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東京高等裁判所 昭和45年(ネ)963号 判決 1971年10月26日

控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 田辺幸一

被控訴人 甲野一夫

右訴訟代理人弁護士 橋本雄彦

主文

原判決を取消す。

被控訴人は控訴人に対して、別紙目録記載の建物を明渡せ。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張および証拠の関係は、次に付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるので、これを引用する。

一、控訴代理人の主張

(一)  被控訴人は、控訴人の実子であるが、その五才の頃から控訴人の後妻訴外亡甲野花子が面倒を見てきたのに中学二年頃から花子に反抗的になり、独自の生活を営むようになってからは特にひどくなった。昭和三〇年花子死後も控訴人、被控訴人の家庭が平和な家庭であったとはいえず、昭和四〇年一一月頃には、被控訴人の長男訴外甲野正が購入したセーターの色から控訴人、被控訴人の争いに発展し、その後も控訴人、被控訴人間では正のことからの口論がみられた。そして、昭和四二年八月二九日頃、被控訴人の妻訴外甲野月子が正や訴外乙山雪子に対し、控訴人が昭和四〇年一一月頃月子の唇を盗んだと云い出し、控訴人は根も葉もない話に呆然となり、一方被控訴人は立腹して暴力沙汰に及びかねない状態になったので、控訴人は着のみ着のままで家を出て二女訴外丙川星子方に身を寄せるに至ったものである。

(二)  控訴人が被控訴人主張の不倫な行為に及んだ事実がないことは、以下の事実から明らかである。すなわち、

(1)  控訴人は、明治四〇年から昭和二〇年九月まで三八年間陸軍技術本部に製図工として勤務した実直勤勉な者で、月子が昭和一六年頃女子写図工として本部に配属されたときの上司である。

(2)  月子は、戦後も控訴人方に遊びに来て控訴人の妻に手芸等を習い、控訴人の長男である被控訴人と知合い、やがて被控訴人と結婚した。

(3)  控訴人は、明治二二年五月生れで、昭和四〇年一〇月末当時既に満八〇才の高令で不倫な行為をしようという年令でなかった。

(4)  原審証人甲野月子の証言によると、「何か詩を読んでおるとき、いきなり羽交いじめに抱きつき、唇を「盗んだ」ので、持っている帳面が破れ、よして下さいと抵抗すると、そのままそっと唐紙をあけて隣の部屋に行った」というが、それは、月子が昭和四二年八月頃控訴人、正、雪子、訴外乙山菊子に語った事実と異なっている。

(5)  控訴人は、昭和三〇年一〇月花子が死亡してから後約一〇年間、月子に対し不倫行為をしようとした事実は全くなかった。

(6)  被控訴人主張の不倫行為は二年を経過してから月子が公表したもので、その間誰にも話していない。また、その間も控訴人に不倫な行為はなかった。

(7)  被控訴人と月子とは、被控訴人主張の不倫行為発生後控訴人と別居することができたのに、同居を継続していた。

(8)  不倫行為をしようとしたのであれば、その当時月子が声を出しさえすれば正がすぐ気がつく距離に寝ていたのに、月子は、それをしなかった。

二、被控訴代理人の主張

被控訴人は、昭和二三年一二月、前記月子と結婚してから父である控訴人、養母花子を扶養し、一家の生計はすべて被控訴人の責任負担においてなされ、何らの風波なく平穏な生活を営み来たったものであるから、被控訴人およびその家族は、いわゆる家団権にもとづいて別紙目録記載の建物(以下、本件建物という。)に居住する権原を有する。

三、証拠≪省略≫

理由

一、(使用貸借について)

まず、控訴人は、借主被控訴人が貸主控訴人との間の使用貸借により本件建物を使用してきたと主張するのに対し、被控訴人は、これを否認し、被控訴人が控訴人とその妻訴外亡甲野花子とを扶養してきたもので、いわゆる家団権にもとづいて本件建物を使用していると主張するので、以下、これを判断する。

当事者間に争いのない控訴人が本件建物を所有している事実、≪証拠省略≫を総合すると、控訴人(明治二二年生)は、もと陸軍技術本部に製図技術者として約三八年間勤続し、昭和一〇年頃から現在本件建物が所在するところにあった貸家を賃借していたが戦災で焼出され、終戦により失職してからは二女訴外丙川星子の嫁ぎ先の古着商の手伝をしていたところ、先妻との間の二男被控訴人(大正一〇年生)の結婚にもそなえ、昭和二三年後妻訴外亡甲野花子(明治二七年生)ともども出捐して、控訴人の所有として前記借家の焼跡の土地を買求めたうえ、四畳半と六畳の二間からなる建物(以下、旧住居という。)を建築し、控訴人と花子の夫婦、被控訴人、以上家族三名が居住したこと、なお、控訴人は先妻との間に、被控訴人および夭折した子を除き、長女訴外乙山菊子、二女星子があるが、当時いずれも嫁いでいたこと、同年一二月二八日被控訴人が訴外甲野月子を妻に迎えてからは(昭和二四年一月一八日婚姻届出)、月子も同居することになり、旧住居には、控訴人夫婦と被控訴人夫婦の二組の夫婦が住むことになったこと、そして、昭和二四年一月からは被控訴人が右夫婦共同の家計の責任者となり、専ら被控訴人の収入により、その父である控訴人と継母である花子の生計を支えることになったこと、間もなく被控訴人夫婦の間に長男訴外甲野正が出生し、昭和三〇年花子が死亡したこと、花子が死亡してからは月子が洗濯等控訴人の身辺の世話をしていたこと、控訴人は、昭和三二年頃前記土地上に更に六畳と一〇畳(板の間)の二間からなる本件建物を新築し貸家としていたが、昭和三七年頃被控訴人が事業に失敗し、その負債を整理するため、旧住居をその敷地部分の土地付で売却し、以来、控訴人、被控訴人夫婦、正の四名は本件建物に移り住み、控訴人と正が一〇畳間を、被控訴人夫婦が六畳間を寝室にあてていたこと、右被控訴人の事業失敗に際し、控訴人は旧住居の売却代金約二〇〇万円を被控訴人に与え負債の整理に充てさせたこと、控訴人および被控訴人夫婦らが本件建物に入居した当初、貸家を手放し手元に余裕のない控訴人に対し被控訴人が月五〇〇〇円の小遣を出す話もあり、四回程実行されたが、その後は立消えになったこと、しかし、控訴人から被控訴人に対して本件建物の賃料その他、居住使用の対価の請求をしたり、反対に被控訴人から控訴人に対してその生計費の請求をしたりするようなことは一切なかったこと、控訴人は平素老人会に関係したり、娘の嫁ぎ先を訪ねたり、恩給等の収入もないので前記星子の嫁ぎ先の商売の手伝をして小遣程度のものを得たりして、外出勝ちの、いわゆる隠居生活をしていたが、その見るべき資産としては本件建物とその敷地が唯一のものであること、昭和四二年八月下旬控訴人はその後の被控訴人夫婦との共同生活を断念し、権利証等貴重品を携え横浜市内の前記星子方に行き、当座の間その世話を受けることになったこと、その後は、被控訴人夫婦と正の三名のみが引続いて本件建物に居住していることが認められ、≪証拠省略≫中、被控訴人が本件建物入居当初控訴人に渡していた月五〇〇〇円の金員を家賃の趣旨にいう部分は信用できず、ほかに右認定を覆すに足る証拠はない。

右認定事実及び前記採用証拠によれば、控訴人は、昭和三七年頃被控訴人がその妻子とともに本件建物に入居して以来、かつて旧住居に居住していたときと同様に、平穏に父子としての共同生活を続けることを当然の前提とし、眼目として、被控訴人においていわゆる隠居生活をする控訴人の扶養をするとともに自己の居住の用に供する目的から、被控訴人に対して本件建物を無償で、返還時期を定めず、使用占有を許諾していたものであって、使用貸借関係にあったと解するのが相当である。被控訴人は使用貸借を否認してそれと別異に、家団権に基づく使用関係を主張するが、右認定の使用貸借関係のほかに、それと別異な使用関係の存在を認定するに足る証拠はない。

