大判例

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東京高等裁判所 昭和51年(ネ)2564号 判決 1979年6月21日

控訴人

甲野一郎

右訴訟代理人

杉本昌純

被控訴人

甲野花子

右訴訟代理人

笠原郁子

主文

原判決を取消す。

控訴人と被控訴人とを離婚する。

控訴人、被控訴人間の子甲野修(昭和三五年一二月三〇日生)の親権者を被控訴人と指定する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一<証拠>によると、控訴人と被控訴人とは昭和三三年一一月二一日に婚姻の届出をなした夫婦であることが認められる。

二以下、控訴人と被控訴人との婚姻が回復困難な程に破綻しているかどうかについて検討する。

<証拠>によると、

1  被控訴人(昭和九年一月六日生、現在四五歳)は昭和三一年三月、桐朋音楽短期大学教育養成部を卒業後、東京大学消費生活協同組合に勤務していたが、同年秋頃、東京大学文学部独文学科に在学中であつた年下の控訴人(昭和一〇年六月一九日生、現在四三歳)と知合つて交際するようになり、昭和三二年一一月、婚約したこと、

2  控訴人は昭和三三年三月、東京大学を卒業し、同年四月、優秀な成績で朝日新聞社に入社し、札幌支局に勤務するようになつたが、もともと卑俗なものを嫌悪し、高い水準の知的生活を希望し、平凡な家庭生活には魅力を感じていなかつたものであつて、この控訴人とは全く対照的に、知的なものに対するあこがれ、欲求の度合いが低く、平凡、平和な家庭生活に満足する傾向にあつた被控訴人とはその生活観、人生観上隔絶があり、結婚前の交際を通じて漠然とながらこれを察知して被控訴人との結婚に不安、躊躇を感じた控訴人は同月六月、手紙で婚約解消を被控訴人に申入れたところ、被控訴人は控訴人の尊敬する恩師西村秀夫のすすめもあつて札幌に赴き、控訴人に会つて再考を懇願し、控訴人は憔悴した被控訴人の様子に心を動かされて、翻意したという経緯もあつたが、結局両者は同年一〇月一九日、前記西村秀夫の媒酌で結婚式を挙げ、札幌で結婚生活を営むようになり、同年一一月二一日、婚姻届出をなし、夫婦の間に昭和三五年一二月三〇日、長男修が生れたこと、

3  昭和三三年一〇月末札幌における結婚生活がはじまつてから一週間後、結婚の挨拶廻りに被控訴人が着ていくコートのことで控訴人と被控訴人の意見が対立し、口論になつたとき、突然、被控訴人は顔を紅潮させて失神し、その状態が約一時間続くという発作を起した。同年一二月八日、控訴人は被控訴人を北海道大学医学部附属病院精神科神経科で受診させたところ、同科諏訪望教授から右発作はヒステリーに基づくものとの診断を受けた。その後も昭和三六年春、横浜に転住するまでの間、被控訴人は控訴人との口論などの際、約八回、前同様の失神状態(失神時間は短い時で数時間、長い間で一〇数時間。)に陥り、また一回は体が動かないと訴えて数日間も床に就き、前記大学病院神経科の他の医師の往診を受けたほか、更にもう一回諏訪教授の診察を受けたこと、

4  昭和三三年一〇月から昭和三六年春までの札幌在在中、控訴人の勤務は極めて多忙で、被控訴人と夕食を共にすることは月に一回位しかなく、前記のように平凡な家庭生活に反撥を感じる控訴人は神経質かつ気難しい夫として振舞うことが多かつたので、被控訴人は知人の少ない土地で孤独の日々を送り、特に昭和三五年一二月三〇日、長男修を生んでからは修の養育に熱中し、このような被控訴人の家庭的な生活態度は控訴人のひんしゆくを買い、控訴人がこのことを批判して被控訴人と口論したり、また被控訴人との結婚に失望したような口ぶりで別居や離婚をほのめかすと、被控訴人は前記認定のようにヒステリー性発作を起すほか、致死量には至らないが比較的多量の睡眠薬をのむという事件も一回あつたので、控訴人は次第に被控訴人との実のある対話を避けるようになり、それとともに、育児その他の家事についてはともかく、控訴人が希望するような古典音楽の鑑賞や読書に余り興味を示さず、双方の教養を高めるような会話の相手となりえず、家事に専念するばかりで、結婚前に危懼したような生活観、人生観上の隔絶がますます明らかになつていく被控訴人に対する控訴人の不満は増大し、このような傾向は昭和三六年春の控訴人の転勤により札幌から横浜に転居したのちも続いたこと、

