東京高等裁判所 昭和52年(ネ)1333号 判決 1981年1月19日
控訴人
渡辺惇子
右訴訟代理人
日野久三郎
寺崎政男
被控訴人
塩口雄三
右訴訟代理人
龍前弘夫
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は本訴につき「原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。被控訴人の各主位的請求及び予備的請求をいずれも棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を、反訴につき「原判決を取り消す。(当審において請求の趣旨を減縮して)被控訴人は控訴人に対して金九一八万円を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述、証拠の提出、認否及び援用は、左に附加するほか、原判決事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。
(控訴代理人の陳述)
1 控訴人は、原審において、本件火災当時訴外東美知代が控訴人の被用者であるとの被控訴人の主張事実に対し、右主張事実を認めて争わないとしたのであるが、右自白は真実に反し、かつ、錯誤に基づいてされたものであるから、これを撤回する。
訴外東美知代は、控訴人から昭和四七年一〇月ころ店舗「ラークウェール」の経営を委託された訴外国分千代子が自己の責任において使用していた店員であり、控訴人とはなんの関係もない第三者で面識さえないものである。なお右委託経営は本件賃貸部分の転貸関係を伴うものではない。
2 本件火災につき被控訴人に過失がある。
(一) 料理のために火気を用いるスナックなどの軽飲食店の用に供するには、調理場の周壁及び天井にステンレス又は鉄板等の不燃建材を張り、かつ、鉄板の天蓋ないしフードを設備して、キッチンのガス器具から火が天井などに容易に燃え移ることのないようにして賃貸すべきであるにもかかわらず、被控訴人はこのような安全設備をしないで、控訴人に本件賃貸部分でスナックなどの営業をさせたのであるが、もし安全設備に欠けるところなかりせば本件被害は生じなかつた筈であり、この点で賃貸人たる被控訴人自身に過失がある。
(二) 訴外東美知代が本件火災の発生とともに逸早く二階にいた被控訴人に告げたのであるから、被控訴人としてはただちに消火に尽力し、そこにあつた消火器を用いて消火に努めるべきであるにもかかわらず、これに対しなんらなすところがなかつた。この点においても貸主として被控訴人に過失があるというべきである。
(三) 右(一)及び(二)の過失は、本件において、損害賠償の責任並びに額につき斟酌すべきは勿論、控訴人がいわゆる信頼関係に背いたとして被控訴人が直ちに本件賃貸借契約を解除することは、かえつて公平の原則、信義則に反するものであつて、解除はその効力を生じないというべきである。
3 控訴人の本件賃借権は、いわゆる譲渡権利であつて、その場所的権利は訴外西木照子、児玉誉士夫を経て控訴人が承継した盛り場固有の特種な権利で約三〇〇〇万円の価値を有するものであるから、仮に本件賃貸借契約の解除が有効であるとすれば、被控訴人はその解除により三〇〇〇万円の価値を有する控訴人固有の右特種権利を利得することとなる。あるいは、被控訴人の本件契約解除の真の狙いは、この種特種権利を無償で取得せんがためかと忖度されるほどであるが、この権利は解除により当然消滅せずして不当利得の対象たるべき利益であるから、被控訴人は本件解除によるこの不当利益を控訴人に返還すべき義務がある。そこで
(一) 右の不当利得返還請求権を本件賃貸部分に関し生じた債権として、その返還を受けるまで、控訴人は本件賃貸部分を留置する。
(二) 右不当利得の返還と本件賃貸部分の明渡とは同時履行の関係にあるから、控訴人は右の利得返還の給付と引き換えに本件賃貸部分の明渡に応ずれば足りる。
(被控訴代理人の陳述)
1 控訴人の自白の撤回には同意しない。
2 賃貸借契約の解除の原因について
(予備的主張)