二、控訴人が昭和四二年一〇月一八日付書面で前記使用貸借を解約するとの意思表示をし、同書面が翌一九日被控訴人に到達したことは、当事者間に争いがない。

三、(被控訴人主張不倫行為について)

ところで、控訴人が月子に対し不倫行為を敢えてしようとしたか否かは本件の重要な争点であるし、この不祥事に発端して親子の信頼関係が破壊されるに至り、右解約告知がなされたのであるから、同解約告知は権利の濫用であると被控訴人は抗弁するので判断する。

証人甲野月子の原審ならびに当審における証言によれば、「昭和四〇年一〇月末、被控訴人が旅行に出かけた留守の日の夜一〇時過ぎに、月子が寝間着の上からガウンをかけ、前記六畳間に敷いた布団の上にすわり、自分の日記のような、何か詩(当審では、自分で詩を書いたノート)を読んでいると、控訴人が隣室の前記一〇畳間から唐紙をあけて入って来た。何か用かと思うと、いきなり背後より両腕の上から動けないように、ぎゅっと羽交いじめに抱きつかれ、よける間もなく左側から口に接吻され、唇を奪われた。抵抗して、すぐ羽交いじめの手を払いのけたが、持っていた帳面か、なんか(当審ではノート)が破れた。隣室で就寝中の正に聞えぬように、よして下さい(当審では、止めなさい)と云った。控訴人は、そのまま、そっと唐紙をあけて隣室に戻った。」というのに対し、他方、控訴人は、原審ならびに当審における本人尋問において、右は全くの虚構であるといい、この点当審での対質尋問における両者の各供述内容自体によっては、相対する供述のいずれが真実であるかを断定する心証には至りえないものである。

そして、証人甲野月子の原審ならびに当審における証言は、同証人のいう前記内容の不祥事だけについてみると大筋は一応理路整然とみえ、その限りでは、いかにもそのような事実があったかのようにも窺われるが、証言全体を仔細に検討すると疑点が多く、また、後記のとおり関係証拠と対照すると不合理な点が多く、結局、同証言中不祥事ならびにこれに関する部分は俄にこれを信用することができない。すなわち、右信用できないとする根拠の主なるものだけを挙げてみても、後記(1)ないし(6)のとおりである。

(1)  ≪証拠省略≫を総合すると、月子が昭和四二年八月下旬に正や控訴人の長女(被控訴人の長姉)菊子らに不祥事があったとして話した際、月子は控訴人が月子の唇を「奪おうとした」と云っていたのであって、決して「奪った」とは云っていなかったことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫したがって、甲野月子は、接吻をしたのか或は単に接吻しようとしてできなかったのかという重要な事項についての陳述に一貫性が欠けていると認められる。

(2)  証人甲野月子は(被控訴本人も)原審において、前記のとおり月子が菊子らに不祥事があったとして話した際、菊子が控訴人の長女として月子に控訴人の非をわびたというが、≪証拠省略≫によると、右菊子の謝罪の事実はなかったことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫。

(3)  証人甲野月子は原審ならびに当審において(原審本人尋問における被控訴人も)、右の際、控訴人が月子に対して「最後の切札を出しやがったな」と発言したというが、同発言に先立って控訴人は月子に「でっち上げやがったな」とも云っていたというのであり、たとえ控訴人が前記発言をしたとしても、控訴人が急転して自己の非を認める態度に変り、その趣旨で同発言をしたと認めるに足る証拠は何もなく、かえって、≪証拠省略≫によると、控訴人は一貫して月子のいう不祥事を否定していたことが認められる。

(4)  ≪証拠省略≫によると、また、右の際、月子は正らに対して、控訴人に抵抗して本が破れ、セロテープで補修したとして、その本を見せた事実が認められるが、このように月子が自己の主張の裏付けまでしようとしたこと、また、それ自体では不祥事の存在を裏付けるに足りない補修した本を示したことは、≪証拠省略≫に徴し、かえって不自然な挙動であるとの疑を生ぜさせるものがある。本の破損に関する証人甲野月子の原審ならびに当審における証言は、≪証拠省略≫に比照して俄に信用することができない。

