大判例

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東京高等裁判所 昭和46年(行コ)54号 判決 1974年3月29日

控訴人 雨宮和夫

被控訴人 東京教育大学長 外一名

訴訟代理人 堀内昭三 外七名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事  実 <省略>

理由

当裁判所も本件控訴人の請求はいずれも理由がないと判断する。その判断理由は以下に訂正補足するほか、おおむね原判決の理由と同じであるからその記載を引用する。

(1)  原判決書四三丁裏第三行から四四丁裏第九行までの全文及び同第一〇行の「二」を削除する。

(2)  四五丁表第五行「理学部長」の次に「(当時は印東弘玄教授)」を、同末行「当時は」の次に「宮島竜興」を各挿入する。

(3)  四五丁裏第九行「違憲」の次に「(憲法二三条、二六条)を挿入する。

(4)  五一丁表第八行「懲戒処分が」の次に「表現の自由を保障する憲法の条項に違反し、かつ」を挿入する。

(5)  五六丁表末行「甲」を「乙」と訂正する。

(6)  五八丁表第二行「原告の主張は」以下段落までを「原告の主張は当らない。」と改める。

(7)  <証拠省略>

(8)  五八丁裏第二行「示され」を「示された」と訂正する。

(9)  六〇丁表第六、七行「同年六月一〇日の評議会は、右案を可決し、」を同末行「議事録にとどめ」、の次に移記する。

(10)  同丁表末行「本学」を「本学部」と訂正し、六一丁表第八行「至つたこと、」を「至つた。」と改める。

(11)  <証拠省略>

(12)  六四丁表第四行「措信し難く、」の次に「証人小寺明の証言も右認定を動かすに至らない。」を加え、第五行「証言」の次に「(原審、当審)」を、「尋問の結果」の次に「(原審、当審の各一部)」を加える。

(13)  六五丁表第九行「辞職」を「辞任」と訂正する。

(14)  六五丁裏第六行「本人の供述」以下六六丁表第九行「証拠はない。」までを「本人の供述、証人小西勇雄(原審、当審)、藤田至則、亀井成美の各証言と右亀井の証言により昭和四三年一二月撮影の写真と認められる甲第一八六号証を総合すれば、理学部学生自治会構成員たる学生らは、理学部の教室、研究室、実験室、学部長室、事務室、会議室等が集合するW館及びW二号館(以下W館と総称)の正面入口以外を閉鎖し、正面入口の前に机を二列に平行に並べ、その中央を人一人が通れる程度に明け、午前八時頃から午後五時頃まで常時五名ないし一〇名位(封鎖開始の当初は二〇名位)が机の両側に位置し、教授、助教授が入館のために近づくと、入館を拒否する旨を告げ、教授らが学生らの許諾をえればともかく、その意に反して入館しようとすれば実力で押返す気勢を見せるため、事実上入館は不可能に近かつたことを認めることができる。」と訂正補足する。

(15)  <証拠省略>

(16)  六六丁裏第七行「学生」を「理学部学生自治会構成員である学生」と補足する。

(17)  六七丁表第三行「中学校」を「小学校」と、第五行「電話をかけ」を「事務官と協議をし」と改める。

(18)  六七丁表第七行と第八行の間に「(d) 同年一〇月一六日及び三〇日福田教授がいずれも執務のためW館正面入口から入館しようとしたところ、その場にいた理学部自治会構成員の学生ら七、八人があるいは進路を塞ぎ、あるいは同教授の腕をつかんで入館を阻止した。」を挿入する。

(19)  六七丁表第八行「(d) 」を「(e) 」と同丁裏第四行「(e) 」を「(f) 」と改める。

(20)  六八丁表第二行「ところである。」を「ところであり、また、その間理学部教授らの研究に関し、被控訴人らが主張する研究中断または遅延の事実が生じたことは、当事者間に争がなく、その原因が右教官排除の一斉授業放棄によることは右認定の(ロ)の事実に徴し認めることができる。」

と補足する。)

