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東京高等裁判所 昭和53年(う)987号 判決 1978年9月21日

被告人 板橋次夫

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人小見山繁提出の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は東京高等検察庁検察官検事今野健作成の答弁書記載のとおりであるから、それぞれこれを引用する。

一、控訴趣意中、被告人に注意義務の懈怠がなかつたとの主張について

所論は、被告人には、原判示のように、ガスコンロの消火を忘れ、そのまま帰宅したという注意義務の懈怠はなかつたというのであるが、一件記録を精査検討してみるに、まず本件火災発見の状況につき、原判示有限会社新洋光学(代表者桜井克平、以下単に桜井方と称する。)の工場とベニヤ板で仕切られた壁を距てて東隣に住む主婦であり、本件火災の第一発見者と目される高野初子は、原審公判廷において証人として、本件火災発生の昭和四六年二月二〇日朝六時ころ起きて、台所と茶の間の掃除をしていたところ、午前六時三〇分ころ台所の北側にある下駄箱上の電話器を置いた箇所と、隣の桜井方との境のベニヤ板壁のところから煙が出て火が見えたので、寝ていた息子を起したうえ、火の出ている箇所に二、三杯の水を掛けるうちに、私の胸の高さに直径二、三〇センチメートルの穴があき、そこから桜井方の仕切り壁の下の方が燃え、煙がたちこめているのが見えたので、急を知らせるため戸外に出て、桜井方の表のシヤツターを叩いていると、そこへ近所の太田宏が来た旨供述し、また、桜井方から一軒おいて西隣の「むつみ荘」二階に住む高校生である右太田宏は、原審公判廷において証人として、当日朝六時三〇分ころ起き、勉強部屋にいると、桜井方から煙が出ているようだつたので、直ちに戸外に出て桜井方に行くと、右高野初子が入口のドアーを叩いていたので、桜井方の横の露地を入つて同家裏に廻り、南側入口の鍵のかかつた戸を壊して工場内に入つたところ、正面に設置された砂掛機の北端付近に高さ約二メートル、巾約三メートル程の火炎が燃え上つているのが見えた旨供述しているところ、前記高野初子は右桜井克平から同女宅こそ本件火災の出火場所ではないかと疑われていて、本件出火に利害関係の深い者ではあるが、同女が本件火災発見後とつた措置をみてみると、自宅から出火したという危急の場合の家人の挙動とは到底考えられない行動に出ているばかりでなく、その供述するところは利害関係の全くないと思われる前記太田宏の供述とも符合し、具体的かつ自然で理にもかなつているほか、原審第四回公判における証人で、所轄消防署の捜査係長である有田安正の供述によつて認められる本件火災の焼燬状況からみた出火箇所の推定とも一致し、十分信用に値するものと認められ、以上の各証人の原審における供述に、被告人の原審供述及び消防司令補有田安正作成の現場見分調書、司法警察員鈴木祐二郎作成の昭和四六年三月一日付実況見分調書等をあわせて考察すると、本件火災の出火箇所は、被告人が前記工場内で日頃レンズ洗浄用の湯を沸かすため一八リツトル入りの空罐を乗せ点火、使用していたガスコンロのあつた砂掛機付近であることを認めるに十分であり、これに反する原審第一一回公判調書中の証人桜井克平の供述記載部分は前掲各証拠に対比して、にわかに措信できない。

ところで、原審第二回公判調書中の証人鈴木祐二郎の供述記載によると、同人は本件火災の発生直後現場にかけつけた警察官であるが、鎮火後、前記の出火箇所とみられる砂掛機の下付近から、長時間加熱され極度の損傷を受けた一八リツトル入りの空罐とともに、前記ガスコンロがその栓を全開にしたままの状態で発見されたことが明らかであり、また、原審第一七回公判調書中の同証人の供述等によれば、同人が本件火災発生当日現場の実況見分を実施し、右ガスコンロ等を発見した直後、発見現場で、立会人であつた被告人にこれらのものを提示して、記憶喚起を促したところ、被告人は前日の午後七時ころまで残業して帰宅するとき、それまで点火使用していた右ガスコンロのガス栓を閉め忘れたことを思い出し、素直に、その旨を述べて、自己に非のあることを認めたことが窺われるとともに、その後における被告人の捜査段階における供述を検討すると、本件火災発生当日の昭和四六年二月二〇日付司法警察員調書を始めとして、同年三月一四日付、同年四月二八日付各司法警察員調書を経て、同年一二月二三日付、翌昭和四七年二月四日付各検察官調書に至るまで、一貫して右趣旨の供述を維持しており、その間、在宅のまま取調を受けていた被告人が自己の意に添わない供述を強要された節は全く窺われないばかりでなく、その供述内容も具体的かつ詳細で、不自然、不合理な点がみられないうえ、他の証拠によつて窺われる客観的状況とも符合していて、被告人の前記供述は十分信用できるものと認められる。

