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東京高等裁判所 昭和53年(行ケ)21号 判決 1980年7月15日

原告

アクツオ・ヒエミー・ゲゼルシヤフト・ミツト・ベシユレンクテル・ハフツング

(旧商号、ヘツシユ・ヒエミー・ゲゼルシヤフト・ミツト・ベシユレンクテル・

ハフツング・デユーレン・ヒエミー)

被告

特許庁長官

主文

特許庁が昭和52年9月16日、同庁昭和46年審判第5262号事件についてした補正の却下の決定を取り消す。

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第1当事者の求めた判決

1  原告

主文第1、2項と同旨

2  被告

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

第2当事者の主張

1  請求の原因

1' 特許庁における手続の経緯

原告は、昭和41年3月10日、1965年(昭和40年)3月10日のドイツ連邦共和国への出願に基づく優先権を主張して、名称を「ハロゲン含有重合体用の微粉を飛散しない安定化剤-滑剤組成物及びその製法(のちに、「ハロゲン含有重合体、殊に硬質PVC用の微粉を飛散しない安定剤-滑剤組成物」と訂正。)」とする発明について特許出願(以下、原出願という。)をし、①昭和42年7月27日付手続補正書によつて特許請求の範囲第1項および第2項を順次第2項、第3項に繰り下げたうえ新たに第1項を追加し、また、②昭和44年4月21日付手続補正書第1)項によつて特許請求の範囲の第2項を訂正したが、拒絶理由の通知があつたので、③昭和46年1月4日付手続補正書第Ⅰ項、第Ⅱ項によつて特許請求の範囲(第1ないし第3項)と詳細な説明の一部を訂正したものの、昭和46年3月23日、拒絶査定がなされた。

そこで、原告は、昭和46年7月16日、特許庁に対し、上記拒絶査定を不服として審判を請求(同庁昭和46年審判第5262号事件)するとともに、原出願からの分割出願として新たな出願をなし、原出願の残部についても、④昭和46年11月25日付の手続補正書第Ⅱ項1)によつて特許請求の範囲を訂正して、第1、2項としたうえ、同5)によつて原出願明細書の3頁10行~4頁9行を訂正し、さらに、⑤昭和52年8月2日付手続補正書によつて全文訂正(ただし、特許請求の範囲は、昭和46年11月25日付手続補正書のそれと同一。)の明細書を提出した。

しかるに、昭和52年9月16日に①昭和42年7月27日付手続補正の特許請求の範囲第1項、②昭和44年4月21日付手続補正第1)項、③昭和46年1月4日付手続補正第Ⅰ項及び第Ⅱ項、④同年11月25日付手続補正第Ⅱ項1)及び5)並びに⑤昭和52年8月2日付手続補正をいずれも却下する旨の決定(以下、「本件補正の却下の決定」という。)がなされ、その謄本は、昭和52年10月26日に原告に送達された。

なお、原告のための出訴期間として3か月が付加された。

2' 本件発明の要旨(④昭和46年11月25日付及び⑤昭和52年8月2日付手続補正書添付の明細書の特許請求の範囲)

(1)  滑剤として適当であるかもしくはPVC相容性の、25℃以上の融点を有する純有機成分と無機酸又は有機酸の塩基性鉛塩とを融液中で一緒にした混合物より成る、ハロゲン含有重合体、殊に硬質PVC用の微粉を飛散しない安定剤-滑剤組成物。

(2)  滑剤として適当であるかもしくはPVC相容性の25℃以上の融点を有する純有機成分と炭素原子数8~22の長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸とを融液中で一緒にした混合物より成る、ハロゲン含有重合体、殊に硬質PVC用の微粉を飛散しない安定剤-滑剤組成物。

3' 本件補正の却下の決定の理由の要旨

(1)  願書に最初に添付された明細書における発明の要旨は、その特許請求の範囲に記載されるつぎのとおりのものと認める。

「1.滑剤として適当な、又はPVC相容性の融点25℃以上の純有機成分、長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸及び無機又は有機酸の塩基性鉛塩の、融液で合した混合物から成ることを特徴とするハロゲン含有重合体、特に硬質PVC用の塵を生じない安定化剤-滑剤組成物。