控訴人は昭和四七年一〇月ころ被控訴人に無断で本件賃貸部分を訴外国分千代子に転貸した。そこで被控訴人は昭和五四年一二月三日午前一〇時の本件口頭弁論期日において右無断転貸を理由に本件賃貸借契約を解除した。
3 控訴人の主張事実(前記3、(一)及び(二))はすべて争う。
(証拠関係)<省略>
理由
原判決がその理由において説示するとおり、被控訴人の控訴人に対する本訴請求は、それぞれ原判決が認容した限度において正当として認容し、その余はいずれも失当として棄却すべきものであり、また控訴人の被控訴人に対する反訴請求は失当として棄却すべきものである。そこで、次のとおり附加するほか、原判決理由説示をここに引用する。
一控訴人の自白の撤回の陳述にかかわる訴訟経過は一件記録により以下のとおり認められる。
控訴代理人宗宮信次は、原審における本件損害賠償についての本訴請求事件の第一回口頭弁論期日(昭和五一年四月一六日午前一〇時)において、被控訴代理人龍前弘夫の訴状陳述に次いで答弁書を陳述し、これによつて、本件火災が控訴人の経営する飲食店「ラークウェール」の店員でその被用者である訴外東美知代の過失に因るものであるという被控訴人の主張事実に対し、右主張事実を認めて自白をしたが、原審における本件建物引渡請求と右の本訴請求との併合事件の第一一回口頭弁論期日(昭和五一年七月二〇日午後三時 控訴代理人寺崎政男も出頭)において、同日付準備書面を陳述し、その陳述にかかる記載事項中「控訴人の夫である訴外渡辺福三郎が飲食店「ラークウェール」の事実上の経営主体として自己の判断により訴外東美知代を選任雇用し、監督していたのであつて、控訴人が右東を被用者として雇つたことがなく、使用したこともないのであるから、控訴人には使用者としての責任はない」旨の部分によつて前自白に反する主張事実を述べた。しかし次の第一二回口頭弁論期日(昭和五二年二月二日午後三時 右寺崎代理人も出頭)において、さらに反転して昭和五一年七月二〇日付準備書面の右記載事項部分を訂正し、「控訴人が訴外東美知代を雇用していた事実は認める」と陳述して、前自白をあらためて確認した。そこで、本件火災当時控訴人と訴外東美知代とがそれぞれ使用者と被用者との関係にあつたことは、当審における後記口頭弁論期日にいたるまで、当事者間に争いのない事実すなわち証拠による証明を要しないものとして当事者双方の訴訟追行を推移させ、その間当審における証拠調期日の昭和五三年四月一二日午後二時三〇分及び同年五月一七日午前一一時においてそれぞれ訴外東美知代及び国分千代子の証人尋問がおこなわれ、当然のことながら、右自白事実が争点にならないままでこれらの証人尋問が終了された。ところが当審第一〇回口頭弁論期日(昭和五三年一二月一三日午後一時三〇分)において、同控訴代理人らは、同年七月一九日付及び一二月一二日付各準備書面に基づき「控訴人が昭和四七年一〇月ころ本件飲食店「ラークウェール」の経営を訴外国分千代子に委託し、同人が自己の責任において訴外東美知代を補助者として採用したのであるから、右東の選任監督は右国分に属し、したがつて本件失火者東美知代は控訴人の被用者でもなく、その債務の履行補助者でもない」旨陳述して、従前の主張を再反転させ、自白に反する新たな主張事実を展開するとともに、前自白が真実に反し、かつ、錯誤に基づいてされたものであるとして、その撤回を申し出るにいたつた。右自白撤回の申出に対し、被控訴代理人はただちに異論を述べた。
本件火災当時控訴人と訴外東美知代とはそれぞれ使用者と被用者との関係にあつたとする被控訴人の主張事実に対し、控訴人においては、右主張事実を肯定する自白の陳述と、これを否定する反自白の陳述とが右にみたように二転、三転した経過を辿つているが、その経緯をさらに検討するに、<証拠>をあわせると、昭和五一年七月二〇日の原審第一一回口頭弁論期日になされた反自白の陳述において、控訴人宗宮、寺崎の両弁護士は、従前の主張を変えて、控訴人の夫である訴外渡辺福三郎が「ラークウェール」の事実上の経営者として訴外東美知代を選任雇用し、監督していた旨の新たな主張事実を述べてみたものの、同日におこなわれた渡辺福三郎の証人調べの結果、はやくも右新主張を維持しがたしとみてか、次の原審第一二回口頭弁論期日に右の反自白を撤回し、本件火災当時控訴人が訴外東美知代を雇用していた事実は認めると