東京高等裁判所 昭和47年(う)1730号 判決 1973年10月03日
被告人 小山実
主文
原判決を破棄する。
本件を東京地方裁判所に差し戻す。
理由
本件控訴の趣意は、東京地方検察庁検察官検事高瀬礼二作成名義の控訴趣意書に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、弁護人福田徹、同小池健治、同今村嗣夫連名で作成名義の昭和四七年一一月一日付答弁書および同年一二月一三日付答弁書(追加)にそれぞれ記載されているとおりであり、また弁護人福田徹、同小池健治、同今村嗣夫連名で作成名義の控訴趣意書および控訴趣意補充書にそれぞれ記載されているとおりであり、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事池上努作成名義の答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用し、これに対し当裁判所は次のとおり判断する。(なお、検察官は、当審公判において、答弁書中第一の四行目「あまり細かい場所とか」以下八行目「それどころか」までを削除する、と述べた。)。
弁護人の控訴趣意(なお、控訴趣意補充を含む。以下同じ。)
第一点について。
所論は、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるという主張であつて、その理由の要旨は、一、被告人は、田川証人の証言および被告人質問の結果により明らかなとおり、原判示霞山ビル前付近の道路上において、だ行進を指導したことはなく、被告人の属する行進梯団は、だ行進を実施していない。牧野証言によつても、被告人の指揮した右地点付近におけるだ行進は、わずか一分の間行なわれたものであり、その距離も三〇メートルにすぎない。二、原審における証人小川研、同浜田真由美の各証言などによつて明らかである前記地点付近の交通量調査の結果によれば、日曜日における交通量の激減は明白であり、原審において顕出にかかる写真によつても、車両の多数停滞を認定させるような状況は撮影されていない。これを要するに、霞山ビル付近のデモ行進についての原判決の事実認定は、まつたく事実を誤認するものである、というのである。
しかし、原判決挙示の証拠を総合して考察すれば、所論が争つている各事実に誤りのないことを含めて、原判示事実をゆうに肯認することができるのであつて、記録を精査しても、これを左右するに足りる証拠はなく、右認定に反する被告人の原審公判廷および当審公判廷における各供述部分は信用することができない。なお、原判決が証拠に採用している証人牧野洋明(第一回、第二回)、同遠藤勝男の原審公判廷における各供述は、右各供述の内容を仔細に検討すると、いずれも自己の体験した事実を述べたものであつて、信用性があるものと認められる。したがつて、原判決には、所論のような事実の誤認はないから、論旨は理由がない。
同第二点について。
所論は、けつきよく、本件都条例は、それ自体憲法第二一条、第三一条に違反する違憲の条例であるから、原判決には、判決結果に影響する法令適用の誤りがあるという旨の主張である。
しかし、本件都条例が、憲法第二一条に違反しないことは、すでに最高裁判所の判例(昭和三五年(あ)第一一二号、同年七月二〇日大法廷判決、刑集一四巻九号一二四三頁。なお、都条例とほとんど同じ内容をもつ昭和二九年京都市条例第一〇号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例は、憲法第二一条に違反しないことについて、昭和四〇年(あ)第一一八七号、同四四年一二月二四日大法廷判決、刑集二三巻一二号一六二五頁参照)が示しているところである。また、都条例第三条第一項但書は、憲法第二一条に違反しないこと、都条例第五条のうち第三条第一項但書の規定により東京都公安委員会がつけた条件に違反した主催者らを処罰する部分は、憲法三一条の定める罪刑法定主義に違反しないこと、集団示威運動につき付された「だ行進、うず巻き行進」をしないことという条件に違反した行為を処罰することは憲法第三一条の定める罪刑法定主義に違反せず、また、その行為を可罰的に禁ずることは憲法第二一条に違反しないことおよび都条例第五条は地方自治法第一四条第一、第五項の委任の趣旨を逸脱したものではなく、憲法第三一条に違反しないことは、当裁判所の判例(前者につき、昭和四四年(う)第二六七四号、同四六年三月一〇日第三刑事部判決、高刑集二四巻一号一九三頁、後者につき、昭和四三年(う)第二四八七号・二四八八号、同四五年六月二二日当部判決、高刑集二三巻三号四二四頁)とするところである。そして、当裁判所も、右各判決の判断と異なる判断をしなければならない特段の事情はないから、右各判例の判断に従うのが相当であると考える。
そうだとすると、原判決が、都条例および同条例第三条第一項但書は、いずれも憲法第二一条に違反しないこと、東京都公安委員会の名で本件集団示威運動に付された許可条件(ことに、一交通秩序維持に関する事項の2のうち、「だ行進をしないこと。」)は、表現の自由を害するものではないと解されることならびに都条例第五条は、地方自治法第一四条第一項および第五項の罰則の委任の趣旨に反することなく、憲法第三一条に違反しない旨の判断をしたのは、理由の微細な点に関する当否は別として、その大綱と結論とは、前記各判例の趣旨にてらし正当であると認められる。
