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東京高等裁判所 昭和48年(ネ)2676号 判決 1981年10月28日

控訴人 亡西村周三承継人 西村幸

被控訴人 国

代理人 石川達紘 由良卓郎 ほか四名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴人の当審で拡張した請求を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事  実<省略>

理由

一  本件土地及び附近一帯の山林が明治維新前は弘前藩の所領であつたこと、幸助が同藩から漆木の仕立方を命ぜられ、「旧藩漆仕立場所元帳」に「赤滝沢より上赤荷沢迄」一万二〇〇〇坪と表示された土地については安政二年(一八五五年)に漆木二五〇〇本を、同元帳に「池ノ平」一万二〇〇〇坪及び「田茂ヶ平」一万二〇〇〇坪と表示された土地については文久元年(一八六一年)に漆木五〇〇本及び三〇〇本を植え付け、文久二年(一八六二年)正月にこれらの土地の割渡しを受けたこと、及び明治三七年八月二四日農商務大臣の指令により右「池ノ平」の土地が久五郎に下げ戻されたが、右「田茂ヶ平」の土地については下戻不許可処分がされたことは当事者間に争いがない。

控訴人は、「赤滝沢より上赤荷沢迄」の土地について下戻不許可処分があつたことを争い、また、本件土地についての下戻不許可処分は適法な告知がなく、本件訴訟は右不許可処分に対する異議申立の性質を併有するから、右不許可処分はまだ確定していないと主張するのであるが、<証拠略>によると、幸助の相続人であることにつき当事者間に争いのない久五郎は、明治二八年四月八日付青森県知事あての願書(<証拠略>)により右「赤滝沢より上赤荷沢迄」、「池ノ平」、「田茂ヶ平」の各土地について同人の所有地と認定するよう申請し、同三五年一〇月二日農商務大臣あてに同趣旨の再願書(<証拠略>)を提出したこと(「赤滝沢より上赤荷沢迄」と「池ノ平」及び「田茂ヶ平」との二つに分けて各別の願書を提出したのではない。)、農商務大臣は、明治三二年四月一八日公布された下戻法第七条により、久五郎の右申請を同法に基づく下戻申請とみなし、「明治二八年四月八日付申請漆仕立山下戻之件池ノ平一筆ニ限リ聞届ク」と記載した農商務省指令林第三一五九号の指令書を明治三七年九月二日ころ久五郎に交付したこと、右指令書の記載の趣旨とするところは、久五郎が下戻申請をした三か所の土地のうち「池ノ平」の土地のみは下戻をし、他の二か所は不許可処分をするというものであつたこと(「田茂ヶ平」の土地について不許可処分のあつたことは当事者間に争いのないところである。)、明治三八年八月一九日に死亡した久五郎を相続したことにつき当事者間に争いのない幸次郎は、明治三九年一一月二五日右指令は「残り二か所」である「赤滝沢より上赤荷沢迄」と「田茂ヶ平」についてなんら指令をしていないから、この二か所についても下戻許可の指令を求める旨の申立をし、同月二八日、更に事実調査のうえ補充の申立をしたいので右二か所に対する処分を同年一二月二〇日まで猶予してほしい旨を願い出たが、農商務大臣の命を受けた山林局長は、同月二七日幸次郎に対し、前記指令は「池ノ平」一筆に限り下戻申請を聞き届け、他は聞き届けないとの趣旨のものである旨を説明して幸次郎の願書を同人に返戻したこと、以上の事実が認められ、右認定事実によると、明治三七年八月二四日「赤滝沢より上赤荷沢迄」の土地についても下戻不許可処分があり、「田茂ヶ平」の土地とともにその不許可処分が同年九月二日ころ久五郎に指令書を交付して告知されたのであり、右指令書の記載内容が簡潔であるため当時久五郎あるいは幸次郎において「赤滝沢より上赤荷沢迄」及び「田茂ヶ平」の不許可処分が含まれていることに気づかなかつたとしても、幸次郎は明治三九年一二月二七日に受けた説明により右二か所の土地の不許可処分が含まれていることを知らされ認識したものというべきであり、右の告知の方法に無効原因となる瑕疵があるとまでは解されず、右二か所の土地に対する下戻不許可処分は、これらの当時に行政裁判法(明治二三年法律第四八号)所定の出訴期間を徒過して行政訴訟を提起することが許されなくなつたことにより確定したものと認められる。

