東京高等裁判所 昭和49年(ネ)3013号 判決
一 1 ≪証拠≫を綜合すれば、次の事実が認められる。
(一) 大柴武雄は昭和二〇年五月二九日の横浜地区空襲に遇うまで横浜興信銀行に勤めるかたわら、横浜市中区本牧において父大柴越次郎が設立した本牧幼稚園を園長に知人を頼んで経営してきたが、右罹災により郷里の山梨県北巨摩郡穂坂村に疎開した。武雄は終戦後、同村役場の助役として勤めたが、その収入だけでは妻子を養うに十分でないため、いずれは横浜に帰り前に経営したことのある幼稚園もしくは保育園を再開しようと考えていた。
(二) 他方、被控訴人は同郡中田村の昌福寺の住職をしながら同寺付設の保育所明光学園を経営していたが、昭和二三年頃武雄の長女操を同園の保母として迎えたことから同女と親しくなり、翌昭和二四年一一月には婚約をした(被控訴人はその後同女と婚姻した。)。
(三) かくするうち、右武雄、その妻布美遠、長女操及び被控訴人の間で相談の結果横浜において保育園を開設することとなり、武雄が保育園の設立に必要な資金を調達し、被控訴人が園長としてその運営に当り、布美遠、操(操は昭和一六年に東京昭和保母養成所を卒業し、昭和二七年三月に幼稚園教諭二級免許をえた。)が保母として協力することになった。
(四) 昭和二五年、武雄はその郷里に所有していた山林や田地を売却して金二二万円の資金を調達したが、保育園の敷地、園舎、諸設備、右武雄等家族の居宅等を購入するにはなお多額の資金を要するため、武雄は更に従弟の中沢英誉から金七〇万円を、横浜銀行から金三〇万円をそれぞれ借り受けた。そして、武雄はまず園舎の敷地及び屋外運動場とするため昭和二五年五月四日金二五万円を出捐して小原栄次郎から本件土地約三三〇坪を買受け、同日武雄名義に所有権移転登記を経由した。次いで、同地上に保育園(香蘭保育園と名付けられた)の園舎の建築工事にかかったが、その工事代金は同年五月八日寿建設株式会社によりガス、電気、水道、排水工事を除いて金四八万円と見積られた。被控訴人は武雄と協議のうえ、注文主を被控訴人、請負人を同会社として右金額を工事代金として木造平家建一棟建坪四八坪の園舎新築工事契約を結んだ。右建築工事代金および同園の開設に伴う費用等合計約一〇〇万円は武雄が調達した前記借入金をもって支弁することにしたが、その支出金はすべて被控訴人の責任において、香蘭保育園開園後の園の収益から返済することに取決められた。なお、右請負人発行の建築代金領収の名宛人はすべて同園園長被控訴人と記載された。武雄は住宅金融公庫の融資により右の園舎に隣接して住宅を建築し、武雄と被控訴人の家族がそこに同居した。かくして、香蘭保育園は昭和二五年七月一〇日開園の運びとなり、被控訴人が園長となって同園の経営に当り、武雄の妻布美遠が事務を手伝い、武雄の次女美晴及び三女美里と被控訴人の妻操等が保母となって、保育事業を行った(なお、美晴は昭和二六年三月に保母の資格をとり、美里は昭和二七年三月に高等保育学校を卒業し幼稚園教諭仮免許を得た)。そして、昭和二七年八月から同年一〇月にかけて被控訴人は園の収益から約五四万円を投じて園舎を一階、二階とも各約一五坪宛増築した。なお、右増築工事の注文及び建築確認申請はいずれも被控訴人が建築主としてこれを行った。
(五) ところが、昭和二八年頃経済状態の好転と同園付近の還境の変化によって保育園の需要が低下し、幼稚園のそれが昂まってきたので、武雄、被控訴人及び布美遠、操等家族全員が協議した結果、保育園を廃止して、幼稚園を開設することになった。そこで、被控訴人は神奈川県知事への幼稚園認可申請をするに当り昭和二八年五月二七日本件建物を自己の所有名義に保存登記を経由し、同年八月一〇日被控訴人を香蘭幼稚園の設立者として認可申請を行い、翌昭和二九年二月一日付をもって同県知事の認可がなされた。
