、本件小切手番号が連続して符合していたこと等の諸事情を補助的に参酌した上で、本件小切手の署名が真正なものであると判定して、七〇万円の支払に応じたものであること、しかして右のごとき諸事情を小切手の偽造の有無を判定するに際し補助的に参酌することは、わが国の銀行の取扱いとして一般に行われているところであること、以上のとおりの事実を認めることができ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。
如上説示の事実に照らせば、前記永沢は本件小切手の支払をなすに当り、銀行員として社会通念上要求される相当な注意を尽したにもかかわらず、本件小切手の署名が偽造にかかることを発見できなかつたものと認めるのを相当とする。
そうすると、本件小切手は、前記商慣習にいわゆる署名の偽造が極めて巧妙で、その真偽の鑑定がむずかしかつたため、取引銀行において相当注意しても偽造であることを知ることができなかつた場合に該当するものということができ、原審鑑定人長野勝弘の鑑定の結果は、小切手偽造の有無の判定に際して補助的に参酌さるべき前記諸事情を度外視し、単に抽象的に署名の照合に練達しているものの立場では偽造の判定は容易であるが、通常一般人の立場ではその判定は困難であると考えられる旨を述べているにすぎないのであるから未だ右結論を左右する資料とすることはできない。
(古山 川添万 秋元)