なお、論旨は、警察、検察当局は、被告人の本質的に見て憲法の視点より正当とされる行為に対し、公安条例と称する表現の自由を侵害する規範を根拠とし、合法性をよそおつて加害行為を強行したというが、捜査当局が、所論のような加害行為を強行したことを認めるに足る事跡は記録上存しない。
最後に、論旨中には、原審において、弁護人は、本件都条例の違憲性について、憲法第二一条、第三一条に照らしつつ詳論をしたので、この点については、ここに原審における弁論要旨を全面的に引用することとする、との記載が二、三あるが、このような記載は、控訴趣意書自体に控訴理由を明示しないで、第一審に提出した弁論要旨と題する書面の記載を援用する旨の控訴趣意は許されないとの判例(昭和三一年(あ)第三六〇五号、同三五年四月一九日最高裁判所第三小法廷決定、刑集一四巻六号六八五頁)、の趣旨にてらし、不適法であることを付言する。
以上のとおり、原判決には、所論のような憲法違反や法令適用の誤りはないから、論旨は理由がない。
検察官の控訴趣意中法令の解釈、適用の誤りを主張する点について。
所論は、原判決は、被告人に対する昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下、都条例と略称する。)違反の公訴事実につき、その一部の事実のみを有罪と認定したが、右判決は、法令の解釈、適用を誤つており、この誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れないものと思料する、という旨の主張であつて、その理由の要旨は、つぎのとおりである。
本件公訴事実は、被告人は、昭和四五年六月二一日「日米安保条約廃棄、沖縄全面返還を要求する中央集会」に参加した約二〇〇名の学生らが、東京都公安委員会(以下、公安委員会と略称する。)の付した条件に違反して、同日午後零時四五分ころから同二時三三分ころまでの間、東京都渋谷区神宮前六丁目三〇番先から同都港区赤坂見付交差点、同都千代田区永田町国会議事堂裏、同都港区虎ノ門交差点を経て同区西新橋一丁目八番先に至る道路において、だ行進を行なつて集団示威運動をした際、ほか数名と共謀のうえ、終始右学生らの隊列の先頭列外に位置し、笛を吹き、手を振りながら自らだ行進して進路を示す方法をもつて右だ行進を指揮誘導し、もつて前記許可条件に違反した集団示威運動を指導したものである。
というにあるところ、検察官は、原審公判において、弁護人が釈明を求めたのに対し、被告人が、ほか数名と共謀して、右だ行進の指導を行なつた具体的な日時、場所について、
1、昭和四五年六月二一日午後〇時四五分ころ、東京都渋谷区神宮前六丁目表参道派出所前交差点
2、同日午後〇時五六分ころ、同区北青山三丁目神宮前派出所前の神宮前交差点
3、同日午後一時七分ころ、同区南青山二丁目外苑前派出所前の外苑前交差点
4、同日午後一時三四分ころ、同区元赤坂一丁目豊川稲荷前交差点
5、同日午後一時四二分ころ、同区赤坂見付交差点
6、同日午後一時五八分ころ、同都千代田区永田町参議院通用門前交差点
7、同日午後二時七分ころ、同区永田町首相官邸前交差点
8、同日午後二時一一分ころ、同区霞ヶ関三年町交差点
9、同日午後二時一五分ころ、同区霞ヶ関三丁目特許庁角交差点
10、同日午後二時二二分ころ、同区霞ヶ関三丁目霞山ビル前付近
11、同日午後二時二六分ころ、同都港区虎ノ門交差点
の一一個所である旨の釈明をした。
一、これに対し、原判決は、右公訴事実(ただし、被告人の単独犯行と認め、学生らの数は約二五〇名と認める。)をそのまま肯認し、したがつて、右のとおり許可条件に違反しただ行進を指導した被告人の行為は、形式上都条例第五条、第三条第一項但書に該当するとしながら、「単に形式上許可条件に違反したが故に可罰的なものとされてはならない。条件に違反した行為が、社会的評価のうえで、表現の自由の保障を考慮しても、なおかつ忍び難いほどの公共の利用(ここでは交通秩序)に対する障害を及ぼし、あるいは公共の安全に対して危険を及ぼした場合に始めて、処罰の対象となるものと解すべきである。」との見解に立ち、「前記1ないし9および11の各だ行進は、いまだ交通秩序に対して、社会的評価上忍び難いほど著しい障害を及ぼしたということはできないし、また、公共の安全に対して危険を及ぼしたものということもできない。」と認定したうえ、結局、「右1ないし9および11の各だ行進は、都条例第五条により処罰するほどの違法性がない」から、これを指導した被告人の所為は、罪とならない旨を判示し、前記10のだ行進は、交通秩序に対して著しい障害を及ぼしたものと認定し、このだ行進を指導した被告人の行為のみを都条例第五条により処罰されるべきものとしている。
