大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和46年(ネ)789号 判決 1972年10月30日

控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 相沢岩雄

被控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 鈴木敏夫

主文

原判決を取り消す。

控訴人と被控訴人とを離婚する。

控訴人と被控訴人間の長女春子(昭和三七年一〇月二六日生)の親権者を被控訴人と定める。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、主文第一、第二、第四項と同旨及び「控訴人と被控訴人間の長女春子(昭和三七年一〇月二六日生)の親権者を控訴人と定める。」との判決を求め、被控訴代理人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述及び証拠の関係は、左記の外は原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

一、控訴人の主張の追加

控訴人は、養親正夫と被控訴人との関係をめぐって問題が起る都度、自分の意思を明示し、できるだけ周囲と協調して円満な家庭生活が維持されることを望んでいたものである。

ところが、被控訴人は、元来自己本位の性格で、感情の抑制ができず、協調性がなく、共同生活に適しないものであるうえに、病的なまでの虚言癖があり、周囲の同情をかって正夫と別居しようとして、偽りの事実を吹聴したため、かえって、前記問題の解決を困難にした。このような事情にあったため、控訴人の被控訴人に対する信頼と愛情は次第に冷却し、両者の婚姻関係は回復の見込みが全くないまでに破綻し去った。このように、婚姻関係破綻の責任の大半は被控訴人が負うべきものであるから、控訴人の離婚請求は認められるべきものである。(なお、正夫は既に後妻と婚姻し、その間には子もあり、控訴人が再び正夫の許ないし乙山家に復帰する可能性は全くないのであるから、本件は、被控訴人と正夫の関係を顧慮することなく、専ら、控訴人・被控訴人間の問題として判断されるべきものである。)

二、被控訴人の認否

控訴人の右の主張はすべて争う。

三、新しい証拠≪省略≫

理由

一、≪証拠省略≫によると、控訴人と被控訴人とは、昭和三六年四月五日婚姻の式を挙げ、同年七月二五日その届出をしたものであり、同人らの間に昭和三七年一〇月二六日長女春子が出生したことが認められ、これに反する証拠はない。

二、控訴人は、被控訴人との婚姻関係は全く破綻して回復の見込みがなく、被控訴人との婚姻を継続し難い重大な事由があると主張するので、控訴人と被控訴人との婚姻生活の状況について検討する。

1  まず、≪証拠省略≫を総合すると、次の(一)ないし(六)記載の各事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(一)  控訴人は、昭和六年八月三一日甲野良夫、同夏子の二男として出生し、昭和一〇年三月二九日右良夫の弟である乙山正夫及びその妻秋子と養子縁組の届出をし、爾来同人らに養育され、昭和三二年三月○○○○大学農学部を卒業したが、昭和三四年四月以来財団法人○○県○○自動車学校に教官として勤務している。乙山方は農業と養蚕を生業とし、田一反五畝、畑八反、山林四町余を所有している。

被控訴人は、昭和九年五月六日丙野冬子、同和夫の三女として出生し、○○県○○○郡○○○村の実家において生育した。

(二)  控訴人と被控訴人とは、昭和三五年六月二五日訴外丁川一郎、同戊村月子の仲介で見合いをし、同年八月一〇日地方の慣習にいう「樽入れ」をした後、右一、認定のとおり婚姻し、爾来正夫・秋子夫婦と○○市○○町○○の乙山方において同居し、被控訴人は家業の農業、養蚕を手伝っていた。

(三)  控訴人ら夫婦は、昭和三八年七月六日、右丁川及び婚姻の際被控訴人の親代り(「親分」ともいう。)をつとめた訴外月山昇と協議のうえ、右○○町内の○○町青空陽子方に間借りをして、正夫らと別居したが(なお、別居先はその後○○町○○町にかわった。)、その後右丁川及び訴外松林繁夫らのすすめによって、昭和三九年一月初旬別居をやめて乙山方に戻り、再び正夫らと同居した。