(21)  <証拠省略>

(22)  七〇丁表第三行「学生側が」から第四行「現状では」までを「一〇月一日に学生側に伝えた、一〇月四日までに学生に会う旨の回答は、学生側の不当な圧力のもとでされたものであるから、教授会は責任を負わないとの意見が出され」と改め、第五行「聞く」を「開く」と訂正する。

(23)  七一丁表第一〇行「同行二九日」を「同月三〇日」訂正し、同丁裏第一、二行「交渉段階において」を「その予備交渉をどういう方法で行なうかについて」と改める。

(24)  <証拠省略>

(25)  七三丁裏第二行「十分である。」の次に「そして、理学部三年以下の学生が同年四月に進級できなかつたことは争いのないところである。」と付加する。

(26)  七三丁裏第三行「しかして」から「判断するのに、」までを削除し、第一〇行「するものであるとは到底認め難い。」を「するものであることは、(イ)で詳論したとおりこれを認めることはできない。」と改める。

(27)  七三丁裏第一一行「しかし」以下七六丁表第四行段落までを全部削り、次のとおり補充する。「また、理学部教授会が筑波移転にあくまで反対する立場をとらなかつたことは前叙のとおりであり、この点において理学部学生自治会のとる方針と背馳していたことは明らかであるが、自治会の方針に反する故に不当であるといえないこともいうまでもなく、教授会の考え方も一理あるものとしなければならない。したがつて、原告の主張する本件教官排除の一斉授業放棄の動機、目的は一応首肯しうるものの、それが客観的に正当であつたか否かを現段階で判定できるわけではないのである。さらに、右教官排除の一斉授業放棄の方法及び影響について評価すれば、およそ大学の教宮が研究や会議のために大学構内の研究室や会議室に出入することは自由であるべきで、このことは、学間の自由や表現の自由という憲法の基本原理を持出すまでもなく当然のことである。本件において原告は、理学部学生自治会は教授会のとる方針を変更させるために教官の出入を規制したというのであるが、右方針が不当といえないことは既述のとおりであるし、学生自治会が規制の根拠をもたないことは、(一)で説示した大学の自治に関する学生参加の意義から明瞭といわなければならない。再論すれば、学生が教授会の意見を変更させるためにとりうる手段は、教官との交渉、当局への意見具申あるいは単純な授業放棄等に限定されるものというべく、教官の行動を積極的に束縛、妨害することが許される余地はない。現実の教官排除の態様が必ずしも暴力や実力を伴つていなくても、また、すべての教官が入館を阻止されたわけではないにしても、理学部学生自治会の行なつた規制行為が是認されないことは右の理由から明らかであろう(学生自治会に友好的な教官あるいは無害な教官のみ入館を許したのであれば、なおさら不当な結果を招いたといつてよい)。原告は学生自治会の幹部として、かような教官の行動の規制を含む授業放棄を企画し、これを長期にわたつて実行し、そのため前叙のように教官の研究や会議の中断、遅延と、学友の進級停止という不当な結果を招来させたのであり、しかも右のような結果を招くことは当然予見できたのにこれを実行したのであるから、これが学則にいう学生の本分に背いた行為であることは明らかであるとともに、表現の自由の名のもとに責任を免れることの許されないことも当然である。」

(28)  七六丁表第八行「成立に争いのない」から第九行「明らかなごとく、」までを削除し、同行「同処分に」を「同処分の決定に際しては教授会の申合わせにより」と改める。