二、原判決は、本件公訴事実のうち、前記10のだ行進にかかる被告人の所為のみを有罪とし、その余のだ行進にかかる被告人の各所為を、違法性を欠くことを理由に罪とならないと断じたが、そのよつて立つ理論的立場は、必ずしも明らかではない。しかしながら、前記一に記載したところからみると、原判決が、講学上のいわゆる可罰的違法性論ないしは超法規的違法性阻却の理論のうちのある種の見解をとつていることは疑いを容れる余地がない。そして、原判決が、違法性を否定した理由につき、表現の自由の保障と公共の安寧の保持との比較考量を前提としたうえ、「右の各だ行進が継続的に行なわれたものではなく、要所要所において短距離を、断続的に行なわれたものであることを併せて考察すると、右の各だ行進は、いまだ交通秩序に対して、社会的評価上忍び難いほど著しい障害を及ぼしたということはできないし、また公共の安全に対して危険を及ぼしたということはできない。もとより、だ行進の結果、幾分かは付近の静ひつを害したであろうことは推察するに難くないが、これとても、社会的評価上忍び難い程度のものとは思えない。」と判示していることから推測すると、講学上のいわゆる可罰的違法性論のある種の見解とほぼ同様に、犯情の軽微、とくに法益侵害の軽微性を主たる理由とし、これに加えて動機、目的、行為の態様などをも勘案して、可罰的違法性ないしは実質的違法性の存否を判定しようとするもののごとくである。しかし、違法行為の結果としての法益侵害の程度が、いかに軽微とはいえ、また、その動機、目的に酌むべき点があり、その手段方法がさほど悪質なものでないとしても、いやしくも当該違反行為が構成要件に該当する以上、刑法所定の違法性を阻却する事由が存しない限り、それだけでは、その可罰性を否定すべきでないことは、実定法の解釈上当然のことである。そして、都条例第五条の罰則は、同第三条第一項但書の規定による条件に違反して行なわれた集団行動の主催者、指導者、せん動者に適用されるものであり、本件集団の行動が、同第三条第一項但書の規定による条件に違反してなされた許可条件違反の集団示威運動にあたることは、原判決の認定するとおりであり、被告人が、これを指導する所為に出たことも証拠上否定できないのであるから、被告人の本件所為が、右罰条に該当し、その構成要件を充足することは論なきところである。したがつて、その可罰性を否定するためには、刑法第三五条ないし第三七条に掲げる事由の存否を検討すべき筋合であるといわなければならないが、原判決が、本件の右1ないし9および11の各だ行進に関して認定する事実を仔細に検討しても、本件行為が、刑法第三五条前段の法令による行為、同条後段の正当行為、同法第三六条の正当防衛、同法第三七条の緊急避難のいずれにも該当するものでないことは明らかである。かりに、違法性を実質的に考察し、ある場合には、刑法所定の違法性阻却事由とは別に、違法性を阻却されるべき場合のあることを認容するとしても、刑法が違法性を阻却する場合として明定している正当防衛または緊急避難が違法性を阻却されるためには、その行為が真に己むを得ざるに出でたることを要するなど、きわめて厳格な要件を定めていることにかんがみ、みだりに明文のない違法性阻却事由を設定すべきものではなく、可罰的違法性論にせよ、超法規的違法性阻却の理論にせよ、刑法の規定するところと同等もしくは一層厳格な要件のもとに、これを認むべきことが法解釈の根本原理といわなければならない。このような見地から、かりに、違法阻却の一般条項ともみられる刑法第三五条後段の範疇に属さないものをいわゆる超法規的違法性阻却事由として取り入れるにしても、それは、きわめて特殊例外的な場合に限られるべきことは当然であつて、その判断基準として、動機、目的の正当性、手段の相当性、当該行為の補充性ないし緊急性、法益の均衡性等が考慮されなければならないのはもちろん、その運用は、慎重のうえにも慎重を期し、かりそめにも恣意的な判断に流れて、法秩序全体の精神に背馳する結果をきたすことのないよう厳に戒心すべきものであることは論をまたない。
しかるに、原判決は、前述のごとく、前記1ないし9および11の各だ行進が、都条例第三条第一項但書の規定による条件に違反してなされた許可条件違反の集団示威運動にあたることを認定しながら、これらのだ行進は、いまだ交通秩序に対して社会的評価上忍び難いほど著しい障害を及ぼさなかつたし、また公共の安全に対して危険を及ぼさなかつたこと、すなわち、法益の侵害の程度が軽微であることを主たる理由として、可罰性を否定したことは、都条例第三条第一項但書、第五条の解釈を誤り刑法上の違法性阻却事由を不当に拡大するものであつて、その判断ないし解釈は誤りというほかはない。
三、原判決が、前記のように都条例第三条第一項但書、第五条は、一定程度の実害あるいは具体的危険性がある場合に、はじめて適用されると判断したのは、明らかに右罰条の解釈適用を誤つたものである。
1、都条例の罰則である第五条は、いわゆる集団行動の主催者、指導者、せん動者を処罰の対象とし、同条例第三条第一項但書には、条件を付することのできる対象として交通秩序維持に関する事項など六項目が規定されているのであつて、この規定の文言自体からみて、集団行動などにつき公安委員会が、公共の安寧を保持するため必要と認めて付した条件に違反した者に対しては、ただちに右罰則が適用される趣旨であることは明らかであり、他に特別の要件は、なんら付されていない。すなわち、都条例は、右のような条件に違反する行為をもつて、ただちに公共の利用あるいは公共の安全を侵害する抽象的な危険があるものとし、これを違法行為の類型として規定し、刑事罰によって禁遏しようとしているものとみられるのである。したがつて、右の条件違反の罪の成立要件としては、当該条件が違法でないかぎり、これに違反する行為があれば足りるのであつて、さらに、その違反行為によつて公共の利用に対して障害を及ぼし、あるいは公共の安全に対して具体的な危険を生ぜしめることは必要でなく、ましてや、その障害あるいは危険が、社会的評価上忍び難い程度にまで至ることも必要ではないものといわなければならない。