5  横浜転居後も被控訴人は控訴人との口論時に前同様のヒステリー性発作で失神することが数回あり、また控訴人の目には狂言自殺未遂と映るような行動も一回あり、控訴人が昭和三八年四月、東京本社に勤務するようになつた頃には、控訴人からみて低級と思われる趣味に甘んじ、内容のある会話の相手とはなりえず、深刻な話になると発作を起しがちで、不愉快なときに控訴人に当るかわりに修につらく当ることもあつた被控訴人との結婚生活に絶望し、これと離婚することを決意し、同年六月頃、遊びに行くように言つて被控訴人と修を被控訴人の実家に帰したのち、手紙で別れざるをえない旨被控訴人に通告したので、驚いた被控訴人が帰宅したところ、控訴人は二人の荷物をより分けている有様であり、被控訴人も冷却期間をおくためには暫定的別居もやむをえないと一旦は考え、同年七月一日、修を連れてその実家に帰つたものの、矢張り別居はよくないと考えなおし、同年同月一四日、その母に連れられて修ともども再び控訴人の許に帰つたが、控訴人に追い返され、同年秋には被控訴人は家具、家庭用品の一部を引取り、以来現在まで別居状態が続いていること、

6  昭和三九年四月、控訴人は被控訴人に対し離婚調停(第一回)を申立て、三年有余にわたつて調停が行われたが、控訴人が前記のような生活観、人生観上の隔絶、いわゆる性格の不一致を理由に離婚を強く求めたのに対し、被控訴人は控訴人に対する愛情を披瀝して離婚に応じなかつたため、昭和四二年九月、調停は不調に終つた。これによつて最終的には被控訴人は離婚に応ずるであろう、との予想が裏切られ、また勤務先(朝日新聞社東京本社)にまで被控訴人が電話をかけてくることさえ嫌つていた控訴人は同年同月末頃、朝日新聞社を退職し、終生帰国しない決心で出国し、昭和四五年一一月、右決心をひるがえして帰国するまでの間、主として西ドイツ方面で海外生活を送つたこと、

7  帰国後、控訴人は昭和四七年秋から昭和四八年二月頃までの間、神経症におかされ、慶応義塾大学病院に通院治療を受けたが、その間も弁護士に委任して被控訴人と離婚交渉を続け、昭和四八年、二回目の離婚調停を申立てたが、間もなく不調になり、本件離婚訴訟を提起したこと(なお訴訟提起の日が昭和四八年一一月七日であることは記録上明らかである。)、

8  現在、被控訴人は、控訴人を今でも愛している、ということを主たる理由として離婚を拒否しているが、控訴人は前記昭和三八年四月、離婚を決意して以来、その決意をかえず、控訴人からみて理解し難い、愛情云々、の理由で長い間離婚に応じない被控訴人に対し、愛情を抱くどころか、憎しみに近い感情を抱いている旨告白していること、

9  控訴人と被控訴人間においては東京家庭裁判所において昭和三八年一二月二〇日、婚姻費用分担についての調停が成立し、以来控訴人は毎月一万五〇〇〇円の分担金を被控訴人に送金していたが、前記国外脱出時は全く送金せず、帰国後しばらくしてから毎月二万円づつ送金するようになり、昭和五一年七月以降は送金月額を四万円に増額し、修の高校進学に際しては特別に三〇万円を送金し、修は前記別居以来被控訴人(現在、その兄名義の建物を間貸して、毎月四万円前後の収入をえている。)と同居しており、控訴人は修を引取ることおよびその親権者となることは希望していないが、その成長に応じてできるだけの経済的、精神的援助をなすことを決意し表明していること、

が認められ、原審および当審における被控訴人本人尋問の結果中右認定に反する部分は前掲証拠に照らすと採用し難く、ほかに右認定を覆すに足りる証拠はない。

そして右認定事実を総合すると、たとえ被控訴人が真実控訴人に対する愛情を失つていないとしても、控訴人と被控訴人間の婚姻は、控訴人が本件離婚訴訟を提起した昭和四八年一一月七日当時においてすでに、それが正常なものに回復することを期待することが困難な程形骸化し、完全に破綻しているといわざるをえない。

三ところで被控訴人は、かりに婚姻が破綻しているとしてもそれは専らまたは主として控訴人の有責行為に基づくものである、と主張するから以下、この点について検討する。

(一)  被控訴人は、控訴人には不貞がある、と主張し、<証拠>中には右主張に副う部分があるが、同部分はいずれも原審における控訴人本人尋問の結果に照らすと採用し難く、ほかに右主張事実を認めるに足りる証拠はない(なお当審における控訴人本人尋問の結果によると、控訴人は被控訴人との婚姻が完全に同復困難な程破綻したのちである昭和五〇年、関西において某女性と知合い、昭和五二年一月以降、これと夫婦同様の生活を営んでいることが認められるが、婚姻破綻後の右事実をもつて控訴人を破綻についての有責配偶者と目しえないことはいうまでもない。(最高裁判所昭和四六年五月二一日小法廷判決民集二五巻三号四〇八頁参照))。