(四)  昭和三九年四月、秋子は手術のため入院することになったが、その頃被控訴人は一人で乙山方を出て、右月山方に身を寄せた。そうして、被控訴人は同年七月頃、控訴人を相手方として同居を求める調停を長野家庭裁判所に申し立て、一方、控訴人もその頃同裁判所に被控訴人に対し離婚を求める調停を申し立て、この二つの事件は同時に進められたが、同年九月頃どちらも不調となった。ところで、被控訴人は、同年九月頃月山方の子供と折合いが悪くなったこともあって、同人方を出て、右(三)の青空方に間借りして○○無線の○○工場に勤めることとなり、同年一〇月には、控訴人の実家等で養育されていた春子を手許に引き取った。その後、昭和四〇年一月一日秋子が死亡し、同年六月頃被控訴人は乙山家の菩提寺の住職提玄善の斡旋によって、控訴人の許に戻り、以来乙山方において再び控訴人及び正夫と同居した。

(五)  昭和四一年四月、控訴人は被控訴人と共に再び○○町○○に居を構え、当時単身であった正夫と別居するに至り、更に同年八月六日には控訴人は正夫と協議のうえ養子縁組の離縁をした。ところが、同年一二月二五日控訴人は被控訴人の許を去って乙山方において正夫と同居し、前記勤務のかたわら正夫を手伝っていたが、昭和四二年夏頃になって、正夫が後妻を迎える話が出たため、乙山方を去り、勤務先付近の肩書住所に間借りして、爾来そこに住んでいる。なお、正夫は昭和四二年一一月頃冬村雪子と婚姻し、昭和四三年四月六日その届出をすませたが、同女との間に同年九月一六日に長女が、昭和四六年八月三一日長男がそれぞれ出生した。

(六)  控訴人は、被控訴人の請求により昭和四二年一〇月頃から、同人に春子の扶養料(当初一か月一万円、その後一万五、〇〇〇円となる。)を支払い始め、昭和四三年四月三日には、前記裁判所に再び被控訴人との離婚を求める調停の申立をした。

一方、被控訴人は右(五)のように控訴人が去った後、○○○○電気株式会社等に勤めたが、現在はデパート(長野○○)に勤務し、春子と共に肩書住所で生活している。

現在、控訴人と被控訴人の間では、前記扶養料を支払ったり、税金等についての事務的な話をしたり、春子に与える品物を托したりする以外に、特段のゆききはない。

2  右に認定した事実によると、控訴人と被控訴人の婚姻生活は、前記(五)認定の控訴人が被控訴人の許を去って正夫と同居するに至った頃から破綻しているものと一応認められる。ところで、右の認定事実によると、控訴人ら夫婦は昭和三八年七月六日と同四一年四月との二度にわたり養親である正夫らと別居していること、第一回目の別居が終った後である昭和三九年四月頃には被控訴人が控訴人と別居し、右別居の間に右両者は同居及び離婚を求める調停をそれぞれ申し立てたこと、及び昭和四一年八月六日控訴人は正夫と養子縁組の離縁をしていることが明らかであるが、これらの事跡からして、控訴人と被控訴人との婚姻関係破綻の背景には、控訴人及び被控訴人と養親である正夫及び秋子との関係が伏在し、これが婚姻関係破綻の大きな原因をなしているものと推察される。そこで、この点を、右1認定の事実の経緯を追って、更に審究することとする。

(一)  まず、昭和三八年七月からの、控訴人ら夫婦と正夫との第一回目の別居について考える。

(1) 右別居の原因について、≪証拠省略≫によると、被控訴人は婚姻以来秋子からは激しく働けと強いられたうえに、正夫からは昭和三七年以来しばしばみだらな言動に及ばれたので、控訴人にこれらの事情を訴えたが、同人は正夫、秋子らに対して強硬に申入れをする等のことはせず、はかばかしい処置をとってはくれなかったところ、正夫の右言動は昭和三八年に入っていよいよ激しく、四月頃には言うことを聞けといって家中を追いまわし、更に六月末には、おりから授乳中の被控訴人に「今日こそは」といいながらおそいかかるに至った、そうして、たまたま手を負傷したため在宅していた控訴人がこれを知って正夫と取組み合いとなり、秋子もこの状態を目撃した、控訴人や秋子はこのようなことがあってようやく事態が深刻であることを悟り、前示月山、丁川及び正夫の弟らに集ってもらって協議した末右の別居が決った、というのである。