原判決の判示する「社会的評価のうえで、表現の自由の保障を考慮しても、なおかつ忍び難いほど公共の利用に対する障害を及ぼし、あるいは公共の安全に対して危険を及ぼすこと」の要件が、どの程度の実害ないし具体的危険を要する趣旨であるかは、必ずしも明らかでないが、有罪と認定した前記10の霞山ビル前道路において行なわれただ行進に関し、「通行車両の多いところで、道路の幅ほぼいつぱいのだ行進を行なつたために、順行車両はもとより対向車両も台数は不明であるが、多数の車両が一時完全に停止することを余儀なくされたことが明らかであり、交通秩序に対して著しい障害を及ぼしたものというべきである」と判示していることから推測すれば、当該道路を走行する車両が、完全に停止するような状態に至ることを都条例により処罰するための要件としているものと解せざるを得ない。そうとすれば、右のごとき状態を現出する行為は、もはや刑法第一二四条によつて問擬される範疇に属するものというべきであつて、同条との差異を考慮せず、都条例による処罰について、右のごとき不当に厳格な要件を要求する原判決の解釈適用の誤りは、この点からも明らかである。
2、原判決の前記解釈適用は、都条例の立法趣旨に照らしても、首肯することができず、かつ、最高裁判所の判例(昭和三五年七月二〇日大法廷判決、刑集一四巻九号一二四三頁、昭和四一年三月三日第一小法廷判決、刑集二〇巻三号五七頁)の趣旨をも誤解しているものというほかはない。
右各最高裁判所判例に従うときは、本件集団の行動を、都条例第三条第一項但書の規定に違反してなされた条件違反の集団示威運動にあたると認定した以上、これを指導した被告人に対して同第五条の罰則を適用すべきことも、当然の結論であるといわなければならない。しかるに原判決は、被告人の行為が条件違反の集団示威運動の指導にあたると認定しながら、前述のごとく、形式上都条例第五条、第三条第一項但書に該当しても、それが刑罰の対象とならない場合があること、その場合には、これを処罰することができないとするのである。そして原判決は、それが刑罰の対象とならない場合がありうるとする理由として、事柄が憲法二一条の保障する表現の自由にかかる重大な事項であること、都条例第五条の定める刑罰は、道路交通法第七七条第一項第四号、第二項第三号によつて所轄警察署長により定められた道路使用許可の条件に違反した場合に適用される同法第一一九条第一項第一三号の定める刑罰よりも、はるかに重い刑であることをあげるのである。
しかし、すでに最高裁判所は、都条例第五条が憲法第二一条、第三一条に違反しない旨を判示し、表現の自由と公共の福祉―公共の安寧の保持―との調和のうえから、必要かつ最少限度の法的規制として是認しているところであり、また、都条例の目的、立法趣旨は、集団行動が、その本来の性格として「暴力に発展する危険性の物理的力を内包しており、」このことから事前の規制等によつて不測の事態の発生を未然に防止する必要があることによるものであつて、そのためには、公安委員会において、あらかじめその集団行動の内容を知り、これに対する適切な措置を講じておく必要があることはもちろん、その実施が公共の安寧を保持するうえに危険が及ぶことはないかどうかを審査し、場合によりこれを禁止し、または必要な条件を付するなどの措置が必要とされるのであるが、これに対して道路交通法は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることを目的としているのであつて、規制の対象も、都条例が、集会、集団行進および集団示威運動であるのに対し、道路交通法第七七条は、一般交通に危険または著しい影響を及ぼすような行為一般であつて、その目的如何を問わないのみならず、集団行動が時に昂奮、激昂の渦中に巻き込まれ、ときに一瞬にして暴徒と化し、勢の赴くところ法と秩序をじゆうりんし、警察力をもつてしても如何ともし得ない事態に発展する場合のあることから、これに対し道路交通法上の前記罰則よりも重い刑罰をもつて対処することがあるのは当然のことである。さらに、都条例第五条が、重きは懲役一年から軽きは罰金一、〇〇〇円までの刑を幅広く定めているのは、許可条件違反の集団示威運動と認定されるものであつても、その実体が多種多様にわたることを十分に考慮に入れたうえでのことと考えられ、その最も軽い刑で処断するに足りる違法性すらないという事案は、ほとんど想定できないのである。してみると、原判決の理由とするところは、合理的説明といえないばかりか、行政罰則としての都条例の本質を誤解したものといわざるをえない。
もし、かりに、原判決のごとき恣意的な限定的解釈を肯定するとすれば、許可条件違反の集団行動のうちにも、処罰されるべきものと然らざるものとが存在することになるので、都条例の運用上混乱をもたらし、ひいては、犯罪構成要件の定型性および法的安全性の法則にも背反することとなるのである、というのである。
よつて案ずるに、