2.滑剤として適当な、又はPVC相容性の融点25℃以上の純有機成分、長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸及び無機又は有機酸の塩基性鉛塩の融液で合した混合物から成るハロゲン含有重合体、特に硬質PVC用の塵を生じない安定化剤-滑剤組成物を製造するため、有機成分の融液中で長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸を製造し、こうして得られた混合物中に塩基性鉛塩を分散することを特徴とするハログン含有重合体用の塵を生じない安定化剤-滑剤組成物の製法。」

(2)  即ち、その発明における安定剤-滑剤組成物は、「滑剤として適当な又はPVC相容性の融点25℃以上の純有機成分(以下、「A成分」という。)、「長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸(以下、「B成分」という。)及び「無機又は有機酸の塩基性鉛塩」(以下、「C成分」という。)の3成分より構成されている。

(3)  これに対して昭和42年7月27日付の手続補正書の補正事項第1項、昭和44年4月21日付の手続補正書の補正事項第1)項、昭和46年1月4日付の手続補正書の補正事項第Ⅰ項及び第Ⅱ項、同年11月25日付の手続補正書の補正事項第Ⅱの1)項及び5)項並びに昭和52年8月2日付の全文補正明細書では、安定剤-滑剤組成物はA成分とB成分又はA成分とC成分のいずれも2成分より構成されていることになつている。

(4)  3成分系の安定剤-滑剤組成物と2成分系の安定剤-滑剤組成物とは明らかに異なるものであつて、且つ願書に最初に添附された明細書の記載にこれを示唆するなにものも認められないので、これらの補正は本件の願書に最初に添附された明細書の要旨を変更するものである。

よつて、これらの補正は特許法第53条第1項の規定によつて却下すべきものと認める。

4' 補正の却下の決定を取り消すべき事由

本件補正の却下の決定は、「3成分系の安定剤-滑剤組成物と2成分系の安定剤-滑剤組成物とは明らかに異なるものであつて、且つ願書に最初に添附された明細書の記載にこれを示唆するなにものもない。」(2下表第12行ないし第15行目)とした点で誤りがあり違法であるから取り消されるべきである。

(1)  願書に最初に添附した明細書の発明の目的

願書に最初に添附した明細書(以下、当初の明細書という。)の発明の眼目とするところは、滑剤(A成分)の融液中にB成分(長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸)又はC成分(無機又は有機酸の塩基性鉛塩)を分散せしめた後これを結晶状態に変え、もつて粉末状の有毒な安定剤(安定化剤)を無毒性滑剤によつて完全に包囲せしめることにより微粉の飛散を完全に防止する点にある。この目的からすれば、滑剤によつて包囲される成分が1成分であろうと(この場合は、補正の却下の決定がいう2成分系の安定剤-滑剤組成物となる。)、2成分であろうと(この場合は、補正の却下の決定がいう3成分系の安定剤-滑剤組成物となる。)、微粉の飛散が完全に防止される点には変わりがないのであるから、「3成分系の安定剤-滑剤組成物とは明らかに異なるもの」であるとの指摘は、無意味というほかない。

(2)  当初の明細書には、2成分系の安定剤-滑剤組成物についての記載もしくは示唆がある。

当初の明細書(甲第2号証の2)の「発明の詳細な説明」には、つぎのとおり2成分系の安定剤-滑剤組成物についての記載がある。仮に明白な記載でないとしても、2成分系の組成物が少くとも示唆されているのであるから、補正の却下の決定が「これを示唆するなにものも認められない。」としたのは誤りである。

(1)' まず、当初の明細書の第3頁第10行ないし第14行目には「ところで、有毒な、適当な媒体に不溶性の粉末安定化剤を単独又は他の安定化剤と組合せて、可塑化成分を含まなく、特に硬質PVCを加工するのに適当な微粉を飛散しない混合物に変える方法を発明した。」とあるが、ここで、「……粉末安定化剤を単独……(で)可塑化成分を含まなく、……微粉を飛散しない混合物に変える」とあるのは、安定剤1種類(B成分又はC成分)と滑剤(A成分)との混合物(2成分系)をいうことは当初の明細書全体の記載からみて明白(当初の明細書では、必ず滑剤が用いられている。)である。他方、「……粉末安定化剤を……他の安定化剤と組合わせて……微粉を飛散しない混合物」に変えるとあるのは、安定剤2種類(B成分及びC成分)と滑剤(A成分)との混合物(3成分系)とすることであることは明らかである。

