東京高等裁判所 昭和54年(行ケ)151号 判決 1980年12月25日
原告 ザンドツ・アクチエンゲゼルシヤフト
被告 特許庁長官
主文
特許庁が昭和五四年五月二二日、同庁昭和五〇年審判第九五七八号事件についてした審決を取消す。
訴訟費用は、被告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、被告指定代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求めた。
第二原告の請求の原因及び主張
一 特許庁における手続の経緯
原告は、一九六九年(昭和四四年)七月一八日及び一九七〇年(昭和四五年)一月二一日スイス国においてした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和四五年七月一七日特許出願し(特願昭四五―六二七四〇号)、昭和四八年一月二四日、この出願を分割し、名称を「殺虫剤組成物」として特許出願(昭和四八年特許願第一〇一九八号)をしたところ、昭和四九年一月一〇日付で拒絶理由通知がなされたので、同年六月一九日付手続補正書を提出した。これに対し、同年八月三〇日補正却下の決定がなされたので、原告は昭和五〇年二月五日付手続補正書を提出(発明の要旨中チオリン酸アミドエステルを示す一般式のうちXから臭素を削つたほか、発明の対象物を「殺昆虫殺線虫剤組成物」と変更した。以下この発明を「本件発明」という。)したが、同年六月三〇日拒絶査定を受けた。そこで原告は、同年一一月四日審判を請求し、右事件は昭和五〇年審判第九五七八号事件として審理された。その後原告は、昭和五一年一〇月二六日審判請求理由補充書を提出したが、特許庁は昭和五四年五月二二日「本件審判の請求は成り立たない。」旨の審決をし、その謄本は同年六月一日原告に送達された。なお、出訴期間として三か月が付加された。
二 本件発明の要旨
式I
(但し、式中
R1とR2は炭素原子数1~4のアルキルであつて異つていてもよく、R3は炭素原子数1~5のアルキル、Xは水素又は塩素である。)
の一又は数種のチオリン酸アミドエステルを有効成分とする殺昆虫殺線虫剤組成物。
三 審決理由の要旨
昭和五〇年二月五日付の手続補正書により補正された特許請求の範囲は、前項記載のとおりである。
ところで、本件明細書の記載を精査すると、該明細書には、本件発明におけるチオリン酸アミドエステルを示す一般式中、Xが塩素である化合物については、その殺昆虫殺線虫効果を確認し得るに足る試験成績などの具体的根拠が何も開示されていない。
してみると、本願は、特許法第三六条第四項に、発明の詳細な説明には、当業者が容易にその発明の実施をすることができる程度に、その発明の目的及び構成とともに効果を記載しなければならない旨規定する要件を欠くものといわざるを得ない。
四 審決を取消すべき事由
(一) 審決(甲第一号証)は、「明細書には、本件発明におけるチオリン酸アミドエステルを示す一般式中、Xが塩素である化合物については、その殺昆虫殺線虫効果を確認し得るに足る試験成績などの具体的根拠が何も開示されていない。」ことを理由に、本願が特許法第三六条第四項に規定する要件を欠くものと認定しているが、右条項は、明細書の記載が当業者をして当該発明の実施を容易に可能ならしめる程度のものであることを要求するに止まり、効果の存在を確証するに足る実験データまでも明細書に記載すべきことを要求してはいない。
すなわち、特許法第三六条第四項は、明細書の「発明の詳細な説明には、その発明の属する分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度に、その発明の目的、構成及び効果を記載しなければならない。」と規定し、発明の効果の記載の程度は、当該発明の属する分野における通常の知識を有する者が容易に当該発明を実施することができる程度であることを要求するに止まる。従つて、効果の存在を確証するに足る実験データが記載されていなければ当業者にとつて当該発明の実施が困難である場合を別にして、効果の存在を確証するに足る実験データが記載されていないからといつて直ちに右条項の要件を欠くと認定することは、明らかに法の解釈を誤つたものといわなければならない。
そこで、本件発明の式IにおけるXが塩素である化合物について、本件明細書中に右化合物の効果を確証するに足る実験データが存在しなければ当業者にとつて右化合物を使用する本件発明の実施が困難であつたか否かを検討するに、本件明細書(甲第二号証の二)には、右化合物の製造法(同第一頁第一五行ないし第八頁第一八行、第二六頁第一三行ないし第二九頁第一行)、その実在を確証する物性(同第八頁第一九行ないし第九頁第六行、第二七頁第一三行ないし第二八頁第三行)、その殺昆虫殺線虫効果(同第九頁第七ないし第一九行及び第二九頁末尾((昭和五〇年二月五日付手続補正書(甲第六号証)第二頁第一三行ないし第三頁二行)))、その殺昆虫殺線虫剤としての使用法(同第九頁第二〇行ないし第一二頁第二行)等が詳記されており、当業者にとつて、前記Xが塩素である化合物を製造し、これを殺昆虫殺線虫剤組成物として調製し、かつこれを殺昆虫殺線虫効果を期待して使用することは全く容易になし得るところといわなければならない。従つて、本件明細書は、前記Xが塩素である化合物についてその効果を確証するに足る実験データこそ記載されていないものゝ、その開示をもつて右化合物を使用する本件発明を容易に実施し得る以上、本願は特許法第三六条第四項の要件に違背するものとはいえない。
なお、本件明細書中に、前記Xが塩素である化合物について、その効果を確証するに足る実験データが記載されていないことは事実であるが、これはXが水素である化合物に比較して実用性に劣る為、記載を省略したに過ぎない。実用性の高い、Xが水素である化合物の相当数について、殺昆虫殺線虫効果を示す実験データが挙げられており(同第一二頁第六行ないし第二〇頁末行)、左記の一般式においてR1、R2及びR3を定義の範囲内で変動させても殺昆虫殺線虫効果に実質的な変化が認められない以上、化学的構造自体から見ればR1、R2及びR3と同様、末端の一部に過ぎないXの部分を水素から塩素に変えても殺昆虫殺線虫効果に実質的な変化が起らないであろうことは当業者にとつて容易に予測のつくところである。
現に、出願人たる原告が、本願の審査の過程において、昭和四九年六月一九日付で提出した手続補正書(甲第四号証)の第(3)項(同第一頁第一四行ないし第三頁末行)には、Xが塩素である左記の化合物についてXが水素である化合物と同様に殺昆虫効果を有する事実を確証する実験データが記載されており、右の予測に誤りのないことを裏付けている。
((もつとも右手続補正書は、昭和四九年八月三〇日付補正の却下の決定(甲第五号証)によつて却下されたため、右実験データは本件明細書中には挿入されていない。))
従つて、本件審決は、本件明細書の記載事実を誤認したものであるか、もしくは特許法第三六条第四項の法意を誤解したものである点において違法性を有し、取消さるべきものである。
(二) 仮りに前項の主張が理由のないものであるとすれば、原告は、審決取消事由として更に次のごとく主張する。
本件特許願は、昭和四八年一月二四日の分割出願に係るものであるが、原出願の出願日は昭和四五年七月一七日であるから、昭和四五年法律第九一号附則第二条、同法律による改正前の昭和三四年法律第一二一号特許法第四十四条第三項により、本願は、右原出願の時にしたものとみなされ、その手続補正は、審判請求と同時でなくても、審判係属中は明細書の要旨を変更するものでない限り、自由に許されたのである(第一七条第一項)。
ところで、出願人たる原告が審判に係属中提出した審判請求理由補充書には、つぎのことが記載してある。
『拒絶査定謄本に記載される拒絶理由は以下の通りである。
「この出願の明細書の記載から、特許請求の範囲に記載されている一般式におけるXが塩素原子の化合物についての殺昆虫・殺線虫効果は自明に認識することができない。」
…………
従つて、出願人は上記拒絶理由に示されるXが塩素原子の場合の化合物は特許請求の範囲の項の記載により削除致し度、審判官より拒絶理由通知書を発して載き、速かに本件を御審理して載きます様宜敷くお取計らいの程願い上げます。
上記の補正を認められた場合の特許請求の範囲は以下の如くであります。
「式(I)
(但し、式中R1とR2は炭素原子数1~4のアルキルであつて異なつていてもよく、R3は炭素原子数1~5のアルキル、Xは水素である。)
の1又は数種のチオリン酸アミドエステルを有効成分とする殺昆虫・殺線虫組成物。」』
右記載は、拒絶査定の理由に従い、本件明細書の特許請求の範囲に記載の一般式中Xにつき、塩素の場合を削除するというにあり、これは正に手続補正の申出であつて、補正の対象は特許請求の範囲の欄、補正の内容は右のとおり名実共に縮減するとの補正の記載以外の何物でもない。
審判請求手続と明細書の補正手続とは本来別個のものであるから、原則的には、審判請求理由中に明細書の特許請求の範囲の記載から一部削除し特許請求の範囲を縮減する訂正を為す用意がある旨記載したからといつて、その後なすべき所定方式の手続補正書の提出が省略されるものではないであろう。
ところで、本件においては、拒絶査定に対し審判を請求のうえ、明細書の特許請求の範囲を縮減する補正手続をなすというのが審判請求の理由であり、補正の内容については、既述のごとく、「拒絶理由に示されるXが塩素原子の場合の化合物は特許請求の範囲の項の記載から削除致し度き」旨、「上記の補正が認められた場合の特許請求の範囲は云々」と補正の対象、内容を明記していたのである。
そして、本件に適用さるべき旧法においては、事件が審判に係属している限り、自発的に手続補正書を審判長に提出することができたのであつたが、請求人はうかつにも、改正法と混同あるいは感違いをして審判請求理由補充書に上記の記載をしたにとどまり、審判長から補正命令あるいは補正の指示があるものと誤信し、所定の手続補正書の提出を躊躇していたところ、審理が終結され審決の送達を受けたものである。