一、まず、原判決の判示をみると、有罪部分の証拠の標目に挙示した各証拠によれば、本件公訴事実(ただし、五、六名の者との共謀の点を除く。判示のとおり被告人の単独犯行と認める。なお、学生らの数は約二五〇名と認める。)をそのまま肯認することができるとしながら、許可条件に違反しただ行進を指導した被告人の行為は、都条例第五条、第三条第一項但書に形式上該当するといわざるを得ないが、さればといつて、個々の具体的な指導行為が都条例第五条によつて罰せられるべきであるかについては、表現の自由を保障した憲法二一条の趣旨および集団示威運動が集団による示威力を、表現効果を高からしめるための効果的な方法として目的的に利用するものであることの性質を考慮して慎重に検討されるべきであり、単に形式上許可条件に違反したが故に可罰的なものとされてはならない。条件に違反した行為が、表現の自由を考慮しても、なおかつ忍び難いほどの公共の利用(ここでは交通秩序)に対する障害を及ぼし、あるいは公共の安全に対して危険を及ぼした場合に始めて、処罰の対象となるものと解すべきである、同じく道路交通の秩序維持という、都条例にもとづく条件と同種の目的のために、道路交通法第七七条第一項第四号、第二項第三号によつて所轄警察署長により道路使用許可の条件が定められた場合、その条件に違反した行為が同法第一一九条第一項第一三号により処罰の対象となるが、都条例の条件違反の行為に対しては、道路交通法の右罰則よりも、はるかに重い刑罰が規定されているのであり、このように都条例の条件違反の行為を特に重く罰する趣旨は、結局、集団行動が集団のもつ勢威ないし示威力を背景とするところに特徴があり、それが昂じるとか、あるいは突発的ないしは意図的な興奮、混乱などにより交通秩序を著しく害し、あるいは公共の安全に対して危険を及ぼすことがありうることにもとづくものと考えざるを得ない。道路交通法の右罰則と都条例の罰則との相違に照してみても、都条例の条件違反の可罰性を前記の如く解するのが妥当であると考える、右考え方を前提としたうえ、前記検察官が、原審公判において、弁護人の求めにより釈明をした被告人が指導した一一個所のだ行進の状況について、その日時、場所、だ行進を行なつた距離およびその場のありさまを関係証拠により詳細に考察して、これらのだ行進のうち、右1ないし5、7、9、11は、いずれも道路片側のだ行進であり、6は、初め道路の幅ほぼいつぱいの蛇行進が行なわれたが、後に片側のだ行進に移り、8は、道路の幅ほぼいつぱいの蛇行進であるが、右1ないし5の片側だ行進が行なわれた場所は、いずれも歩車道の区別のあるところで、だ行進の当時、その付近に順行車両がほとんどない状況であつたことが認められる、(ただし、これは当時行進経路である道路の全面にわたり順行の車両がほとんどなかつたことを意味するものではなく、当時順行の車両は相当あつたのであるが、被告人の属していた梯団の後方の梯団と思われる集団が、道路の片側いつぱいに広がつて行進していたため、すでに後方において車両の進行が妨げられ、前記だ行進の当時その付近に通行の車両がほとんどなかつたものであると認められる。)また、6ないし8のだ行進が行なわれた場所は、国会議事堂裏の通りであつて、平日でも車両の通行が少ないうえに、本件の集団示威運動が行なわれた日が日曜日であるところから、ほとんど車両の通行がなかつたことが認められる、更に、9および11のだ行進が行なわれた場所は、平素は交通量の多いところであるが、だ行進の当時付近に順行車両が少なかつたことが認められる、しかして、右1ないし9および11の各だ行進においては、片側だ行進の場合は、対向車両の通行には何らの支障がなく、順行車両が幾分かある場合でも交通の障害がほとんど生じなかつたし、(前記の如く後方の集団等により車両等の通行が遮ぎられ、停滞が生じていても、それが当該集団と近接した場所で生じているのでなければ当該集団の行動により交通の障害をもたらしたものとは云えない。本件では、終始被告人の属した梯団に随伴して採証活動をしていた警察官も、順行車両がほとんどなく、後方の停滞には気づかなかつたことからして、横山写真にみられる順行車両のかなりの停滞は、被告人の属していた梯団のかなり後方であつたものと考えられる。)また、道路の幅いつぱいのだ行進を行なつた6および8の場合も、通行の車両がほとんどなく、交通の障害が生じなかつたことが認められる、次に、牧野写真三六の一一、二〇、二六、二七、二九、三二、三三、同、七の六によれば、これらのだ行進が行なわれた際、付近に見物人と思われる人々が、かなり存在したことが認められるけれども、右の各写真に撮られた状況から推察して、これらの人々に対して、特に危険を及ぼすとか、危険感を与える状態ではなかつたと認められる、以上の各情況と右の各だ行進が継続的に行なわれたものではなく、要所要所において短距離を、断続的に行なわれたものであることを併せて考察すると、右の各だ行進は、いまだ交通秩序に対して、社会的評価上忍び難いほど著しい障害を及ぼしたということはできないし、また、公共の安全に対して危険を及ぼしたものということもできない、もとより、だ行進の結果、幾分かは付近の静ひつを害したであろうことは推察するに難くないが、これとても、社会的評価上忍び難い程度のものとは思えない、したがつて、右1ないし9および11の各だ行進は、都条例の許可条件に形式上違反した行為ではあるが、いまだ都条例第五条により処罰するほどの違法性がないというべきである、しかしながら、10の霞山ビル前道路において行なわれただ行進は、もともと同所は桜田通りであつて、通行車両の多いところであり、道路の幅ほぼいつぱいのだ行進を行なつたために、順行車両はもとより、対向車両も台数は不明であるが、多数の車両が一時完全に停止することを余儀なくされたことが牧野証言および遠藤証言によつて明らかであり、交通秩序に対して著しい障害を及ぼしたものというべきであり、都条例第五条により処罰されるべきものと解される、以上のとおりで、被告人の行為は、前記10のだ行進を指導した分のみを有罪とすべきであり、1ないし9および11のだ行進を指導した分は罪とならないものと解する旨の判断を示していることは、おおむね所論のとおりである。