二  そこで、下戻法による下戻不許可処分の効果について判断する。

1  <証拠略>を総合すると、次のような事実が認められる。

江戸時代の幕藩体制のもとにおいては、土地については、近代的所有権のように観念的かつ包括的な支配権は存在せず、領主の領有権と、所持あるいは支配進退と呼ばれる現実的かつ具体的で複雑多様な支配権が存在していた。明治政府は、このような土地制度を廃して近代的土地所有権を確立し、所有者に地券を交付して土地の売買を許すとともに、地租改正を目的として全国の土地を官有地と民有地とに区別した。この区別にあたつては、明治六年三月太政官布告第一一四号「地所名称区別」、同七年一一月太政官布告第一二〇号「地所名称区別改定」その他多数の布告、達などの法令が定められ、おおむね土地に対する支配関係の強弱、その客観的明白性によつて官有、民有の区別がされたが、山林原野については、明治九年一月二九日地租改正事務局議定の「昨八年当局第三号同第一一号達ニ付山林原野等官民所有区別処分派出官員心得書」により、旧領主地頭が村持と定め官簿又は村簿のうち公証とすべき書類にその記載があるか、又は、樹木草茅等をその村において自由にし、村持ととなえて来たことを比隣郡村も瞭知し保証する山野、及び、村山村林ととなえ、樹木植付あるいは焼払などの手入を加えその村の所有地のように進退してきた山野は民有地と定めるべきであるが、一隅をもつて全山の民有を認めるべきではなく、また、秣永山永下草永冥加永等を納めてきたものであつても培栽の労なく全く自然性の草木を採伐してきたにすぎないときは地盤を民有とすべきではない旨定められていた。しかし、山林原野は、耕宅地に比較して支配関係が複雑かつ不明確であり、「従来官有民有ノ区別自ラ定マルモノアリ又官民両属ノ状ヲ為スモノアリ地租改定ノ際其証左ト慣行トヲ照査シ其所有ヲ判定」された(明治一五年二月大蔵卿報告「地租改正要領報告」)のであるが、その判定は困難を伴い、本来民有地とされるべきであるのに誤つて官有地に編入されるようなことも生じ、これに不満をとなえる者も少くなかつた。そこで、その是正をはかるため、明治二三年四月一五日農商務省訓令第二三号により「民有タルヘキ証左ニ処リ地所又ハ立木竹ノ引戻ヲ請フモノ」について救済の途が開かれたが、なお問題が解決しないため、明治三二年四月一八日に至り、誤つて官有地に編入された森林原野の下戻しの問題に最終的な結着をつけるべく、下戻法が公布された。

下戻法は、地租改正又は社寺上地処分により官有に編入された国有の森林原野又は立木竹について所有又は分収の事実のあつた者に下戻しの申請をすることを許すとともに下戻しの申請が許される時期を明治三三年六月三〇日までに限り、これを経過したのちは下戻しの申請をすることができないものとし(第一条)、また、下戻申請に対し不許可の処分を受けた者は行政裁判所に出訴することができるものとした(第六条)。

2  下戻法の制定に至る前認定のような経過及び同法の右のような諸規定に徴すると、右不許可処分が行政処分として構成されていることは明らかであり、不許可処分を受けた者(その承継人を含む。)が出訴期間を徒過して行政訴訟を提起することができなくなつたのちは、不許可処分に無効原因となる重大かつ明白な瑕疵の存しない限り、国に対し当該土地が国有地であることを否定して自己の所有権を主張することは許されないものと解するのが相当である。

控訴人は、下戻法による下戻申請が却下されても、同法に基づく下戻を求めることができなくなるだけで、本来民有となるべき土地の所有権の帰属について影響を及ぼさないと主張するが、採用することができない。控訴人の引用する最高裁第一小法廷昭和四四年一二月一八日判決・訟務月報一五巻一二号一四〇一頁、東京高裁昭和四二年七月二五日判決・下民集一八巻七号八二二頁は、ともに地租改正の際に官民有の区別の対象から漏れたいわゆる脱漏地につき下戻法による下戻申請もその不許可処分も行われなかつた事案に関するものであり、本件に適切でない。

