東京高等裁判所 昭和52年(ネ)827号 判決 1982年4月22日
控訴人(被告) 株式会社龍溪書舎
被控訴人(原告) 国
原審 東京地方昭和四九年(ワ)第二九三九号(昭和五二年三月三〇日判決、九巻一号三六〇頁参照)
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴人は、「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は、主文同旨の判決を求めた。
当事者双方の主張及び証拠関係は、次に付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。
(控訴人の答弁及び主張)
一 原判決添付の別紙「比較対照表」三丁目裏上欄(編注、九巻一号三九一頁九行目から一七行目まで)についての被控訴人の補正は認める。
二 本件著作物の作成が昭和二二年一二月頃完了したとはいえず、かつ、その当時在外財産調査会は国の機関ではなかつた。
1 行政官庁法は、たんに旧憲法下において設置されていた行政機関について、現行憲法の施行によりそれが存続の根拠を失うことに対処するため旧憲法から現行憲法への移行を可能にしたものと解した原判決は不当である。原判決は、行政機関を四種に分類したうえ、たんに内部において行為する機関は、直接外部と関係することはないから、法治主義の適用はなく、その設置、廃止、変更については法律をもつて定めることを要せず、任意の形式をもつて定め、又は特に定めをせずに、現実に設置、廃止することができるものと解されるとするが、講学上、行政機関を原判決のとおり分類できるとしても、補助機関、参与、顧問の如き諮問機関についても行政官庁法が、その設置及び廃止について、法令によることを要請しており、これがこの制定法の態度であつたことは明白である。
仮に、原判決の如き見解をとるとすれば、政府の恣意により国民の全く与り知らぬうちに外部と直接関係することがないとの理由の下に情報機関、諜報機関の如きものが設置されることになり、このようなことは少なくとも現行憲法の精神に反することであつて不当であることは明らかである。
なお、本件著作物を執筆した職員の身分が嘱託から臨時職員に変更されたとしても、これは「嘱託制度の廃止に関する法令」の施行に準じたものであるから在外財産調査会の右の法的性格を決定するものではありえない。
2 乙第二三号証の二(通巻第十七冊台湾篇第六分冊の四附録台湾統治概要)は、本件著作物の一部であるが、台湾総督府刊行にかかる乙第二三号証の一(「昭和二十年台湾統治概要」の復刻版)と、編成、内容ともに全く同一であり、少なくとも、この部分に関する限り、在外財産調査会が設置される以前である昭和二〇年代に作成されたことが明らかである。したがつて、在外財産調査会が、本件著作物の著作を発意し、その職員らをして昭和二二年一二月頃、本件著作物の作成を完了したものとはみられず、本件著作物の著作者が、調査会の事務の帰属主体である被控訴人であるとはいえない。
三 在外財産調査会が国の機関であるとしても、本件著作物は、旧著作権法第一一条第一号所定の「官公文書」に該当するから著作権の目的とはいえない。
旧法一一条が、著作権の目的物とはならない著作物の種類を規定した理由は、これらの著作物は、一般に周知されるべき性質のものであるから著作物の対象からはずすべき公益上の必要があるというにある。
そこで、同条第一号にいう「官公文書」とは、広く公務員がその職務の遂行上作成した著作物であつて、一般に周知さるべき目的、性質を有するものであれば足り、政府の政令、通牒、告示、裁判所の判決、決定、命令等のいわゆる有権行為の文書に限定さるべきものではなく、また、内容的にみて、高度の学術的意義を有するか否か、形式的に、印章、署名を有するか否かを問わないと解すべきである。その理由は、以下に述べるとおりである。
第一に、国民主権という憲法の基本理念の下において、国民は、憲法第二一条により、表現の自由の内容として「知る権利」を保障されており、この「知る権利」の対象は、国家のなすすべての表現活動に及ぶべきものであることは、「知る権利」が主権者たる国民の、自由な責任ある政治参加への基礎となることから明らかである。
しかして、国がその職員をして著作させる場合、それは国民の福祉を増進させ、文化を向上させ、国家社会の発展に寄与することを目的としてされるのであり、その著作活動についての経済的必要は、すべて国民の負担によつて充たされるのであつて、いわば国民のために、国民の財産をもつて著作活動がされるのであるから、そのような著作活動の結果としての著作物は、内容的に高度の学術的意義を有するものであればある程、原則的には、国民が自由にこれを知りうべきものであり、利用しうべきものとさるべきである。一般に、周知さるべき目的、性質を有するか否かについては、以上の点を前提として判断さるべきものであり、決して公権力の側からの、国民に「周知させる」必要性に基づいた前記有権行為の文書に限定さるべきものではない。公権力が、必要不可欠の範囲内で秘密をもつことがありうるとしても、これらの秘密は、国家公務員法等他の制度の運用により保護さるべきものであり、著作権法、殊に旧法第一一条第一号の「官公文書」について縮少解釈をすることにより、これを保護すべきものではない。
第二に、現行著作権法第一三条各号は、いわゆる有権行為の官公文書のみを著作権の対象からはずしているが、著作権の制限として、新たに第三二条第二項を設けることにより、転載という形式によつて広く著作物利用を可能とする道を開いている。このような規定を欠いた旧法下においては、旧法第一一条第一号の「官公文書」の範囲を限定することなく、広く解釈することにより、結果的に国民の「知る権利」を保障することが合理的である。
第三に、旧法第一一条第一号が、著作権の目的物とならない著作物として、たんに「法律命令及官公文書」と規定しているにすぎないにもかかわらず、「官公文書」を限定して解釈することは、「著作権の対象たりうる官公文書」なるものの存在を認めることになるが、その結果として著作権侵害とされる事案の範囲を広げることになる。旧法にあつても、著作権侵害事犯は、刑事処分の対象となりうる(第三七条以下参照)ことを考慮するときには、旧法第一一条第一号の「官公文書」を限定して縮少解釈することは、刑罰法規を拡張する結果ともなり不当である。
これを本件著作物についてみると、本件著作物の「序」(乙第四五号証)には、「連合国に対する弁解という意図からでは勿論なく、吾々の子孫に残す教訓であり、参考書でなければならない。」(同二項)、「本調査報告の執筆者達の半歳にわたる苦心が、広く国民から感謝される日も、何時かは必ず来ることと思つている。」(同四項)、「又日本が再建されるためには、再建後は、東亜各地域との経済的連繋は如何にある可きかという問題も、この素材から更に掘り下げて、行かなければならない。」(同四頁)とあり、本件著作物が、内容、意図いずれの面からも、日本の過去をふりかえり、将来いかにあるぺきかを考える資料として、広く国民に知らしめようというものであつたことは明白であつて、原判決認定の如くたんに政府部内の執務資料とすることを意図したものではない。
四 被控訴人は、本件著作物の著作者ではなく、その著作権の帰属者ではないから、被控訴人には本件について差止請求権はない。
1 原判決は、本件著作物の著作者は、在外財産調査会の事務の帰属主体たる被控訴人であると認定しているが、旧法下においては、法人は著作者となりえなかつたというべきであるから、被控訴人は本件著作物の著作者たりえない。すなわち、旧法下において、法人が著作者となりうるか否かについては学説上争いのあるところであるが、著作は事実行為であり、自然人の精神活動であることから、実際に著作物の創作を行なつた者が、そして、その者のみが著作者とされるべきことは自明の理である。右の如き原則に対する例外を認めるためには、明文の規定が必要である。旧法には、法人が著作者となりうる明文の例外規定がないから、旧法下においては、法人は著作者となりえないと解すべきである。
この点、原判決は、直接現行著作権法第一五条を適用していることが明らかであるが、同条は、右の原則に対し、同条所定の条件のある場合に限つて特に法人を著作者とし、著作権を法人に帰属せしめることとした例外規定である。右の如き例外規定のなかつた旧法下においては、特約のない以上、実際の著作者が権利を取得するという一般原則により、その著作権は、職務上の著作者に帰属すると解すべきである。
本件の場合、在外財産調査会あるいはその事務の帰属主体である被控訴人と実際の執筆者との間には、雇用契約、勤務規則その他に特約がなかつたことが窺えるから、本件著作物の著作者は、現実の執筆者であり、その著作権も執筆者に帰属し、本件著作物の著作権が、被控訴人に原始的に帰属するものでないことは明らかである。