上記のごとく、記録上明らかな本件審判請求目的、審判請求理由補充書中の記載、その後所定方式に則つた手続補正書の提出なきこと、他に補正手続をなす意思なきことをうかがわせるような特別の事情がないこと等の事情からすれば、本件審判請求理由補充書の記載は、二つの観点から考察されるべきであろう。
すなわち、本件審判理由補充書が本来のそれとしての性格を有することは当然のことながら、そのほか、その中に表現されている補正の対象、内容に関する請求人の意図についての記載は、これを全く無視すべきではないと考えられる。もつとも、その記載は手続補正書としては方式に則つたものではないから、これにより直ちに手続補正の効果が生じたものということはできないとしても、そこに、「手続補正」について方式に違反した書面の存在を認め、その提出がなされていると考察さるべき余地があるのではなかろうか。
しかも、請求人は審判長から手続補正書の提出を促す何らかの指示があれば直ちに所定の手続補正書を提出したのが必定であつたろうし、補正後の特許請求の範囲の記載によれば、その記載事項が明細書の記載により十分支持されていて、特許法第三六条第四項の規定を充足するものであつたことは記載上明らかなところであつたのである。
そうだとすれば、本件においては記録上の状態から、審判長は審理の終結に先立ち、すべからく請求人に補正書の提出の意思を確める意味においても特許法第一七条第二項第二号の規定を発動すべき義務があつたにもかかわらず、その措置をとらなかつた違法があるというべきである。
第三被告の答弁及び主張
一 原告の請求の原因及び主張の一ないし三の事実及び同四の(一)の、本件審決に原告が主張するような取消事由が存することは認める。
二 原告の予備的主張について
原告は、本件明細書の補正の記載を含む審判請求理由補充書の提出により、補正の効力が生じたものと解せられるべきであると主張する。
ところで、審判請求理由補充書は、特許法第一三一条の規定によつて提出された請求書に記載されるべき事項のうち、同条第一項第三号の請求の理由を補充するために提出されるものであつて、請求書と一体不可分の関係にあるものである。従つて、審判請求理由補充書には審判を請求する理由が記載されるべきものであるから、審判請求理由補充書は本来明細書を補正するための補正書としての性格を有しないものである。
そして、本件審判請求理由補充書をみても、そこには拒絶をすべき旨の査定に対する不服の理由が記述されており、そしてその不服の理由の中において明細書を補正する希望があることを述べているに過ぎない。従つて、本件審判請求理由補充書が明細書を補正するための補正書でないことは明らかである。
原告は、本件明細書の補正の記載を含む審判請求理由補充書による補正の手続は方式に違反している場合に該当するから、審判長は特許法第一七条第二項を活用して手続の補正を命ずるべきであると主張する。
しかしながら、審判請求理由補充書は、審判請求の理由が記載されるべきものであつて、明細書を補正するための補正書としての性格を有しないものであり、そして本件審判請求理由補充書には拒絶をすべき旨の査定に対する不服の理由が記述されているのであるから、その不服の理由の中で明細書の補正をしたいという意向を示したからといつて、それにより審判請求理由補充書が方式に違反していることにはならない。
従つて、審判長は手続の補正を命じる必要はない。
なお、本件特許出願については昭和四五年法律第九一号附則第二条の規定によりなお従前の例によるから、明細書の補正は本件特許出願が審判に係属している限り自由に行なうことができるのである。従つて、明細書の補正について審判長による何等かの指示ないし命令は必要でない。
理由
原告の請求の原因及び主張の一ないし三の事実は、当事者間に争いがなく、本件審決に、原告が右四の(一)で主張するような取消事由が存することは被告の認めるところである。
当裁判所もまた、審決には原告が右四の(一)で主張するような取消事由が存するものと認める。すなわち、本件明細書(成立について争いのない甲第二号証の二及び同第六号証)によれば、本件発明におけるチオリン酸アミドエステルを示す一般式中Xは水素又は塩素であり、Xが水素である化合物については殺昆虫殺線虫効果を示す試験成績が挙げられている(甲第二号証の二第一二頁第六行ないし第二〇頁末行)から、Xが塩素である場合には本件発明が目的とする殺昆虫殺線虫の効果が得られない(この場合は、当業者が容易に本件発明の実施をすることができないときに相当するものと認められる。)ことが明らかである場合を除き、特にその試験成績等を明細書に記載しなければその明細書は特許法第三六条第四項に定める要件を欠くということにはならない。
よつて、原告主張の予備的主張について判断するまでもなく、本件審決を違法として取消すこととし、訴訟費用は敗訴の当事者である被告に負担させることとして、主文のとおり判決する。
(裁判官 小堀勇 高林克巳 楠賢二)