三  次に、本件下戻不許可処分に無効原因となるべき重大かつ明白な瑕疵があるかどうかについて判断する。

1  <証拠略>によると、本件土地は、官民有区分処分の結果官有地に編入されたものではなく、版籍奉還により弘前藩から藩有地として明治政府に引き継がれたいわゆる「従前官林」に属することが認められる。

2  幸助が本件割渡しを受けたことは前示のとおりであり、割渡しの意味について検討をすすめることとする。

弘前藩においては、明治維新前、殖産興業の手段として、漆方等の制度を設けて領民に漆木の仕立(植栽)を指導奨励していたことは当事者間に争いがなく、<証拠略>によると、弘前藩においては、藩主津軽信政の寛文年間(寛文元年は一六六一年)以来、監督機関を設けて漆仕立の指導奨励をはかり、延享四年(一七四七年)からは、その奨励策として、水漆、漆実とも半分は藩に納めさせ、残り半分は植付者に分与し、右分与する分も藩が代価を支払つて買い上げるという折半分収法がとられ、奨励の実を挙げていたこと、安政元年一〇月にも「漆木之儀ハ田畑ニ続キ御国産ノ第一ニテ」として漆木仕立の一層の督励がはかられたことが認められる。そして、<証拠略>を総合すると、弘前藩には「漆仕立山」の制度が設けられていたこと、この制度は、山、荒畑又は山野の空地若しくは銀納畑等に漆木の栽培を希望する者の出願により、その場所に故障がなければ、藩がその者に漆仕立方を許可し栽培に成功したときには、抱山同様に証文を授与し売買譲与を許したというものであり、右にいう抱山は、山又は空地に許可を得て樹木を自費栽培し、成功したときは検査のうえ抱地の証文の授与を受け、面積に応じて一定の地税を賦課されたというものであること、漆仕立山については右の証文として「永久為安堵下与候旨ノ証文」の授与されている例があること、漆仕立場所の割渡しは、漆木の植付前又は植付と同年度に行われている事例や植付後数年を経ないで行われている事例が多いこと、弘前藩では、山林の保護増殖にも非常に力を尽していたこと、本件土地及び附近一帯の山林は、本件割渡当時、天然性の青森ヒバを主体とする美林であつたこと、青森ヒバは優れた建築用材であること、このような場所を漆仕立場所として割渡しを受けた者は、地上のヒバ等の立木の譲与までを受けるものではなく、漆仕立のためにヒバを自由に伐採するようなことはなかつたこと、以上のような事実が認められるのであつて、これらの事実によれば、割渡しが漆木の根付いたことを確認したうえでされるものであるとはいいがたく、また、本件土地のような山林の場合には、漆仕立場所の割渡しが行われても、畑地や空地の場合と異なつて、藩が立木の所有を通じて地盤に対する現実の支配を継続している面もあり、漆仕立場所の割渡しを受けた者がその売買譲与を許されるようになるためには、控訴人主張のように、漆仕立に成功し成木したという事実があるだけでは足りず、成功のうえさらに「証文」の授与を受けることを必要としたのであつて、割渡しは被控訴人主張のように漆仕立の許可ないしその追認であつたことが窺われる。<証拠略>によれば、割渡場所について単純に譲受が認められている例と、割渡しを受けた者が病気を理由に御免を願い出で、藩が引き上げのうえ他の者に割渡しをしている例のあることが認められ、<証拠略>はその記載からみて後者の例の場合に関するものともみられるし、また、<証拠略>によると明治九年に作成された山林原野調書に「持山漆木有」とある土地に関するものであることが認められるのであつて、いずれも割渡場所一般についてその売買譲与が当然に許されていたことの証拠とするにはなお十分でなく、他に前記認定を動かして、成木の事実があれば当然に割渡場所の売買譲与が許されたことを認めるに足りる的確な証拠はない。