(5)  証人甲野月子は原審ならびに当審において、月子が前記不祥事の約二か月後に実姉丁村春子を天現寺付近のそば屋に呼んで、これを話した事実があるというが、≪証拠省略≫によれば正が月子のいうところに疑いを抱き春子に確かめたところ、右月子のいう頃には、その事実のなかったことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫したがって、証人甲野月子は、不祥事があったことの裏付けとしてノート(ないし本)が破れたことと、不祥事の約二か月後に実姉に告げたこととの二点をあげているが、すべてが何ら本件不祥事の裏付けとなるものでないといえる。

(6)  ≪証拠省略≫により認められる、月子がその姉妹と何でも話合う仲であること、その他、同人の対人関係、ならびに、≪証拠省略≫や当審における供述態度から窺われる月子の性格、挙動等からすれば、真実、月子のいう不祥事があったのに同人がこれを昭和四二年八月下旬に至るまで約二年間も誰にも話さないでおり(実姉丁村春子に話したとの点については、前記認定のとおり。)、また、誰からも感づかれないでいたということには強い疑問をいだかざるを得ないところ、この点に関する原審証人甲野月子の説明するところでは、到底納得することができない。また、被控訴人は、≪証拠省略≫において、この間、月子がカナダへ移民に行きたいと云い、その母も泣いて止めたというのであるが、原審証人甲野月子の証言によれば、月子が本件建物を出て控訴人と別居することを考えたことのないことが認められるのであって、右本人尋問の結果は右証言に徴しても俄に信用できない。なお、同証人は、原審ならびに当審において、不祥事の後は直ちにそのため控訴人に対する態度を変え冷たく遇するようにしたと生活関係の変化を証言するが、≪証拠省略≫に対比して信用の限りではない。

その他≪証拠省略≫中、月子同様に不祥事があったかのようにいう部分は俄に信用することができないし、ほかに被控訴人の全立証をもってしても前記月子のいう不祥事が存在したことを窺うに足る証拠はない。

ひるがえって、控訴人についてみるに、≪証拠省略≫によれば、控訴人の後妻花子が元芸者で、控訴人の亡次兄の妾をしていたことが認められるが、≪証拠省略≫からも窺われるように、控訴人は先妻に被控訴人ら幼少の三子を遺して先立たれ困っていたところ、亡次兄の使用人の仲介があり、花子の人柄を見込んで、これを後妻に迎えたのであり、花子は先妻の子である幼少の被控訴人らにつくし、よい人柄であったのであり、この点から控訴人に不倫の傾向ありということはできず、また、本件の全証拠によっても、昭和二三年月子が被控訴人の妻となってから、ことに昭和三〇年花子の死亡後、月子のいわゆる不祥事があったという昭和四〇年までの間、控訴人が嫁の月子に対して月子のいう不祥事に類いするような挙動に出ようとしたことは、その気配すら認められず、また、これまで約八〇年に及ぶ控訴人の生涯を通じて、控訴人がその他人倫上非難されるような行為をしたことは、その片鱗さえ見出すことができない。右の事実と、≪証拠省略≫を総合すると、昭和四二年八月下旬月子が不祥事があったと云い出した当時、すでに、同年春頃から控訴人と被控訴人夫婦との不仲は急激に悪化し、その頃から控訴人は二女星子の嫁ぎ先に殆ど行ったきりでいたのであり、月子から不祥事があったと云い出されて呆然となり、被控訴人や月子の穏やかでない言動に途方にくれ、確定的に別居しようと決意するに至ったもので、控訴人が昭和四二年八月下旬から二女星子方に寄寓したのは自己の非を認めたため居たたまれなくなって家出をしたのではないこと、そして、結局、月子のいうような不祥事は存在しなかったことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫

したがって、前記不祥事の存在を前提とする被控訴人の前記抗弁は理由がない。

四、(解約告知の効力について)

