東京高等裁判所 昭和48年(人ナ)3号 判決 1973年9月18日
請求者 甲野花子
右代理人弁護士 兼平慶之助
同 兼平雄二
被拘束者 甲野一郎
右代理人弁護士 二宮充子
拘束者 甲野太郎
拘束者 乙山星子
拘束者 丙川月子
右拘束者ら代理人弁護士 菅原信夫
同 野宮利雄
同 宮山雅行
主文
被拘束者を釈放し、請求者に引渡す。
本件手続費用は拘束者ら三名の連帯負担とする。
事実
一 本件請求の趣旨および理由は別紙「人身保護請求書」記載のとおりであり、これに対する拘束者ら三名の答弁は、拘束者ら代理人において「被拘束者は現在拘束者甲野太郎、同乙山星子とともに拘束者丙川月子方に居住し、被拘束者の養育・監護には主として右乙山星子が、甲野太郎、丙川月子とともにその任に当り、結局拘束者三名が共同して被拘束者を養育、監護しているものである。」と述べたほかは、別紙「答弁書」記載のとおりである。
被拘束者代理人は、請求者および拘束者太郎間の子である被拘束者の利益を配慮した裁判を求める旨を述べた。
二 疎明≪省略≫
理由
一 請求者甲野花子と拘束者甲野太郎が昭和四五年一一月二九日挙式のうえ、同年一二月一六日婚姻の届出をし、都の区内で同居中右両名間に被拘束者長男一郎(昭和四六年七月一八日生)と次男二郎(昭和四七年九月二二日生)の二児が出生したこと、右請求者が昭和四七年一二月一六日右の二児を連れて千葉県○○市○○×丁目×××番地の実家(父丁村正夫方)に帰り、同月二九日拘束者らが右被拘束者一郎を連れ戻し、拘束者ら三名が、現に東京都杉並区○○×丁目××番××号拘束者丙川月子方において右一郎を養育、監護していることは当事者間に争いがないところである。
本件請求の当否を判断するに先だって、花子と太郎との婚姻生活の経過と、関係者の生活環境等について考える。≪疎明省略≫を総合すると、次の各事実を認めることができ、≪疎明省略≫中の、それぞれ左記認定に反する部分は信用することができず、他にこの認定を覆えすに足る疎明はない(以下、関係者の表示は主として名のみによる。)。
(一) 花子(昭和二二年七月二八日生)は、昭和四五年ころ劇団「○○座」の研究生として時々テレビに出演するほか、夜間は国電高田馬場駅近くのバー「おとずれ」にホステスとして働いていたところ、同年四月ころ客として店に来た太郎と知合った。太郎は、国士館大学を中退後、食堂、洋食店等で調理方の修業をした経験を生かすべく、そのころ同じ高田馬場でレストラン「○○○○」の開業準備をしており、その後間もなく右レストランを開業した。そこで花子はそれまでの仕事をやめて太郎と結婚することになり、同年一一月二九日挙式し、店の近くのアパートを借りて夫婦二人の結婚生活を始めた。
(二) 右結婚にあたって花子は太郎に対し、劇団関係の人とは交際しないという約束をしたが、それが必らずしも守られなかったことから、太郎としては快くなく、それに、太郎の性格はとかく短気で怒りやすく、家庭生活においても直ぐ殴ったり物を投げたりする乱暴癖があった。他方、花子の性格も強情と見られる面があり、自分の落度を太郎から指摘されても容易に謝ろうとしない面があり、それにまた花子が太郎に他の女性との交際があるなどと言い出すこともあって、その結婚生活は次第に衝突が目立って来た。
(三) 花子が長男一郎を妊娠中に、太郎の配慮不足も手伝って、花子は、一郎を早産したが、出生後間もない昭和四六年一〇月ころ、小児科医の注意により、一郎が未だ新生児であるからという花子の反対にもかかわらず、太郎がこれを押えて結局二人が一郎を熱海で入院している太郎の母雪子のところへ連れて行ったことがあった。そのとき一郎が発熱したことが帰京後の夫婦喧嘩になり、それを責めた花子が太郎に殴られたと言って、一郎を連れて○○の実家に帰った。その後同月末にも、花子は太郎から乱暴されたとして再び○○の実家に帰り、更にまた、次男二郎の出産間近かの昭和四七年九月初めころも、深夜夫婦喧嘩になって太郎が乱暴したので、花子は一郎を抱いたまま家を飛び出し、友人宅に逃げて夜を明かしたあと、鎌倉の叔父の家まで行くなど、再三の家出があり、その都度いずれかの叔父・花子の両親または太郎の姉(長姉星子昭和六年生、次姉月子昭和七年生)らが口を聞いて、仲直りして太郎が花子を連れ帰った。