(六) その後、同幼稚園は被控訴人の手腕、布美遠、操、美里等の協力によって順調に発展し、逐年園児も増加し、昭和三二年頃までには同園の園舎の建設費、開園費等の武雄が調達した借財約一〇〇万円がすべて被控訴人によって園の収益のなかから弁済された。
ところで武雄は香蘭保育園、同幼稚園の開設以来自ら創立者あるいは園主として名乗っていたが、園の事業の拡張などの重要事項についてのみ意見を述べるだけで日常の事業運営には一切関与せず、同園の経営は主として被控訴人によって行われ、同園の事業収入によって武雄の家族及び被控訴人の家族の生活費、控訴人の学費(同人は昭和三五年に早稲田大学を卒業した)一切が賄われてきた。なお、美晴と美里は右幼稚園の保母として引続き園の運営に協力したが、美里は昭和三三年一一月に結婚し、また美晴はそれ以前の昭和三二年頃に結婚して相次いで退職した。二人の結婚費用は被控訴人が園の収益の中からととのえ、また二人が保母として勤務中は、被控訴人は園長としてこれに対し毎月小遺銭程度の給料を支給した。
(七) ところが、開設以来平穏だった同園の運営及び大柴、若月両家の生活も昭和三七年に至り、武雄が被控訴人の同園の経営方針(武雄は手堅い経営方針を可とするのに対し、被控訴人は借金をしてでも事業の拡張をのぞんだ)及び収益の分配等につき問題を提起したことから意見の対立が生じ、その調整について両者間で話合いがもたれた。そして、その過程で同年六月五日には香蘭幼稚園の運営について覚書案が作成された。同案には香蘭幼稚園は武雄が創立し、園舎一〇四坪のうち四三坪は同人の出資によるものであるから、園経営から生じた利益金の五割は同人に支払う旨及び園地に対する借地料は適正賃貸料の二倍相当額を支払うものとする旨等五項目が列記された。しかし、同案は結局武雄の承認するところとならず、翌昭和三八年三月四日別紙「覚書」のとおりの覚書が武雄によって用意された。被控訴人は前記覚書案と若干異なる右覚書の内容につき不満はあったが、武雄との紛争を円満に解決するためにはやむをえないものとして不本意ながらこれを承諾し右覚書に署名押印した。
(八) 右覚書調印後、被控訴人は武雄に対し、右覚書に基き、地代一万五〇〇〇円を毎月末日までに、報酬一万円を毎月一五日に、それぞれ支払った。しかし、経理の報告及び園の収益の分配は行わなかった。かくして、武雄と被控訴人との間の感情的対立が昂じて同年一〇月から武雄の要請により被控訴人の家族が別居することになった。そして、昭和四三年一〇月には右武雄が申立人、被控訴人を相手方として横浜家庭裁判所に親子関係調整の家事調停を申立てたが、結局、不調となり、さらに、昭和四五年四月には武雄から被控訴人宛の内容証明郵便をもって控訴人主張のような経理の報告を求める催告がなされ、被控訴人がこれに応じないことから右武雄は控訴人主張の被控訴人宛の内容証明郵便をもって幼稚園の設置経営に関する契約を一切解除し、土地学園の設備一切を明渡すよう求めた。そして同月末、武雄において、被控訴人が前記覚書所定の地代、報酬を持参して提供したのにその受領を拒絶したので、被控訴人は以後地代報酬相当額を供託するに至った。≪中略≫
