東京高等裁判所 昭和46年(ツ)58号 判決 1974年12月12日
上告人 合資会社酒井写真館
右代表者無限責任社員 酒井公平
右訴訟代理人弁護士 橋本順
同 白井正明
被上告人(亡木下善守訴訟承継人) 木下あきよ
<ほか四名>
以上被上告人ら訴訟代理人弁護士 相沢岩雄
主文
原判決を破棄する。
本件を長野地方裁判所に差戻す。
理由
本件上告の理由は別紙上告理由書記載のとおりである。
上告理由第一点について
所論は要するに、原判決には、民法一六二条二項の無過失の認定・判断に関して審理不尽・理由不備の違法があるとともに、同条項の解釈・適用を誤った法令違反があって、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。
よって、検討するのに、原判決は、(1)本件従前の土地(飯田市飯田上三、三三五番の二地目宅地七〇・〇五平方メートル)がかつて上告人(被告・控訴人)の所有であり、戦後のいわゆる農地開放当時訴外中村東一がこれを上告人(当時東京に在所する不在地主であった。)から賃借小作して主に桑の木を植栽し、地代は飯田市在住の管理人訴外宮下新三郎に支払っていたこと、(2)昭和二二年頃飯田市農地委員会は自創法に基づく農地の買収・売渡を進めると同時に農地の集団化を目的とする交換分合を行ない、同委員会から地区委員を委嘱された秋山保夫、中村東一ら五名は、本件従前の土地が右自創法によって買収され、木下善守(原告・被控訴人であり、控訴審係属中の昭和四五年八月五日に死亡、当審においてその相続人たる被上告人木下あきよ外四名が承継。以下便宜上被上告人先代と呼称する。)に対して売渡しになったものと考え、昭和二二年七月二日現地立会いのもとに被上告人先代に現況農地として右土地を引渡し、被上告人先代はそれ以後本件従前の土地でさつまいも・白菜・ねぎ等を栽培しながら少なくとも昭和三四、五年頃までこれを耕作占有していたこと(なお、その間昭和二六年頃上告人から不法占拠であるとして抗議を受けている。)(3)しかし実際には、本件従前の土地は前記飯田市農地委員会の買収計画に掲げられず、それに関する買収処分調書もなく、もちろん上告人に対する買収令書の交付も、被上告人先代に対する売渡通知書の交付もないのであり、その間の納税、その後に行なわれた仮換地・本換地の指定はすべて公簿上の表示に従って上告人を所有者として取扱っていること、(4)ところが、それとは別に本件従前の土地の近傍に同じく上告人所有の土地、飯田市飯田上三、三三二番ロの三地目畑二二歩があり、この土地について買収計画と売渡計画があって被上告人先代に売渡されたことになっていること(なお、被上告人先代にはそのほかにも自創法に基づいて実際に売渡を受けた隣接の農地があり、これを昭和二六年一一月頃農林省に売渡している。)、(5)本件従前の土地は昭和四二年五月二六日上告人所有の同所三、三三五番の八宅地六・九四平方メートルとともに飯田市東中央通五丁目三五番の一宅地一〇七・五平方メートルとして換地処分になったこと(その割合は前者が七、六九八分の七、〇〇四、後者が七、六九八分の九七〇となる。)、以上の各事実を挙示の各証拠によって確定したうえ、被上告人先代の取得時効の主張に対し、特に右(1)ないし(3)の事実関係を前提にして、「右認定事実よりすると、被控訴人(被上告人先代)が本件従前の土地を地区委員から引渡しを受けた時点で自創法による売渡がなされたものと考えるのは当然であり、その時から所有の意思をもって占有を開始したものとなすを相当とすべく、同人はその時から所有の意思をもって善意、平穏、公然に占有をなすものと推定されるばかりでなく、≪証拠省略≫によれば、同人は右占有のはじめ善意なることにつき過失もなかったことがうかがわれる。」と判示して右取得時効の主張を認容しているのである。
そこでまず、占有開始の時期について考えてみると、原判示地区委員の職務・権限の内容は判文上必ずしも明らかではないが、いずれにしても、地区委員は飯田市農地委員会から関係地区内における農地の買収計画・売渡計画の樹立、交換分合に関する準備や被買収、被売渡予定者らとの交渉等の事務を委嘱され、実際にその衝に当っていたものということができるし、取得時効の要件たる自主占有の開始は、所有の意思をもってする不動産の事実支配の開始をいうのであるから、原判示のように、本件従前の土地につき地区委員から事実上売渡土地として現地での引渡しがあり、爾後の耕作を許諾されて、被上告人先代が同土地の耕作を始めたとすれば、右土地について売渡通知書の交付未了の間も右の自主占有が開始されたと認めて妨げないものというべきである。
しかしながら、民法一六二条二項の規定する占有の始めにおける善意・無過失は、自主占有開始の原因となった新権原取得の事情、その態様・形式等を勘案し、その取引ないし処分の実情と社会通念に照らして判定すべきものであるから、例えば本件のように自創法に基づく売渡処分によって新権原を取得しようとする場合であれば、前記地区委員による現地での引渡しのほか、右売渡処分の根拠・証憑として最も重要であり、自創法所定の手続上必ず履践されるはずの売渡通知書の交付を待つべきであり、その交付が通常予定される相当の期間内にないときには、被売渡人においてその売渡処分の真否、手続上の過誤の有無を関係農地委員会あるいは地区委員等に問い合わせるなどして調査、確認すべき注意義務があると解するのが条理上相当である。本件においては、前示確定した事実関係から明らかなように、被上告人先代は、他にも隣接農地の売渡処分を受けている(したがって、その売渡通知書の交付を受け、代金を支払って所有権移転登記を受けているものと認められる。)のであるから、特段の事情がない限り本件従前の土地について右の売渡通知書の交付がないことに疑問を持つべきであり、この点について前示調査確認の注意義務を尽くす要があるものというべきである。(なお、仮に前示確定事実からも窺えるように被上告人先代が、別に被上告人名義で売渡処分がなされたことになっている近傍の農地(原判示三、三二二番ロの三畑二二歩)の売渡通知書を本件従前の土地のそれと速断したとすれば、それを看過誤信した点に過失があることはいうまでもなく、また本件は、一旦正規の手続でなされた売渡処分について取消ないし無効原因となる瑕疵があって、右売渡処分の効果が生じないとされる場合に、被売渡人に右手続上の瑕疵を調査する義務はないとされる事案と異なる点も留意しなければならない)。
してみると、本件従前の土地は現況耕作地と認められるというのであるから、被上告人先代は、原判決が説くようにその地目が宅地であった点で調査確認の要はないけれども、前示相当の期間内にその売渡通知書の交付がない点について当然前記の調査・確認の義務を尽すべきであったのであり、原判決が特段の事情について審理判断することなく、被上告人先代に右の過失がなかったとしたのは、占有の始めの無過失に関して民法一六二条二項の解釈・適用を誤ったものであり、この法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨はこの点において理由がある。
そこで、原判決を破棄することとし、右特段の事情の有無についてなお審理判断を尽くす必要があるから、本件を原裁判所に差戻すこととする。
よって、民訴法四〇七条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 浅賀栄 裁判官 小木會競 深田源次)