東京高等裁判所 昭和50年(う)391号 判決
被告人 野島絹代
〔抄 録〕
以上のように、本件は、もともと夫婦の婚姻生活中、時には波風が立つことがあっても、未だ破綻することはなく婚姻を継続していた当時における行為であって、夫から任されて財産上の処理を担当してきた妻が夫に代ってした財産上の行為を、婚姻破綻後の夫の告訴に基き、夫に無断でしたものとして文書偽造、行使、登記簿原本不実記載等の罪に問うのであるから、その事実認定に当たっては特に慎重な考慮を要するものである。
ところで、記録によると、広久は、原審における公訴事実全部につき、被告人が権限なく広久に無断でその印章を冒用して広久名義の文書を偽造、行使し、登記手続をした旨供述しているのであるが、これを他の証拠と対照し、あるいはその供述内容自体を検討すれば、原判決も一部無罪の理由で言及しているところであるが、広久の供述は、前後矛盾したり、粉飾、誇張の表現を多用したり、さらには事実に代えて理屈をもって答えるなどして極力自己を正当化しようと努める供述態度に終始していることが明らかで、全般的に信用性にとぼしく、有罪認定の証拠として採用し難い点が多いと判断される。
これにひきかえ、被告人は、前記各公訴事実全部について、広久の承諾のもとにした行為であると供述し、本件の訴因事実については前記合意が成立した八月一〇日夜広久と二人だけで話し合いをしてその承諾を得た旨弁解する。ただ、被告人は、昭和四七年二月九日付の司法警察員調書において、本件の抵当権設定登記手続についてだけは預っていた広久の印鑑を無断で使用して手続した旨供述し、唯一の一部自白をしたことになっている。ところが、右について被告人から訂正の申し出がなされ、同年三月一日付司法警察員調書において、右一部自白の趣旨は、登記手続を実行する際に特にあらためて広久の承諾を得なかったというに過ぎず、それ以前に抵当権を設定することについては広久の承諾を得ているので、「無断で」したことにはならない旨供述し、検察官調書においては、前記覚書作成に係る交渉の時点で、広久と話し合い、抵当権設定等の承諾を得たもので、会社代表者交替手続のため広久から預っていた印鑑を用いて手続をしたのであるが、いよいよ登記手続をするべく司法書士に依頼する段階では、ことあらためて広久にことわらなかっただけである旨供述している。
被告人の弁解については、原判決で無罪とされた公訴事実に関する供述は、行為の内容についても時期についても広久の承諾を裏付ける実質的な根拠が伴うものであるのに対し、本件に関する供述は、従来被告人の父冨作から不動産購入資金やビル建設費等として金三〇〇万円を優に上回る融資を受けた事実は認められるものの、抵当権の設定は時期的に幾分唐突の感があり、直ちに被告人の供述の内容を真実であると断定することはできない。
しかしながら、被告人が本件公訴事実に係る各文書偽造の罪を犯したと認定するためには、作成名義人たる広久の承諾を得たか否かが証拠上不明であるというだけでは足りず、承諾を得ていなかったことを積極的に認定するに足る証拠が必要であることはいうまでもない。その証拠としては、前記のように到底信じ難い広久の供述があるほか、被告人にとって一応不利な情況証拠としては、(一)昭和四五年八月一〇日前後の被告人夫婦と親族の協議においては、守屋冨作からの融資の処理について話題になった形跡がないこと、(二)被告人が広久から承諾を得たという同年八月一〇日と同時期に合意ができた役員交替の登記手続は、早速同月一二日になされたのに、本件抵当権設定登記手続については、時期がおくれて、ようやく同年九月一日頃になって登記申請の委任状が作成されたと見られること、(三)広久が同年八月一二日に急拠改印届をしていること、(四)前記司法警察員に対する供述調書に被告人の一部自白が存在することなどである。<中略>
結局、被告人の弁解を信用できないとして捨て去るにはちゅうちょを感ぜざるを得ず、本件公訴事実に係る各書面の作成につき広久が承諾したのではないかと疑う余地は優にあるから、いまだ被告人の行為が私文書偽造及び偽造文書行使であること、したがって登記簿原本不実記載及び同行使に当たることの証明がないというべきであり、また、これに加えて、被告人は従来、夫であり代表取締役である広久に代って、営業上の資金繰りを担当し、会社や広久個人を代理して融資を受けるについての証書の作成や担保提供の手続を執行してきたものであり、広久との間の会社経営上及び夫婦生活上の紛争が八月一〇日の話し合いにより一旦和解解決し、九月一日それが確定的となった以上、被告人が、従来どおり代理権限を回復し、事後手続が未処理であった父冨作からの営業資金借受けに関し、広久名義の各文書作成の権限を有するものと考えたとしても無理からぬ事情があるともいえるので、証拠上、被告人に本件公訴事実にかかる犯意を証明するに足りないものということができる。
(寺尾 渡辺 田尾)