(四) その間、太郎は、前記レストラン「○○○○」の経営に失敗し、昭和四七年三月ころから国電原宿駅近くに店とアパートを借り、「グリル○○」の名称で食堂を始めた。しかし太郎は、前記性格のほか、麻雀・競馬などの遊び事が好きな習慣は改まらず、外泊することがしばしばあり、仕事にも余り熱心でなかったことから、花子は太郎との結婚生活に見切りをつけようと考えるようになった。そして、とてもついて行かれないからと花子から別れ話めいた話しが出たとき、太郎からは、「家を出るときは一郎だけは置いて行けよ。」と言われたものの、花子としては、当時一歳五月と三月の二児を手離す気にはなれず、一応それを承知するかのように振舞いながら約一週間後の昭和四七年一二月一六日最後的に家出を決意し、店に出ていた太郎に電話だけして、その留守中、一郎・二郎の二児を連れて○○の実家に帰り、こうして以後夫婦は完全な別居状態に移ったのである。
(五) 花子の右家出後、太郎は、長男一郎だけは何とか連れ戻そうと考え、同月二六日夜八時ころ姉星子、姉月子の夫良夫とともに自動車で花子の実家に出向き、別れ話しのことを病人の母に話すことができない、とりあえず正月中一郎を太郎の母に会わせたい、花子が迎えに来れば子供を返すなどといって一郎を引渡すように申し入れ、主として右星子・良夫が花子の父丁村正夫らと話合った。その結果、正夫は、離婚の問題については、正月を迎えてから改めて話し合いたいと答え、花子は、いま子供を手離しては、もはや一郎と会えなくなると虞れていたが、旬日の間のことゆえとの父の説得を受け入れざるを得なくなり、結局、その晩は遅くなったので、太郎らは、改めて同月二九日に一郎を引取りに来るという約束を取り付けて帰り、右二九日に太郎と別の姉(星子の妹)月子の二人が出直して一郎を連れ戻した。このとき花子は、見ている前で一郎が連行されることになることに忍びず、一郎を寝かしつけたうえ、二郎を抱いて太郎らの来る前から他出していた。帰京した太郎は、一旦東京都杉並区○○の前記月子の家に一郎を預け、その翌日ころ、当時熱海市内で旅館を経営していた前記星子方(母雪子もそこにいた。)に連れて行き、太郎自らもそこで正月を過ごしたあと、一郎の監護を星子に任せて東京に帰り時々一郎の顔を見に熱海に来ていた。こうして、一郎を昭和四八年三月末まで姉星子に預けて、再び東京の姉月子方に連れて帰り(母雪子はそれよりさき同年一月末ころ月子の家に帰っていた。)、また、太郎もそのころ、調停委員の示唆にしたがい、前記原宿のアパートを引き払って一郎のいる右月子方に身を寄せ、月子とともに一郎の面倒を見ながら前記原宿の店に通い、更に、星子も、同年七月初めころ、熱海の旅館を売却して月子方に引き揚げ、以後月子方には、月子夫妻と母雪子・星子・太郎・一郎の六人が同居している。
(六) 他方、花子は、一郎は正月の間だけ太郎の母に見せるために渡したもので、一月七日(昭和四八年)には必ず○○の家に連れ返す約束であったとして、同月六日ころから太郎や星子に電話したり、同月九日には東京新宿で星子と会ったりして交渉したが、思うようにいかず、そこで、やむなく、同月一一日東京家庭裁判所に対して太郎との離婚調停(親権者指定、扶養料慰藉料支払申立を含む。)の申立をする一方、自ら一月と二月の二回にわたり、一郎のいる熱海の星子方に出かけて行ってその引渡を求めたが、これを果しえなかった。その後同家庭裁判所において六回の調停期日が開かれたが、二郎と一郎の二児を引取りたいという花子の側と、一郎だけは絶対渡せないという太郎の側とで遂に意見の一致が見られず、結局、花子は、同年七月一二日前記調停の申立を取り下げ、即日本件請求に及んだものであること。
(七) 花子の実家は、○○市内で明治の末期から営業しているそば屋(木造二階建店舗兼居宅、一・二階延べ坪数約六〇坪)で、同居の家族は両親(父正夫五七才、母春子五〇才)のほか、祖母(七二才)もいて、いずれも健在であり別居後、花子は、その実家で両親らの助けを得て、店を手伝いながら現に二郎の養育・監護に当り、一郎についても同様、この実家に引取って養育しようと熱望している。
(八) これに対して、太郎は、昭和四八年三月末以降前記のように○○の月子夫妻の居宅(約二五坪の木造二階建居宅、階下六畳一間・食堂など、二階六畳二間)に一郎らとともに同居しているのであるが、太郎は、夜の遅くなる店の都合で出勤前のわずかな時間(時に帰らないことがある。)と日曜、休日程度に一郎の遊び相手になって面倒を見るほかは、接触する機会が少なく、月子も一郎の食事を作ったりしているが、別に病身(脳軟化症)の母親の世話を引受けているので、同年七月初め以降は、殆んど星子が一郎を手近かに置いて世話をしている現状であり、それに、右居宅は六人が住むにしては手狭まなので、いずれ近いうちに六人が同居できる比較的大きい居宅を買い求めるか、星子と太郎、一郎の三人が住める居宅を別に買い求めるかを思案検討中である(なお、星子は結婚の経験はあるが、出産育児の経験はなく、月子にも子供はないけれども、同女は花子が一郎や二郎を出産した際に、花子の実家からの手伝もなかったので、入院中の花子や子供の身の回りの世話をした経験がある。)。
