東京高等裁判所 昭和46年(う)3030号 判決
被告人 大野秋夫
〔抄 録〕
所論は、要するに、本件公訴事実は、被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四五年九月一〇日午前七時二〇分ころ、普通乗用自動車を運転し、佐倉市臼井二七番地付近道路を大川十字路方面から京成臼井駅方向に向かい時速約四〇キロメートルで進行中、武藤文夫(当時四三年)が道路の右側から左側に横断を開始したのを前方約一六・九メートルの地点に認めたので、一時停止して同人の避譲または通過を待ち、安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのに、すみやかに一時停止のための制動処置をしないで進行した過失により、右側から左側に歩行横断中の同人に自車を衝突させ、よつて同人に入院加療一〇三日間を要する左下腿骨折、全身打撲の傷害を負わせたものである、というのであり、これに対して原判決は、被告人運転の車両(以下被告人車と称する)の進行速度が時速約四〇キロメートルであったことを前提とし、一般的な車両の制動距離(一八メートル)を本件の場合にあてはめて抽象的な計数上の判断をし、しかも、空走時間を重複して加算した不合理な制動距離を想定して、被告人車の現実の制動距離を無視した過誤をおかした結果、被告人が被害者武藤の横断を開始したのを発見した地点で急制動の措置をとったとしても、本件事故を回避し得たとの証明が十分でないから、この点において被告人の過失を認めることができないとして、被告人に対し無罪の言渡をした。しかし、被告人車は、被告人が急制動の措置をとってから一二・八メートル進行した地点で停止しているのみならず、司法警察員作成の実況見分調書添付見取図(甲)によれば、被告人車の実際の空走距離は約八メートルであることが認められるところ、右の空走距離中には反射時間および踏替時間の走行距離も含まれていると認めるのが相当であるから、被告人が武藤の横断開始を発見した際、直ちに急制動の措置をとったとすれば、被告人車は本件衝突地点よりも約二・五五メートル手前で停止することができ、本件事故を回避することができたことは明らかである。したがって、原判決は、この点において事実を誤認した結果、被告人を有罪とすべきであるのに、無罪の言渡をしたものであって、右の誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調の結果に徴して検討すると、司法警察員作成の実況見分調書、司法警察員作成の自動車検査証謄本、医師内田成和作成の診断書、原審証人武藤文夫の供述、武藤文夫の司法警察員に対する供述調書、被告人の司法警察員および検察官事務取扱副検事に対する各供述調書、被告人の原審公判における供述、原審検証調書を総合すれば、原判決判示二、1ないし5の事実および被告人車は、被告人が急停止の措置をとってから、左車輪で六・九メートル、右車輪で七メートルそれぞれ走行した後、左車輪で三・九メートル、右車輪で四メートルの各スキッドマークを印して停車したこと、被告人車の長さは四・六三五メートルで、運転席中心部からフロント・バンパーまでは二・〇五メートルであることが認められる。そして、右の事実によれば、原判示のとおり、被告人が武藤の横断開始を発見して警音器を吹鳴したのは被告人車のフロント・バンパーが同人の約一四・八五メートル手前に達した地点であり、それから約六・八メートル進行した地点で急停止の措置をとったが約八・五五メートル進行した地点で自車を同人に衝突させ、さらに約四・二五メートル進行して停止したことになるので、被告人が急停止の措置をとってから約一二・八メートル進行して停止したものであることは明らかである。
ところで、原判決は、時速四〇キロメートル進行中の普通乗用自動車がアスファルト舗装の乾燥した道路で急停止の措置をとった場合の広義の制動距離が一般に一八メートルといわれているところ、被告人の時速約四〇キロメートルで進行していた旨の供述は、これを否定することができず、また、一般に危険を感じ警音器を吹鳴するような場合には、アクセルから足を離し、ブレーキに足をかけ危険回避のための準備を起すことは当然考えられることであるから、被告人の原審公判における、約一六・九メートル(フロント・バンパーからは約一四・八五メートル)前方に武藤の横断を発見して警音器を吹鳴した際、右足をアクセルから離し、ブレーキにかけたが、踏んだかどうかは記憶していない旨の供述は十分首肯することができるものとしたうえ、右の事実を前提として、被告人が急停止の措置をとった時点において、いわゆる空走時間のうち少なくとも反射時間および踏替時間を除外しての被告人車の制動距離が一二・八メートルであったのであるから、さらに右反射および踏替時間を考慮すると、右時点における広義の制動距離はその分だけ長くなる(ちなみに、反射および踏替時間を〇・六秒とすると、時速四〇キロメートルで六・六メートルとなるから、広義の制動距離は一九・四メートルとなる)から、検察官主張のごとく、右時点から約一二・八メートル進行した地点で停止したことから直ちに被告人が前方約一六・九メートル(フロント・バンパーから一四・八五メートル)の道路右側から武藤が横断を始めたのを発見した際、警音器を吹鳴するとともに急停車の措置をとっておれば衝突地点に達する手前で停止することができ、本件事故発生を回避できたとの結論を導き出すことは早計にすぎるものといわざをえず、被告人車の時速四〇キロメートルにおける広義の制動距離が一般にいわれている一八メートルよりも短い一四・八五メートル以下であることを認めるに足りる証拠もないから、結局本件公訴事実については、被告人が武藤の横断を開始したのを発見した地点で急制動の措置をとったとしても、本件事故を回避し得たとの証明が十分でなく、この点において被告人の過失を認めることができないとして、無罪の言渡をしたものである。
