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東京高等裁判所 昭和52年(く)79号 決定 1977年5月09日

抗告人 検察官

被告人 平川隆而

主文

原決定を取り消す。

本件を横浜地方裁判所に差し戻す。

理由

本件抗告の趣意は横浜地方検察庁川崎支部検察官検事亀田敦夫作成名義の即時抗告申立書および同補充書に記載されたとおりであるから、これらをここに引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。

一、本件抗告申立の理由1は、原決定は、本件公訴事実が真実であつても、なんらの罪となるべき事実を包含していないとして、刑事訴訟法三三九条一項二号にのつとり、公訴棄却の決定をしたが、右決定には、刑事訴訟法三三九条一項二号の解釈適用を誤つた違法があるというのである。

二、よつて、記録を調査して検討すると、本件の抗告に至る経緯は、次のとおりである。

(一)、検察官は、被告人は、油送船明原丸に三等機関士として乗り組み、燃料油の補給につき受入作業の現場指揮監督等の任務に従事し、補油作業中の油の流出防止に遺漏のないよう慎重を期さなければならない義務を有していたものであるところ、昭和四六年一二月一日京浜港川崎区の港域外で右明原丸の燃料油の補給作業中、燃料油タンクの油面確認の措置を怠り、かつアレーヂ(油面からタンク頂部までの高さ)の計測を誤まつた等の過失により、燃料油少なくとも約二・五キロリットル以上を海面に流出させ、もつて本邦の海岸の基線から五十浬以内の海域において油を排出したものであつて、被告人の右所為は船舶の油による海水の汚濁の防止に関する法律(以下本法と略称する。)五条一項、三六条にあたるものとして、昭和四七年八月三一日横浜地方裁判所川崎支部へ公訴を提起した。

(二)、本法五条一項は、「船舶(次条に規定するものを除く。)は、次の海域においては油を排出してはならない。」旨定め(同項一号、二号は省略。)、また、本法三六条は、「第五条第一項又は第六条第一項の規定の違反となるような行為をした者は、三月以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。」旨定めている。

(三)、同裁判所の第二回公判期日において、弁護人は、本件公訴事実が罪とならないものとして公訴棄却の申立をしたけれども、同裁判所は、右申立に対する判断を留保して、実体審理に入り、昭和五一年二月二〇日の第一七回公判期日に至るまで事実審理を重ねたが、その後同裁判所の構成が変るとともに、公判廷外において、職権により、道路交通法の立案に当つた公務員を、また、検察官の請求により、本法の立案に当つた公務員をそれぞれ証人として取り調べたうえ、口頭弁論を経ることなく、刑事訴訟法三三九条一項二号にのつとり、決定をもつて本件公訴を棄却した。

三、ところで、刑事訴訟法三三九条一項二号は、「起訴状に起載された事実が真実であつても、何らの罪となるべき事実を包含していないとき」には、「決定で公訴を棄却しなければならない。」と規定しているが、同号は、起訴状記載の事実自体から判断して、その事実が罪とならないことが、口頭弁論を経ることも要しないほど明白な場合を定めているのであつて、その事実が犯罪を構成するか否かについて、下級審の裁判例が対立し、上告審の判例もなく、検察官と弁護人の意見が対立しているような場合にあつては、同号にのつとつて公訴を棄却すべきではないと考える(東京高等裁判所昭和四〇年五月二八日判決、高刑集一八巻四号二七三頁参照。)。

四、そこで、本法三六条、五条一項が過失犯を処罰しない趣旨であることが口頭弁論を経ることを要しないほど明白であるか否かについて考察すると、

(一)、この問題については、未だ上告審の判例はなく、過失犯をも処罰しうるとする判例としては、福岡高等裁判所宮崎支部昭和四七年三月三〇日判決(刑裁月報四巻三号四七八頁)があるほか、裁判例として相当数の簡易裁判所における略式命令があるのに対して、過失犯を処罰しえないとする裁判例としては、右福岡高等裁判所宮崎支部判決の原審である鹿児島簡易裁判所昭和四六年一〇月二一日判決しか見当らないこと、

(二)、本法は、海洋国家であるわが国が「千九百五十四年の油による海水の汚濁の防止のための国際条約」(以下本条約と略称する。)を批准するに際し、わが国内法を本条約に適合させるべく、本条約の公布に約二月余先立つて制定されたものであるが、本条約一条一項の定義規定によると、「排出とは、油又は油性混合物についていうときは、原因のいかんを問わず、すべての排棄又は流出をいう。」と定められているところ、原審証人水田嘉憲の尋問調書によれば、本条約所管の運輸省はじめ内閣の立法関係者は、右の「流出」とは過失による場合を含むものと解釈していることが認められ、また、本法案を審議した第五十五国会の衆議院産業公害特別委員会においても、河上民雄委員と大橋国務大臣との間で、右「流出」には過失による場合を含むことを前提として質疑応答がなされていること(右会議録第七号参照)、日本国憲法にあらわれた国際法規遵守の立場からいえば、国内法はできる限り条約と矛盾しないように制定され、解釈適用されることが望ましいところ、本件には「排出」についての定義規定はないけれども、本法にいう「排出」には、本条約にいう「排棄」と「流出」を含み、従つて過失による油の流出をも含むことにつき、本法立案当時内閣の見解は固まつており、国会においても、大橋国務大臣は前記委員会で右見解に基づき答弁をしていること(右会議録参照)、

(三)、本法制定の目的は、本法一条によれば、「船舶の油による海水の汚濁を防止すること」にあるが、その目的を達成するためには、船舶よりの過失による油の流出をも処罰しなければならないとの見解にも首肯しうる余地があること、過失による油の流出をも処罰の対象とすることの必要性は、本法を廃止して新たに制定された海洋汚染防止法の罰則に過失犯処罰規定が設けられたことからもうかがい知ることができること、等の事実が認められ、これらの事実に徴すれば、本法三六条、五条一項が過失犯をも処罰しうるとする立場が一顧にも値しないほど不合理なものとはいえないように思われる。

してみれば、原決定が指摘する諸点、ことに道路交通法においては過失犯を処罰する場合に明文を設けていること、本条約で用いられた「流出」という用語と全く同じ「流出」という用語が刑法一一八条にも用いられているが、同条にいう流出には過失による場合は含まれないこと、一般に刑罰法規の解釈は厳格にしなければならないことなどを考慮に入れても、本法が過失犯を処罰しないこと、ひいて本件公訴事実が罪とならないことが、口頭弁論を経るを要しないほど至極明白であるとはいえない。

従つて、本件公訴事実が、なんらの罪となるべき事実を包含しないものとして、刑事訴訟法三三九条一項二号にのつとり本件公訴を棄却した原決定には、右法条の解釈適用を誤つた違法があり、その余の抗告理由につき判断を加えるまでもなく、取消を免れない。

よつて、本件抗告は理由があるから、刑事訴訟法四二六条二項にのつとり、原決定を取り消し、本件はなお審理をする必要があると認められるから、本件を原裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 綿引紳郎 裁判官 石橋浩二 裁判官 藤野豊)

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