東京高等裁判所 昭和45年(う)1470号 判決 1970年10月28日
主文
原判決を破棄する。
被告人を禁錮十月に処する。
但し本裁判確定の日より三年間右刑の執行を猶予する。
理由
<前略>
原審記録を精査し当審における証拠調の結果に徴し按ずるに
所論第一点は原判示第二の報告義務違反の事実につき事実誤認又は法令の適用を誤つた違法があると主張し、大要として、道路交通法七二条一項後段所定の報告義務は、交通事故によつて生じた人の生命身体に対する危害の防止及び道路の交通秩序の回復という行政目的達成のためにのみ関係行政庁が適切な処置をとり得るように当該車両運転者に協力義務を課したのであるから、事故当事者は必ずしも自ら報告する要はなく、相手方又は第三者が警察官において交通事故の発生を速やかに探知できる措置を講じているならば、右報告義務は免除されると解すべきところ、本件においては通りがかりの一般市民が一一九番に通報し、この通報に基ずき救急車が来たものであり、一一九番に救助要請がなされれば一一〇番に即時電話回路が廻される故警察官署は右一一九番に対する通報と同時に本件事故発生を知り得たのであり、被告人は救急車が事故現場に来り被害者を救助したこと及び道路における危険もなかつたことを現認しているのであるから本件報告義務を免かれたものである。仮に右報告義務が免除されないとしても、このような状況下において被告人がもはや警察官に報告する必要がないと考えることは社会的相当性がある。なお当時被告人は前夜夫婦喧嘩の結果殆んど一睡もせず、身体的精神的に疲労しており且つ血を流して倒れた被害者をみて気を動転させた小心な被告人に対しては法所定の報告義務を果すことを期待することは不可能であつたというのであるが、
道路交通法七二条一項後段にいわゆる交通事故報告義務は、交通事故を惹起した当該車両運転者の社会的義務として被害者の救護、交通秩序回復等のため関係行政官庁の監督、取締に対する協力義務を法定したものであり、この観点からすれば右報告は運転者自らするか又はこれと同視し得べき状況即ち相手方又は第三者がした場合は、自己がそれを支配若しくは認容するものでなければならないと解すべきところ、原判決挙示の証拠によれば、被告人は本件事故に際し、交通事故報告を自らした事跡はなく、偶々第三者の通報により到来した救急車要員らにより救出される被害者の出血等に驚くと共に、自己が飲酒していたことも考え、事故の重大さに恐怖にかられて逃走したというのであるから、所論のように救急通報が事故通報に直結するとしても、被告人が右第三者の通報を支配若しくは認容したものとは認められず、法に定める協力義務を尽し、又はこれと同視すべき場合には当らないのであつて、この点に関する原判断は正当である。
しかして他に左右するに足る証左のない事実関係において被告人の所犯につき社会的相当性、或いは期待可能性をいう所論は独自の見解にすぎない。論旨はすべて理由がない。
所論第二点は量刑不当の主張であるところ、本件犯行の態様等に照せば原審量刑を非難するのは当らないというべきであるが、被告人がいわば本件の縁由ともいうべき家庭破綻の問題を解決し、人生後半に更生を期している現況からみれば、被告人に対し今一度刑の執行を猶予し社会復帰の機会を与えるのを相当とする。論旨は理由がある。
よつて刑事訴訟法三九七条三八一条に則り原判決を破棄することとし、同法四〇〇条但書により更に判決する。
原審の確定した事実に原判決適用法条の外、刑の執行猶予につき刑法二五条一項、当番における訴訟費用の負担につき刑事訴訟法一八一条一項但書を適用し主文のとおり判決する。(高橋幹男 環直弥 栗山忍)
<参照 原審判決の主文ならびに理由>
〔主文〕
被告人を禁錮一〇月に処する。
〔理由〕
(罪となるべき事実)
被告人は
第一、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四四年一二月四日午前一〇時ころ、普通貨物自動車を運転し、東京都江東区大島八丁目五番先の道路を、船堀橋方面から深川方面に向かい時速約四〇キロメートルで進行中、自動車運転手として前方を注視し、進路の安全を確認しつ速進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、たまたま自己の左側方にあつたマンションの方を見ながら前方注視を怠つたまま漫然と前記速度で進行した過失により、進路前方の同区大島八丁目五番七号先の道路で、同所道路を右方に横断して進行すべく、道路の中央付近で停止していた山本茂治(当時四八年)運転の普通貨物自動車(軽四)にあらかじめ気がつかず、その後方約一一メートルに接近してはじめてこれを発見し、あわてて急制動の措置をとつたが間に合わず、同車の左後部に自車右前部を衝突させて、同車を道路右側部分に押し出した上、おりから反対方向から進行してきた三浦久男運転の普通乗用自動車に衝突させて右山本の運転車両を横転させ、それらの衝撃により、右山本茂治に対し加療約三か月半を要する左踵骨々折等の傷害を、同人運転の車両に同乗していた山本たい子(当時四四年)に対し加療約四か月間を要する頸椎捻挫等の傷害を負わせ
第二、前記日時・場所において、前記のごとく交通事故を起こしたのに、その事故発生の日時・場所等法律の定める事項を、直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなかつた
ものである。
(証拠の様目)<省略>
(法令の適用)<省略>
(弁護人の主張に対する判断)
一、弁護人は、被告人の判示第二の犯行につき、被告人が本件事故現場を立去るときには、既に一般市民によつて一一〇番に通報され、救急車が本件事故現場にかけつけて、本件被害者等の救護に当つていたし、又、当時道路における危険もなかつたから、かかる場合には道路交通法第七二条第一項後段の立法趣旨に照らし、被告人には右同条に定める報告義務はなかつたものと解すべきであるから、右の点については被告人は無罪であると主張している。しかし右道路交通法第七二条第一項は、自動車運転者が同条項前段に所定の交通事故を起こした場合には、負傷者を救護し、道路における危険を防止する等必要な措置をとること、及び、その場合に、警察官が現場にいないときは右交通事故の内容等の外、右交通事故について講じた措置をも報告しなければならないと規定していること、その他同条の趣旨等から考えて、右弁護人主張の如く、被害者の救護がなされ、道路における危険がなくなつたことから直ちに同条第一項後段の報告義務がなくなつたと解することはできず、前記証拠の標目欄に掲記の各証拠によると、当時被告人には、道路交通法第七二条第一項後段に定める事項を、直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなければならない義務があつたことは明らかである。
二、次に、弁護人は、仮りに当時被告人に右報告義務があつたとしても、被告人は日頃から気が小さかつた上、本件事故を惹起し、被害者が血を流しているのを見て、その事故の大きさに驚き、気が動転してその場から去つたものであつて、このような場合には、被告人に右道路交通法第七二条第一項後段の報告義務を果たすことを期待することは不可能であり、結局判示第二の罪については期待可能性がないから無罪であると主張している。しかし、右弁護人の主張する事実から、右道路交通法第七二条第一項後段の報告義務の履行を期待することが不可能であるとは到底いい難く、却つて、前記証拠の標目欄に掲記の各証拠によると、本件においては、当時被告人に右報告義務の履行を期待することは充分に出来たものというべきであるから、右弁護人の主張は採用しない。
よつて、主文の通り判決する。
(昭和四五年六月三日 東京地方裁判所刑事第二七部の三の一)