2 仮に、旧法下においても、法人著作、職務著作の著作権の帰属に関して、現行著作権法第一五条と同様に扱うものと解されるとしても、法人が著作者となるのは、実際に執筆した自然人が著作者となるという前述の如き原則に対する例外であるから、その適用は限定してされるべきであり、旧法下において、法人著作、職務著作と認めうるのは、少なくとも現行著作権法第一五条所定の条件が具備される場合に限られるものと解すべきである。
しかるに、本件著作物の著作にあたつては、以下に詳述する如く、その要件が具備されていない。
(一) 本件著作物の各執筆者は、在外財産調査会の職員とはいえない。
在外財産調査会には、本件著作物の執筆者とは別に、終戦時における在外財産の静態的調査という本来の調査のために正規の職員が任命されていた。一方、本件著作物の執筆者である鈴木武雄ほか約三〇〇名の者は、たんに在外財産調査会の嘱託にすぎず、同調査会と各執筆者との間には使用関係、さらには実質的な指揮監督関係がなかつた。執筆者の中には他に定職などを有している者もいたり、途中でやめたり原稿を書かなかつた者もあり、同調査会からの拘束はないに等しく独立の対等の当事者であつたと評価しうるのである。「小遣銭」程度の金員が支払われただけで、これ以外に執筆者に対して同調査会から調査執筆のための便宜供与も少なかつたし、他に定職をもつている者が兼職の許可を受けていたことも窺えない。このような事情からすれば、本件著作物の各執筆者が、現行著作権法第一五条によつて、自らが作成した著作物が法人著作あるいは職務著作とされるような関係における同調査会の「業務に従事する者」といいえないことは明らかである。
(二) 各執筆者の調査及び執筆は、在外財産調査会に対し「職務上」されたものではない。
前記の如く、本件著作物の各執筆者は、在外財産調査会の嘱託にすぎないうえ、同調査会から調査執筆を命じられた者とはいえず、たんに調査執筆を嘱託もしくは委嘱されたにすぎない。そして、本件著作物は、その全体が同調査会の一定の意思のもとに構想されたものでも、統一的構想のもとに各執筆者が分担執筆したものでもない。在外財産調査会は、鈴木武雄ら編集委員に対して「できるだけ客観的に記述するように」との注文をしたものの、内容その他に関しては何らの指示命令もしておらず、何らのコントロールもしなかつたのである。
これを各執筆者の側からみるならば、執筆者らは「調査を行ない、経済史的見地から分析整理してその結果を提出するよう命じられて」はおらず、また、内容等についても、指定されたのは表題程度でありそれ以外の指定指示はなかつたため、調査執筆に際しての自由裁量は極めて広かつた。また、執筆者らは、既存の資料ないし著作物をそのまま本件著作物に流用している場合もあるのである。そして、執筆者自身も「命ぜられたのではなく、頼まれてやる仕事である。」と認識していた。さらに、本件著作物は、執筆者の在外財産調査会あての報告書という性格を有していたし、また、同調査会は執筆者らが作成した原稿を取りまとめて編さんもしていないのである。
このような事情からするならば、本件著作物は、執筆者らが在外財産調査会との関係で「職務上作成したもの」とはいいえないことが明らかである。
したがつて、本件著作物は、法人著作ないし職務著作ということはできず、いわゆる嘱託著作の範疇に含まれるというべきであり、いわゆる嘱託著作については、旧法下において著作者ないし原始的な著作権者は、旧法第二四条及び第二五条の場合を除き特約のない限り嘱託をした者ではなく、嘱託を受けた者であることは争いのないところであつた。
(三) 本件著作物は、在外財産調査会の著作名義の下に公表すべきものとして作成されたものではない。
すなわち、本件著作物の公表予定は、完成時にも明らかでなかつたばかりでなく、著作名義を同調査会ないし大蔵省管理局名義にすることも予定されていなかつた。また、現実にも、調査会名義で公表されたものとも窺えないし、大蔵省管理局の著作名義ともいえないものである。
以上のとおり、本件著作物は、法人等の業務に従事する者が職務上作成した著作物とはいえないし、かつ、その法人等が自己の著作の名義の下に公表した著作物でもない。
そうすると、現行著作権法第一五条所定の要件を具備していないことは明らかであるから、本件著作物の著作者は、在外財産調査会の事務の帰属主体たる被控訴人ではなく、その著作権を被控訴人が原始的に取得したものでもない。
五 被控訴人の本件差止請求権の行使には、原審で主張した如き事情があるほか、本件差止請求は、国民の知る権利を侵害し、かつ、平等性を欠く不公正なものである点からも、権利の濫用に当り許されるべきではない。
1 著作権の公共性について
権利の濫用とは、外形上は、著作権の行使のようにみえるが、具体的状況に即してみるときには、権利の社会性に反し、権利の行使として是認することのできない行為をいうのであるが、権利の濫用に当るか否かについては、客観的な立場から、権利者のそれによつて得ようとする利益とそれによつて他人に与える損害とを比較考量し、その権利の存在意義に照らして判断されなければならないと解する。著作権の行使の場合も、一般的には、著作物の無断利用行為の差止により著作権者が受ける利益に比し、侵害者側の受ける不利益が甚大である場合には、著作権の濫用に当ると評価されるぺきである。
ところで、著作権は、著作活動その他人間の知的精神的頭脳的活動の成果に対し、法的保護を与えることを通じて、人間の創作執筆活動と知的発展を奨励するとともに、その成果たる著作物等に財産的価値を付与せんとするものであるが、その存在意義を人類社会の発展との関係でみるならば、それは、人類の知的精神的生活の発展を促進するところに根本的意義を有するとみるべきである。すなわち、著作権の特性は、その公共性にあるということができる。権利は、多かれ少なかれ公共性をもつものであるが、著作権の場合は、所有権その他の一般財産権に比して、一層強度の公共性を有する。
わが国の著作権法は、このような公共的性格に留意して著作権の保護期間の限定(第五一条、第五七条)、著作物の自由利用に関する規定(第三〇条以下)などの権利制約規定を置いている。
しかし、著作権の高度の公共性を考慮するならば、右のような法的に類型化された制約にとどまらず、いわば非類型的な権利濫用の理論によつて、著作権の行使に制約を加えなければならない場合が生じうるであろうし、その要請は、一般の財産権の場合に比して、より強いものがある。
本来、人間の知的精神的活動の発展を保護、促進することを目的として法認されてきた著作権の行使が、かえつて、知的活動の阻害要因に転化するようなことが避けられなければならないことは当然であり、そのような場合には、著作権の濫用として、その法的効果を否認すべきことは、著作権制度に内在する要請であるといいうると考える。
2 著作権濫用の要件
著作権侵害に当たる著作物の利用行為を差止めることによつて受ける著作権者の利益が、差止によつて侵害者の受ける不利益に比して軽微である場合には、著作権の差止請求権の行使は、権利の濫用と評価されるべきである。
著作物の無断利用がされた場合において、次の如き要件が存するときには、著作権者の無断利用差止請求権の行使は、著作権の濫用と判断されることが十分にありうるものといわなければならない。ただ、その場合にも、具体的事情を子細に検討し、著作物の価値がどの程度に高度のものであるか、著作権者がその出版をしないことにつき合理的理由が存するのか等の点について、慎重な考察がされなければならないであろう。
(一) 当該著作物の社会的、文化的価値が高度であり、国民一般、とりわけ研究者らによる自由な利用の必要性が大であり、その利用の成果として、社会の文化的向上、学問的進歩のありうることが客観的に予測されること
(二) 著作権者が、右のような高度の社会的価値を有する著作物につき、合理的な理由なく研究者らが利用できない状況においていること、例えば、経済的にも著作物の出版を妨げる何らの理由も存しないのに、ことさらに出版しないという場合には、当該著作物の無断利用がされても、これに対する著作権に基づく差止請求権の行使が許されないことがありうると考えられる。
(三) 著作物の無断利用行為によつて著作者、著作権者の被る不利益が皆無又は軽微であること、あるいは、多少の損害を生じても、なお社会公共のために、これを受忍せしめることが妥当であると認められること
(四) 著作物の無断利用行為が専ら営利を目的とするものではないこと
3 国の著作権行使の制約原理
国が、著作権者である場合には、国民主権主義と基本的人権尊重主義をとるわが憲法の下においては、私人の場合と比べ、その著作権の行使については、より一層の制約が課されるべきものである。国の著作権の行使について、特に制約を加える原理として二つのものが挙げられる。一は国民主権主義であり、二は国民の知る権利である。
(一) 国民主権主義