ところで、本件解約の効力について考えると、≪証拠省略≫を総合すると、被控訴人は、継母花子がよい人柄で被控訴人の幼少の頃から実母のように面倒をみてくれたのに、長ずるに及び花子を嫌悪し、控訴人とも親子間の円満を欠き、昭和三〇年花子死亡後も依然控訴人と不仲であったこと、他方、控訴人は、被控訴人の独りっ子である正を可愛がり、正は、いわゆるおぢいさん子として育ち、父母である被控訴人夫婦とは親密でなく、控訴人に懐いてしまっていたこと、昭和四〇年秋正が高校一年のときアルバイトで得た金で買って来たセーターの色合を被控訴人が叱責し、月子もこれに同調していたのに対し、控訴人が正を庇ったため控訴人と被控訴人との口論になり、正が旬日家出をしたこと、正はその後も二回位両親に対する不満から親戚等へ二、三日家出をしたが、控訴人は正の家出に対し正に同情し、かえって車賃をやる等して助けたこと、そこで、被控訴人が帰宅する控訴人を玄関先で木刀を持って待ち構え、控訴人に正の家出先を教えなければ殴ると威かし、控訴人が逃げ難を避けたこともあったこと、被控訴人は、もともと、花子の生前食事中に咳払いをしたといって花子を怒鳴りつけたり、控訴人の持物を焼いたり、花子の命日にその祭壇を焼く等粗暴の言動があったこと、また、月子は、結婚後被控訴人と常時夫婦仲が好かったわけではなく、被控訴人と喧嘩して家を飛び出し、極端なときはそのため正の遠足の弁当を用意してやらなかったことがあり、そのようなことで正が近所の人の世話になったことも屡々あったこと、控訴人と被控訴人夫婦とは前記セーターの一件以来その不仲が昂じてきていたが、昭和四二年春頃から急激に悪化し、月子は前記セーターの一件があっても控訴人とは口を聞いていたのに、とうとうそれさえもなくなり、この頃から控訴人は被控訴人夫婦との不仲のため殆ど前記二女星子方に行ったきりであったこと、そして、同年夏頃には、月子が控訴人と親戚間の借金のことについて話していた際、激上して控訴人に対し、あなたは悪いことをしていないのかと怒鳴りつけ、これを否定する控訴人に面と向かって、花子は妾の出ではないかと詰問して責めたこともあったこと、その頃、星子方はもとより、長女菊子方でもようやく控訴人と被控訴人夫婦との不仲の急激に悪化したのを案じ、菊子の娘訴外乙山雪子が被控訴人に再三控訴人と仲好くするよう手紙を書送ったが、被控訴人はこれを無視し続けたこと、しかし、それまでは、まだ控訴人と被控訴人間で、今までのように父子として被控訴人が控訴人を扶養し、被控訴人が控訴人所有の本件建物を自己の居住に供して、両者が共同生活を続けて行くことを、いずれの側からも拒否するまでの言動に出でたことはなかったこと、ところが、同年八月下旬、雪子が、菊子方に来て家に帰りたがらない正を被控訴人夫婦のもとに送届けた際、雪子がいわば親戚の代表のような立場で、被控訴人夫婦に控訴人との不仲について、しつこくその原因を問いただしたところ、月子が腹を立てたように雪子に前記のとおり不祥事を告げたため、菊子や控訴人もその場に呼ばれ、月子が直ぐ一一〇番を呼んで調べて貰うと云い出す等大騒ぎとなったこと、被控訴人は、控訴人が月子のいう不祥事を極力否定しているのにも拘らず、控訴人が亡兄の妾花子を後妻にもらったことを持出し、いわれなき理由を根拠に全面的に月子に同調して控訴人を攻撃したこと、控訴人は、このように無実の不祥事を攻撃されたうえ、その直後に近所の、被控訴人の勤め先でもある老人会長方で、被控訴人が控訴人に危害を加えると息巻いていることも聞き、もはや、到底被控訴人夫婦と父子としての共同生活を続けることはできないと考え、権利証等貴重品を携えて差当り星子方に落着いたこと、被控訴人は、大学教育も受けた者であるのに、その後も冷静に反省する態度は微塵もなく、月子ともども控訴人と再び共同生活を続ける意思のないこと、そこで控訴人は、前記のとおり同年一〇月一九日到達の書面をもって被控訴人に対し解約の告知をなし、昭和四三年五月本訴を提起し(この事実は記録上明らかである。)、翌月頃から本件建物の近くの肩書住所地の訴外大山広方の工場の二階を、同人の好意から、無償で、電気代ガス代等も負担しないで借りているが、高令(現在八二才)の控訴人をいつまでも引取って扶養してくれる近親は居ないこと、被控訴人は、前記昭和四二年八月下旬の大騒ぎにより控訴人が星子方に落着いて以来今日に至るまで、控訴人が本件建物とその敷地以外に見るべき資産もなく星子方の家業の手伝により月二万円そこそこの収入を得て細々と暮しているのに、しかも、自己は本件建物を無償で使用し、かつ、夫婦共働きで従前同様の収入を得ながら、控訴人の扶養の点については毛頭も配慮せず放置していること、のみならず、控訴人は本件建物においている表彰状も破られ、表札も外され、前記のように近い場所に移ってからも自分に宛てた郵便物も届けて貰えないでおり、被控訴人夫婦は、本件建物を退去する意思もなく、また、控訴人がその架空を確信する不祥事を謝まるはずもないのに、控訴人が謝まれば何時でも本件建物を退去する旨いよいよ反抗的ないし挑戦的な態度を言明していること、そうして、控訴人の被控訴人夫婦に対する怒り、被控訴人夫婦の控訴人に対する憎しみは、すでに前記昭和四二年八月下旬当時から極限に達して、被控訴人は控訴人に対する扶養を廃し、互に共同生活を断念して双方の信頼関係は全く地を払うに至り、その対立・反目は、将来解消する余地の全くない状態になって、そのまま現在に至っていることが認められ(る。)≪証拠判断省略≫