陳述して、従前の自白をあらためて確認したうえ、これを維持することとしたところ、当審における昭和五三年四月一二日及び同年五月一七日の各証拠調期日にそれぞれ証人東美知代及び国分千代子の証人尋問がおこなわれ、右両名の証言から、控訴人から「ラークウェール」の経営を一任された国分千代子が東美知代を雇い入れたとして、前認定のとおり、同年七月一九日付及び同年一二月一二日付各準備書面をもつて、同年一二月一三日の当審第一〇回口頭弁論期日にまたも新たな主張事実を展開して反自白の陳述をするにいたつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
控訴人の右自白は錯誤にもとづいてされたものであるというけれども、昭和五一年四月一六日の原審最初の口頭弁論期日における答弁書記載事項の当該自白部分についての錯誤はしばらく措くとしても、本件火災当時控訴人が訴外東美知代を雇用していたという単一かつ同一の事実に対する二度目の自白すなわち昭和五二年二月二日の原審第一二回口頭弁論期日において、わざわざ昭和五一年七月二〇日付準備書面記載の前記反自白部分を訂正して、控訴人が訴外東美知代を雇用していた事実は認めると陳述した自白(控訴人が撤回を求めているもの。以下「本件自白」という。)は、それまで控訴代理人らが同一事実につき自白、そして反自白の陳述を経たうえ、あらためて自白事実を確認するにいたつたものであるだけに、いうところの錯誤がいかなる事情によるものであるかについて、控訴人の主張立証を要するところ、右事情をうかがわせるものがさらにないから、本件自白は、前認定の紆余曲折した経緯にてらして、およそ自白の撤回の要件たる錯誤にもとづいてされたものではないというべきである。
しかも、本件自白の当然の結果として、本件火災当時控訴人が訴外東美知代を雇用していた事実については、証拠による証明を要しないのみならず、控訴人においても右事実に反する主張をすることができない筋合のものであるから、控訴人みずから主張するように、当審における証人国分千代子及び東美知代の両名の証言のなかに、本件自白を飜えすにいたらしめた縁由を求めうるとしても、右両名の証人の証拠調において、その要証事実並びに尋問事項として、本件自白にかかる事実が登場する余地はなく、また右証人の証言中のたまたまの供述部分で本件自白に牴触するものがあつたとしても、右証言部分につきあえて反対尋問を試みることもないというべきである。しかし、控訴人が主張するように、本件自白が事実に反することを証明するに足りる証拠方法として右国分及び東両名の証人を措いて他にないということになれば、すべてその証拠調べが右のような訴訟追行ぶりでしか実施されない以上、本件自白に牴触する証言部分につき反対尋問をする機会を与えられなかつた被控訴人がこうむる不利益は蔽うべくもない。そして、右両名の証人調べが終了したほか、本件訴訟の争点に関するかぎり、原審並びに当審における弁論及び証拠調の審理が実質的には全部終了(ただ本件においては名実ともに補充証拠にすぎない控訴人の本人尋問だけを残して)した期に及んで(このことは記録上明らかである。)、本件自白を撤回して、それまで当事者間争いがないことにしておいた「本件火災当時控訴人が訴外東美知代を雇用していた」事実自体をあらたに争点にしようとすることは、ただに本件審理を混乱遅延させるばかりでなく、相手方当事者たる被控訴人に対して著しく公明を欠き(フェアでない)、禁反言の理に悖る訴訟追行を強いるものといわなければならない。したがつて、控訴人の本件自白の撤回の申出は民訴法一三九条にいう時機に後れた攻撃防禦方法であるとみるのが相当である。
以上の理由により控訴人の本件自白の撤回は許されないものというべきである。
二控訴人は、被控訴人が控訴人に対して本件賃貸部分を賃貸するにあたつて、建物の内部の造作等につき防火上の安全設備を施すべき義務があつたと主張するけれども、<証拠>によると、本件賃貸部分の建物の内部の造作一切は、前借主児玉誉士夫から譲り受けたもので控訴人の所有にぞくし、かつ、造作の取付、その他模様替については、貸主の承諾を得ることなく借主みずから自由になしうるものと約定されていて、事実控訴人自身鉄板焼店、アクセサリー店、スナック店と次々に業種を変えて行くたびごとに本件賃貸部分をその業種向きの店舗に自ら内部造作や模様替をしていたことが認められるから、本件火災当時建物の内部造作等でスナック店向きの防火上の安全設備を欠いていたものがあつたとしても、特段の事情のないかぎり、その責を貸主たる被控訴人に帰すべきいわれはないというべきである。控訴人の右主張は理由がない。