所論は、前記新洋光学の工場長鈴木昭二が本件火災発生の前日終業後、工場内を見て廻り、代表取締役の桜井克平も同日午後九時ころ点検し、ともに消火されていることを確認したと主張し、原審第一一回公判調書中の証人鈴木昭二、同桜井克平の各供述記載によれば、右両名ともそのような趣旨の供述をしているけれども、これらは前掲各証拠に比照して、信用できないものといわざるをえない。

また所論は、本件火災後、焼燬現場からガス栓が全開状態となつたまま発見されたガスコンロは、当時その付近に使用されていなかつた同型のガスコンロが数個放置されていたので、被告人が前日使用していたガスコンロと同一のものであると断定することはできない、というのであるが、原審第一七回公判において、証人鈴木祐二郎は、本件火災現場から発見されたガスコンロのほかに、その付近にガスコンロはなかつた旨供述し、前掲司法警察員鈴木祐二郎作成の実況見分調書及び消防司令補有田安正作成の現場見分調書のいずこにも、本件ガスコンロ以外に数個のガスコンロが存在していたことを窺わせる状況はあらわれていないし、さらに右のような主張は本件が起訴され、審理が開始されて以後、それも原審の審理の最終段階になつてから、被告人らが言い出したもので、捜査段階では全く問題になつていなかつたことが記録上窺われることなどから、この点に関する被告人の原審供述は到底信用しがたく、原審で取調べられた関係各証拠を総合すれば、本件火災現場から発見された上記ガスコンロは被告人が前日使用していたコンロであると認めるに十分である。

以上の次第で、原判決挙示の関係各証拠によると、被告人が昭和四六年二月一九日午後六時五〇分ころ作業を終えて帰宅するに当り、作業中湯沸器加熱のため点火していたガスコンロの消火を忘れ、そのまま帰宅した旨の原判示事実は、優に肯認することができ、原判決にはこの点について事実の誤認はない。

二、控訴趣意中、被告人が消火を忘れたことによつて本件火災を発生させる可能性はなかつたとの主張について

所論は、仮に被告人がガスコンロの消火を忘れたとしても、それによつて本件火災が発生する可能性はなかつたと主張するのであるが、右主張にかんがみ、一件記録を精査検討すると、前段説示のとおり、高度の信憑性が認められる高野初子の原審証言によれば、高野方と桜井方との境界を仕切るベニヤ板壁のうち、トタン板が張つてあつたのは桜井方工場の発火地点より北側の流し場の設置されていた部分であつて、高野方台所北側の下駄箱上の電話器のうしろに相当する桜井方工場の部分にはトタン板が張つてなかつたと認められ、このことは、前掲原審第二回公判調書中の証人鈴木祐二郎の、同第四回公判調書中の証人有田安正の各供述記載及び右両名が本件火災後、現場を見分して作成した各実況見分調書ないしは現場見分調書の記載、とくに同書に添付された写真によつても十分裏付けられるところであり、これに反する原審第五回公判調書中の証人桜井克平、同貴志建三郎の各供述記載及び原審証人鈴木昭二の供述の各部分は、いずれも信用できず、さらに発火原因となつたと目される本件ガスコンロから出ているガスホースは、右コンロから更に北側に設置されているいわゆる中間コツクまで、前記間切りのベニヤ板壁に沿つて取付けられていたことが前掲原審証人桜井克平、同鈴木昭二の各供述によつて認められ、これに反する証拠はない。以上の事実に鑑定人川茂隆、同斉藤文春各作成の鑑定書をあわせて考察すれば、ガスコンロの過熱によりその下に敷いた二重のラワン材の敷板に着火発炎したうえ、これがガスホースに引火延焼し、これにガスの引火が加わつて更にベニヤ板壁にまで着火し、燃えあがつた事実を優に肯認することができるのであつて、この点についても、原判決に事実の誤認はない。