これに対して前示証人正夫の証言によれば、被控訴人のいうところはすべて同人の創作であって、そのような事実はない、というのであり、また、前示控訴人本人尋問の結果によると、控訴人は被控訴人からしばしばそのような事実を挙げて訴えられたので、その都度正夫や秋子に事の真偽を問いただしてみたが否定され、同様のことがたび重なるにつれて被控訴人のいうことは信用し難くなった、特に昭和三八年六月末頃被控訴人のいうような出来事はなく、別居は、後記のように、仲人の丁川、「親分」の月山ら立合いの上で決められたが、その原因は正夫らと被控訴人が不仲で口論等が絶えなかったからである、というのである。

このように、別居の原因について、直接当事者である控訴人、被控訴人及び正夫のいうところは全く相反するのであるが、更に、≪証拠省略≫によると、「親分」の月山は昭和三八年頃、被控訴人から、正夫がみだらな言動に及ぶので同人との間がうまく行かないから控訴人と共に別居したいから話をつけて欲しい、と依頼され、仲人の丁川と相談したうえで、同年六月末頃、控訴人、被控訴人、正夫、秋子、及び正夫の弟等を集めて、被控訴人の申出でを検討するため会合を開いた、その席で正夫の言動の存否については結局水かけ論に終ったが、月山や丁川は、被控訴人が正夫の言動なるものを具体的に明言したところから、半信半疑ながらも、一応被控訴人のいうところを信用するに傾き、事情止むを得ないものとして別居をすすめた結果控訴人らはこれに従った、というのである。

そこで考えてみるのに、同年六月末頃被控訴人が供述するとおりの出来事が実際にあったものとはたやすく認め難い。何となれば、前示被控訴人本人尋問の結果によっても、事件当日控訴人が手の負傷のため欠勤して家にいたことを正夫も知っていたというのであるから、そのような状態のもとで、正夫が被控訴人のいうような非常識なふるまいに及ぶとは思われないのであって(なお、当裁判所は正夫の証人尋問をしたが、それを通しては、同人が右のような非常識な行動にでるような人間であるという心証は得られなかった。)、前示被控訴人の供述部分は容易にこれを措信し難いからである。しかし、前記各証人が証言しているように、「親分」や仲人を含めて関係者が集まり、その席上被控訴人の訴える正夫の言動について検討がなされ、その挙句に別居が決っている経過を考えると、正夫が証言するように、被控訴人のいうところはすべていつわりであるとも断定し得ないのであって、別居の原因としては、結局、前掲証人月山、同丁川(一郎)らのみるところが最も正鵠を得ているに近いといえよう。すなわち、控訴人も、秋子も、また月山や丁川も、果して正夫が被控訴人に対して、被控訴人が言うとおりの言動に及んだかどうかについては一抹の疑を残しつつも、正夫にはある程度被控訴人のいうところに近い言動があったと考え、そのまま放置して正夫と被控訴人の関係が更にぬきさしならぬものとなるときは、控訴人らの婚姻生活も重大な影響を受けることになるので、そのような事態に陥ることをさけるためには、控訴人らが正夫らと別居するのが相当であるということになり、その結果別居がなされたものと認めるのが相当である。

(2) 次に≪証拠省略≫によると、第一回目の別居後数か月たった昭和三八年一〇月頃、正夫はかねて知り合いの松林繁夫に対し、自分の言動が誤解されて控訴人らが右のように別居するに至ったのは残念であると訴え、かつ、控訴人らが引きつづき別居して乙山方に戻らぬようなら、後々のことを考え改めて養子をとることも考慮しなくてはならないので、控訴人らが今後どうする心算なのか確かめて欲しいと依頼したこと、これに対して町会議員等をつとめて、地方の有力者的存在である松林はこの依頼を受けて、自ら積極的に控訴人に対し、正夫のもとに帰るよう説得を始めたこと、控訴人はその頃丁度農繁期であるので手伝のため乙山方に戻ろうと考え、被控訴人にもその旨述べていたが、同人はなかなかこれを肯んじなかったこと、及び翌昭和三九年一月二日頃松林の提唱によって丁川方において、正夫及び被控訴人の双方の親戚を集めて会合が開かれ、相当議論がなされたが、結局、被控訴人も不承不承ながら控訴人の意向に従い、乙山方に戻ることとなり、同月一〇日頃控訴人らは再び正夫らと同居するに至ったことが認められ、これに反する証拠はない。