二、そこで、原判決の右判断の当否を検討することとする。
(一) 原判決が、結論として、前記のように「右1ないし9および11の各だ行進は、都条例の許可条件に形式的に違反した行為ではあるが、いまだ都条例第五条により処罰するほどの違法性がないというべきである。」とし、「被告人の行為は、1ないし9および11のだ行進を指導した分は、罪とならないものと解する。」とし、その理由として、「許可条件に違反しただ行進を指導した被告人の行為は、都条例第五条、第三条第一項但書に形式上該当するといわざるを得ないが、さればといつて、個々の具体的な指導行為が、すべて都条例第五条によつて罰せられるべきであるかについては、表現の自由を保障した憲法第二一条の趣旨および集団示威運動が集団による示威力を、表現効果を高からしめるための効果的な方法として目的的に利用するものであることの性質を考慮して慎重に検討されるべきであり、単に形式上許可条件に違反したが故に可罰的なものとされてはならない。条件に違反した行為が、社会的評価のうえで、表現の自由を考慮しても、なおかつ忍び難いほどの公共の利用(ここでは交通秩序)に対する障害を及ぼし、あるいは公共の安全に対して危険を及ぼした場合に始めて、処罰の対象となるものと解すべきである。右の各だ行進が継続的に行なわれたものではなく、要所要所において短距離を、断続的に行なわれたものであることを併せて考察すると、右の各だ行進は、いまだ交通秩序に対して、社会的評価上忍び難いほど著しい障害を及ぼしたということはできないし、また、公共の安全に対して危険を及ぼしたものということもできない。もとより、だ行進の結果、幾分かは付近の静ひつを害したであろうことは推察するに難くないが、これとても、社会的評価上忍び難い程度のものとは思えない。」と説示したのは、学説にいわゆる可罰的違法性の理論をとつたものか超法規的違法性阻却の理論によつたものかが、かならずしも明らかでないことは所論指摘のとおりである。しかしながら、右のいずれかの理論により、都条例の許可条件違反の行為を罪とならないものとしたこともまた明らかである。講学上可罰的違法性の理論というのは、極めて軽微な法益侵害行為は、構成要件該当性を欠くか、構成要件に該当するとしても、違法性を欠くとの理由をもつて、その行為の可罰性を否定する見解であり、超法規的違法阻却の理論というのは、刑法第三五条ないし第三七条の刑法の正条にあたらない場合でも、刑法に正条がある場合に準じ違法性を阻却する事由の存することを認める見解であり、当裁判所としても、かかる見解により可罰性ないし違法性が否定される場合があることを認めるのにやぶさかではないが、ただかかる見解によつて可罰性ないし違法性を否定するための判断基準としては、可罰的違法性の理論の場合には、その法益侵害行為が極めて軽微であること(その代表的事例は、いわゆる一厘事件、大審院明治四三年一〇月一一日判決、刑録一六巻一六二〇頁)を要し、超法規的違法性阻却の理論の場合には、刑法に正条がある場合に準じ、極めて厳格であるべきであり、当該行為につき目的の正当性、手段方法の相当性、緊急性があつて、他のこれに代る手段方法を見出すことが不可能もしくは著しく困難であり(いわゆる補充性)、当該行為により侵害される法益と当該行為によつて保護される法益とが均衡を保つことを要するものと解するのを相当とする。以上の観点から本件事案をみると、原判示1ないし9および11の各だ行進は都条例の許可条件(交通秩序維持に関する事項)に違反した行為であることが明らかであり、可罰的違法性の理論により極めて軽微な法益侵害行為であるとして、その可罰性を否定できるほど極めて軽微な法益侵害行為であると認めることはできず、また、右各だ行進が刑法第三五条ないし第三七条の要件に該当し、あるいは、超法規的違法性阻却の理論により違法性を阻却されるに足る要件、すなわち、右各だ行進が目的の正当性、手段方法の相当性、緊急性、補充性、法益の均衡性を備えているものとは到底解することができない。以下その理由につき説明することとする。