(2)' 当初の明細書の第3頁第15行ないし第17行目には、「本発明方法によれば、有毒な、不溶性微粉状安定化剤を滑剤の融液又は安定化剤及び滑剤の融液混合物中に分散し、」とあるが、ここで「有毒な、不溶性微粉状安定化剤を滑剤の融液……中に分散し」たものが2成分系のものであり、「有毒な、不溶性微粉状安定化剤を……安定化剤及び滑剤の融液混合物中に分散し」たのが3成分系のものをいうことも間違いないところである。

被告は、上記(1)'(2)'の点に関し「『不溶性の粉末安定化剤』及び『不溶性微粉状安定化剤』の語は、それに続く『他の安定化剤』に対比される語であるから、ここでの記載は、不溶性の粉末安定剤(B成分及びC成分)を用いるかそれと他の安定剤とを併用するかいずれかであることを意味し、不溶性の粉末安定剤の中からB成分又はC成分の唯一種のみを用いるとの意味には、直ちにはならない。」と主張する。

しかしながら、これらの記載にいう「不溶性の粉末安定化剤」あるいは「有毒な、不溶性微粉状安定化剤」とは1種類(B成分又はC成分)の粉末安定剤をいうことは、文理上全く疑問の余地がなく、「不溶性の粉末安定化剤」あるいは「有毒な、不溶性微粉状安定化剤」の文言を2種類以上(すなわち、滑剤であるA成分に対し、B成分及びC成分を使用する)の粉末安定剤を使用する場合をいうものと解釈するのは、常識的解釈から逸脱したものといわざるを得ないから被告の主張は正しくない。また、被告のいう「不溶性粉末安定剤の中から唯一種のみを用いるとの意味には、直ちにはならない。」との主張が、仮に、3成分系の安定剤を用いる場合も2成分系の安定剤を用いる場合もありうると理解されうるとの意味であるか、あるいは、上記の記載から2成分系の安定剤のみを用いるとは理解されず、3成分系の安定剤を用いる場合もありうると解釈される余地があるとの意味であるならば、いずれにせよ2成分系の場合を含むものということができるから、当初の明細書には2成分系の安定剤を用いることが記載されていることになり、この点においても被告の主張は、正しくない。

(3)' さらに、当初の明細書の第8頁第13行ないし第17行目には、「安定化剤と滑剤との混合物の組成は使用する技術的要求に合わせ、混合物が融液として攪拌又は捏和装置により動きうるという前提の下に、任意に変化することができる。」との記載があり、これは、技術的要求に応じて2成分系にも3成分系にもなしうることを意味していることは、明白である。

ところで、唯一種のB成分又は唯一種のC成分を単独にPVC用安定剤に使用し、あるいは同じB成分又はC成分に属する複数のB成分どうし又はC成分どうしを使用することは、本件出願前公知であつた(甲第13号証参照。)のであるから、当業者が、当初の明細書の上記各記載をみた場合、そこにいう「不溶性の粉末安定化剤」又は「不溶性微粉状安定化剤」の文言には、唯一種のB成分又はC成分、ないし同じB成分又はC成分に属する複数の安定剤を指すことを直ちに理解できるはずである。

そうすると、当初の明細書には、A成分とB成分、又はA成分とC成分とを融液中で一緒にした混合物である2成分系の安定剤-滑剤組成物についての記載があるとみるべきであり、仮にその記載が明白でないとしても、そこには、2成分系の安定剤-滑剤組成物が充分に示唆されているものというべきである。

被告は当初の明細書の第6頁第10行ないし第7頁第2行目までの記載及び第7頁第4行ないし第8行目までの記載を引用し、また、当初の明細書には、3成分系にかかる実施例しか示されていないことから当初の明細書にある発明は、3成分系安定剤のみに関するものであると主張する。

しかしながら、当初の明細書における被告指摘の記載は、3成分系の安定剤を使用すれば、例えば、ステアリン酸カルシウムと塩基性硫酸鉛との間の反応を阻止するなどの効果が奏せられることをいつているだけであり、この記載も2成分系を用いることを排斥しているものではない。また、特許法施行規則様式16(備考13戸)には「必要があるときは」、実施例を記載するとあるだけで、必ず実施例を記載せよとしているのではない。前記のとおり補正後の発明は、滑剤の融液中にB成分又はC成分を分散した後これを結晶化せしめ、もつて、安定剤を無毒性滑剤で完全に包囲せしめることにより微粉の飛散を防止することを目的とし、そのとおりの効果を奏するものであるから包囲される成分が1成分であると2成分であるとにかかわらず、微粉の飛散防止の効果を完全に奏するものである。