また、<証拠>によると、被控訴人は、本件出火の端、スナック店員東美知代から「火事だ」と急を告げられて二階から階下に降り、出火の現場を見るや「消防署だ」といいざま二階に駆け上つたが、さらに応急消火に協力するところがまるでなかつたことが認められるが、右のような場合において、被控訴人は、貸主として、応急消火に努めるべき義務を借主に対して負うものであるとはいえないから、この点に関する控訴人の主張も採用しがたい。
三控訴人は、本件賃貸部分を目的とする賃借権は盛り場特有の譲渡権利として三〇〇〇万円の価値を有するものであるところ、本件賃貸借契約の解除によつて、控訴人固有の右譲渡権利を被控訴人において不当に利得することとなるから、被控訴人は控訴人に対して右不当利得を返還する義務があると主張する。
控訴人の右にいう譲渡権利なるものは、本件賃借権をとくにその譲渡性に着目して経済的に評価した利益をいうものと解するほかないが、しかしながら、その譲渡権利は本件賃借権を離れて独自に取引社会に存続しうる権利ないし利益ではなく、本件賃借権そのものにほかならない。そして、本件賃貸借契約が借主控訴人による本件火災等の用法違背にもとづいて貸主被控訴人と借主控訴人間の信頼関係が破壊されたことを理由にして適法かつ有効に解除されたことは、引用にかかる原判決の理由に説示するとおりである。したがつて、控訴人のいう譲渡権利すなわち本件賃借権は右契約解除すなわち控訴人の責に帰すべき事由によつて消滅したのであるから、本件賃借権すなわち控訴人のいう譲渡権利をさらに被控訴人において取得するによしないものというべきであり、たとい他日被控訴人が第三者に対して本件賃貸部分を賃貸することによつて新たに第三者が取得する賃借権の価額に相当する利益を権利金などの名目で被控訴人が収受することになるからといつて、右利益を目して従前の控訴人の本件賃借権によつて取得するものとみることはできないといわなければならない。控訴人の主張(事実欄3記載)はその余の点につき判断するまでもなく理由のないことが明らかであるから、到底採用しがたい。
四<証拠>をあわせると、本件建物は、赤坂山王下から乃木坂に通ずる幅員一三メートルの公道に面し、赤坂繁華街の一角を占める商業地域(公法上の規制)内にあつて、附近一帯は地価が著しく高く、昭和四八年一一月当時において本件建物敷地の坪当り更地価格四九五万円、借地権価格三九六万円と評価され、本件建物の敷地の借地権価額が一億五七万円とみられているのに対し、本件建物の価額は復旧後の評価でも三三六万円ほどのものとしか評価されないといつた、およそ繁華街の土地の利用価値からして甚だ不釣合な古い店舗であつたので、かねてより場所柄にふさわしい規格構造を擁する建築物に建て替えることが期待されていたところ、たまたま本件火災に遭つたのを契機に、当面は復旧修理程度で凌ぐこととしながら、本件建物の敷地がいままでの準防火地域からあらたに防火地域に編入替えされた時期でもあり、地主である高橋喜久雄にその諒承をとりつけて、いよいよ本件敷地の上に耐火構造を有する鉄筋コンクリート造りを建て替えることを具体的に構想するにいたつたことが認められ、かくして本件火災により罹災建築と堕した本件建物は早晩取毀しによつて滅失することが必定であるから、折しも本件賃貸借契約の解除により本件賃貸部分についての賃貸借関係が消滅することはまた機宜を得た措置であつて、いつそう本件契約解除の相当性が首肯されようというものである。
以上によれば、原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないから、民訴法三八四条一項、九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(中川幹郎 新田圭一 真榮田哲)