日本国憲法が根本原理とする国民主権主義の下においては、統治する者と統治される者との間には区別は存在せず、国民の政治的自治又は政治的自律が認められる。国家機関の諸活動は、国民から一定の権限を委託されたことによる国民の代理機関としての活動であるということができる。そこから、民主政治においては、その政治過程が国民の前に公開されなければならないという公開政治の原則が生じることともなる。
国家機関の活動が著作という形をとつて行なわれる場合でも、それは国民の委託に基づく活動の一つに他ならないのであり、その活動の経済的基礎は国民の税金である。その著作活動の結果としての著作物は、原則として国民に公開されるべきであり、国民が利用の対象としうべき状況に置かれなければならない。
特に、国家の行政機能が社会のあらゆる領域にわたつて浸透し、ますます肥大化しつつある現代社会においては、国家機関の政治的、経済的諸活動全般にわたる知識、情報は、国家機関によつてしか正確には把握できない状況にあるだけではなく、国民の政治的、経済的あるいは社会的な活動に関わる広範囲な調査、統計資料づくりなどについては、国の経済力と調査能力なしには遂げえないことが少なくないのである。
そのために、国家機関が、その経済的、人的能力を駆使して蒐集した知識、情報に基づいて行う著作活動の成果たる著作物は、社会的、文化的、学術的価値が高く、かつ、個々の国民あるいは研究者にとつては、把握することが不可能な知識情報をその内容としているために、その利用は、学問と文化の進歩発展のために不可欠のものであるということができる。
国家機関の著作物については、著作物がそもそも有する公共的性格に加え、前述の国民主権主義の原理からして、原則的に、出版その他の形を通して国民に公開され、国民の利用しうる状況におかれるべきであるという結論が導き出されるのである。著作物の公開、出版等をなすべきではないとする、より高次の公益的理由が存在する場合が例外としてありうるとしても、そうでない限りは、国は、著作物を公開、出版して国民がその内容を利用しうる状況におく義務があるものというべきである。もちろん、国民の一部が、国家機関の著作物を出版することによつて、経済的利益を得ることに対し、適正な使用料を徴収することが正当視される場合はあるであろうが、出版の差止は原則的には認められるべきではない。
以上を要するに、国民主権主義、国民の自己統治を原理とするわが憲法の下においては、国家機関の著作活動の成果を国民が享受しうべきことは当然であり、国が、正当な理由なく自らの著作物を国民に対し公開、出版しないということは、前述の権利濫用の要件に合致し、著作権の濫用と判断されることとなる。
(二) 国民の知る権利
代議制民主主義国家においては、国民は自ら政治意思を表明することを通して政治に参加することが統治の基本原理であるから、国民の政治的意思を形成するための自由な意思の発表、完全で自由な討論の保障、換言すれば、言論の自由の保障は、民主政治の生命線であり、他の基本権に勝る優越的地位を有するものである。
ところで、今日においては、言論の自由を、「国家からの自由」という伝統的、古典的な自由権として捉えることでは不十分である。資本主義の高度化とマス・メデイアの飛躍的な発達は、言論の自由の内容を変貌させずにはおかないからである。
第一に、資本主義の高度化、行政機能の肥大化に伴い、国民の社会生活、政治生活、経済生活等にとつて不可欠の知識、情報が政府や特定の企業又はマス・コミ産業に集中、独占、管理され、その結果、一般国民は情報に十分に接近し収集しえなくなつてきたという事情がある。
第二に、マス・メデイアが意見発表のほとんど唯一の媒体といえる程に異常に発達し、しかも、このマス・メデイアを自由に利用できるのは、「それに対して最高の対価を支払うことのできる」少数者に限られることとなり、その少数者が、世論形成を支配し、政治過程を支配する力をもちうるという事態が生み出された。世論形成のための言論の自由市場は大きく変質させられてしまつたのである。
第三に、右の諸事情の結果として、意見発表の自由の主体と意見享受の自由の主体とは分離させられ、国民は現実には、後者の自由しか享受できない状態におかれるに至つた。
ここにおいて、今日なお、言論の自由を、民主政治の生命線たらしめ、政治的自由に対する脅威を除去して行くためには、その再構成が不可欠である。すなわち、国民が言論享受の主体でしかありえなくなつているという現実を率直に認め、「聴く、読む、視る、知る」などの言論享受の側からの言論の自由の意義、内容の再確立が必要とされてくることになつたのであり、また、言論発表の側に対する一定の規制、介入の必要性や言論媒体としてのマス・メデイアの重要性も自覚されてくることになる。「知る権利」は、右のような事情を背景として浮びあがり、意義づけられてきたものであるが、資本主義の高度化、行政機能の拡大化のなかで、政府の秘密主義が増大しつつある現代社会において、知る権利は、民主的政治過程を保障するために、いよいよその重要性を増しているということができる。
現代における知る権利の内容、性格は、次のとおり要約できる。
(イ) 知る権利の意義は、民主政治過程を実現するために、国民が政治的意見形成の基礎としての知識、情報を自由に入手しうることを保障する点にまず存するものである。
しかし、知る権利の対象は、政治的な事項に限定されるものではない。もともと、言論の自由は、個人人格の発展、個人の理性的な自己実現の価値を保障するという契機を含むものであつた。諸個人は、あらゆる価値ある知識、情報に接し、これを吸収することによつて、自らの人格を発展させ、自己を理性的に実現しうるものであり、そのようにして形成される人格や思想こそが、政治的な意思形成の前提となり、政治過程への参加を確保することとなるのである。
その意味で、知る権利とは、国民が、個人のプライパシーに属する事項を除き、可能な限り広く、知識、情報、意見等を享受することを保障するものであると解されなければならない。
(ロ) 次に、知る権利の性格として、重要なことは、知る権利が、知識、情報、思想を「受けとる」受動的な権利であるにとどまらず、それを「求める」能動的、積極的な権利であるということである。つまり、知る権利は、国民の知る権利の行使を妨げる国家行為の排除を要求するとともに、抽象的ではあれ、国家に積極的な情報公開を義務づける権利でもある。
右に要約した如き意義、内容を有する国民の知る権利は、わが憲法においては、第二一条の表現の自由、第一条及び前文に示された国民主権主義、代議制民主主義、第一三条の人格形成、自由及び幸福追求の権利などの諸観点から根拠づけることができる。
(三) 知る権利とマス・メデイア、出版産業との関連
今日のマス・メデイアは、知る権利を現実的に保障するために不可欠の存在であり、真実の知識、情報を国民に与える公的義務を負い、その義務の履行を通じて、国民一般の権利を擁護する社会的責任を負うものと解される。その意味で、マスコミ、出版産業の表現活動は、国民の知る権利を現実化し、充足させる媒体として機能する限りにおいては、たんなる企業の私的活動としてではなく、知る権利の担い手として意義づけられ、知る権利を実現する者としての法的保護を受けるものといわなければならない。
(四) 国の著作権と知る権利
右に述べたとおり、国民の知る権利及びそれを現実的に保障するためのマスコミ、出版産業の表現活動が、法的保護に値するということは、これに対する国家の介入、侵害が禁止されるということである。
それは、国が、統治権の行使として介入する場合であろうと、私人と同様の財産権の主張の名の下に介入しようとする場合であろうと同様である。これを国の著作権の場合についていうと、国は、国民の知る権利を侵害するような形において、著作権を主張することは許されないということである。そして、マスコミ、出版産業の報道、出版などの表現活動に対しても、それが、国民の知る権利を充足させるためのものと評価される以上は、著作権の名の下に禁圧することは許されないといわなければならない。
以上のことを要約すると、国が、正当な理由なく公開、出版しないでいる国家機関の著作物につき、出版業者がこれを無断で出版した場合に、その著作物の内容が、国民の知る権利の対象としての価値を有するものである以上、国は、著作権を主張して、その差止を請求することはできないということである。
国が国民の知る権利を侵害するような著作権の行使をする場合には、前述した著作権濫用の要件を充足する場合に当ると判断されるケースがほとんどであろうが、仮に、著作権濫用の要件の一部を充たさないことがありうるとしても、知る権利の侵害に当る国の著作権の行使は許されないと解すべきである。その意味で、国民の知る権利は、国の著作権の行使を制約するものであり、国は、私人の場合と異なる特殊の制約に服することとなるのである。
4 本件における国の著作権濫用