(二)  ほかに婚姻破綻の唯一または主たる原因となるような控訴人の重大な有責行為を認めるに足りる証拠はない。

1  すなわち原審における控訴人(第一回)、被控訴人各本人尋問の結果によれば、控訴人は心優しく、人情深い面をもつと同時に、気位高く、神経質で気難しく、好き嫌いの激しい人物であることが認められるから、札幌、横浜両在住時代を通じて、控訴人同様神経質であり(このことは前記認定のように前後一〇数回に亘つてヒステリー性発作を起した事実から推測される。)、また多少控訴人に対し劣等感を抱いていたと思われるふしがある(このことは前記認定の両者の年令、学歴、生活観の相違から推測される。)被控訴人が、控訴人との共同生活において相当の緊張を余儀なくされ、また心労を重ねたであろうことは容易に想像され(原審における被控訴人本人尋問の結果中にはこれら心労を種々訴える部分がある。)、これら緊張、心労が被控訴人のヒステリー性発作の誘因となり、ひいては夫婦間の対話の欠如の遠因となつたことは否定し難いから、因果を遡れば、控訴人の前記人格的傾向、性格を指して婚姻破綻の一原因といえなくもない。

しかしもともと破綻した夫婦の一方が持つある種の人格的傾向、性格が破綻原因になつたとしても、そのような性格などの保有それ自体を指して有責行為ということはできないから、控訴人が前記のような性格などの持ち主であることそれ自体だけをここで問題とすることは妥当ではない。

2  尤も、夫婦は協力して円満な結婚生活を営むための努力をなすべきであり、そのような結婚生活の実現を阻害するよう性格できるだけ自ら抑制すべきであるところ、<証拠>によると、控訴人は被控訴人との共同生活中むしろ自己中心的で、前記自己の性格を抑制して被控訴人に協調しようと左程努めていなかつたことが認められ、このような控訴人の生活態度が婚姻関係破綻の一原因となつたこと、またこの点については控訴人に責任があることも否定し難い。

しかし他方、知的水準の高い生活を望む男性を夫にもつた妻は(このような夫の希望自体は勿論不当なものではないから)自己の知性を高めるためできるだけの努力をなすのが夫婦の相互協力義務に合致するところであるが、<証拠>によると、被控訴人は控訴人との共同生活中左程このような努力をしていないことが認められ、この被控訴人の生活態度とあわせ考えると前記控訴人の生活態度を婚姻関係破綻の主な原因とみることはできない。

3  また被控訴人が札幌、横浜における控訴人との共同生活中、前後一〇数回に亘つてヒステリー性発作を起したことは前記認定のとおりであり、<証拠>によると、右発作による失神状態は被控訴人の元来の性格傾向と環境要因を総合し心因性に発呈した反応と判断されるものであつたこと、被控訴人は結婚前および控訴人との別居後にはその種の発作を起していないことが認められるから、被控訴人の発作が控訴人との共同生活に関連することは否定し難い。

しかしその第一回の発作が前記認定のように札幌における控訴人との共同生活がはじまつたわずか一週間後に発生したことからすると、発作における環境要因を過大視することは危険であり、かえつて前記認定のように被控訴人が狂言自殺未遂、あるいはこれに類する行為を二回行つていることからすると、発作について被控訴人の性格傾向が可成りの要因となつているようにも思われるから、かりに右環境要因形成につき控訴人に相当の責任があつたとしても、破綻原因中そのことの占める比重は、前記控訴人の生活態度と総合しても、破綻の主たる原因といえる程は大きくないというべきである。

4  結局、これまで認定の事実を総合すると破綻原因の最大のものは前記控訴人と被控訴人の生活観、人生観上の隔絶(いわゆる性格の不一致)であつたとしかいうよりほかはなく、両者の生活観、人生観はそれぞれその本人にとつては価値あるものであるから、右のような隔絶の存在をもつて被控訴人は勿論、控訴人を非難することはできない。

四このように見ると被控訴人の控訴人が有責配偶者であるとする主張は失当であつてこれを採用することはできないものであり、そうとすれば民法七七〇条一項五号に基づく控訴人の本訴離婚の請求は理由があることになるから、これを棄却した原判決は失当であり、本件控訴は理由がある。なお、本理由二の9における認定事実を総合すると、控訴人と被控訴人間の未成年の子修の親権者は被控訴人と指定するのが相当である。

よつて原判決を取消し、控訴人の本訴離婚の請求を認容し、修の親権者を被控訴人と指定することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(吉岡進 手代木進 上杉晴一郎)

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