(3) このようにして、第一回目の別居は終ったのであるが、以上認定の事実によると、控訴人は正夫らと一旦は別居したものの、同人らに対する骨肉の情と恩義から、かなり早くから再び同人らと同居することを考えており、これに松林の強力な説得もあって、結局別居を解消するに至ったのであるが、それは必ずしも被控訴人の本心にそうものでもなく、また同人の十分な納得を得たうえでのことでもなかったものというべきである。

(二)  つぎに、昭和三九年四月からの被控訴人単独の別居等について考える。

(1) ≪証拠省略≫を総合すると、(一)認定のように別居を解消して同居するに至った後も、被控訴人と正夫、秋子の仲は芳しくなく、特に正夫との間において争いが絶えず、その都度被控訴人は松林を呼び出して事の次第を訴えたが、被控訴人のいうところと乙山方において正夫らからきくところがことごとにくいちがうため、松林ももてあまし気味であったこと、そのうち、昭和三九年四月秋子は病気のため入院しなければならなくなったが、正夫と被控訴人の平常の関係をみていると、被控訴人が家にいては安心して入院できないという意向を持ち(それが、単に正夫と被控訴人の不仲を心配したことによるのか、それとも、秋子が入院してしまうと正夫が被控訴人に不倫の行為に出るであらうことを憂慮したことによるのかのせんさくは、ここでは一先ず措く。)この意向を松林に述べたので、松林は月山と相談し、この際は「親分」の月山方において被控訴人を一時預かることになり、かくして被控訴人が別居するに至ったことが認められる。被控訴人の本人尋問の結果中には、当日同人の親戚のある岡谷に行くつもりであったのに、松林にだまされて月山方につれて行かれたとする部分があるが、被控訴人が同年九月頃まで月山方にいたことは前記1(四)において認定したとおりであり、しかも、右本人尋問の結果によると被控訴人はその間すすんで月山方の手伝いをしていることが明らかであるから、右部分はたやすく措信し難い。他に右認定に反する証拠はない。

右認定の事実によると、被控訴人の別居は、主として秋子の意向から出たことが明らかである。ところで、前記1(四)認定のとおり、右別居後三か月くらいして被控訴人から同居を求める調停の申立をしたのに対して、控訴人が離婚の調停申立をしたこと、≪証拠省略≫により明らかな、右別居の頃控訴人において春子を他に預け、その行き先を被控訴人に告げなかった事実及び控訴人が昭和三九年三月以来被控訴人との性交渉を絶ったと供述していることから推すと、右別居当時すでに控訴人は被控訴人と離婚する意思であり、秋子が前記のような意向であるのを機に、この意思を実現しようと考え、松林等が被控訴人を月山方に預けることとしたことに対して積極的に反対しなかったものと認められるから、右の別居は控訴人の意向にもそうものであったというべきである。

(2) つぎに≪証拠省略≫によると、被控訴人は昭和四〇年四月頃、控訴人の菩提寺の住職提玄善に対して、控訴人のもとに戻れるようにしてほしいと依頼したところ、提はその頃控訴人の叔母の口添えもあったので、斡旋を始めたこと、当初控訴人はともかくとして正夫は被控訴人が戻ることを肯んじなかったが、提は、被控訴人に対し書面を以てとるべき心構えを説き示し、これに対応する被控訴人の心情を披歴した書面をも用意して、正夫を説得した結果、正夫も被控訴人をうけいれることになり、前記1(四)のとおり、被控訴人は同年六月頃控訴人の許に戻り、再び正夫と同居することになったことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫

右認定の事実に、前記1(四)のとおり前示各調停が昭和四〇年九月頃不調に終った事実を合せ考えると、控訴人が持っていた右(1)の離婚の意思も、被控訴人が控訴人の許に戻ったことによってひとまず解消し、両名間の婚姻生活はその頃一応回復され、破綻を免がれたものというべきである。