(一) 本件における国の差止請求権の行使は、著作権濫用の要件のすべてを充足する。
第一に、本件著作物は、戦前、戦中の日本国及び日本人の海外における経済的活動についての総合的調査記録であり、序文にあるとおり「子孫に残す教訓」「参考書」として著述されたものであり、そこに掲載されている豊富な資料は、日本の植民地支配史の研究に従事する学者、研究者にとつて唯一無二の貴重な価値を有するものである。本件著作物は、明治以後敗戦に至るまでの日本の植民地支配政策の展開過程を体系的に分析し、研究する場合の不可欠の資料であり、かつまた、この植民地支配の歴史の把握を欠いて日本の近代史を語ることは不可能である。本件著作物の利用の成果として、近代日本史、植民地支配史のこれまでにない発展が期待できることは客観的に予測されるところであり、本件著作物は極めて高度の社会的、文化的、学術的価値を有しているのである。
第二に、国は、本件著作物を公開も出版もせず、研究者や国民が利用できない状況においているのであるが、それには何らの合理的理由も存在しない。
政治的な観点からみても、もはや今日においては、右著作物の出版、公開を阻害する根拠の一かけらも見当らない。本件著作物の如く高度の資料的価値を有し、研究者から「幻の書」として渇望されているものを出版しないことは、自らその著作権を放棄したものと評価されてもやむをえないというほかはないであろう。
第三に、本件著作物を控訴人が出版することによつて、国の受ける損害は皆無に等しい。
仮に、著作権使用料相当の財産的損害を生ずることがあるとしても、それは、本件著作物の出版によつて得られる社会公共の利益を考慮すれば、出版差止の理由とは到底なりえないものである。
特に、本件著作物は、国家機関が、税金に基づいて、その経済的、人的能力を駆使して著作したものであることを考慮に入れるならば、それは、国民の前に公開されるべきであり、国民の利用しうる状況に置かれるべきである。
本件著作物の出版を許すことが、一私人の営利行為を許すことになつて不相当であるというのであれば、国は、著作権使用料相当額の損害の請求をもつて満足すべきである。
第四に、控訴人は、営利を目的として本件出版をしようとするものではない。
本件著作物を国民、研究者が自由に入手できる状態に置くことによつて、学問研究を前進させ、文化を発展、向上させることを意図しているのである。そのことは、本件著作物の出版を促進する会が結成され、そこに多数の歴史学者を中心とする知識人等が参加し、出版を促すための世論へのアピールを重ねていることにも明らかに看取されるところである。
さらに、本件における国の差止請求権の行使は、国民の知る権利を真向うから侵害するものである点においても、権利の濫用であり、到底認められるものではない。本件著作物は、その序文から読みとれるように、敗戦国日本が歩むべき将来の道を誤りなく選択するための一つの糧となるであろうことを意図し、祈念して著作されたものであるといえよう。事実、本件著作物は、日本国及び日本人が、戦前、戦中、海外において、いかなる行政のもとにおいて、いかなる経済的活動を行ない、財産形成をしてきたものであるかを余すところなく叙述している。今日の時点で、本件著作物の価値をみるならば、執筆者の主観的意図はともあれ、それは、わが国の海外侵略政策の足跡を、イデオロギーを抜きにして、極めて実証的に暴露するものであり、学問的価値が高いだけではなく、再び同じ過誤を犯してはならない私たちにとつて、政治的意見形成の資料を十分に提供してくれる点において、類まれなる価値を有するものである。
本件著作物の内容が、国民の知る権利の対象としての価値を有することは争う余地のないところである。
そうであるとすれば、控訴人の本件著作物の出版活動は、たんなる一企業の出版行為であるにとどまらず、国民の知る権利の行使に当り、十分肯認しうる行為である。
(二) 被控訴人の本件著作物に関する著作権の行使は、全く公平を欠いており、控訴人に対する本件差止請求は、他の出版社や節録引用者の場合に比して、著しく不平等な取扱となつている。
すなわち、訴外湖北社こと久源太郎は、昭和五二年七月に、本件著作物中の朝鮮篇の一部を「朝鮮における日本人の活動に関する調査」(乙第四七号証)という書名で被控訴人に無断で復刻刊行し、これを昭和五四年一一月まで市販し、その間日本読書新聞等に広告を掲載して発行部数の大半を売り尽くしたのに、被控訴人は、控訴人が当審において、その事実を指摘するまで何らの措置をとらなかつた。
また、本件著作物の一部である「台湾統治概要」の復刻本(乙第二三号証の一)が昭和四八年六月に訴外株式会社原書房によつて国の承諾を得ることなく出版されているが、大蔵省その他の国の機関は、この出版について何ら請求ないし苦情を申し立てていないし、さらに、本件著作物は、他の幾つかの文書において「節録引用」されている(乙第三号証ないし第九号証)のに、被控訴人は、それに対して警告その他の行為を全くしていない。
しかるに、本件著作物の場合には、大蔵省財政室長秦郁彦と名乗る人物から、本書の著作権は大蔵省にあるので直ちに出版をとりやめるよう、昭和四九年三月八日に控訴人に対し連絡があり、その後十分な話合いもされないままに、同月三一日付で出版差止の仮処分申請が東京地裁に提出されるという形で迅速に事が運ばれたのである。
一方、訴外湖北社の場合には、昭和五四年九月一三日の当審第八回口頭弁論期日において、右乙第四七号証を提出したのであるが、話合いによる「解決」をみたのが、昭和五五年一月一九日であるという(甲第一九号証の一)のであるから、その間の紛争処理の仕方につき、明らかな差別扱いがあるというべきである。
右の如き事情からしても、国の本件著作権に基づく差止請求権の行使は、著作権の濫用として、その法的効果を否認されなければならない。
(被控訴人の主張)
一 原判決添付の別紙「比較対照表」三丁目裏上欄(同上、三九一頁上欄三九一頁九行目から一七行目まで)中、「通巻第十七冊 台湾篇 第六分冊の一白日下の台湾 通巻第十七冊 台湾篇 第六分冊の二日僑の追憶(終戦後引揚迄の日本人の生活と其の後の台湾)通巻第十七冊 台湾篇 第六分冊の三 終戦前後の台湾に関する資料 統治篇 経済篇」とある部分を「通巻第十七冊 台湾篇 第六分冊の一、二結章白日下の台湾 餘録日僑の追憶 通巻第十七冊 台湾篇 第六分冊の三 附録終戦前後の台湾に関する資料 通巻第十七冊 台湾篇 第六分冊の四 附録台湾統治概要」と改める。
二 控訴人は、本件著作物の作成が昭和二二年一二月頃完了したとはいえず、かつ、その当時在外財産調査会が国家機関ではなかつた旨主張するので、以下に、被控訴人のその点の主張を補充する。
1 現行憲法は、すべての国家機関を法律をもつて定めることを要請しているものではない。憲法第四一条は、国会は国の唯一の立法機関であると定めているが、ここにいう「立法」とは、実質的意義における立法、すなわち、国家と国民との間の関係を規律する意味をもつ規範の定立を意味するのであつて、例えば、たんにある国家機関の内部の規律を定めるにすぎないような規範の定立は含まない。そこで、意思又は判断を決定してこれを外部に表示する権限を有する機関ではなく、たんに内部において右機関を補助し又は諮問に応ずるにすぎない機関に関する規律は、右の実質的意義における立法に含まれないから、これを適宜の形式をもつて定めても何ら憲法第四一条に違反するものではない。
ところで、行政官庁法は、現行憲法の施行とともに天皇の官制大権が否定される結果として、従来官制大権に基づき勅令によつて制定されていた各省官制等がその存続の基盤を失うこととなるため、従来の官制を法律の形式に改めることによつてこれに対処すること、換言すれば、官制大権に基づく官制の旧憲法から現行憲法への移行を可能にするため、いわば現行憲法の法形式上の要求を満たすことを主眼とした応急的暫定法である。したがつて、同法が定めるべき行政組織の実体については、原則として、従来の制度をそのまま踏襲する態度で一貫していたのであつて、控訴人が主張するように、行政官庁法は、新憲法の施行に伴いおよそ国家機関の性質の差異を問わずすべての国家機関の設置、変更及び廃止は法令によるべきものとするような新たな原則の樹立、実現を目的としたものではない。行政官庁法の右のような立法趣旨は、第九十二回帝国議会衆議院行政官庁法案外一件委員会における政府の行政官庁法案の提案理由において明確にされている。すなわち、右提案理由によれば、政府は、行政官庁の権限、組織、運営及び職員等については、その重要性に鑑み、根本的に改編を要するものがあると考えていたが、当時なお研究中であつたことから、その成果をまつて法制の整備をする方針であつたこと、したがつて、行政官庁法案は、すでに成立していた内閣法とあいまつて行政官庁の基本を法律化することを目標とし、実体的な部分については、さしあたり従来の例を踏襲することとし、その有効期間も当初は一年に限つたもの(その後の改正により、結局、国家行政組織法が施行された前日である昭和二四年五月三一日まで効力を有した。)とされている。