そして右認定事実および前記採用証拠によれば、昭和四二年八月下旬、被控訴人の妻月子が控訴人が月子に接吻しようとしたことがあるという叙上認定説示のような不祥事を云い出したところ、被控訴人は、自己の父である控訴人の人格名誉に関する点で極めて重大な事柄に関し、控訴人が亡兄の妾を後妻に迎えたことに根強く拘泥し、このようないわれなき理由を根拠にして軽卒にも易々として月子に同調し、かねてから控訴人に対しいだいていた悪感情を一時に爆発させ、夫婦協調して一途に高齢の父控訴人をその立つ瀬がないまでに非難攻撃したことが決定的な原因となって、その結果、その後は控訴人と被控訴人とが本件建物において最早父子として平穏な共同生活を維持継続することが全く不可能な状態となったことが明らかである。

そこで、以上の事実関係のもとにおいては貸主たる控訴人は、借主たる被控訴人に対し本件使用貸借を解約できる(すでに前記解約告知の当時。)と解すべきであり(最高裁判所昭和四二年一一月二四日第二小法廷判決、民集二一巻九号二四六〇頁参照。)、したがって、控訴人と被控訴人間の本件建物使用貸借は、控訴人のなした前記解約告知により、昭和四二年一〇月一九日限り終了したというべきであるから、被控訴人は控訴人に対し、本件建物を明渡すべき義務がある。

被控訴人は、本件解約告知の場合にも家団権により被控訴人が当然に本件建物に居住する権原を有する趣旨の主張をなし、また本件解約告知を以て権利の濫用であると主張するが、(前記不祥事を前提とする権利濫用の主張については先に判示したとおりである。)本件全資料を検討するも右各主張を是認することはできない。

五、よって、控訴人の本訴請求は理由があり、これを棄却した原判決は失当であって、本件控訴は理由があるので、原判決は取消しを免れず、民事訴訟法三八六条、九六条、八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 柳川真佐夫 裁判官 後藤静思 平田孝)

<以下省略>

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