(29)  七六丁裏第三行「まつまでもなく、」の次に「違憲の措置でないことはもとより」を挿入する。

(30)  七六丁裏第六行「さらに」から七七丁表第一一行までを削り、この部分を次のとおり補充する。「次に本件放学処分の適否について考える。前記停学処分は原告に対し、授業への出席、受講を拒否する効果を持つものであるから、原告が東京教育大学理学部で学問の研鑚をする意思があるならば、処分の早期解除を得るため努力するのが当然であり、教授会が前記のような申合わせを行なつたものもそれを期待してのことと認められる。しかるに<証拠省略>を総合すれば、次の事実を認めることができる。すなわち、理学部教授会は停学期間中の原告の指導に当らせるため、教室主任須藤教授、学級主任大森助教授を補導担任教官に選び、そのことは昭和四四年五月一二日大森助教授から原告に伝えられた。同助教授はその時原告に対し、教授会は原告の行動如何では放学処分も考えているから十分自戒すること、入構許可証を得て大学構内で補導担任教官と接触すること及び自治会の幹部を退任する手段を講ずることなどを諭した。原告はこれに対し、原告自身は勉学の意思を失つていない旨述べたものの、その後は進んで同助教授に会おうとはせず、同助教授からの呼出しも常に原告に届いたわけではなかつたので、五月二一日以後一〇月までの間に両者が大学内外で会つたのは四回に過ぎなかつた。また原告は大学当局の入構許可制度に反対の立場を堅持していたから、あえて許可手続をとらず、したがつて無許可の入構を繰返し、ようやく同年一〇月一八日大森助教授の説得によつて入構許可願を提出した。そしてその間原告は次のような行動に出ている。」

(31)  七七丁裏第一、二行を削り、第三行「(b) 」を「(a) 」と改め、第六行末尾に「(集会及びデモへの参加は争いがない。)」を付加し、第七行「(c) 」を「(b) 」と改める。

(32)  七八丁表第一行末尾「(臨場の事実は争いがない。とを付加し、第二行「(a) 」を「(c) 」と改め、「他の大学」以下段落までを削除して「九月五日、九月二五日、一〇月一日、一〇月六日、一〇月七日、一〇月八日に無許可で大塚構内に入り(九月五日を除き入構の事実は争いがない。)」と補充し、第四行「(e) 」を「(d) 」と改める。

(33)  七八丁裏第八行「はじめて」を削る。

(34)  七九丁表第一一行「補導教官の補導」の次に「ならびに停学処分に付せられた条件」を挿入する。

(35)  七九丁裏第四行から第八行までを削り、この部分を次のように補充する。

「右に認定した(a) から(d) までの事実は、これを個々に観察する限り、原告を放学処分に付するに値するほど重大な学則違反ではない。そして当時の理学部自治会が、大学当局や理学部教授会の多数意見がとつていた東京教育大学の正常化の方向とは異なる方向をめざして活動を続けていたことも明らかであるから、原告が前記諸行動に出たことは原告の側においては理由があつたものと認められる。しかし本件放学処会の適否を判断するには、原告が右のような行動をとつた当時停学処分をうけていた事実を軽視することができない。先にのべた通り、原告は教官排除の一斉授業放棄を指導したという理由で停学処分をうけ、その当時補導担任の大森助教授からさまざまの注意をうけていたのであるから、原告が東京教育大学での勉学を続ける意思があるならば、処分解除に適する自己の姿勢を示すことは不可欠のことであつたはずである。また大学側としても早く処分を解除して原告に勉強の機会を与える責務を負つていたといつてよい。しかるに前記( a)から( d)までの事実は、停学処分原因事実のように教官排除は含まないものの、似たような行為の反覆であつて、これらが学内外の秩序維持に有益でなかつたことは明らかであり、かような行為が反覆され、しかも補導教官との連絡が極めて疎遠であつた以上、大学側が停学処分を解きえないのは当然のことである。そして、一歩進んで原告を放学処分に付することの当否については、当時漸く学内の秩序が平静に向つていた折であることと、停学処分後半歳を経過したばかりであることがら考えれば、教育機関である東京教育大学としては今少し原告を観察補導する手段を講じてもよかつたように思われる。しかしながら原判決五三丁以下に説示するように、本件放学処分に対する裁判所の審査は、処分が教育的措置としての目的、範囲を超えているか否かの観点からされるものであり、その観点に立ち上来認定の諸事実に照らして考えるならば、本件放学処分は、その寛厳に関する批判は別として、右の範囲を踰越したものとはいいがたいし、目的を逸脱したとも認めがたい。」

(37)  <証拠省略>を削る。

以上説示のとおりであつて、控訴人の本訴請求はいずれも理由がないのでこれを棄却すべきであり、これと結論を等しくする原判決は相当である。よつて行訴法七条、民訴法三八四条、八九条にしたがい、主文のように判決する。

(裁判官 田嶋重徳 吉江清景 山田二郎)

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