(二) 都条例の罰則を定めた第五条は、「第三条第一項但書の規定による条件に違反して行われた集会、集団行進又は集団示威運動の主催者、指導者又は煽導者は、これを一年以下の懲役若しくは禁錮又は五万円以下の罰金に処する。」と規定し、同条例第三条第一項は、「公安委員会は、前条の規定による申請があつたときは、集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない。但し、次の各号に関し条件をつけることができる。」とし、条件をつけることができる対象として一官公庁の事務の妨害防止に関する事項、二じゆう器、きよう器その他の危険物携帯の制限等危害防止に関する事項、三交通秩序維持に関する事項など六項目が規定されていて、この規定の文言自体からみると、公安委員会が、集団行動などについて、公共の安寧を保持するために必要と認めてつけた条件は、その条件が違法でないかぎり、これに違反した主催者などに対しては、ただちに右罰則の規定が適用される趣旨であるといわなければならない。このことは後記(三)の判例の趣旨からも推知できる。また、本件許可条件違反の各だ行進により、具体的な交通阻害の結果の発生はとにかくとして、交通秩序の保持という法益がそこなわれることとなるのは明らかであって、このような結果を一般国民の側において、受忍しなければならないとする特段の法律上の理由を発見することはできない。したがって、表現の自由の保障に密接な関連があるとはいえ、本件都条例違反の行為が極めて軽微な法益侵害行為でその可罰性が否定されるものとは到底解し得ない。また、前記1ないし9および11の各だ行進を法秩序全体の見地から考察してみても、表現の自由の保障との関係において、本件集団示威運動自体の目的の正当性が認められるにもせよ、これに付せられた許可条件に違反してだ行進をしなければならない特段の必要性、緊急性を認めることができないことは明らかであるから、右各だ行進は、刑法第三五条ないし第三七条の刑法に正条のある違法阻却事由にあたらないことはいうまでもなく、刑法に正条のある場合に準ずる超法規的違法性阻却の要件である手段方法の相当性、緊急性、補充性を備えていないものといわなければならず、超法規的違法性阻却事由にもあたらないというべきである。
してみれば、前記1ないし9および11の各だ行進は、都条例の許可条件に形式上違反した行為ではあるが、いまだ都条例第五条により処罰するほどの違法性がないというべきであるとし、被告人の所為のうち、右1ないし9および11のだ行進を指導した分は罪とならないものと解するとした原判決には、都条例第三条第一項但書、第五条および刑法上の構成要件該当性または違法性阻却事由の解釈、適用を誤つたもので、それが判決に影響を及ぼすものであることは明らかである。
(三) 次に、原判決は、昭和三五年(あ)第一一二号、同年七月二〇日最高裁判所大法廷判決(刑集一四巻九号一二四三頁)に従い、一応都条例は憲法第二一条に違反しないとしているが、右大法廷判決の趣旨を制限して解釈しているように見受けられるので、この点に言及することとする。
すなわち、昭和三五年七月二〇日の最高裁判所大法廷判決は、「本条例の対象となつているものは、道路その他公共の場所における集会若しくは集団行動、及び場所のいかんにかかわりない集団示威運動(以下「集団行動」という)である。かような集団行動が全くの自由に放任さるべきものであるか、それとも公共の福祉―本件に関しては公共の安寧の保持―のためにこれについて何等かの法的規制をなし得るかどうかがまず問題となる。およそ集団行動は、学生、生徒等の遠足、修学旅行等および冠婚葬祭等の行事をのぞいては、通常一般大衆に訴えんとする政治、経済、労働、世界観等に関する何等かの思想、主張、感情等の表現を内包するものである。この点において集団行動には、表現の自由として憲法によつて保障さるべき要素が存在することはもちろんである。ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとはことなつて、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺戟、せん動等によつてきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であつても、時に昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢の赴くところ実力によつて法と秩序を蹂躙し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである。従つて地方公共団体が、純粋な意味における表現といえる出版等についての事前規制である検閲が憲法二一条二項によつて禁止されているにかかわらず、集団行動による表現の自由に関するかぎり、いわゆる「公安条例」を以て、地方的情況その他諸般の事情を十分考慮に入れ、不測の事態に備え、法と秩序を維持するに必要かつ最少限度の措置を事前に講ずることは、けだし止むを得ない次第である。」として、集団行動それ自身のもつ危険性を明らかにしたうえ、集団行動に対する法的規制が必要であることを肯定し、「要するに本条例の対象とする集団行動、とくに集団示威運動は、本来平穏に、秩序を重んじてなさるべき純粋なる表現の自由の行使の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、暴力に発展する危険性のある物理的力を内包しているものであり、従つてこれに関するある程度の法的規制は必要でないとはいえない。国家、社会は表現の自由を最大限度に尊重しなければならないこともちろんであるが、表現の自由を口実にして集団行動により平和と秩序を破壊するような行動またはさような傾向を帯びた行動を事前に予知し、不慮の事態に備え、適切な措置を講じ得るようにすることは、けだし止むを得ないものと認めなければならない。」と判示して、都条例は憲法第二一条に違反しないとしている。