同法の右の如き立法趣旨は、同法の規定自体からも容易に窺えること及び同法第一二条の規定に関連して「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」(昭和二二年法律第七二号)ならびに「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令」(昭和二二年政令第一四号)により、従来の勅令で法律により規定すべき事項に関するものは法律と同一の効力を有し、それ以外のものは政令と同一の効力を有することとされたことは、原判決第五被告の主張に対する原告の反論二において主張したとおりである。
以上のとおり、行政官庁法は、従来の官制を法律の形式に改めることによつて、現行憲法へ移行させることを主旨とした応急的措置法であり、直接外部と関係せず、たんに内部において補助又は諮問を担当するにすぎないため、旧憲法下においては勅令に、現行憲法下においては法律に基づくことを要せず適法に存続しうる国家機関について、その廃止を定めるものでないことは明らかである。
したがつて、在外財産調査会は、内部執務資料として戦前及び戦中の在外財産に関する調査及び資材の整備をすることを目的とし、国民に対して統治権を行使し国民の権利義務に直接関連する機関ではないから、現行憲法下においても、憲法第四一条及び行政官庁法第一二条の適用の対象とならず、法律又は政令に基づかなくとも、有効な国家機関として存続しえたものである。
2 本件著作物中の「通巻第十七冊台湾篇第六分冊の四 附録台湾統治概要」(乙第二三号証の二)の部分の編成、内容が在外財産調査会の設置前である昭和二〇年に台湾総督府において作成された「台湾統治概要」(乙第二三号証の一参照)とほぼ同一であることは認める。
しかしながら、本件著作物中の前記部分は、在外財産調査会において、同著作物中の「台湾篇」を執筆した際にその基礎資料として用いた諸資料のうち、台湾総督府において作成された「台湾統治概要」を「通巻第十七冊台湾篇第六分冊の三附録終戦前後の台湾に関する資料」と同様、本文の「附録」として、本件著作物の中にほぼ原文のまま採録したというものであつて、この部分も在外財産調査会の発意、作成に係る本件著作物の一内容を構成するものである。
また、本件著作物中の前記部分の原資料である「台湾統治概要」を作成した台湾総督府は、明治二八年六月、台湾が我が国の領土となつた直後に、被控訴人が台湾統治の目的で同地に設置した被控訴人の一行政機関であつて、独立の法人格を有するものではなかつた(甲第一七号証の一、二、甲第一八号証参照)から、台湾総督府の発意に基づき作成された右著作物の著作権は、台湾総督府の事務の帰属主体である被控訴人に帰属するものである。
以上のとおりであるから、控訴人のこの点に関する主張は誤りである。
三 本件著作物が旧著作権法第一一条第一号所定の「官公文書」に該当する旨の控訴人の主張について
文芸学術又は美術の範囲に属する著作物の著作権は、旧著作権法の下においても本来的な保護対象とされており(同法第一条参照)、また、官公庁が著作の名義をもつて発行した著作物がその著作権の対象となりうることは明文で認められていたのであつて(同法第六条参照)、ただ、何人にも自由利用を許すべき合理的根拠があるものに限り、同法第一一条において、例外的に著作権の目的となりえないと定められていた。すなわち、同条第一号のうち、官公文書と併記されている「法律命令」についてみると、法律命令は、公布されるものであり、一般に知悉されるべき性質を有し、第二号における「新聞紙又は雑誌に掲載したる雑報及時事を報道する記事」及び第三号における「公開せる裁判所、議会並政談集会においてなしたる演述」は、一般に周知させることを主たる目的としてされ、かつ、周知させることが社会公共の利益に適うものであるから、これらのものは、何人にも自由にその複製を許すべきものとされたのである。
以上のとおり、官公庁が作成する文芸学術又は美術の範囲に属する著作物は、原則として著作権の目的となり、旧法による保護の対象であつたのであるから、旧法第一一条第一号に定められた著作権の目的となりえない「官公文書」は、官公庁が作成する一切の文書を意味するものではなく、同条に定められた法律命令あるいはその他新聞の時事の記事等と趣旨を同じくするもの、すなわち、官公庁の訓令、通牒、告示、布告又は裁判所の判決、決定、命令等のように主として一般に公示する目的で作成され、それ故に例外的に自由利用を許すべきものに限られ、主に部内の執務資料とする目的で作成されたものは、これに当たらないと解すべきであり、旧法時代の通説も著作権の目的とならない官公文書の意義を前記の如く限定的に解していたのである。
これを文書の形式面からみれば、同法第一一条第一号の官公文書は、通常官印又は公印のある公式の文書ということができる。なお、現行著作権法第一三条も著作権の目的とならないものを定めているところ、同条第二号の「国又は地方公共団体の告示、訓令、通達その他これらに類するもの」及び第三号の「裁判所の判決、決定、命令及び審判並びに行政庁の裁決及び決定で裁判に準ずる手続により行なわれるもの」とは、旧法第一一条第一号の「官公文書」に相当するものの内容を明確にしたにすぎないものであるから、著作権の目的とならない官公文書の範囲は、現行著作権法においても実質的に変更がない。
本件著作物は、近代における日本及び日本人の海外経済活動に関する調査を経済史的見地から分析整理して叙述したものであり、史料的、学術的価値が高く、当面すべき対連合国関係の賠償問題及び日本人の在外資産の補償問題等に対処するため、政府部内の執務資料として編さんされたものであり、これを編さんした在外財産調査会の官印も署名もないから、旧法第一一条第一号の官公文書に該当せず、学術に関する著作物として被控訴人の著作権の目的となるものである。
そして、本件著作物のうちの「序」の中には、控訴人指摘の如く、本件著作物が子孫に残す教訓であり、参考書である等の記述がみられるが、これらは本件著作物の資料的価値を表現したにすぎず、国民一般に周知させる意図を表わしたものではない。
四 被控訴人が、本件著作物の著作者であり、その著作権を原始取得した旨の原判決の認定判断は正当であるが、控訴人の右の点の主張に応じて以下のとおり主張を補充する。
1 旧著作権法の下においても、団体が著作者となり、原始的に著作権を取得することが認められていた。
一般に官公署その他の団体の職員が、その団体の発意に基づき、職務上の義務に基づき共同してする著作行為は、その団体の機関又は手足としての行為といいうるのであり、また、このように職員の職務上の共同作業によつて著作が完成するような場合は、通常各人の関与の程度や態様が異なるばかりでなく、各人の寄与は渾然一体となつており、このように複合した一体的な著作行為によつて著作が完成されるといいうるのであつて、これを強いて自然人たる各職員の著作に分析還元することは、かえつて、右の如き創作の実態に反するものである。したがつて、いわゆる団体著作の場合には、端的に団体自身が著作者であるというべきである。そして、旧法第六条が、団体名義によつて著作物を発行又は興行した著作物の著作権の保護期間について定めているのは、官公署等の団体が直接に著作者となり、原始的に著作権を取得しうることを承認し、これを当然の前提としていたものである。学説の多数説も同様の見解を採り、団体の発意に基づき、その職員が職務上共同して作成した著作物については、団体がその著作者となり、原始的にその著作権を取得すると解していた。
なお、団体に著作権の原始的取得を認めない少数の学説も、団体の発意に基づき、その職員が職務上共同して作成した著作物については、実際の著作活動をした職員のもとに発生した著作権は、職務規程、慣行、合意又は黙示の了解により、著作完成の際当然に団体に移転し、団体は、著作権を承継的に取得して著作権者になると解していた。
現行著作権法第一五条は、法人その他使用者の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする旨定めて、職務上著作の場合には、一定の要件の下に使用者である法人その他の団体が著作者となり、その著作権を原始的に取得することを認めているが、このような現行法の態度は、旧著作権法の解釈にあたつても十分参考となるものというべきである。
2 本件著作物が、職務上共同して作成された団体著作物であることは、原判決が、理由二1において認定した各事実によつて明らかなところであり、この点の控訴人の主張は失当である。