三、控訴趣意中、被告人に本件火災発生に対する予見可能性がなかつたとの主張について

所論は、原判決はガスコンロに点火したまま長時間放置すれば、空罐が空だきの状態となり、順次右空罐、ガスコンロ自体が過熱し、その輻射熱等により、さらに右コンロの二重の下敷ラワン材に着火発炎するに至る可能性があり、このことは容易に予見しうるところである旨認定しているが、本件起訴状の公訴事実の記載からも明らかなとおり、本件の捜査段階から原審公判の途中までは空罐の空だきにより、約一〇センチメートル離れている間仕切りのベニヤ板に直接着火する可能性があるものと考えられていたところ、原裁判所が行つた前後二回の鑑定により右の可能性は全くないことが明らかになるとともに、第二回鑑定において始めて下敷のラワン材に着火する可能性があるとの鑑定結果をえたため、公訴提起から五年以上も経過した後に、その結果に沿う訴因変更手続がなされたのであつて、このような経緯にかんがみれば、本件火災発生前に、被告人において下敷のラワン材への着火可能性は到底予見しうるところではなかつたというべきであるにも拘らず、これを容易に予見しうるところであつた旨認定している原判決は、明らかに矛盾しており、事実を誤認している、というのである。

そこで一件記録を検討してみると、なるほど、原審公判の途中迄は、空罐の空だきによる過熱から、約一〇センチメートル離れた間仕切りのベニヤ板壁に直接着火する可能性があると考えられていたこと、及び、その後これが弁護人主張のような経過により、空罐の空だきによるガスコンロの過熱から下敷のラワン材に着火したと変更され、その旨の訴因変更手続がとられたものであるところ、それも公訴提起後五年以上もたつてからのことであつたことは、いずれも記録上明らかである。しかし、本来、結果の予見可能性の有無は、具体的な因果関係の進行について考えられるべきものではあるが、予見可能性があつたというためには、行為者において、結果発生の経過のすべてにわたつて逐一詳細に予見しうる場合である必要はなく、その重要な部分について予見しうれば足りるものと解すべきである。これを本件についてみるに、ガスコンロの上に水を入れた空罐を乗せ、これに点火したまま長時間放置すれば、やがて右空罐の水が沸騰蒸発して、いわゆる空だきの状態となり、順次右空罐とか、ガスコンロ自体とかが過熱し、その結果、結局約一〇センチメートル離れた間仕切りのベニヤ板壁に着火発炎するに至る可能性があることを予見しうれば足りるのであつて、その場合、ガスコンロ脇のベニヤ板に直接着火発炎するか、あるいは、ガスコンロ下に敷いたラワン材に一旦着火発炎したのち、原判決説示のような経過により右ベニヤ板に着火発炎するかという経過の詳細までは、予見が可能である必要はないというべきである。そして、本件の場合、火災発生現場の設備、建物の状況に徴し、ガスコンロによる空罐の空だきの結果、約一〇センチメートルしか離れていないベニヤ板壁に着火発炎するに至るであろうことは、容易に予見できたものと考えられ、この点の原判決の判文の措辞はやや冗長に過ぎる嫌いがあるけれども、その趣旨は右に説示するところと同旨に帰するものと解せられるから、この点に関する原判決の認定には、所論のような誤りはないというべきである。

以上のとおり、原判決が挙示する証拠を総合すれば、原判決が罪となるべき事実として認定判示する事実は、すべてこれを肯認するに十分であつて、全記録を精査検討してみても、原判決に所論のような事実の誤認はいずれも存在しないから、論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決をする。

(裁判官 四ツ谷巖 杉浦龍二郎 阿蘇成人)

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