したがつて、本来、当初の明細書において、2成分系の実施例を特に記載する必要はなかつたものであり、2成分系の安定剤-滑剤組成物に関する実施例が記載されていないからといつて、当初の明細書には、2成分系安定剤-滑剤組成物についての記載がないということはできないのである。

以上のとおり、当初の明細書には、A成分とB成分又はA成分とC成分との2成分から構成される安定剤-滑剤組成物についての記載があるとみられるし、仮に明白な記載といえないとしても、そこに上記の2成分系の安定剤-滑剤組成物を示唆するものが認められるから、補正の却下の決定は、この点の認定を誤つたものであり違法である。

2  被告の答弁及び主張

1' 請求の原因1ないし3の事実は、認める。

2' 同4の取消事由の存在に関する主張は争う。

補正の却下の決定は、以下のべるとおり正当であり、これを取り消すべき違法はない。

3'(1) 補正後の発明の要旨

補正後の発明は、単なる2成分からなる安定剤を要旨とするものではなく、次の特定の組合わせからなる2成分系安定剤を要旨とするものである。

(ⅰ) 「滑剤として適当な又はPVC相容性の融点25℃以上の純有機成分」(A成分)と「長鎖脂肪族カルボン酸の金属塩」(B成分)とからなる2成分安定剤

(ⅱ) A成分と「無機又は有機酸の塩基性鉛塩」(C成分)とからなる2成分安定剤

したがつて、上記の如き特定の組合わせをもつ2成分系安定剤が当初の明細書に記載されていたかどうかが重要である。

(2) 当初の明細書における発明の目的、構成及び効果

明細書の発明の要旨がどこにあるか、また、いかなる発明が含まれているかを判断するにあたつては、明細書の特定個所の表現にとらわれることなく、明細書全体の記載から判断すべきである。してみれば、当初の明細書における発明は、単に安定剤-滑剤組成物の飛散防止を目的とするものでなく、特定の滑剤(A成分)によつて特定の金属石鹸(B成分)及び特定の塩基性鉛塩(C成分)を包み込んだ新規な安定剤-滑剤組成物を提供することを目的として、その組成物は以下指摘するような従来公知の事実から予想できない効果を奏するとしているのである。

即ち、当初の明細書における「本発明の別の利点は、一定の無機金属塩、例えば塩基性硫酸鉛との反応力に関してカルシウム石鹸を意外にも阻止することである。……例えば融液相中で、例えばステアリン酸カルシウム及び塩基性硫酸鉛をステアリン酸鉛融液中に装入する際に、ステアリン酸カルシウムは塩基性硫酸鉛と反応して、ステアリン酸鉛及び硫酸カルシウムを形成する。この性質により、組成が原料成分に相応する安定化剤混合物を湿式法並びに融解法により得ることができない。」(第6頁第10行ないし第7頁第2行目)及び「意外にもステアリン酸カルシウムと塩基性硫酸鉛との間の反応は融液中滑剤の存在により阻止され、…………原料物質の組成と同一の安定化剤-滑剤組成物を製造することができる。」(第7頁第4行ないし第8行目)の記載を合わせると、ステアリン酸カルシウム(B成分)及び塩基性鉛塩(C成分)が滑剤(A成分)の不存在下に合すると、両成分が反応を起こして好ましくないから、この好ましくない場合を滑剤を用いることで避けることができると解せられる。

してみれば、当初の明細書における発明は、滑剤(A成分)で特定の金属石鹸(B成分)と特定の塩基性鉛塩(C成分)とを包むことが発明の構成に欠くことのできない事項としていることは明らかであり、原告が主張するように、A成分で、B成分又はC成分を包み込み、B成分又はC成分の単なる飛散防止を意図していたものではない。

したがつて、A成分で包み込まれる成分は、1成分でも2成分でも飛散防止という観点のみから目的、作用効果が同一であるから本件手続補正が当初の明細書の要旨を変更しない、とする原告の主張は根拠がない。

(3) 当初の明細書の第3頁第10行ないし第14行目、第3頁第15行ないし第17行目及び第8頁第13行ないし第17行目に原告指摘の記載があることは認めるが、以下、のべるとおり原告主張のごとき意味に解することはできない。

(当初の明細書第3頁第10行ないし第14行目の記載について)