(三)  更に、昭和四一年四月からの控訴人ら夫婦と正夫との第二回目の別居について考える。

≪証拠省略≫を総合すると、正夫と被控訴人との間にはその後も争いが絶えず、例えば提も何度か被控訴人に呼び出されて乙山方にかけつけることを繰り返したが、乙山方において正夫等から聞いたり自ら見分する状態は、必ずしも被控訴人のいうとおりではなかったこと、また、その後昭和四〇年一〇月頃被控訴人は駐在所の下宮巡査のもとに、正夫から首を締める等の暴行をうけたといってかけこみ、同巡査が乙山方に赴くと正夫は暴力行為に及んだのは被控訴人であると訴え、結局、同巡査としてはどちらともきめかねそのままとなってしまったこと、更に、その頃正夫は被控訴人の言動に憤激したあまり、夜中被控訴人を家の外に締め出した、というようなことがあったこと、そこで、自らも渦中にあってこのような状態を見聞していた提は、丁川と相談したうえ、控訴人及び被控訴人を別居させた方がよいということになり、○○町○○に家を探し、右両名に別居をすすめ、その結果第二回目の別居が行なわれることとなったことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫特に、被控訴人は、正夫の暴力行為の原因は、右の頃後妻の話が頓坐したため、以前にもましてみだらな言動に及ぶようになったのを、被控訴人が拒絶したことによるものである、と供述しているが、この部分は前記(一)、(1)と同様そのすべてを真実と受け取るわけには行かない。他に右認定に反する証拠はない。

右認定の事実によれば、右の別居も、第一回目のそれと同じく、正夫と被控訴人との不和が、控訴人らの婚姻生活に影響を与え、これを破綻させる結果に至ることを避けるためになされたものと認められる。

(四)  右1認定の事実によると、控訴人は昭和四一年八月六日正夫と協議離縁し、しかも、それにもかかわらず控訴人はその後同年一二月二五日頃、被控訴人と別居して、正夫の許に戻っているのであるが、最後にこの間の事情について考えてみる。

右協議離縁の原因については、≪証拠省略≫によっても、感情上の行き違いというだけであって必ずしも判然としないが、以上に認定したところから推すと、控訴人は右1、(一)のとおり四才位の時正夫、秋子夫婦の養子となり、以来同人らに養育され、成人の後も同居して実の親子と同様な生活を続けていたところ、右2、(一)及び(三)のような経緯により控訴人ら夫婦が二回にわたり別居を繰り返したことから、その間に控訴人と正夫とは感情上の疎隔を生じてしまい、ことに正夫としては控訴人に乙山方の後事を托するのぞみを失ったことがその大きな理由であると認められる。

そうして、右≪証拠省略≫によると、控訴人は右離縁の後は、もはや正夫の許に戻る気もなく、またそのようなことは事実上不可能と考えていたところ、たまたま同年一二月二五日頃正夫方を訪れて、同人が一人であり、かつ老令と目の病気のため身辺の仕末も十分に出来ず、まして家業の農業も意にまかせない状況にあることを見たので、右のように長年実の親子同様に生活して来たことと、離縁したとはいっても正夫とは叔父とおいの関係にあることを思い、一時正夫の世話をし、また同人を手伝うため、そのころ同人方に戻ったというのである。しかし、前示当審証人の証言によると、控訴人は右一二月前後の頃提に被控訴人との生活をいとう心情を洩していることが認められ、これに反する証拠はない。してみると、控訴人が同年一二月二五日頃、被控訴人と別居して正夫のもとに戻ったのは、肉親であり恩義のある正夫を思ったことと、その頃再び生じた被控訴人との婚姻生活の破綻との双方によるものと認めるのが相当である。

3  以上の認定に基づき、本件婚姻の破綻の原因について考える。

(一)  右2、(一)に認定したところからして、当裁判所は、正夫が被控訴人に対していささか度を超えた言動をしなかったとはいえないものと考える。従って、被控訴人と正夫、秋子との不和は、このことを主な原因とするものであって、普通の嫁と舅ないし姑との関係が悪化したという程度のものではなかったというべきである。