本件著作物は、国家機関である在外財産調査会が発意し、統一的な構想の下に、実質的意義における官吏である所部の職員に命じて職務上分担作成させた草案を一個の報告書に編さんしたものであるから、本件著作物の著作者は、同調査会の事務の帰属主体である被控訴人であり、被控訴人は、その著作権を原始取得したものである。
仮に、団体による著作権の原始取得を否定する説によつたとしても、本件著作物の各執筆者は、職務上執筆するものであり、各自の執筆した部分の草案は、他の執筆者の執筆した部分の草案とともに、政府の在外財産調査の執務資料となる報告書として編さんされるものであり、各執筆者に著作権が留保されないことを黙示的に了解していたものであるから、(証人鈴木武雄の証言調書四四頁参照)、本件著作物の著作権は、著作の完成と同時に当然に被控訴人に移転したと解される。
3 本件著作物が、いわゆる嘱託著作にあたる旨の控訴人の主張は、次のとおり失当である。
(一) 控訴人は、在外財産調査会には、本件著作物の各執筆者のほかに正規の職員が任命されており、本件著作物の執筆者のなかには途中で辞めた者や他に職業を有していた者があり、その給与も「小遣銭」程度であつたことから、調査会と執筆者との間に使用関係はなかつた旨主張する。
しかし、勤務期間の長短や給与の多寡によつて使用関係の存否が定まるものではなく、右執筆者らに対する給与は、当時としては決して少額ではなく、各執筆者にとつて重要な収入であつたのである(証人鈴木武雄の証言調書一二頁参照)。執筆者らは、在外財産調査会によつて任命され、大蔵省管理局管理課長の監督に服する実質的意義の官吏であつたのであるから、調査会の職員であつたことは明らかである。
(二) 次に、控訴人は、各執筆者は在外財産調査会から調査執筆を嘱託ないし委嘱されたにすぎず、また、本件著作物は、同調査会によつて統一的に構想されたものではないから、各執筆者の調査及び執筆は、調査会との関係で職務上のものとはいえないと主張する。
しかしながら、在外財産調査会は、本件著作物の作成に先立つて、一〇の対象地域について、統一的に調査項目を章単位にまで分類し、その臨時職員に対し、その職務として、原則として右章を単位として在外財産の生成過程等につき、できるだけ客観的に記述した草案を起案するよう指示したうえ、分担執筆させ、これら草案をまとめて一個の報告書を編さんし、本件著作物を作成したのであるから、本件著作物は、いわゆる嘱託著作ではなく、右臨時職員によつて職務上作成された団体著作物であることは、疑問の余地がないというべきである。
そして、本件著作物の場合には、右のような調査会の指示によつて、各執筆者の職務内容は十分定められており、また、右臨時職員において執筆の際たまたま所持していた資料を利用したことがあるからといつて、職務上の著作でなくなるわけのものでないことはいうまでもない。なお、団体著作物が分担執筆された場合、各人の執筆部分が明らかであつても、これによつて、団体著作物の成立が妨げられることはない。
(三) 本件著作物の著作権が、国有財産台帳に記載されていないからといつて、控訴人の主張する如く、被控訴人が右著作権を有していないと考えていたことを意味するものではない。また、本件著作物の「節録引用」と無断出版とは全く異なるし、大蔵省において、右著作権の帰属について疑義を抱いていたものでもない(証人成瀬恭の証言中、この点の証言は措信し難い。)。
さらに、控訴人は、本件著作物の一部である台湾統治概要が無断復刻されたのに、被控訴人は、これに対し異議を述べなかつた旨主張するが、当時、被控訴人は右の事実を知らなかつたものである。
五 控訴人の権利濫用の主張に対する反論を、以下のとおり補充する。
1 控訴人は、第一に、本件著作物は極めて高度の社会的、文化的、学術的価値を有している旨主張するが、被控訴人も、これを認めるものであつて、格別異論はない。
第二に、控訴人は、「国は、本件著作物を公開せず、出版せず、研究者や国民の利用できない状況においているが、それには、何らの合理的理由も存在しない。」旨主張するが、右主張は、明らかに事実に反する。
すなわち、本件著作物は、大蔵省文庫に全冊、東京大学総合図書館に三五冊、同大学経済学部図書室に六冊、早稲田大学図書館に二六冊存し(以上の事実は控訴人も認めている。)、大蔵省文庫においては、同省職員の利用に支障がない限り、職員以外の者に対しても、できる限り蔵書の閲覧、利用を認める方針が採られ、現に、本件著作物についても、一般人にもその閲覧を許可した事例があり(証人秦郁彦及び同成瀬恭の各証言)、また、総合図書館及び経済学部図書室の蔵書を合わせると本件著作物の全巻が揃う東京大学においても、たとえ学外の者であつても、所定の手続を経由して許可を受けさえすれば、本件著作物の閲覧、利用ができることになつている(甲第一四号証の一、二)からである。
また、控訴人は、本件著作物を控訴人が出版することよつて、国の受ける損害は皆無に等しいと主張するが、被控訴人は、国有財産としての著作権を特定の私人に対して使用収益させるときには、適正な使用料を徴収すべきものとされており(財政法第九条第一項)、控訴人が無断で本件著作物の複製発行をすることによつて、右使用料相当額の損害を受けるのである(著作権法第一一四条)から、控訴人のこの点の主張も明らかに事実に反するものである。
さらに、控訴人は、営利を目的として本件著作物を複製、発行しようとしたものではない旨主張するが、控訴人は、営利を目的とした株式会社であり、個々の刊行物の出版事業はいずれも営利を目的として行なわれるものであつて、全く採算を度外視して出版事業を行なうなどということは到底ありえないことである。
以上のとおり、控訴人の権利濫用の主張は、右第一の点を除いて、その主張の前提事実そのものが真実に反するから、到底認められない。
2 控訴人は、被控訴人による本訴差止請求は、本件著作物に対する国民の知る権利を侵害し、かつ、控訴人に対し不平等な差別扱いをするものであるから、権利濫用である旨主張する。
(一) しかしながら、仮に、本件著作物の内容が控訴人の主張する如く、広く国民一般に知らせるべきものであるとしても(実際は、すでに主張した如く、部内の執務資料であり、決して控訴人の主張するようなものではない。)、その場合には、著作権者である被控訴人自らがその責任と判断の下で、右著作物を広く国民一般に知らしめる措置を講ずればよいのであり、その手段としては、被控訴人自身が右著作権の複製、発行をする方法もあれば、民間の出版社に許可を与えてそれを行なわせるという方法もあるのであつて、控訴人による無断複製、発行を許さなければ国民の知る権利が侵害されるなどということはない。前述の如く、本件著作物については、大蔵省の担当官が控訴人の無断複製、発行計画を知つた当時、訴外株式会社原書房が、大蔵省に対し、本件著作物の複製、発行の許可申請をし、許可になり次第右複製、刊行を行なうべく準備中であつたし、被控訴人としても、本件著作物について、今後一切公開を認めないという態度をとつていたわけではない(証人秦郁彦及び同成瀬恭の各証言)。このような状況下において、被控訴人が、控訴人の無断複製、発行の差止を求めたことは当然のことであつて、控訴人の右主張は、明らかに失当である。
(二) 控訴人は、昭和五四年九月一三日の第八回口頭弁論期日において、本件著作物中、朝鮮篇の一部が訴外湖北社によつて無断復刻されており、被控訴人はこれを不問に付しているとして、湖北社発行名義の「朝鮮における日本人の活動に関する調査」なる書物を乙第四七号証として提出した。
右書物は、なる程、本件著作物の一部分を被控訴人に無断で複製したものであるが、右書物が表題を変えて発行されており、しかも、発行部数も僅かで広く頒布されていなかつたため、右期日に至るまでの間に、被控訴人が無断復刻の事実を知ることができなかつたものであり、決して、無断復刻の事実を知りながら、放置していたのではない。
被控訴人は、右口頭弁論期日に無断復刻の事実を知るや、直ちに調査を開始し、発行者は湖北社こと久源太郎であることを究明して、同人から、発行部数は二四七部で、在庫部数は一四部であり、販売方法は主としてダイレクトメール等を利用した通信販売によつていること等、無断復刻に関する事実の説明を受けた。このような調査によつて事実関係がほぼ判明したので、事案の円満な解決をはかるべく、同人と接渉を続けた結果、同人は、その非を認め、昭和五五年一月九日付書面により、本件を所管する大蔵省理財局長に対し、次の事項を約した。
「一 久源太郎は、今後、右書物の販売をとりやめ、その重版(増刷)を行なわない。
二 同人は、右書物の在庫分を、速やかに理財局長に引き渡す。
三 右書物の原版(ネガフイルム等)は、株式会社文献印刷(倒産)において既に廃棄したものであるが、将来万一原版が存した時には速やかにこれを廃棄する。」
そして、久源太郎は、昭和五五年一月一九日、右第二項に従い、理財局長に対し、右書物の残部一四部を引き渡した。