2 以上によれば、香蘭保育園及び同幼稚園は武雄と被控訴人との間の同園の運営を共同の目的とする一種の組合契約によって開設され且つ運営されてきたものと認めることができる。すなわち、武雄は園舎及びこれに附属の屋外運動場の敷地とするため本件土地の使用権を提供し、且つ園舎の建築、その他の開園に要する資金として約一〇〇万円を調達するという方法で出資をし(この約一〇〇万円について、正確に云えば、これを借入先に返済するまでの利用権の出資ということになる)、被控訴人は園の設置者兼園長として労務を提供し園の日常の運営に当り、園舎の増築、園の事業の拡張などの重要事項については両者の協議によることとし、なお武雄は妻及び二女と三女を、被控訴人は妻を事務補助者もしくは保母として協力させること、以上の合意が保育園の開設に当って両者の間に成立し、被控訴人は右契約に基づき園の業務執行として武雄が他から借入れて調達した約一〇〇万円を資金として本件建物の建築その他園の設備の充足を行い、開園後は双方の前記家族の協力の下に園の管理運営に当り、園の収益のなかから右借入金の返済資金及び園舎の増築費を支弁し、香蘭幼稚園も右契約に基づく事業の続行として開設運営され、なお園の運営による収益の分配については、当初は被控訴人が両者の家族の生活費、学費、結婚資金等を園の収益のなかから支弁するという方法で行われたが、昭和三八年三月四日に両者の間に別紙「覚書」の契約が成立し、以後はこれを折半することとなり、また武雄による本件土地の使用権の提供は従来無償でなされたが、右「覚書」以後は月額一万五〇〇〇円の有償ということにした。以上のように認めることができる。≪中略≫
三 控訴人は被控訴人が別紙覚書の約に反し経理の報告及び収益の分配をしないので昭和四五年四月二四日に被控訴人に到達の書面で右契約を解除したと主張するが、右覚書は前認定のとおり一種の組合契約の一部を明確化したものであって、その解除(解散請求)についてはやむをえない事由があることを要するわけであるが、控訴人主張の事実があったとしてもそれは右のやむをえない事由には当らないと解せられるので、控訴人主張の右解除は、その効果を生じなかったものと云わなければならない。
しかしながら、武雄が昭和四七年一月一七日に死亡したことは当事者間に争いがない。前記認定の組合契約は同人と被控訴人の両名の間に結ばれたもので他に組合員はないから、組合が契約に基づくものであること及び一種の団体的性格のものであることの性質上組合は武雄の死亡によって当然に解散したものと解さなければならない(なお、商法九四条四号参照)。別紙覚書の第一項には、武雄の死亡後は控訴人がその権限を承継する旨の記載はあるが、控訴人は本訴において武雄が右覚書の契約を解除したとしてその効果を主張し建物の明渡、土地の明渡等を請求しているのであるから、控訴人のこのような態度は前記認定の組合契約による共同事業を被控訴人と共同して遂行することを拒否しているものと理解するほかなく、控訴人は前記覚書の約定第一項による効果を享受しない意思を明示しているものと認められる。したがって、右覚書第一項の約定は控訴人について効果を生ぜず、前記組合解散の効果は変りがないわけである。
なお、≪証拠≫によると、武雄は横浜地方法務局所属公証人鈴木良一昭和四二年一二月一二日作成の公正証書によって控訴人に包括遺贈をする旨の遺言をした事実が認められるが、民法六七九条は組合員の死亡を脱退事由としているので、組合員たる地位自体は相続もしくは遺贈の対象としえないものと解せられる。≪中略≫
四 被控訴人は本件建物について昭和二八年五月二七日に単独所有の保存登記をしたのであるが、前記認定の事実からすると、これは本件建物は組合の業務執行者である被控訴人の名義で登記する旨の武雄と被控訴人との間の合意に基づいて行われたものと認めるのが相当である。そして組合が解散した場合は組合財産の分割は清算手続によって行うべきで個別的な財産の分割を請求することはできないと解すべきであるから、控訴人は清算手続によらずして右共有持分につき移転登記を求めることはできない。
(松永 糟谷 浅生)