「不溶性の粉末安定化剤」の語は、それに続く「他の安定化剤」に対比される語であつて、ここの記載は、不溶性の粉末安定剤のみを用いるか、それと他の安定剤とを併用するかのいずれかであるということを意味し、不溶性粉末安定剤(この概念の中には、具体的には多数の安定剤が含まれる。)の中からB成分又はC成分の唯一種のみを用いるとの意味には直ちにならない。換言すれば、不溶性の粉末安定剤の概念に含まれる二種以上の安定剤を用い、他の安定剤を用いない場合も不溶性粉末安定剤の「単独」使用と解することもできる。

(当初の明細書第3頁第15行ないし第17行目の記載について)

「不溶性微粉状安定化剤」とこれに続く「安定化剤」との派絡も前項と同様に解すべきであり、また、ここにある「滑剤の融液」における「滑剤」の記載が、原告が主張するようにA成分の滑剤と同一物を指すものとは、直ちに読みとれない。

(当初の明細書第8頁第13行ないし第17行目の記載について)

この記載は、安定剤混合物が技術的要求に応じて適宜変更できるということを示しているだけで、この記載から、直ちに2成分系、しかも特定の組合わせの2成分を意味するとは理解できない。

ところで、特許法第36条第4項は、「発明の詳細な説明」には、「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に、その発明の目的、構成及び効果を記載しなければならない。」と規定し、これを受けて特許法施行規則(様式16、備考13ロ)には「発明の構成には当該発明が解決しようとする問題点を解決するためどのような手段を構じたかその作用と共に記載する。この場合において必要があるときは、当該発明の構成が実際上どのように具体化されるかを示す実施例を記載する。その実施例は、特許出願人が最良の結果をもたらすものをなるべく多種類掲げて記載し、必要に応じ具体的数字に基づいて事実を記載する。」と定められている。

この実施例のもつ意義からみると、当初の明細書には、先に(2)において指摘したごとき記載があり、しかも、3成分系の安定剤-滑剤組成物についての実施例しか示されていないのであるから、当初の明細書における発明は、3成分系安定剤にかかるものであると解すべきであり、原告主張のごとく、構成のうえでも、2成分系の安定剤も包含されているとみるのは妥当でない。

仮に、百歩譲つて、当初の明細書に、原告主張の如く2成分系の安定剤(A成分とB成分又はC成分)を含むと解される記載があつたとしても、その記載は、たまたま2成分系安定剤をも含むと解せられる記載となつているにすぎず、このことから直ちに2成分系安定剤にかかる技術思想(発明)を開示しているとして本件補正を認容することは、先願主義の規定(特許法第39条)からみて、あまりにも不合理といわざるをえない。

理由

1  請求の原因1ないし3に関する事実は、当事者間に争いがない。

2  そこで、本件補正の却下の決定を取り消すべき事由の有無について判断する。

1' 成立に争いのない甲第3号証、第4号証の2、第5号証、第8号証、第9号証の1、2によれば、①昭和42年7月27日付手続補正書の補正事項第1項、②昭和44年4月21日付手続補正書の補正事項第1)項、③昭和46年1月4日手続補正書の補正事項第Ⅰ項及び第Ⅱ項、④昭和46年11月25日付手続補正書の補正事項第Ⅱの1)項及び5)項並びに⑤昭和52年8月2日付全文補正明細書による各補正(以下、一括して本件補正という。)は、特許請求の範囲を、滑剤としてのA成分(純有機成分)とB成分(長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸)又はA成分とC成分(無機又は有機酸の塩基性鉛塩)とのいずれも2成分系の安定剤-滑剤組成物とするとともに、それに相応して「発明の詳細な説明」の記載を訂正し、2成分系にかかる実施例を追加する趣旨のものであること、補正後の発明の目的、作用効果が、有毒な粉末状安定剤を滑剤で包囲して飛散を防止するところにあること、補正後の発明における滑剤及び安定剤自体は、願書に最初に添附された明細書(以下、当初の明細書という。)に記載された化合物に包含されていることが認められる。

ところで、本件補正は、いずれも出願公告をすべき旨の決定の謄本の送達前になされた補正であるから、各補正が「願書と最初に添附した明細書又は図面に記載した事項の範囲内において」なされたものであるかぎり明細書の要旨(発明の要旨)を変更しないものとみなされる(特許法第41条参照。)ことになるので、まず本件補正にかかる2成分系の安定剤-滑剤組成物についての発明が当初の明細書に記載した事項の範囲内にあるかどうかを検討することにする。