以上のとおり、被控訴人は、湖北社の無断復刻に対しては、その事実を知つた後、直ちに措置を採り、右事案は円満に解決したのであり、本件著作物の無断復刻に関し、控訴人のみを別異に取り扱つているものではない。
(証拠関係)<省略>
理由
一 当裁判所も、被控訴人の本訴請求は理由があるものと判断するが、その理由は、次に訂正付加するほか、原判決の理由と同一であるから、これをここに引用する。
1 本件著作物ひいて本件旧版のうち、原判決添付の別紙比較対照表三枚目裏(原判決五二丁裏)上欄記載(編注、九巻一号三九一頁一〇行目から一七行目まで)の「通巻第十七冊台湾篇」の構成を左のとおり訂正する(この点については、当事者間に争いがない。)。「通巻第十七冊台湾篇第六分冊の一、二 結章白日下の台湾 餘録日僑の追憶 通巻第十七冊台湾篇第六分冊の三附録終戦前後の台湾に関する資料 通巻第十七冊台湾篇第六分冊の四 附録台湾統治概要」
2 原判決二九丁裏末行(同上、五一八頁一一行目、省略部分)の「甲第一、第二号証の各一」を「甲第一号証の一」と訂正する。
3 原判決三四丁裏九行目(同上、三七八頁一四行目)の「事務補助員」を「事務補佐員」と訂正する。
4 原判決三四丁裏の原判決の理由二1.の(三)の末尾(同上、三七八頁六行目)に「なお、本件著作物のうち、通巻第十七冊台湾篇第六分冊の四附録台湾統治概要は、在外財産調査会の台湾地域部会において報告書草案作成の基礎資料とされた「台湾統治概要」(昭和二〇年台湾総督府編」が、本件著作物の編さんに際し、片仮名使用より平仮名使用に改められたうえ、「台湾篇」本文の附録として本件著作物の構成に取り入れられたものと認められる。」と加える。
二 本件著作物の作成が昭和二二年一二月頃完了したとはいえず、かつ、その当時、在外財産調査会は国家機関ではなかつた旨の主張について
本件著作物のうち「通巻第十七冊台湾篇第六分冊の四 附録台湾統治概要」の部分は、本件著作物の作成にあたつて平仮名使用に改められているものの、編成、内容においては、昭和二〇年に台湾総督府において作成された「台湾統治概要」(乙第二三号証の一参照)と同一とみられることは当事者間に争いがない。
右の「附録台湾統治概要」の部分のみをみる限り、右附録の部分は、本件著作物中の台湾篇本文の執筆時期と異なるものといえるけれども、在外財産調査会の台湾地域部会において、台湾地域部会としての報告書草案を纏め上げた際、本文の記述に加えて、その基礎資料として用いた「台湾統治概要」を台湾篇本文に添付し、一体として報告書草案とし、これを総務部会に提出したことから、総務部会において本件著作物を編さんするに当り、編集員らが右の「附録台湾統治概要」も本件著作物の構成部分として採録したものであり、右附録部分が、本件著作物中に採録された経緯及び右附録部分は、当時我が国の行政機関であつた台湾総督府が作成したものであることに徴すると、この附録部分が本件著作物中に採録されているからといつて、昭和二二年一二月頃、各地域部会からの報告書草案の提出を受けた総務部会において、これらを編さんして、ここに本件著作物を全体として完成したものと認めるのに何ら妨げとなるものではない。
ところで、在外財産調査会は、昭和二一年八月、戦前及び戦中の在外財産に関する資料の調査、整備を担当する国家機関として、大蔵省及び外務省の申合せに基づく在外財産調査会規程をもつて設置された機関であるが、右調査会の活動は、直接国民の権利義務と関連する性質のものとはみられない内部的組織であるから、在外財産調査会が、官制大権に基づく勅令をもつて設置されたものでなくとも、旧憲法下において適法な国家機関として存立していたものであり、かつ、以下詳述する如く、昭和二二年五月三日に、現行憲法と同時に行政官庁法が施行されたことによつて、右調査会が国家機関としての存続の基礎を失つたものというべきものでもない。すなわち、行政官庁法は、その規定から明らかな如く、従来官制であつたものを現行憲法及び内閣法の規定を受けて法律の形式に改め、これによつて、新憲法実施の時の旧憲法からの移行を合理的に行なおうという要請のもとに、新憲法の精神にふさわしい国家組織の法制が整備されるまでの暫定的措置として(その後の改正により結果的には国家行政組織法施行の前日昭和二四年五月三一日まで)行政官庁及び官吏に関する基本的事項を法律化することを目標とし、実質的内容については差当り、従来の例を踏襲するものとして制定されたものである。したがつて、昭和二二年五月三日、日本国憲法及び行政官庁法が施行されたことによつて、在外財産調査会が国家機関としての基礎を失つたものとはいえず、本件著作物の作成が完了した昭和二二年一二月当時在外財産調査会は適法な国家機関として存続しており、その後昭和二四年一月に右調査会の事務は、大蔵省管理局(現在の理財局)に承継されている。
したがつて、この点の控訴人の主張は採用できない。
三 本件著作物が、旧著作権法第一一条第一号にいう「官公文書」に該当する旨の主張について
旧著作権法第一一条には、著作権の目的とならない著作物として、第一号において、法律命令及び官公文書を挙げ、また、現行著作権法第一三条も、権利の目的とならない著作物として、憲法その他の法令(第一号)、国又は地方公共団体の機関が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの(第二号)、裁判所の判決、決定、命令及び審判並びに行政庁の裁決及び決定で裁判に準ずる手続により行なわれるもの(第三号)を挙げている。このことからみても、旧著作権法第一一条第一号の「官公文書」とは、現行著作権法第一三条第二号、第三号の規定で具体的に列挙されている如き官公庁が公務上作成する文書のうち一般公衆に公示する目的の文書をいうものと解すべきである。したがつて、国又は地方公共団体の発行した文書でも、高度に、学術的意義を有し、必ずしも一般に周知徹底させることを意図していない文書は、学術に関する著作物として著作権の目的となりうべきものであることは明らかである。
この点、控訴人は、国民の「知る権利」を実質的に保障すべきこと、旧著作権法には、現行著作権法第三二条第二項の規定の如き「転載」形式の刊行物利用の道がなかつたことなどを根拠として、旧著作権法第一一条第一号の「官公文書」の範囲は広く解すべきであつて、国、地方公共団体が作成した著作物で高度の学術的意義を有するものであつても、その著作物が一般公衆に周知さるべき目的、性質を少しでも有するものであれば、「官公文書」に該当すると主張する。
しかしながら、国民の知る権利を、後に権利濫用の主張の判断においても言及する如く、著作権法の分野における問題の検討に当つても尊重すべきこと、国、地方公共団体の著作活動も究極には国民の福祉を目的としており、かつ、これらの著作活動が国民の負担で賄われることなどについての控訴人の主張が理念として理解しうるものとしても、控訴人の旧著作権法第一一条第一号の「官公文書」の概念の理解は、すでに正当な解釈論の範囲を逸脱したものであつて採用することはできない。
そうすると、本件著作物は、官公庁が編さんした著作物であるとはいえ、その内容は、近代における日本及び日本人の海外経済活動に関する調査を経済史的見地から分析整理して記述したものであり、海外諸地域における政治、経済、統治関係などの事項を含むことから、今日、史料的学術的価値の低くないものであるが、本来、本件著作物は、終戦直後に、近い将来予想される連合国に対する賠償問題や在外資産を失つた日本人への補償問題に対処するための国家機関の内部執務資料を整備保存する必要から、原判決理由二認定の如き経緯によつて作成が発意され、完成をみるに至つたものであつて、本件著作物は、政府部内の執務資料であり、一般に公示して周知させるべき性質の著作物でないことは明らかである。たしかに、控訴人が主張する如く、本件著作物の「序」には、「連合国に対する弁解という意図からでは勿論なく、吾々の子孫に残す教訓であり、参考書でなければならない。」などの記述がある(当事者間に争いがない。)が、これらの記述は、本件著作物の内部資料としての価値に言及したものと理解すべきであるから、控訴人指摘の各記述を検討しても、本件著作物が、前叙の如く、本来、終戦直後に予想された連合国に対する賠償問題や海外において蓄積した財産を失つた日本人に対する補償問題に対処するための内部的執務資料であることを否定することはできない。
したがつて、本件著作物は、旧著作権法第一一条第一号に規定する「官公文書」とはみられず、学術の範囲に属する著作物として著作権の目的となりうるものである。
この点の控訴人の主張は、肯認できない。
四 被控訴人が本件著作物の著作者ではなく、その著作権の帰属者ではない旨の主張について