3  <証拠略>によれば、幸助が文久二年に割渡しを受けた際に、喜良市村庄屋兼蔵が金木代官所に命ぜられて現地を見分のうえ割渡図式を添えてその現況を報告したことが推認され、右事実及び本件割渡しのなされた事実から、控訴人主張のように、割渡しの際に幸助に割渡図式が授与されたものと推認しえないものでもないが、右割渡図式の原本が現存することの立証はなく、<証拠略>によれば久五郎が明治二三年八月四日付「漆仕立場所遺漏之分御引渡之儀ニ付願」(<証拠略>)の添付図面としてそのころ作成したものであるという<証拠略>を対比し、かつ、右願書に割渡しを受けたことの記載はあるが証文ないし図式が授与されたことについてはなんら言及されていないことを考慮すると、本件全証拠をもつてしても、右二通の図面はそのいずれについても割渡図式の写しであると認めることは困難であり、また、幸助が本件割渡しを受けた際になんらかの割渡図式を授与されていたとしても、それが割渡地の売買譲与を許されるのに必要な「証文」にあたるものであつたと認めるに足りる証拠はない。

4  控訴人は、本件土地及び池ノ平の土地が「西幸山」と呼ばれていたと主張し、<証拠略>には右主張に沿うものがあるが、<証拠略>によると、「西幸山」の俗称が確立していたのは池ノ平の土地のみである疑いも強く、前記控訴人の主張に沿う証拠はたやすく採用しがたいものがあるうえ、本件土地を含めて西幸山と呼ばれていたとしても、単に幸助が割渡しを受けて漆木を植栽していたことに起因するものとも考えられ、幸助が本件割渡地につき「証文」の授与を受け、あるいはその売買譲与を許されていたことの証左とまではすることができない。また、<証拠略>によると、幸助は本件割渡しを受けるのと同時に苗字帯刀を許されたことが認められるが、この事実もまた右の事実の証左とするに足りない。

5  結局、幸助は本件割渡しを受け、割渡地に漆仕立をする許可を得てはいたが、その地盤について売買譲与が許されるほどの支配権が付与されていたものとまでは認められない。

6  もつとも、池ノ平の土地については、前示のとおり幸助に下戻処分がされており、<証拠略>によれば、右下戻処分のされた理由は、証文が授与されていたことによるものではなく、相当数の漆木が植栽され成木に達したものと認められたことによるものであることが認められる。これは、藩政当時にはまだ「証文」の授与を受けておらず、売買譲与を許されていない割渡地であつても、藩に申し出れば「証文」の授与を受けることができるような状況にある土地については、下戻処分の行われる例があることによるものと考えられるのであるが、このような場合には、地盤に対する支配の存在ということがらの性質上、割渡地のうち相当の範囲にわたり相当な数の漆木が成木していると認められることが必要であると解されるところ、前示のとおり幸助が安政二年に「赤滝沢より上赤荷沢迄」に二五〇〇本、文久元年に「池ノ平」に五〇〇本、「田茂ヶ平」に三〇〇本の漆木を植え付けたことは当事者間に争いがなく、控訴人は、本件土地と池ノ平の土地とは地勢、地質、林相、日当り等がほとんど変わらないから、本件土地の漆木も池ノ平と同様に成木したと主張し、<証拠略>には、右主張に沿うものがあるが、<証拠略>には、幸助が「赤滝沢より上赤荷沢迄」、「池ノ平」、「田茂ヶ平」の三か所に昨年(文久元年)漆木三〇〇本を植え付けたところ根付いたので割渡しを申し出た旨記載されているにすぎず、右三〇〇本も大部分は下戻しを受けた池ノ平に植え付けられたものではないかとも考えられ、右記載からは、文久元年に植え付けられたその余の五〇〇本及び安政二年に植え付けられた二五〇〇本が根付いたかどうかにも疑問が残り、<証拠略>にも照らすと、控訴人の主張にそう前記各証拠があるというだけでは、「赤滝沢より上赤荷沢迄」及び「田茂ヶ平」の各土地に幸助の植えた漆木が相当数成木したことにはなお疑問の余地のあることを否定することができず、まして、農商務大臣が右二か所の土地について漆木成木の事実を確かめないで下戻不許可処分をしたことに重大かつ明白な瑕疵があるものとは認められない。他に本件下戻不許可処分に重大かつ明白な瑕疵のあることを認めうる証拠はない。

四  そうすると、本件土地が控訴人の所有であることの確認を求める控訴人の請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないから、本件控訴及び右請求のうち当審で拡張された部分はいずれも失当としてこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 小林信次 平田浩 河本誠之)

別紙 目録 <略>

図面 <略>

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