2' 当初の明細書に記載された発明の目的、作用効果

当初の明細書(成立につき争いのない甲第2号証の1、2)の記載を仔細にみると、「発明の名称」は「ハロゲン含有重合体用の微粉を飛散しない安定化剤-滑剤組成物及びその製法」とされ、「発明の詳細な説明」には「有毒な安定化剤のうち特に粉末状のものは作業者に著しく危害を与える。それというのはこれが計量及び作業工程で微粉を飛散するため呼吸器から容易に呼吸され、健康を害するからである。特に鉛及びバリウム、カドミウム化合物は有害な粉末安定化剤に属する。作業の間有害な微粉飛散を避けるため、既に多数の方法が報告されている。」(第1頁発明の詳細な説明第6行ないし13行目)の記載に続いて有毒な微粉の飛散を防止するための従来の技術が説明され、さらに出願発明に関する説明として「ところで、有毒な、適当な媒体に不溶性の粉末安定化剤を単独又は他の安定化剤と組合せて、可塑化成分を含まなく、特に硬質PVCを加工するのに適当な微粉を飛散しない混合物に変える方法を発明した。本発明方法によれば、有毒な、不溶性微粉状安定化剤を滑剤の融液又は安定化剤及び滑剤の融解混合物中に分散し、剥離ロール又は類似の装置を使用するか又は結晶化パンに簡単に通すことにより結晶状態に変える。粉末状の有毒な安定化剤はこの工程により無毒性滑剤により完全に包囲される。これは固体の形で存在し、完全に微粉を飛散しない。それというのは滑剤は本来粉末状安定化剤より著しく良好な付着力を有するからである。」(第3頁第10行ないし第4頁第4行目)なる記載があり、かつ「特許請求の範囲」にも「塵を生じない安定化剤-滑剤組成物」の記載があることが認められる。

さらに、成立に争いのない甲第13号証の2によれば、本出願の優先権主張日前、既にPVC用安定剤として、鉛塩安定剤や金属石鹸が、単独で使用されたり、あるいは、併用されることは技術水準に属し、当業者にとつて自明の事項であつたことが認められるから、当業者は、上記の各記載に照らし、当初の明細書に記載された発明の主たる目的、作用効果は、有毒な不溶性微粉状安定剤を滑剤で包み込むことによつてその飛散を防止するところにあるものと理解しえたものとみるのが相当である。

この点、被告は、当初の明細書の発明の目的が、単なる飛散防止にあるのではないと主張し、その根拠として当初の明細書の第6頁第10行ないし第7頁第8行目までの記載を指摘するが、その記載は、「別の利点」と明記されている如く、滑剤(A成分)によつてB成分及びC成分を包囲した3成分系安定剤-滑剤組成物には、飛散防止の効果のほかに、相互の反応を阻止するという付随的な効果もあることを述べたにすぎず、補正にかかる2成分系の安定剤-滑剤組成物を排斥するものではないと認められる。そうすると、当初の明細書における当初の特許請求の範囲は、有毒な粉末状安定剤の飛散防止を目的とする技術思想において、3成分系の安定剤-滑剤組成物のみに限定して請求したにすぎないと解するのが合理的である。

したがつて、本件補正にかかる発明の要旨が当初の明細書に記載した事項の範囲内にあるか否かを判断するにあたつて、当初の明細書の内容を特許請求の範囲のとおりに限定して読まなければならない合理的根拠はないといわざるをえない。

3' 補正にかかる発明に関する当初の明細書の記載

前項において認定指摘した如く当初の明細書の第1頁の記載には、特に有毒な粉末状安定剤として鉛及びバリウム、カドミウム化合物が挙げられており、これらは金属自体が有毒なものであるから、本件補正にかかる安定剤のこれらの金属石鹸(補正の却下の決定がいうB成分。)及び塩基性鉛塩(同じくC成分)が、「有毒な粉末状安定化剤」であることは明らかであり、かつ鉛塩安定剤や金属石鹸が、PVC用安定剤として、単独で使用されることがあり、必ずしも鉛塩安定剤と金属石鹸とがつねに併用されるものでないことが、本出願の優先権主張日前に当業者にとつて自明の事項であり、既に技術水準に属していたことは前叙のとおりである。

