大判例

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東京高等裁判所 昭和48年(う)1081号 判決

被告人 荒川清光

〔抄 録〕

殺人罪における未必の故意とは、殺人の結果発生の蓋然性が大であることを認識しながら、その結果発生を認容する心的状態をいうものであり、生命に直結する臓器の存する胸部や腹部のごとき枢要部を日本刀で深く刺すような所為自体から、殺人の未必の故意の存在を推認することは可能であるが、日本刀で刺された傷により被害者の生命が一時危険な状況になったことだけを理由として傷の部分、程度を問わず、殺人の未必の故意の存在をただちに推認することは相当ではなく、該犯行の動機、犯行に至った経緯、該刺創発生時の具体的状況、被告人と被害者の体位関係、被告人が刺創を与えた部位についての被告人の認識とその部位を選択した理由、未必の故意の点についての被告人の供述と弁解など諸般の状況と傷の部位、程度とを綜合して、殺人の未必の故意の存在を認定することが必要である。

原審取り調べの証拠によれば、本件の兇器は、刃渡り六七・九センチメートル、刀身は細身でさびはみられず、刃先は鋭利な日本刀であり、力一杯突き刺せば、容易に人の身体を貫通することができるものと推察されるものであること、被害者の蒙った損傷のうち、左大腿刺創は、被害者が起立した状態にあった折、起立した被告人が背後から前記日本刀で突いた刺創であり、最も重篤な傷ではあるが、傷の方向は水平よりやや斜下方に向い、傷の幅は六・六センチメートル、深さは一五センチメートル位で、日本刀の刃先が一〇センチメートル位刺さったにとどまる創であること、腹部刺創は、被害者が当時妊娠中でゴムの入った腹帯をしていたことを考慮に入れても、日本刀の形状上、腹腔に向け力を入れて刺せば、容易に腹腔を貫き、生命に危険を及ぼすことが可能であったと推察されるものであるのに、腹壁を斜に右下に向いかすめた幅は三センチメートル位、深さは一〇センチメートル位の傷で、腹腔に達していなかったものであることからすれば、その傷は、起立した被告人が、地面に坐り込んで向い合った被害者の右腹部を、さして力を入れずに突いたため生じた傷であって、生命に危険を及ぼす程度が著しく低いものであったこと、左下腿切創は、生命に全く危険を及ぼさない切創であり、起立した被告人が、地上に坐り込んで向い合った被害者の下腿に、日本刀の刃先部分をあてて軽く動かしたことによって生じた傷であること、最も重篤な前示の左大腿刺創は、大腿深動脈の一部と静脈を切断し、これによる出血が多量となったため、被害者の生命が一時危険な状態となったが、輸血などの適切な治療により、加療約一ケ月の傷害にとどまったものであること、左大腿部刺創についてはさておき、腹部刺創、左下腿切創の発生状況自身からは、その兇器の形状を考慮に入れても、未必的殺意の存在を肯定するには十分なものではないことの事実を認めることができる。

さらに、原審取り調べの証拠によれば、本件発生の経緯は、原判決認定のごとき夫婦間の痴話喧嘩が発端となり、粗暴ですぐ暴力にうったえる被告人の性癖を、勝気で我の強い被害者の反抗的応答態度が刺戟したため、冷静さを失った被告人が、感情の激するままに原判示の暴力をふるい、被害者の弟などが被害者を逃がすとともに、被告人を制止したため、ますます怒りをつのらせて平静さを失った被告人が、たまたま預っていた本件日本刀を抜いて、屋外に逃げた被害者を追いかけ、被告人宅から約六〇メートル位先で被害者に追いつき、所携の日本刀を右手にもち、被害者の後方一メートル位のところから、被害者の尻の付近に近い左大腿部を一回突き刺したこと、被告人は捜査段階から一貫して本件所為は、殴った位では気がすまなかったので、こらしめてやる心算でした兇行であり、殺す気持でやった訳ではなく、手加減して刀を動かし、足の方を刺したものである旨の弁解をしていること、左大腿部に刺創をうけた被害者が前かがみになって地面にしゃがみ込んだ後に、被告人は前述したような腹部刺創、左下腿切創を与えているが、これらの傷害を与えた際にも、手加減をした旨被告人は捜査官に供述しており、その傷の状況からしても、被告人が語っているように、現に手加減をしていると認められること、被告人は反覆して被害者に対し攻撃を加えていないこと、本件兇行後、被害者を医者に連れて行くべく被害者の弟らが手配していた折、被告人が早く病院に連れて行くよう話していることなどの事実を認めることができる。以上認定のような、本件がもともと夫婦間の痴話喧嘩の口争いから発展したものであること等、その他諸般の状況と、前述した傷の部位、程度を綜合してみると、本件所為を犯した折、左上腿部刺創を負わせた所為を含め、被告人に、殺人の未必の故意があったと断定するのは相当ではなく、記録および原審取り調べの証拠に、当審取り調べの結果を加味して検討してみても、被告人が未必の殺意をもって、本件所為に出たと認めるに足りる証拠は十分ではないから、本件所為は傷害罪にあたると認めるの外なく、これを殺人未遂罪に問擬した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり、その余の控訴趣意に判断を加えるまでもなく、原判決は破棄を免れない。

(荒川 谷口 時國)

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