二 ところで、請求者花子と拘束者太郎は、右判示のように完全な別居状態にあって、弁論の全趣旨によれば特に花子に離婚の意思が堅く、その夫婦関係は破綻に近い状態にある。被拘束者一郎は、その両親の共同親権に服すべき子であるが、本件請求が申立てられた六日後ようやく満二才になったばかりで、物心がつき始めるとともに、その日常の監護に温かい配意を要する幼児である。このようにして幼児一郎は、夫婦の合致した意見を見ないまま前判示のとおり、形の上で父のもとにあるに止まり、実質的には父の姉の庇護のもとに移され、拘束者らが子の引渡を拒むばかりか、母子が自由に面接することすら事実上妨げられているうえに、またもし現に行なわれているその養育・監護が真に子の幸福のために適当でないと認められる場合には、その監護は明らかに不当な拘束状態下にあるに等しいことになる。そのような場合、母は、子の父および父の姉に対し人身保護法に基づいてその救済を求めることができると解すべきであるから(最高裁判所判決昭和四三年七月四日第一小法廷言渡参照)、以下さらに、前判示の事実関係をふり返りながら、本件請求の当否を考察することとする。
花子と太郎の夫婦関係の破綻に近い原因が夫婦のいずれに多いかの点の判断を措いて(時間的に制約された手続のもとで当裁判所に供された資料によっては、そのいずれとも断定しがたい。)、花子は、母親として一郎の出生後から○○で太郎に一旦手渡すまでの約一年半、一郎を自らその膝下に置いて養育・監護に当って来たのであり、将来の離婚時における親権者指定の問題はともかくとして、このように肌身に接して幼児の養育に当って来た母親が、現実に養育可能の状態にあって、その監護を熱望する以上、当面の右幼児の養育・監護は、一般的にはその母親に任せるのが子の福祉のため適当であることはいうまでもない。なるほど、拘束者乙山星子、同丙川月子、同甲野太郎本人の供述によれば、花子は結婚前芸能関係の生活やホステスの経験がある女性で十数年年長の義姉の目からするとき、主婦としての日常家事や育児に十分でない面があるように窺えないではないけれども、前述のように、これまで一郎と二郎の二児を大過なく育てて来た事実にかんがみれば、母親としての資格、育児の能力に著しい欠点があるとは思われない。これに対して、前判示のとおり、太郎は、せめて長男の一郎だけは手許に置きたいという父親としての愛情から一郎を連れ戻したのであるが、さりとて現実には、仕事を持つ男性としてその養育に四六時中専念するわけにはいかず、引取後、まず○○の姉月子のところへ、その後暫く熱海の姉星子のところへ、更にまた右月子のところへと一郎を移し、現在は右星子が主になって一郎の監護に努めているのであるが、それも家が手狭まで一郎や太郎にとって安定した生活環境とはいえず、こうしてその監護の方法に苦慮を続けている様子が見受けられる。また右星子および月子に育児の経験はなく、そのうえ月子は、病人である母雪子(明治四〇年生)の世話で手がかかることは、同人らの供述するところである。たとえ、星子の親代りの献身的な愛情があり、また、一郎出生時に親身になって世話をした月子の経験と愛着があるとしても、いまだ幼児期にある一郎の養育・監護に少なからぬ不安のあることは隠せない。それにひきかえ、花子の実家には、両親のほか祖母もともに健在で、家で商売をしながら、花子と一緒に二郎の面倒を見ているというのであり、この両親らの援助のもとに、花子が一郎を膝下に置いて弟二郎とともに養てるのは、比較的容易なことでもあり、一郎ら幼い兄弟にとっても幸せなことということができ、これが当面の措置として優れていることは明らかであるといわざるをえない。
三 以上を要するに、被拘束者一郎は拘束者太郎、同星子、同月子による不当な拘束状態のもとにあって、かつ、それが顕著な場合に該ると解することが相当であるから、本件請求は理由がある。
よって、人身保護法一六条三項に則って被拘束者を直ちに釈放すべきことを命じて、請求者に引渡すこととし、手続費用の負担につき同法一七条、民訴法八九条、九三条一項但書を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中西彦二郎 裁判官 小木曽競 深田源次)
<以下省略>