ところでこのような問題は、本来夫婦である控訴人と被控訴人とがまず十分に話し合い、両者が一致して両親にあたり条理をつくして解決すべきものと考えられるのであるが、被控訴人から正夫及び秋子の言動について訴えられた控訴人は、それなりに右両者の間を調整すべく努力したのであるが、持ち前の消極的な性格(このことは≪証拠省略≫によって明らかである。)もわざわいして、その結果は必ずしも被控訴人の満足するものではなかった。一方被控訴人は元来かなり事柄を自己中心に誇大化するかたむきがあるうえに(このことは、前記2、(一)(1)、(二)(1)及び(三)に認定したところのほかに、当審における控訴人及び被控訴人の各本人尋問の結果にも現われている。すなわち、控訴人本人尋問において、被控訴代理人は、昭和四七年一月下旬頃被控訴人にハンドバッグを与えたことはないか、と質問((この質問は、控訴人が現在なお被控訴人に対し愛情を失なっていないことを現わす言動が控訴人の側にあったことを引き出すための質問と解される。))し、控訴人がこれを否定したので、在廷の被控訴人からその現物を受け取ってこれを示したところ、右は控訴人がその頃春子に与えるため被控訴人に渡したものであることが判明し、この事実は後に被控訴人も認めたところであるが、被控訴代理人の右のような質問は、被控訴人が予め代理人に、右ハンドバッグを控訴人から与えられたと告げていたことを前提としなければ考えられないことであって、これなども右に認定した被控訴人の性格の一例証といえよう。)、勝気な性格であった(このことは弁論の全趣旨によって認められる。)ことから、控訴人の処置ないし態度を、専ら養親の意を迎えるのに汲々としているとのみ考え、控訴人との間で事態を収める努力を尽さないで、その処理を直接第三者である仲人や親分に訴えるという挙に出てしまった。その結果、控訴人ら夫婦と正夫との第一回目の別居となり、そのこと自体は、控訴人と被控訴人との婚姻生活が、正夫や秋子の言動の影響で破綻することを防ぐのに一応役立ったのではあるが、一方第三者が介入したために、控訴人と被控訴人との婚姻生活上の問題を、同人らにおいて自主的に解決するという機運は、かえって遠のいたことになった。

(二)  つぎに、控訴人ら夫婦に別居された正夫が、長年実子同様に考えていた控訴人をにわかに失なった思いにかられ、できれば再び控訴人らを自らの手もとに取り戻そうと考えたことは、理解できないことではない。しかし、その解決は、これまた正夫らが控訴人らと十分話し合ってこれをはかるべきところ、ここでもまた正夫は第三者である松林を介入させたために話合いもなされず、かえって専ら控訴人ら夫婦と正夫との別居関係を止めさせることだけが当面の目的となってしまい、また控訴人が正夫らとの骨肉の情にひかれたこともあって、被控訴人と十分に意思を疎通させ、また、その本心からの納得を得ることなく、むしろ被控訴人の意向は無視したような形で右別居が解消されるに至ったことは否定できない。

そのため、控訴人らが正夫らと同居した後、正夫らと被控訴人とは日ならずして再び不和となったが(なお、その原因が従前と同様に、専ら正夫の被控訴人に対する度をこえた言動によるものであるとは認め難い。)、このような状態の下において、控訴人の気持はある時は被控訴人の側に、またある時は正夫らの側にかたむき、その間をどのように処すべきか思い悩んだであろうし、また、控訴人のこのような態度が被控訴人にとって満足のゆかないものであったことは、いずれも想像に難くない。そうして、控訴人と被控訴人の両者がこのような気持でいたことが自ずとその婚姻生活を蝕ばみ、秋子の入院を機に、控訴人と被控訴人は別居し、はては被控訴人の同居請求の調停に対して、控訴人は離婚の調停の申立をするまでになり、両者の共同生活は一旦は破綻に瀕したのである。

(三)  右の破綻は幸い提の斡旋を得て、右両名が思い直したため一応回避されたのであるが、正夫と被控訴人との間は、正夫、被控訴人及び控訴人がそれぞれの側においてなすべき努力を怠ったため、再度の同居後も好転せず、むしろ正夫と被控訴人との不和はますます昂じて、結局、控訴人ら夫婦は正夫と第二回目の別居をするに至った。しかし、この別居も既にそれまでに蝕ばまれていた控訴人と被控訴人の婚姻生活を回復させるに至らず、かえって控訴人が正夫のもとに戻って同居し、被控訴人と別居した時点において、右生活は完全に破綻するに至った。