このような、PVC用安定剤の使用に関する技術水準に立脚して前項において引用した当初の明細書第3頁第10行ないし第17行目までの記載を読むときには、「不溶性の粉末安定化剤」(第10行ないし第11行目)及び「有毒な、不溶性微粉状安定化剤」(第15行ないし第16行目)が、少くとも、これら鉛、バリウム、カドミウム化合物である塩基性鉛塩又は金属石鹸を指すことは明らかであるから、「適当な媒体に不溶性の粉末安定化剤を単独・・・(で)」用いるとあり、また「有毒な不溶性微粉状安定化剤を滑剤の融液・・・中に分散し」とあるのは、結局、滑剤(A成分)の融液中に、塩基性鉛塩(C成分)又は長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸(B成分)のいずれかを分散せしめて微粉を飛散しない2成分系の安定剤-滑剤組成物とすることであると解するのが合理的である。

被告は、ここにいう「有毒、不溶性微粉状安定化剤」なる語は、B成分及びC成分の2成分を必ず含むものと解釈すべきであると主張するが、上記の如く限定的に理解するのは、当初の明細書の記載を特許請求の範囲の記載に基づく当初の発明の要旨に限定して解釈しようとするからにほかならず、前後の脈絡や文章の常識的解釈からしてもそのように理解するには無理があり、かつ安定剤は2種類併用しなければならないものではないという前叙の如き当業者の技術的認識にも合致しないものである。

さらに、被告は、2成分系の安定剤-滑剤組成物が当初の明細書に記載されていないとみるべき根拠として安定剤2成分に関する実施例が示されていないことを指摘するが、この点の指摘は正しくない。即ち、当初の明細書における発明の主たる目的が前項で認定した如く滑剤によつて有毒な微粉末状の安定剤を包み込んでその飛散を防止しようとするところにあることは明らかであるから、当初の明細書に、滑剤によつて2成分の粉末状安定剤を包み込んで飛散防止の効果を達成している実施例が示されている以上、必ずしもこれと別個に滑剤によつて1成分のみを包み込んだ2成分系の安定剤-滑剤組成物についての実施例を示す必要はないものと考えられる。なぜなら、微粉末状の安定剤2成分に関する実施例によつて飛散防止の目的が達成されているのをみれば、粉末状安定剤1成分を包み込む場合にも、これによつて有毒な微粉の飛散を防止できることも当然、自明のこととして理解されるからである。この点に関し当初の明細書の記載を精査すると、第5頁第14行ないし第6頁第8行目、第13頁4)、第14頁第11行ないし第13行目には、第1反応段階として有機成分の融液中で長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸(B成分。ただし、金属石鹸として例示されたもののうち、2塩基性ステアリン酸鉛はC成分である「有機酸の塩基性鉛塩」に相当するものとも理解される。)を製造することの記載がみられ、また、同第9頁第2行ないし第6行目、第9頁第14行ないし第10頁第1行目、第10頁第9行ないし第11行目には、その具体的な製造方法が示されていることが認められる。したがつて、被告が主張するように2成分系の安定剤-滑剤組成物にかかる実施例が当初の明細書に示されていないともいえないのである。

以上検訂してきたところから、明らかな如く、本件補正にかかる(A成分)と無機又は有機酸の塩基性鉛塩(C成分)又はA成分と長鎖脂肪族カルボン酸の金属石鹸(B成分)とから構成される安定剤-滑剤組成物についての発明は、当初の明細書に記載されているものと解するのが相当である。

そうすると、本件補正は、願書に最初に添附した明細書に記載した事項の範囲内において特許請求の範囲を変更する補正に該るから特許法第41条の規定によつて、当初の明細書の要旨(発明の要旨)を変更しないものとみなされることになる。

しかるに、本件補正の却下の決定は、当初の明細書の記載には、本件補正にかかる発明を示唆するなにものも認められないとして要旨を変更するものであると判断したのであるから、この判断は誤りであるというほかはない。この点に誤りがある以上、3成分系の安定剤-滑剤組成物と2成分系安定剤-滑剤組成物とが発明として異るものであるかどうかなどその余の事項に関する判断をなすまでもなく、本件補正の却下の決定は、違法であるから取り消されるべきである。

3  よつて、本件補正の却下の決定の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求は理由があるのでこれを認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第7条民事訴訟法第89条を適用して、主文のとおり判決する。

(小堀勇 舟橋定之 裁判官小笠原昭夫は、転任のため署名押印することができない。)

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