現行著作権法第一五条は、「法人その他使用者(以下、この条において『法人等』という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。」と規定しているが、旧著作権法においては、第六条で、官公衙学校社寺協会会社その他の団体がその著作名義をもつて公表した著作物の著作権の存続期間を規定していたに止まる。しかしながら、旧著作権法下にあつても、第六条の如き規定の存在していたことからみて、団体が原始的な著作権者となりうる場合のあることを予定していたものと解することが十分可能であり、旧著作権法の下にあつても、現行著作権法第一五条が規定する如く、法人等の発意に基づきその法人等の業務に従事する者において職務上作成する著作物で、その法人等がその著作名義のもとに公表するものと認められるものについては、その著作物の著作者は別段の定めがない限り、その法人等であつて、その法人等が原始的に著作権を取得するものと解するのが相当である。
法人その他の団体が著作を行ないうるかについては、法人の本質に関する理解認識及び著作権法についての立法政策等に関連して問題のあることは控訴人主張のとおりであるが、前叙の如く、現行著作権法第一五条が規定するような条件のもとで作成される著作物は、通常その法人等における比較的多数の職員が著作活動に参加し、このような職員の職務上の共同作業によつて完成されることになろうが、かかる著作物にあつては、各職員の寄与態様も判然とさせえない一体の著作物であることが多く、寄与者の具体的意図に徴しても、このような著作物については、その法人等がその著作者となり、原始的にその著作権を取得するものと解するのが相当である。けだし、前叙の如き法人等に進んで従属する各職員の著作活動の態様を直視し、かつ、各職員の通常の意思を考えると、「創作者」を多数のかつ関与の態様の多様な自然人と理解するよりは、端的に法人等を著作者とし、これに著作権の原始的取得を認める方が創作活動の実態にも十分適合するものと考えられるからである。これを本件著作物についてみるに、本件著作物は、大蔵大臣及び外務大臣の管理下に設置された国家機関たる在外財産調査会が発意し、同調査会によつて任命された常勤で、所定の給与の支給を受ける職員が職務上の分担作業として各地域部会において、統一的な構想のもとに報告書草案を執筆作成し、これらを総務部会において一個の報告書に編さんして完成させたものであり、これにつき各職員個人を著作権者とする旨の別段の約定も認められない本件においては、本件著作物の著作権は、在外財産調査会の事務の帰属主体である被控訴人において原始的に取得したものと解するのが相当である。
この点、控訴人は、各地域部会においてその分担部分の調査執筆に従事した者は同調査会の職員とはいえないし、また、その執筆が、職務上されたものではない旨主張するが、原判決が理由二1(四)において認定した各事実に徴すると、各執筆者は、在外財産調査会の監督のもとにおいて、職務上の義務として、本件著作物のもとになつた報告書草案を共同して起筆し、これらが各地域部会で纒められた後、これらの提出を受けた総務部会において一体の著作物として編さんし、本件著作物が完成されたものであることが明らかである。また、その後昭和二四年以降に、大蔵省管理局名義のもとに、これが部内配布資料として印刷複製され刊行された事実及び証人鈴木武雄の証言に徴しても、本件著作物が公表されるときには、在外財産調査会もしくはその上部機関名義をもつて公表すべきものと認識されていたものと認められ、個々の執筆者名義をもつて公表することは予想もされていなかつたことが窺われる。
したがつて、控訴人の主張する如く、本件著作物がいわゆる嘱託著作の範疇に属するものとみることはできず、この点の控訴人の主張は肯認しえない。
そうすると、本件著作物の著作権は、昭和二二年一二月頃在外財産調査会の総務部会における編さん作業の完了によつて、同調査会の行為の効果の帰属主体である被控訴人に原始的に発生帰属したことは明らかであるというべきである。
五 本件著作物の著作権に基づく出版差止請求権の行使が、国民の知る権利を侵害し、かつ、平等性を欠く不公正なものである点からも、権利の濫用として許されない旨の主張について
(一) 控訴人は、本件の出版差止請求が権利の濫用に当るとする理由として、「知る権利の侵害」について種々主張するが、その主旨とするところは、「本件著作物が国民から国政を付託された国家機関の活動による成果であり、社会的、文化的、学術的価値の高いものであることから、国民一般、とりわけ、歴史研究者らによつてその自由な利用が求められているものであり、国民の知る権利の対象となる知識情報を内容とするから、控訴人の本件著作物の出版活動によつて被控訴人に多少の損害の生ずることがあつても、被控訴人が出版行為の差止行為に出ずることは、著作権の公共性に鑑みても、権利の濫用として許されない。」とするにある。
たしかに、著作権の行使と著作物利用との調査の問題は、著作権法の直面する課題の一つであり、著作権法の立法作業において種々検討されてきた事柄ではあるが、本件の如く、著作権の目的である著作物を無断で出版販売し、もしくは、そのおそれのある者に対して、その差止を請求しうることは、著作権の中核的権能であるから、著作権法上著作権が認められているのに、このような場合の差止請求権の行使を許さないとするには、十分慎重でなければならない。
けだし、権利の濫用として無断出版の差止請求が許されないとすることは、実質的には著作権自体を否定するに等しく、ひいては、法解釈の限界いかんにも関わるからである。
ところで、本件著作物が、社会的、文化的、学術的価値の高いものであることは、当事者間に争いがなく、成立に争いのない乙第一五号証、同第一九号証によれば、文化的学術的資料として本件著作物を出版するについての要望があることが窺われるが、成立に争いのない甲第一四号証の一、二、証人秦郁彦及び同成瀬恭の各証言並びに弁論の全趣旨によれば、本作著作物は、国会図書館支部大蔵省文庫及び東京大学図書館(総合図書館に三五冊、経済学部図書室に六冊)に全冊が揃つており、早稲田大学図書館にも二六冊が備えられていて、本件著作物を学術的資料として利用しようとする者には、これを閲覧利用することができるうえ、利用に若干の不便があるとしても、本件著作物は、すでに公表されたものであること、本件著作物については、昭和四六年一月頃、他の出版社においても、本件著作物の復刻刊行を企画し、大蔵省資料統計管理官に復刻出版についての許可申請をしており、これに対し検討中であつたし、被控訴人として、控訴人の無断出版を黙認することは、出版許可申請中の他の出版社との関係において公平を欠き、公正を疑われる事情にあつたことが認められ、原審における控訴人代表者尋問の結果のうち右認定に反する部分は措信できない。
前叙の如き本件著作物の性質及びその内容並びに右認定の事実のほか、原判決認定の各事実に基づいて判断すると、控訴人が主張する「国民の知る権利」や著作物の公共性などを勘案しても、本件差止請求権の行使が、国民の知る権利を侵害することによつて、権利の濫用に当たるものと認めることはできない。
(二) また、控訴人は、被控訴人において、他の出版社の無断復刻刊行などを放置しておきながら、控訴人に対し、事を急いで差止請求をするのは明らかに控訴人を差別するものである旨主張するが、当審証人久源太郎の証言及びこれにより真正に成立したものと認められる甲第一九号証の二によれば、被控訴人は、訴外湖北社こと久源太郎が「朝鮮における日本人の活動に関する調査」という題名によつて、本件著作物の一部(朝鮮篇の一部)を無断で復刻出版したことを知つて後、直ちに調査に入り、久に対し、右書物の出版、販売の中止を申し入れ、前記書物の販売を停止し、将来ともその刊行を行なわないこと、在庫分の速かな引渡しなどを確約させたことが認められるから、本件著作物の一部をなす「台湾統治概要昭和二十年」(成立に争いのない乙第二三号証の一)が昭和四八年六月に復刻されていた事実をもつてしても、被控訴人において、本件著作物の無断復刻刊行の事実を知りながら、これを放置していたものとは認め難く、他に、本件著作物の復刻刊行に関し、控訴人のみに対し、不当な差別をしたものと認めるべき証拠はないから、この点からする控訴人の権利の濫用についての主張も採用することができない。
そもそも、著作権者たる被控訴人としては、本件著作物の性質、内容に鑑み、本件著作物を刊行することによる社会的影響を慎重に検討したうえで、刊行すべき時期、発行所などを決定しうるものであり、本件差止請求は、正当な権利の行使といわざるをえない。
控訴人の権利の濫用の抗弁について、これを理由なしとした原判決の判断は正当である。
六 以上のとおりであり、被控訴人の本訴請求を認容した原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないから、これを棄却することとし、控訴費用の負担につき、民事訴訟法第九五条、第八九条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 荒木秀一 舟本信光 舟橋定之)