東京高等裁判所 昭和52年(う)2776号 判決 1978年4月12日
被告人 高橋玄治
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人小原美直が提出した控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。
控訴趣意第一点(事実誤認)について
所論は、要するに、自動車運転者には、車両の発進、後退に際し、自車の周囲の状況を検分して周囲の人や物に対する安全を確認し、これらに自車を接触させないように留意して運転すべきであるという安全確認を内容とする一般的注意義務があることは否定することができないけれども、個々の事態について注意義務の内容を確定するについては、危険発生についての一般的予見可能性が考慮されなくてはならず、客観的に結果発生を予見できる可能性が低いときは、注意義務の内容もそれに応じて縮小され、そのような場合自動車運転者は、運転開始前に下車して周囲を確認するとか、運転席から伸び上つたり、窓から首を出して周囲を確認するなどの措置までとることは必要でなくなり、通常要求される程度の安全確認義務を尽せば足りると解すべきである。そしてこれを本件についてみるに、本件事故が発生した道路は、人や車が殆ど通行しない交通閑静な幅員約三・二メートルの狭い道路であり、その北側の空地では、工事車両が出入りして盛土工事をしていたのであるから、このような場所を通行しようとする者は、工事現場に出入りする車両の動静を十分注意し、車両などからできる限り離れて通行することが要求されていると解すべきであり、そのような場合工事関係の車両の運転者が、車両を発進させるにあたつては、当該車両の直前、直後に特殊な事情のない限り、フロントガラスから前方を、ミラーにより側方、後方を確認して始動すれば足りると解すべきところ、被告人は、道路を遮断する状態で停車しいてた自車を前方に発進するにあたり、運転席から前方を注視し、左右のサイドミラー、左のアンダーミラーを確認し、クラクシヨンを吹鳴してから発進しているのであつて、その際被告人において本件のような工事現場に停車中の自己の車両の直前の死角内を自転車に跨つたままの危険な姿勢で通行しようとする者があることを予測しえたとする特段の状況は見当らず、したがつて被告人には死角内の被害者らの発見および結果の発生についての予見可能性がなかつたと評価すべきであるから、被告人が本件において、自車を発進させるに際してとつた前記行為は相当であり、かつこれで十分であつて、被告人には何ら過失はないというべきであるのに、被告人に対し、サイドミラー、アンダーミラーからは見ることのできない死角の範囲の安全を確認してから自車を発進すべき業務上の注意義務があるものとし、被告人には右の注意義務を尽さなかつた過失があると認定した原判決には、重大な事実の誤認があり、それが判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
そこで記録を調査して検討するに、原判決挙示の関係証拠を総合すれば、被告人は、昭和五一年一一月二九日の朝から、他の場所で自車ダンプカーに積載した土砂を原判示の幅員約三・二メートルの交通閑散な道路まで運搬し、これを右道路北側の空地に降ろす作業を繰り返していたが、同日午前一〇時四〇分ころも自車に土砂を積載して原判示道路に到着し、土砂を降ろすため、それまでと同じように、自車を車体が道路とほぼ直角となるように右空地に向けて後退させ、その結果車体は道路をほぼ遮断する状態となつたが、右空地内で作業員の内山明がシヤベルローダーで整地作業をしていたため、土砂を降ろすまでの待ち時間があつたので、自車のエンジンを切り、その場に停車させ自分は運転席から降りずにそのまま待機し、約五分ぐらいしてから、内山から「いいよ」と合図があつたので、土砂降ろし作業を開始しようとしたが、自車の後退の方向を直すため、いつたん自車を若干前進させようと考え、顔を前方に向けたまま通常の運転動作でエンジンを作動させ、その際左右のサイドミラー、左アンダーミラーに人影がなかつたので、それだけで危険はないものと判断し、すぐ自車を時速約五キロメートルで前方に発進させた(運転動作開始から発進まで約四秒ぐらいと認められる)ところ、左方道路より、自転車の後部荷台に子供(辻香江当時三年八月)を乗せて走行してきた辻秀子が、道路を遮断していた被告人車の前方部分(砂利敷きの駐車場となつている部分)を迂回して通り過ぎようとして右被告人車の約六メートル手前でいつたん自転車をとめ、自転車を跨いで歩きながら被告人車左前部真近まで接近してきたのを発見することができず、同女および自転車に自車の左前部を衝突させて路上に転倒させ、その際香江も転倒させ、その頭部を自車左前輪で轢過し、同女を頭部挫砕により即死させた事実が認められ、右によれば、被告人は自車を発進させようとした際、左右のバツクミラー、左アンダーミラーを通しては被害者らを発見することができなかつたこと、即ち被害者らは車両発進時運転席から死角となる位置にいた疑いを否定することができないけれども、本件のようにダンプカーが幅員約三・二メートルしかない狭い道路を遮断する形で停車している場合、道路を通行しようとする者は、右車両の前か後ろを通り抜ける方法をとることが予測されるところ、本件においては被告人車の後方は整地工事中であるのに反し、前方は砂利敷きの駐車場となつていて通行人が迂回し易い状況となつており、さらに前記各証拠によれば、被告人はいつたん自車を停止させた後、前記内山明から作業開始の合図があるまでの約五分くらいの間はもつぱら内山の作業を見続け、道路左方からの車両や通行人の有無には全く注意を払つていなかつたこと、停車中の被告人車は地形の関係で、後部より前部運転席部分がやや高くなつており、運転席から視認不能な左側死角部分は通常の状態で停車しているときより相当広くなつていたこと、当日作業現場には被告人車を含む作業車両を誘導する者は配置されておらず、被告人は他の助力なしにひとりで車両を右空地に入れるなどの運転操作をしていたことが認められ、右のような諸事情が認められる本件において、被告人が車両を発進させる場合には、それに先立つて自車の死角内の通行人などの有無を確認すべき注意義務、特に車両を始動させる前に被告人自ら運転席から身を乗り出すなどして車両の左前方や左側の死角部分を直接見たり、あるいは発進合図のクラクシヨンを吹鳴した後しばらくの間発進を差し控える(もし死角内に通行人などがおれば、同人はクラクシヨンの音を聞いて直ちにその場から退避すると考えられる)などの方法により、死角内の人や自転車などの有無を確認し、ないしは死角内にいる者を安全な場所まで退避させる措置をとつて、自車と通行人との接触・衝突事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があると解するのが相当である。したがつて被告人が本件車両を発進させるに際し、運転席にすわつたままの状態で車両前部のバツクミラー、アンダーミラーによつて通行人などの有無を確認しさえすれば、それだけで運転者としての注意義務を尽したものであるとし、被告人には被害者の存在および結果の発生につき予見可能性はなかつたとする所論はとうてい採用することができない。被告人の原審公判廷における供述中右認定に反する部分は採用することができず、その他記録を精査しても右認定を左右するに足りる証拠は存在しない。
以上の次第であるから、被告人が前記注意義務に違反しサイドミラー、アンダーミラーを一瞥しただけで通行人などはいないものと速断し、死角内の安全を確認しないで自車を発進させた過失により、本件事故を惹起した旨認定して被告人を処断した原判決には所論の事実誤認の違法はないと認められる。論旨は理由がない。
控訴趣意第二点(量刑不当)について
所論に鑑み、記録を調査し、当審における事実取調の結果をも加えて検討するに、本件は、前記のようにダンプカーに積んだ砂利を道路脇空地に降ろそうとした被告人が、自車の後退の方向を直すため、いつたん自車を若干前進させようとした際、交通が閑散であつたことに気を許し、自車の左前方および左側方の死角の範囲がかなりあつたのに、左右のサイドミラーと左側アンダーミラーを一瞥しただけで、通行者はいないものと速断し、死角の範囲の安全を確認しないで、エンジンを始動させ時速約五キロメートルで自車を発進させた過失により、折から左方道路から自転車を跨いで歩きながら自車左前部真近まで迂回通行してきた辻秀子(当時二七年)に気付かず、自車左前部を同女と右自転車に衝突させ、同女および自転車の後部荷台に乗つていた辻香江(当時三年八か月)を路上に転倒させ、香江の頭部を自車左前輪で轢過し、よつて同児を頭部挫砕により即死させたという事案であつて、一瞬の不注意とはいえ、過失の程度は軽くなく、被害者の側にはとりたてて責めるべき重大過失に見当らず、本件により悲惨な最後を遂げた幼女の母親ら遺族の蒙つた精神的打撃も重大であること等の諸点を考えると、被告人の刑事責任は軽視しえないものがあるから、被告人は被害者の遺族に対し、保険金(一、二〇九万円余)のほか、自己の負担で一〇〇万円を支払つて示談を成立させていること、被告人は、古く業務上過失傷害の罪で二度罰金刑に処せられたことがあるけれども、最近では道路交通法違反の罪で二度罰金刑に処せられたほかには、前科も特段の前歴もないこと、その他被告人の家庭の状況、反省悔悟の情等所論指摘の諸事情を、被告人のためにできる限り有利に斟酌しても、本件が執行猶予相当の事案であるとはとうてい認められないことはもとより、被告人を禁錮八月に処した原判決の量刑も相当であつて、これが重過ぎて不当であるとはいえない。論旨は理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 小松正富 千葉和郎 鈴木勝利)