(四)  このように、控訴人と被控訴人との婚姻生活には、正夫の被控訴人に対するいささか度を超えた言動に端を発して、被控訴人と正夫(ひいてはその妻秋子)との不和という関係が終始つきまとっていたのであるが、控訴人や被控訴人も、また正夫らも、この関係を自主的に解決調整することに十分努力をはらわず、かえって第三者を介入させ、専らそのいうままになっていた。そのため、右の者らをも含めて関係者の努力にもかかわらず、右の関係も解消するに至らず、そのことが控訴人と被控訴人との婚姻関係に深い影を落して、両者の間に次第に感情の行き違いを生じ、またお互いの性格の不一致があらわになって、遂に両者の共同生活が不可能な状態に陥ったものと認められる。

(五)  なお、被控訴人は、控訴人は長年正夫に養育された恩義を絶つことができず、また同人の財産に未練があるところから、結局正夫の側について被控訴人との離婚をはかっているのである旨主張する。しかし、右1、(五)に認定したとおり、控訴人と正夫は既に離縁しており、しかも正夫には、現在、後妻との間に実子があって、控訴人にはもはや正夫の財産を承継する途はないのであるが、それにもかかわらずなお被控訴人との離婚を求めていることに徴すれば、控訴人の離婚請求の原因が専ら正夫の財産にあるとはいえない。また、控訴人が正夫に対し骨肉の情たち難い思いをいだいていることは、既に認定したとおりであるが、しかし、そのことだけで控訴人が離婚を求めているものではないこともこれまた叙上の認定によって明らかであって、控訴人としてはもはや被控訴人との婚姻生活を維持する意思はまったくない旨の当審における控訴人本人の供述は、信用するに足り、また、叙上認定の経緯を経たあげくの、もはや動かし難い決意の表明と認められる。他方、被控訴人本人は、当審において、控訴人は表面上はともかく、内心においてはなお被控訴人に対する愛情を失なっておらず、被控訴人自身も控訴人との婚姻生活になお希望を捨てていないとの趣旨の供述をしているが、この供述は、叙上認定の経緯と本件口頭弁論の全趣旨によれば、本訴を有利に導く意図から出た供述とも疑われるところであり、かりにそうでないとしても、右認定のように控訴人の心境がすでに動かし難いものである以上、控訴人との婚姻生活を維持することは、もはや、不可能の状況にあるものと認めざるをえない。

(六)  してみれば、控訴人と被控訴人との婚姻関係は、一方的に控訴人だけを責めることできない(換言すれば、控訴人と被控訴人といずれの責任とも断定しがたい)事情により、もはや全く破綻して回復の見込がない状態にあるものというべきであって、すなわち、控訴人にとって、被控訴人と婚姻を継続し難い重大な事由があるものというべきである。

三  以上の説示によれば、被控訴人に対し離婚を求める控訴人の請求は理由があるから、これを認容すべきものである。

そこで、控訴人と被控訴人の長女春子(昭和三七年一〇月二六日生)の親権者について考えるのに、右二、において認定したとおり春子は昭和四二年一二月以来被控訴人の許にあって養育されていること、控訴人の住居は間借りであって春子の養育に適したものとは認め難いこと、さらに本件に現われたすべての証拠によっても控訴人の春子に対する情愛が被控訴人のそれよりもいっそう深いとは認められないこと及び控訴人が原審におけるその本人尋問において、春子の親権者と決定されることを求める理由としてのべるところが薄弱であって首肯し難いことからして、当裁判所は右春子の親権者は被控訴人と定めるのが相当であると認める。

四  してみれば、以上と趣旨を異にする原判決は不当であるから、民訴法第三八六条によりこれを取り消し、なお訴訟費用の負担について同法第九六条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 白石健三 裁判官 川上泉 裁判官岡松行雄は転補のため署名押印できない。裁判長裁判官 白石健三)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例