なお、原判決は引用していないが、昭和四〇年(あ)第一〇五〇号、同四一年三月三日最高裁判所第一小法廷判決(刑集二〇巻三号五七頁)は、「所論は、主催者の許可申請義務違反のもとでなされた集会、集団行進または集団示威運動でも、それ自体はなんら実質的違法性を帯びるものでないから、これを違法として、その指導および煽動行為を処罰する昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例第五条は、憲法第三一条に違反するというのである。しかし、右条例の対象とする集団行動は、本来平穏に、秩序を重んじてなさるべき純粋なる表現の自由の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、暴力に発展する危険性のある物理的力を内包しているものである。さればこそ、これに対しある程度の法的規制が必要とされる所以であつて、決して、所論のように、主催者の許可申請義務違反は、主催者だけの責任であり、右義務違反のもとでなされた集会、集団行進または集団示威運動が、それ自体として何ら危険性はなく、実質的違法性を欠くようなものでないこと、したがつて所論違憲の主張の理由のないことは、当裁判所の判例の趣旨とするところである(昭和三五年(あ)第一一二号、同年七月二〇日大法廷判決、刑集一四巻九号一二四三頁。)それ故、所論は採るを得ない。
当裁判所は、右最高裁判所の各判決の判断と異なる判断をしなければならない特段の事情もないから、右判断は、これを尊重すべきであると考える。
そして、右最高裁判所の両判決の趣旨とするところは、前記大法廷判決が判示しているような都条例の対象とする集団行動の危険性およびその事前における規制の必要性から、公安委員会の付した条件に違反して行なわれた集団行動および公安委員会の許可申請を経ないでなされた集団行動は、その各集団行動自体に実質的違法性があることを認め、したがつてまた、このような集団行動を指導した行為にも、実質的違法性があることを認めたものと解される。
また、道路交通法は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることを目的としているが、都条例の規制の目的は、単なる道路交通秩序の維持にとどまらず、集団行動の実施によつてひき起されることのあるべき不測の事態を未然に防止するため適宜の措置を講ずることによつて、公共の安寧を保持し、社会の秩序を維持しようとするものであつて、その目的において、道路交通法第七七条第一項第四号、第二項第三号と別個のものであるばかりでなく、その主体も、都条例は主催者、指導者および煽動者に限定されているのであるから、都条例第五条の定める刑罰が道路交通法第一一九条第一項第一三号の定める刑罰よりも重いのは、むしろ当然であるといわなければならない。
してみると、原判決は、許可条件に違反しただ行進を指導した被告人の行為は、都条例第五条、第三条第一項に形式上該当することを認定しながら、集団行動は、憲法第二一条が保障している表現の自由にかかわるものであるから、集団行動の自由は十分に尊重されなければならないこと、本条例第五条の定める刑罰は、同じく道路交通法の秩序維持という、都条例にもとづく条件と同種の目的のため、道路交通法第七七条第一項第四号、第二項第三号によつて所轄警察署長により定められた道路使用の許可条件に違反した行為に適用される同法第一一九条第一項第一三号の定める刑罰よりもはるかに重い刑罰であることを理由として、形式上都条例第五条、第三条第一項但書に該当しても、それだけでは可罰的なものとされてはならない場合があること、処罰の対象となる場合とは、条件に違反して行なわれた集団示威運動が、社会的評価のうえで、表現の自由の保障を考慮しても、なおかつ忍び難いほどの公共の利用(ここでは交通秩序)に対する障害を及ぼし、あるいは公共の安全に危険を及ぼした場合であつて、本件の集団示威運動、すなわち、前記1ないし9および11の各だ行進は、右のような障害ないし危険がないから、処罰に値しないとしたのは、前記昭和三五年七月二〇日最高裁判所大法廷判決を限定的に解釈したものであり、また、前記道路交通法の罰則と都条例の罰則との相違についての説示も、十分に納得することのできる合理的な説明とはいえない。
三、以上判断のとおり、原判決には、所論のような判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の解釈、適用を誤つた違法があり、原判決は破棄を免れないから、この点に関する論旨は理由がある。
よつて、検察官の本件控訴は、その余の控訴趣意に対する判断をするまでもなく、その理由があるから、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八〇条により原判決を破棄し、当裁判所は、原判決が無罪とした前記1ないし9および11のだ行進の各事実について、なんら事実の取調を行なつておらず、原裁判所でさらに審理を尽くすのが相当であると思料されるから、同第四〇〇条本文により本件を東京地方裁判所に差し戻すこととして、主文のとおり判決する。