東京高等裁判所 昭和51年(う)388号 判決
被告人 渡辺栄吉
〔抄 録〕
所論は、これを要するに、被告人には、(一)振興漁業株式会社事務所に若松鉄之助らが居住することの認識がなく、(二)又、右事務所を焼燬することにより付近の民家等を類焼させる意思も、延焼するかも知れないとの認識もなかったのに、被告人に対し現住建造物放火の犯罪事実を認定した原判決には、この点において事実を誤認し、刑法一〇八条につき法令の解釈、適用を誤ったかしがある、というのである。
所論に鑑み、記録並びに原審及び当審取り調べの証拠を検討すると、所論(一)については、原判決が挙示引用する全証拠によっても、被告人に、本件犯行当時、右会社事務所の建物に若松鉄之助らが居住することの認識があった事実の認められないことは所論指摘のとおりであるが、他方、所論(二)については、原判決挙示の司法警察員作成の昭和五〇年二月三日付実況見分調書(就中、添付の振興漁業KK火災現場付近図第一、第二図)後藤繁光の検察官に対する供述調書、司法警察員作成の「気象資料の入手について」及び「気象状況について」と題する各書面等によると、右事務所建物の西側はビル一棟を隔てて三崎港海岸に接しているが、東側一帯は木造の人家が密集しており、右事務所建物から東隣りの倉持方住居までの距離は約六メートルに過ぎず、又、北隣りの市川方住居までの距離も約六・四メートルに過ぎないこと、本件現場付近の三浦市三崎においては本件当日まで三日間降水がなく、湿度が低く乾燥していたうえ、犯行時海岸方面から風速毎秒約一〇メートルという強い西風が吹きつけていたことが明らかであるから、このような気象状況及び場所的関係のもとにおいては、右事務所建物に放火すれば付近の民家に類焼する事態のあり得ることは、通常何人も予想すべき事柄であって、就中、被告人の司法警察員に対する昭和五〇年三月二二日付供述調書によれば、被告人自身当時乾燥していたことを認識していたことがうかがえるのであり、他に特別の事情の認められない本件においては、被告人においても類焼する事態のあり得ることを当然予見し、認識していたものと認めるのが相当である。この点に関し、被告人は捜査段階、原審及び当審において所論指摘のように延焼防止の消防活動によるいち早い消火を予期していたごとく弁解しているが、原判決挙示の前記実況見分調書及び司法巡査作成の「日出と日入り時間について」と題する書面によれば、右事務所建物は北側及び西側の全部並びに南側の一部が高さ一・六メートルのブロック塀で囲繞されており被告人が放火した玄関脇付近は外部から発見しにくい場所であるうえ、放火時刻である午後五時ころは既に日没後の時間帯で辺りが暗くなり、又被告人の供述によっても当日は日曜日で事務所付近には人影もなかったというのであるから、火災の早期発見、早期消火を容易に期待し難い客観的状況にあったことは明らかで(現に、関係証拠によれば、火災の最初の発見時刻は当日午後六時五五分であって、消防車が現場に到着した際には既に隣家の前記倉持方に延焼していたことが認められる)、被告人の右弁解は到底信用できないものといわねばならない。
してみれば、当時被告人において右事務所建物を非現住建物と誤信していた事実があったとしても、前述のように民家の類焼を認識していた点において現住建造物放火の罪責を負わねばならないことはいうまでもなく、原判決は、右の趣旨において被告人に対し現住建造物放火の罪責を問うているものであることは、原判示第一の事実の結語の部分に刑法一〇八条該当の構成要件事実中放火の対象として「もって、右佐部らが現に住居に使用している……家屋の…一部」を焼燬したとの記載があるのに対し、原判示第二の事実の結語の部分に前同の放火の対象として列記の「もって、」以下の「同事務所建物」に現住、非現住についての記載がなく、続いて、「ほか近隣の人の居住する建造物三五棟、人の現住しない建造物五棟」を焼燬したと記載されていることからも十分読みとることができるというべきであり、したがって原判決には所論の事実誤認ないし法令の解釈、適用を誤ったかしは認められず、論旨は理由がないことに帰する。
(木梨 奥村 佐野)