しかしながら、いわゆる空走時間中の反射時間とは、制動要求から実際に足が運動を開始するまでの時間(脳から手足への意思伝達に要する時間)であって、通常は運転者が危険を感じてアクセルペタルから足を離すまでの時間をいい、この時間は、一般に、注意しながら運転し、ブレーキをかけようと常に用意しているときには〇・四秒ないし〇・五秒とされているが、かりに、原判決認定のように、被告人が約一六・九メートル(フロント・バンパーからは約一四・八五メートル)前方に武藤の横断を発見して警音器を吹鳴した際、右足をアクセルペタルから離してブレーキペタルにかけたものとしても、現実に危険を感じて制動要求があった時点から右足がブレーキペタルを踏む運動を開始するまでの間にも同様の反射時間を要したものと解するのが相当であり、そうとすれば、空走時間中除外されるのは踏替時間のみであるといわなければならない。そこで、原判決の算定方法に従い、被告人が急停止の措置をとってから停止するまでに進行した約一二・八メートルに踏替時間(原判決が制動距離の判断資料としている司法研究報告書二一輯二号二八九頁によれば、通常〇・二秒とされている)の走行距離(時速四〇キロメートルの場合二・二メートル)を考慮すると、原判決のいわゆる被告人車の広義の制動距離は約一五メートルとなる。もっとも、被告人車は、急制動により左右両車輪が滑走中、右側フロント・バンパーが武藤の左下腿部に衝突し、さらに約二・二メートル進行して停止したのであるから、右の約一五メートルの距離が必らずしもそのまま被告人車の広義の制動距離であるということはできないけれども、司法警察員作成の実況見分調書、被告人の原審公判における供述によれば、被告人車は、武藤との衝突後、道路左側の縁石その他の物体に触れることなく停止したものであり、また、被告人車の右側フロント・バンパーには損傷がなく、右側フェンダー先端に凹損、フロント・ウインド右下隅のガラスに破損があったことが認められるのみならず、本件衝突の状況(とくに、武藤は、右斜め横断をしていたので、被告人車は同人の側面に衝突したものと認められること)、武藤の受けた傷害の部位(左下腿骨折、全身打撲)などを総合して考察すると、右の距離は、武藤と衝突したことを考慮に入れても、被告人車の広義の制動距離またはこれに近似したものであると認めてさしつかえないものと解する。原判決引用の資料によれば、時速四〇キロメートルの普通乗用自動車がアスファルト舗装の乾燥した道路で急停止の措置をとった場合の広義の制動距離が一般に約一八メートル(約一六メートルないし約二〇メートル)とされていることは原判示のとおりであるけれども、制動時間中とくに反射時間は人間的要素が大きく、また、車両の制動距離を決定する要素は、速度のほか自重、荷重、ブレーキの状態、道路の摩擦系数、傾斜、風向きなど、きわめて複雑であり、これらの諸要素のわずかな変化によって影響されるのであるから、右の資料が実験例等から一般的に算出した制動距離の数値と本件事故現場における被告人車の広義の制動距離との間にこの程度の些少な差異があるからといって、これが直ちに前記認定を妨げるものとは考えられない。さらに、被告人は、被告人車の進行速度につき終始時速約四〇キロメートルであった旨主張しているが、被告人車のスキッドマークの長さが左車輪で三・九メートル、右車輪で四メートルであったことに徴すれば、被告人車の進行速度は時速約四〇キロメートルよりもかなり低速度であったとの疑いを容れる余地もないとはいえず、もしそうとすれば、被告人車の広義の制動距離は、右の資料によっても、短かくなることは明らかである。
以上によれば、被告人車の進行速度が時速約四〇キロメートルであったとしても、被告人が武藤の横断開始を発見して警音器を吹鳴した地点において直ちに急停止の措置をとったとすれば、必らずしも被告人車が右地点から一七・四メートル(フロント・バンパーからは一五・三五メートル)の本件衝突地点に達する手前で停止することができなかったものということはできない。そして、被告人は、前方約一六・九メートルの道路右側から武藤が横断を開始したのを発見したのであるが、このような場合、自動車運転者は、歩行者の進行方向、動静などから歩行者が自車の接近を了知して待避することが明らかに覚知されないかぎり、同人が自車の接近に気付かず、横断を継続することがあるということは当然予想されるところであるから、警音器を吹鳴しあるいは減速徐行し、さらに、自車の速度および自車と歩行者との間の距離、道路の巾員などの具体的状況によっては、直ちに一時停止して、歩行者の避譲または通過を待ち、安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があると解すべきところ、原審証人武藤文夫の供述によれば、同人は、本件衝突の直前まで被告人車の接近に気付かず、道路を右斜方向に横断しようとしたものであることが認められるので、本件の具体的状況の下において、同人が被告人車の接近に気付いて待避してくれるものと速断し、単に警音器を吹鳴したのみで直ちに一時停止の措置をとらなかった被告人が、本件事故発生につき右注意義務の懈怠による過失の刑責を負うべきことは明らかである。これに反し、原判決は、被告人車の広義の制動距離の算定を誤り、被告人が武藤の横断開始を発見し警音器を吹鳴した際、直ちに急停車の措置をとったとしても、被告人車が本件衝突地点の手前で停止することができ、本件事故発生を回避できたとの証明が十分でないから、この点において被告人の過失を認めることができないとして、無罪を言い渡したものであって、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認をおかしたものというべきであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。
(真野 綿引紳 岡村)